触れる幻想ところによりディリュージョン

テレビゲームの偉人であるところの宮本茂は「さわれる映像」という名言を残していて(※)、ほんとテレビゲームってそういうものだよねと思うわけで、ここでは割と意図的にボードゲームをそういうのとは違う領域にあるものとして扱っていたのですが、実際のところ商業的な領域ではボードゲームにしても当然のように触れる映像的な部分が最も重要になります(映像じゃないけどね)。

それだったらメルクリンとかボトルシップとかミニチュアとか良い物がいっぱいあるよというのが「個人的な」感想ではあってあんまり興味もないんですけども、とはいえこの領域でもボードゲームには確かに「触れる」という部分に優位性があります。インタラクティビティの中でストーリーを進めることができる、というのは、テレビゲームが映画で代替できないのと同様に、ガンプラでは代用できない何かではあるのです。

ただテレビゲームならそれでいいんですが、この観点を取った場合のボードゲームには残念なことに致命的な欠陥があります。というのは、ボードゲームのインタラクティビティというのは、本物のインタラクティビティなんです。

本物のインタラクティビティの何が悪いかって、コントロールがそうそう効かないことで、プレイヤーの妄想を都合良く叶えてはくれないんですね。いま必要なのは自分のストーリーを進めたり補強したりする手段としてのインタラクティビティであって、生々しい他者ではないんです。

(そこいくとテレビゲームはオンラインだったり対戦だったりしない限りは作者がプレイヤーひとりひとりに対して提供するものなので、基本的には全てのインタラクティビティをプレイヤーに奉仕するためにデザインすることができます。)

例を挙げれば、たとえばエルフの王子が国中を旅することで他の王子との競争に打ち克って見事に次の王となるのでした、みたいな一大叙事詩を描くにしても、これをボードゲームにしちゃうと、かなりスラップスティック気味にみっともない争いを繰り広げた挙げ句、六人のうち五人は競争に敗れてどこかに去るってことになります。そりゃこれだって立派な一つの触れるストーリーではありますけれども、プレイヤーの当初の期待とは随分違うものでしょう。

二人ゲームならシンプルに相手より強ければ勝てるし実力イーブンでも五割は勝てるというのでマルチゲームよりは幾分ましですが、それにしたって友情は全カット・努力・相手を踏みつぶして勝利!という超絶マッチョなストーリーしか表現できず、それも実は本気で勝利を目指して最善を尽くすためには相手を踏みつぶすのとは微妙に異なるせこいルートを通らねばならんので思ってたのとなんか違うなー、という結果が容易に出現します。

近年、インタラクションをぼかしてみたり、あるいはもっと直裁に協力ゲームにしてみたりという傾向が強まっていますが、これは上記のような背景による商業的な要請と考えられます。ただインタラクションをぼかしたところで根本的な勝ち負けのところまではどうしようもないんで、最終的には商業デザイナーは協力ゲーム(的なもの)となんとかして向き合っていかないといけない、ということになるんじゃないでしょうか。問題は、我々は未だ協力ゲームのためのインタラクションを発明したとは言えない状態にあるってことですが…それともそんなもん発明するより適当に誤魔化してったほうがプレイヤーには幸せなんでしょうかね?

(※元は講演での発言らしいですが、出典確認できませんでした。活字では2003年「ファミリーコンピュータ 1983-1994」のインタビュー記事のタイトルが「『触れる映像』を目指して」となってます。ただ、インタビュー自体には、意味内容としてそういうことは喋ってますが、それそのものの発言はありません。2003年時点で既に有名な言葉だったということですね)
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by Taiju_SAWADA | 2009-08-09 23:24 | うわごと
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