2010年 08月 03日 ( 1 )

Keywoodという土着的暴力

英国のゲーム作家Richard Breeseのゲームを通しで遊ぶというイベントが7月にB2FGamesで催され、それでKeywoodとかKeydomとか初期の作品を遊んだのですが、その中で特にKeywoodに感銘を受けまして。一言で言うと、最高すぎる。二言使ってよければ、あまりに不健康。もう一言だけ許して頂けるなら、こんなゲーム絶対売れない!

そもそもRichard Breeseのゲームの特徴は2点あって、ひとつは他のデザイナーからはそうそう出てこない着想の豊かさ、もうひとつはゲームなんだから何やっても別に良いよねと言わんばかりの喧嘩上等殴り合い宇宙、なんですけど、それでもKeythedral以降の作品では表現が随分マイルドになっていることが、Keywood/Keydom/Keytownの初期三作を遊んでみることで逆に理解できます。KeythedralやReef Encounterでは「お前が俺の道を塞いでいるので殴り倒さざるを得ない」、Key Harvestでは「まあどっちにしろイベントに殴り倒されるわけだし」というエクスキューズがゲームシステムの根幹に組み込まれており、プレイヤー側に一応の理由を与えてくれるのですね。(Fowl playは遊んでないので何とも言えませんが)

初期三作はそうではありません。ただルールに「殴れば宜しいので御座います」とだけ書いてある強烈な苦み。

三作の中でこの味が「不要な苦み」となってしまっているのがKeydomで、抽象化された機能をブラインドビッドで取り合う、というそれだけで十分にゲームとして(それも別にそれほど可愛くはないゲームとして)成立するキャッチーな着想があるところに、Breese印の苦香辛料を無遠慮に投入しているので、どうしても「面白いけど、俺ら全員倒れるまで殴り合わないと駄目なの?」という感想になってしまいます。ちなみにこれ結構比喩じゃないところがあって、Keydomって(よりによって)エンドゲームの処理に問題を抱えているので、最後は本当に全員で全勢力を使ってほとんどナンセンスな殴り合いを繰り広げることになります。たぶんこのゲームを見たHans im Gluckの人も同じ事を思ったのではないかと思われ、この余計な香辛料を取り除いて無害化したのが、かの名作Morgenlandであるのは皆様ご存じの通り(※今回、この点をご存じない方は1行目で読むの止めてる筈なので、特段遠慮とかしません)。

でもって残りのKeywoodとKeytown。この2作は着想そのものが殴れば宜しいので御座います。いずれもどう殴るかという点で独創があり、その意味ではやりたいこととやってることが正しく対応しているので、わたくしはこの2品をKeydomより上と見ますが、一方でそれはどうあってもヴァイオレンスを取り除くことができない、ということでもあります。まだアメリカ系のルールであればプレイヤーにも暴力に対して慣れというか耐性がありますが、Keyシリーズが属するのは短い言葉で本質を的確に突くことを旨とする欧州系のルールですから、暴力に慣れていないプレイヤーとしては家に帰ってきたらいきなり連れ合いが包丁を上下逆さに持って突っ立っている状況に遭遇したようなもので、この突然の家庭内暴力に対して固まるか逃げるかしか選択肢がないわけです。

とはいえこの2作には、同じ暴力という言葉でひとくくりにできない大きな差異があり、Keytownのほうは「自分の持つリソースを、相手を引きずり下ろすために投入、より引きずり下ろされ度の低いほうが得点」というシンプルで開けっぴろげな殴り合いであるのに対し、Keywoodではもっと陰湿にしたたり落ちるような暴力が繰り広げられます。ということでようやっと本題。

