2008年 11月 17日 ( 1 )

保証された面白さは素晴らしいことだろうか

* 1 *

「ドミニオンは最高ですよ。特殊能力満載のアメリカ的フェティシズムに全面的に乗っかりつつ、一回のゲームに実際に登場する能力は10種類しかないし全能力完全公開だからファーストプレーでも十分に全貌を把握できる。そもそもゲームの根幹にあるのは生産力を得点に変換する仕掛け所の見極めって感じで、むしろオールドスクールな欧州系のゲーム理論的相互作用を使ってドライブするゲームだから、どっち方面のうるさ型への対応も万全。そんでもってワンゲーム45分、ルールは極シンプル。8歳以上向けって書いてあるしね。研究はいくらでも効くだろうけどマルチプレーでお馴染みの漁夫の利風なアレとか何なら運の悪さに叩き潰されて負けることだって普通にあるから、そこに色んな鬱屈を押しつけることもできてとりあえず誰も傷つかない。さっきオールドスクールって言ったけど勿論このメカニズムをボードゲーム、まあカードゲームだけどね、に持ってきたことの根本的な、そう小手先のじゃなくて根本的な、新しさについては誰も否定できないでしょう。誰でも満足、あらゆる面で完璧。違う?」
「いやもう全くその通りとしか」
「じゃ何が不満なの?」
「そのこと自体が。銀の匙を銜えて産まれてきたゲームだよねこれ。最初から、言い換えれば俺等プレーヤーが遊ぶ前から完璧な訳でしょ? 別に俺等要らないじゃん」


* 2 *

「面白いか詰まらないか解らないところが素晴らしいと思います!」

あるゲームについてこういう感想を述べたことがある。珍しく我ながら上手いことを言ったものだとご満悦だったのだけれど、感想を聞く側の人の受けは今ひとつよろしくなく、なんか煙に巻いたみたいに思われた。これは別に何かのレトリックを含んだ感想ではなく解釈としてはそのまま文字の通りで、私はそのゲームについて直ちには面白いものであるか詰まらない物か判断することができなかった。そして「面白いか詰まらないか解らない」ゲームを作り仰せたデザイナーには、無条件の賞賛を浴びる権利がある。「面白いか詰まらないか解らない」という状況はそれ自体が面白いものなのだし、そのようなゲームを作るのはとても難しいことだからだ。


* 3a *

Greg Costikyan が Chris Crawford を引いて曰く:

Chris Crawfordは、その著書"The Art of Comper Game Design" の中で、彼が呼ぶところの「ゲーム」と「パズル」を比較して、次のように述べている。パズルは静的である。パズルが提供するものは、論理的な構造体だ。「プレーヤー」は、手掛かりをもとに、この構造体を解決しようとする。これに対して、「ゲーム」は静的ではない。ゲームはプレーヤーの行動によって変化する。

【"I Have No Words & I Must Design" (http://www.costik.com/nowords.html), 邦訳は「馬場秀和ライブラリ」内に掲載 (http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html)】

その Crawford は以下のようにも述べている:

ゲームは、他のいろいろなものを取り込むことができるのと同じように、パズルをその一部として取り込むことができる。ほとんどの場合、パズルはゲーム全体の中のほんの一部である。パズルに重きをおいているゲームは、そのパズルがいったん解かれてしまうとその価値を失ってしまうだろう。

【"The Art of Computer Game Design" Chapter 1 (http://www.vancouver.wsu.edu/fac/peabody/game-book/Coverpage.html), 邦訳は "Scoops RPG" 内に掲載 (http://www.scoopsrpg.com/contents/special/acgd/Coverpagej.html)】

