フィンカ指数またはDr. Kniziaの教育的指導

(お好みでタイトルにびっくりマークを添えていただいても結構です)

ドイツ・ゲームオブザイヤー(SdJ)はその選考基準のひとつとして教育効果を挙げていたような記憶があります。ボードゲームの普及を大目標とするSdJにしてみれば当然と言えるでしょう。ところで「教育」には2種類あります。つまり、「ゲームを用いた教育」と「ゲームに関する教育」です。

06年の大賞作品「郵便馬車」は、ドイツの地理についての学習効果がプラスの評価に繋がったという話があります。これは「ゲームを用いた教育」の例で、このゲームを遊ぶことで××(ゲームとは無関係の何か)を学べるよ(そして××を学ぶことでより良い人間になれます)、というやつですね。いわゆる教育ゲームは全てこれに当てはまります。基本的にゲームというものは放っておくと弾圧されるものなので、こういったエクスキューズは常に必要とされます。但し、これによって間接的にゲームをめぐる環境は良くなるとしても、そのこと自体は××にとって良いというだけで、ゲームにとってプラスの効果があるわけではありません。

そこで後者「ゲームに関する教育」の話になります。そのゲームを遊ぶ事でゲームについて学べるよ(そしてゲームを学ぶことでより良い人間になれます)。なんか括弧の中怪しいですか? というか「良い人間」というのがそもそも怪しいんですけども。しかしゲームについて学ぶのは実際のところそれなり以上に有意義なことだと思うんです。いや本当に。ボードゲームに限っても、これを構成する【本質的な】要素には、意思決定と相互作用、触感とテンポと快楽の関係、デザインにおける作家性、商業的な要請に関する問題、システムと主題の連関、遊ぶことそれ自体の意味、その他、それぞれ個別に学問としても成立しうる・あるいは既に成立しているようなものが大量に含まれています。我々はゲームに触れるごとに、ゲームについて考える。「悪い」ゲームを遊ぶ事でこそ学べる事も数多くあるわけですが、それはそれとして、このゲームを遊ぶ事でそういったことを自然と学べるようにできている、ということであれば、それは確かにゲームの普及を目的とした賞を与えるに相応しいと言えます。

最近のSdJ受賞作を見ると、07年「ズーロレット」、08年「ケルト」となっています(09年の「ドミニオン」には明らかに別の意味があるので脇に置いておきます)。この2作はまさにゲームについて学ぶためのゲームです。08年の「ケルト」について言えば、もともとKniziaはジレンマの構造がはっきりしたゲームを好んで作る(というか「そういう」ゲームしか作れず、その代わりに「そういう」ゲームを作らせればこれ以上無く巧い)人ですが、このゲームでは、何を行うと何をあきらめ、誰に何をしていることになり、そして自分は何のリスクを取る事になるのか、というゲームの構造をこの上なく明確に分かりやすく提示しています。それでいて、その明確なジレンマ構造にはしかし、いわゆる「クニツィア・ジレンマ」の凶暴さは無い。学習用のゲームだから、それはとりあえず不要なんです。そういう凶暴さこそを愛するフリークスどもの相手をここでわざわざする必要は無い(そういう連中はどうせ買うには買うんだから、後で「拡張」セットでも与えておけばよろしい)。

そして07年の「ズーロレット」、および作者シャハトによる他いくつかの著作。個人的にはシャハトってあんまり好きなデザイナーじゃないんですが、それでもこの人のメインストリームを引き受けようとする意思には頭が下がります。ゲーマーズゲーム市場が再整備された00年代に入ってから、メインストリームを引き受けようとする上質のデザイナーというのは数が極端に減ったのですけども(ゲーマーズゲーム作ってるほうが楽しいのは確かですから)、シャハトはその一人であり続けようとしています。その姿勢が最も強く現れているのが07年の「ズーロレット」でして、ここにはとにかく、どーぶつの絵やらテーマだとか、お馴染みのコロレットシステムだとか、とにかく甘いものでプレイヤーをおびき寄せて卓に着かせ、気づかれないうちに【ゲーム】をさせてしまおう、というデザイナーの固い意志が現れています。なんとかして猫の気をそらして注射を打ってしまおうとする獣医みたいな涙ぐましさ。ちなみに続く08-09シーズンの「ヴァルドラ」も、ボードゲームの手続き的側面、たとえば公開されたカードは覚えておくといいよ、とか、効率的なルートを考えてみよう、とかそういう点にに着目した、やっぱり学習ゲームになっています(ヴァルドラはそのぶん相互作用の取り扱いについてはぞんざいになってて、ぼくはこれはズーロレットから少し後退しているんじゃないかと訝っているのですが、それはまた別の話として)。