まずはテーマからご説明しましょう。舞台は深い森に囲まれた集落Keywood。この何もない集落にプレイヤーの皆様が住み着き、協力して村々をつくり収入を得ていく、というゲームなのですが、といって別に村を大きくして収穫を得ていくカタンのようなゲームではまったくありません。いや、一収入を倍にするアイテムを競りで取り合うという要素もあるんですが、それよりも大事なこととして、このゲームでは村に住み着いた皆様がラウンドごとに行うのは、村から誰を追い出すか決める寄り合いです。ちなみにどの村でも基本は住民1駒につき1票。村にいないと収入を得られないという点もさることながら、基本的にこのゲームでは村に人を置いていないとその村を起点とした移動が事実上できなくなるので、状況にもよりますが追い出されると概ね厳しいことになります。名指しで行われる「お前が死ねばいい」という罵り合い。それだけならまだ普通の交渉ゲームですが、Breeseは何を考えたのか、追い出されたほうのプレイヤーに復讐の手段を用意します。村から追い出された棄民の皆様は集まって崖の上に街をつくり議会を開き、どのプレイヤーに嫌がらせ(課税またはアイテム没収)をするか、これも合議で決めるのです(※正確に言うとプレイヤー個人に対する嫌がらせじゃないんですが、まあ実際には個人攻撃です)。

ということでこの寒村では、なけなしの金を数えるか(書いていませんが中盤までは金勘定が恐ろしく厳しいゲームでもあるのです)、そうでなければ誰を蹴落とすかの協議が常に行われています。特に金を稼ぐ手段(アイテム)を手に入れた者への憎悪は凄まじく、またよりによって「アイテム没収」という余りにもストレートな嫌がらせの手段が提供されているものですから、この憎悪はあまりに簡単に直接的な暴力に変換されることになります。

Keywoodが世論操作のゲームとして優れているのは、ひとつにはパワーバランスの変化の表現が美しく明快であるということです。駒を1つ村Aから村Bに動かすだけのことがゲームにおいてどの様な実体的効果を持ち、そしてそれがどのような心理的影響を持ち、さらにそのことがどのような実体的効果として跳ね返ってくるか、ということ。パワーバランスに関するゲームというのはこの影響についてプレイヤー全員がそれなりの理解を持っていないと本来は成立せず、しかし多くのゲームでは往々にしてルールがその部分の理解を隠蔽するので遊び所がぼやけてしまったり、あるいは単にそういうことをルールが何も考えていないためにパワーバランスの操作もへったくれもない人間力のみのゲームになってしまったりするのですが、Keywoodではプレイヤーがみな、心理と実体の相互作用について考えることができ、そこを遊び所とすることができます。

そしてもう一点。「パワーバランスについての明快な表現」「森の中の村」「襲いかかる赤貧」など、このゲームのテーマと構造によって否応なく想起されるもの。欧州系のゲームが、システムから離れた主題の表現をあまり好まず得意ともしない傾向にある中、このゲームが行っている主題の表現の精密さは特筆すべきレベルにあります。主題とは言うまでもなく、村社会の暗黒です。

正直に申し上げて、土着村八分ワールドというのは割と日本的な主題なんだろうとわたくし御花畑的にもぼんやり思っていたのですが、そんなぼんくらの横っ面をひっぱたく様なこの英国カントリーサイドの強烈な腐臭。連中のガーデニングで着飾ったテラコッタの下には確実に死体が埋まっています。人間はおっかねえ。

素晴らしい。素晴らしいんですが、どうなんでしょうね? 少なくとも商業的には、セールス上許されない表現ではありましょう。実際1995年の発表後、一部ジャーナリズムの熱狂的な支持を受けつつも、このゲーム自体は同人の規模(200部)で終わっています。逆に言えば、Keywoodこそが同人ゲームでしか表現し得ないものが存在することの証明である、とも言えるわけですが...

* * *

ついしん
そういえば8月のB2FGamesではWilko Manzの"Fifth Avenue"(五番街)その他のゲームを遊ぶというイベントが立ってるんですが、この五番街というゲームも、Keywoodとは全く別の意味で、商業的には踏み込んじゃいけなかったかもしれない先端的領域に土足で突っ込んでいった作品と言えます。本来Aleaでは小さいバジェットでこういう尖ったゲームを出していきたかったんだろうな−、と。
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by Taiju_SAWADA | 2010-08-03 01:57 | 感想・紹介