ところで、知的遊戯の面白さは、メタレベルのパズルを解く面白さとして捉えることが可能なのではないか。


* 3b *

もう一度佐藤亜紀を引用。この文章便利すぎる。

作品は、何よりまず表現者と享受者の遊技的な闘争の場であり、副次的には享受者間の遊技的な闘争の場でもあります。(中略)たとえばレオナルドを前にする時、享受者は同時に、自分より前にこの絵を見た人々を意識せざるを得ないーー彼らの美的判断と競っている自分を意識せざるを得ない。無数の、名も知れない愛好家から美術史の大家に至るまでの享受者の判断と、自分の判断を突き合わせ、目の前のタブローそのものと同時に、タブローに加えられてきた注釈と判断をも、再評価せざるを得ない。歴史的文脈に敏感な人なら、その時、一枚のタブローの享受の歴史の中に自分の享受を位置付ける体験をするでしょうし、思想的な文脈に敏感な人なら、支配的集団によって作られてきた価値の体系と、自分自身のアイデンティティからくる判断とが突き合わされ、同化にせよ対立にせよ、あるいはある種の超克にせよ、何らかの関係が結ばれるのを見ることになるでしょう。その上で、享受者は歴史的・社会的に競り勝たなければならない。同意するにせよ反発するにせよ乗り越えるにせよ、かつて為されてきた評価、今為されつつあるであろう評価を踏まえた上に(その中には、かつてそのタブローを前にしたときの自分自身の評価も含まれます)、他ならぬ今、この場における整合性のある判断を成立させなければなりません。

【「小説のストラテジー」青土社】


* 3c *

例えばチェスは2人完全情報ゲームなので、理論的には両者最善を取ることによって先手勝ちか後手勝ちか引き分けかを決めることができます。その状態まで行ってしまうとこれは最早ゲームではなく、つまりこれが「パズルとしてのゲームが解かれた」状態になります。「解かれていない」状態でないとゲームとして遊ぶことができないわけですけど、じゃ一方でその状態が遊ぶことによって変化しないのがいいかというと、果たして永遠に誰も解くことに向かって前進することのできないパズルが面白いのかって話で、解かれていない状態から解かれる状態に向かって前進ときに後退する、その過程の中にパズルないしパズルとしてのゲームの面白さがあります。あることにしましょう。

ここで考えたいのは、「チェス」自体ではなく「チェスを遊ぶこと」についても、これをゲーム=「遊技的な闘争」として捉えることが可能なのではないか、ということです。対象となるゲームについて、あらゆる文脈から鑑賞を行い、結論に近づくこと。無論この場合、何か単一の結論が一般的に存在するわけではないので、厳密な意味では「解かれた」という状態は存在しない訳ですけれども、「俺的にはもう評価は揺らがない」という状態に実際になってしまえば、それでゲームとしての鑑賞はおしまいとなります。もっとも「真に揺らがなくなった状態」と「揺らがなくなったと思いこんだ状態」は分けて考えなければならず、にもかかわらず実際には区別を行えないという問題はあるんですが。

ゲームを遊ぶことをこのように捉え直すと、「パズルとしてのゲーム鑑賞行為」は、「そのゲームのことが解らない状態」から「そのゲームについて鑑賞者としての結論を出した状態」に移行する過程を指すことになります。この立場からなら明確に言えるのですが、『あらゆる意味で完璧。誰にとっても面白いことが解りきっている』ゲームの何が面白くないかというと、ゲーム鑑賞行為の対象物として面白くないわけです。遊ぶ側が結論を出すまでの過程が短すぎる。まあ極度に程度の高い鑑賞者であれば、作り手が想定しているものとは全く別でかつ有意義なパラダイムを持ち出してきて全てを引っ繰り返すことも可能なのかもしれませんし、鑑賞行為というメタ視点をそもそも持たないプレーヤーならばゲームの内部にきちんと正しく耽溺できるでしょうが、しかし純プレーヤーとしての視点とメタプレーヤーとしての視点を何となく併せ持っている普通のプレーヤーにとっては、「もう面白いことは解っているので遊ぶ必要すらない」という所に容易に行き着いてしまう。面白さが保証されていることは必ずしも良いことではないんじゃないかと思うのです。
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by Taiju_SAWADA | 2008-11-17 00:58 | うわごと