メモ/Rather Than Our Poor LIFE

昔々。"More Knizia rather than our poor LIFE!" という惹句が廿四時のトップを飾っていたことがあって、今でもこの言葉は気に入っているんですが、しかし我々のものである(でもほんとうは誰かに押しつけられた)人生という名のゲームの苦渋を Knizia にばかりなんとかしてもらうのもどうか。ということで、まあそのうちやるかもね、というメモです。

***

賽を投げて駒たる自らの人生を前進させる。「駒たる自らの人生」としている以上、駒とはつまり私である。駒の人生の勝敗は財の多寡によって決定される。しかし私は必ずしも自分の人生を前進させたいわけではなく、場合によっては後退したいかもしれないし(確かに後退は不可能ではあるかもしれないのだが)、あるいは自らの前進を犠牲としてでも誰かの前に立ちはだかる必要が出てくることもあろう。

何より、私の人生の勝敗は必ずしも財によっては決定されず、従って私と駒は少なくとも暗黙的には同一ではない。ここで選択肢としては「私の人生の勝敗を経済問題として設定する」「駒の勝敗を経済問題として設定する」「私と駒を同一視しない」の三つが挙げられるのだが、人生という名の社会設計に対する修正を最小限に留めるというのが問題設定だった以上、言って経済による勝敗の決定は所与の条件とされるべきであり、むろん私も自らの人生に妥協するつもりは無いので、結論として私と駒とは同一視されないことになる。ところで言うまでもない蛇足ではあるが、この議論はそもそも前提が間違っており、しかしそのこと自体は取り立てて問題とはならない。私の人生の話など別にどうでもよいのだ。

整理しよう。私は駒の動きを俯瞰し、駒に対して指示を出すことができる、あるいは指示を出したい。勝敗は経済によって決定される。私は駒ではない。では私は誰になるべきか。答えはこれ以上なく明白で、私は家であるべきなのだ。私は家であるがために駒の動きを俯瞰し、駒に対して指示を出すことができ(しかしその指示は不完全にしか行えず)、そして家の勝敗つまり浮沈は所属する個人の幸福とは何ら関係なく当然のように経済によって決定される。きわめて明快な対応である。

この観点からは、「人生」という単数形の概念について批判的検証が不可欠となろう。私は家として彼の人生を操作するので、事は彼だけの問題ではない。彼が自分の車に子供を載せようとするとき、あるいは彼が人生の終端において子供を彼の私有物として清算しようとするとき、私は断固として彼の手から子孫を取り戻し、親からは独立した、家には帰属する個人として、私の新たな駒になってもらわなければならない。

その意味で言えば、元々の社会設計においても、「人生」とは個人についてのゲームではなかったのだ。我々が行おうとしているのはつまり、核家族を単位としたルールから、大家族を単位としたルールへの移行なのである。これは退行だろうか? 私はそうではないと考える。現在という時代においては既に核家族自体が過去のものとなりつつあり、個人をベースとしたルールが制定されつつある。しかし、その新しく設計されたゲームたるや、玩具店で誰の目にも触れず野晒しにされることこそが相応しい。人生そのものが価値のないものとしてあらゆる人々に放棄されてしまう前に、このような低俗化には断固として否を突きつけねばならない。ならばこそ、これまで常に現代化を旨として行われ続けてきたルール変更を御破算として美しい過去に回帰するという提案にも、単にノスタルジーに終わらない意味が生まれようというものだ。

***

ところで「our」poor LIFE, なんで my poor LIFE じゃないのかという突っ込みについては、ひっじょーに答えづらい(当時こう書いていたというのが正直なところ)んですが、とりあえず LIFE の屑っぷりはわたくし個人でなく我々みんなの問題なんだということでいかがでしょう。 LIFE が Lives じゃなくて LIFE のは言うまでもないですよね 。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2006-07-31 01:21 | 創作関連
<< メモ(TODO)・勉学について... 「ルール和訳の網」の廃止と移管... >>