で、ここまでで話を終えるとSdJ最高、ということにしかならないので、バランスを取るために(←うそ)、おいSdJ何しやがんだ、というアレについても最後に触れておきましょう。09年最終ノミネート作「フィンカ」です。

「フィンカ」はDSP(ドイツゲーム賞)4位。もう勘弁してくれよ泣いちゃうよ俺、というくらいの人気ですが、巷でどれだけ人気を博していたとしても、少なくともSdJは無視を決め込むべきでした。単に詰まらないということなら別にどうだっていいのですが、このゲームは上記の意味での教育上、強い悪影響があります。

いったん話が横にそれますが、「ゲーマーズゲーム」という言葉について、このサイトでは何回か触れた事があります。おおむね「安全弁の無いところで繰り広げられる、複雑に絡み合った意思決定の遊び」と、(このサイトでは)定義しています。複雑に絡み合った意思決定のシステムを築き上げるために、ゲームの手続きはどうしても込み入ったものになるのですが、遊ぶ側として想定されているのはゲームが好き過ぎる人たちなので、複雑でもある程度別に構わないものとしてデザインが行われます。例えばこないだ話題にしたMac Gerdtsのゲームなんかがそうですね。

「ゲーマーズゲーム→手続きがどうしても込み入ったことになる」。ここまではいい。ではこれはどうでしょう。「手続きが込み入ってる→ゲーマーズゲーム」。あるいはこんなのとか。「手続きがそれっぽい→ゲームっぽい」。

先ほどMac Gerdtsを引き合いに出しましたが、「フィンカ」には、Mac Gerdtsのゲームと同様、【アクションが描かれた輪の上で自分の駒を動かすことで、自分のアクションを選択・制御するシステム(ロンデルシステム)】が採用されています。この動きがじつに「それっぽく」、この輪の上で自分の駒の位置を選択しているとゲームがばりばりと進んでいくものですから、何かゲームを遊んでいるようなシズル感を得られるのですが--実際のところ、フィンカにおいて行われる選択は、そのほとんどが「最善手ほぼ自明」「どれを選んでも常人レベルでは結果予測不能」のいずれかに落ち着きます。結局のところ、フィンカから得られるのは「オペレーションを遂行することで盤面が進んでいくこと」こそがゲームである、というメッセージです。さらに悪意に取れば、ここがゲーマーズゲームの入口であり、さらに複雑なオペレーションを行う事でより深いゲームになる、という風にすら解釈できます。何せロンデルシステムですからね。何が深いって?

ここで抜け落ちているのは、ラベンスバーガー社のテーマでもある例の一言、 "THINK" です。ボードゲームは、世間様に対するエクスキューズとしても、そして実際に進むべき道としても、常に "THINK" に関する娯楽でなければならない。それを推進する立場にあるはずのSdJが、まさに "THINK" だけが巧妙に抜き去られたゲームをわざわざ最終ノミネートに選ぶなどとは。

あまりにも切ないので、わたくし今年から右派に転向することにします。青少年に悪影響を与える度数を「フィンカ指数」で表現し、フィンカ指数が1を超えるゲームについては、どっかの自治体かなんかに倣って悪ゲーム指定のうえ焚ゲームとさせていただきたい。--まあ幸いにして今のところ、単なるくそげーは山とあってもフィンカほどに悪影響を与えるゲームは見つからないわけですが。
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by Taiju_SAWADA | 2010-01-02 23:26 | うわごと
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