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ユール「ハーフリアル」邦訳書の発売に寄せて

イェスパー・ユール「ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム」が、ニューゲームズオーダー社から9月末に発売されます(PDF版は先行で発売済)。わたくしはこの翻訳本の企画者として諸々の作業に関わっておりまして、なんでこの本の翻訳を企画したのか、ということについて少し書かせていただきたいと思います。

以前「捏造ドイツボードゲーム現代史」というプレゼンを行った時にも触れたのですが、そもそもわたくしには個人的に、ゲームについて喋りたいという願望があります。現にゲームというものは存在していて、更に言えば面白いゲームと詰まらないゲームが存在していて、面白いゲームには面白いゲームにおける、詰まらないゲームには詰まらないゲームにおける、なにがしかの傾向もある。そうであるのにもかかわらず、喋るための十分な言葉は用意されていません。日本語www界隈には「小学生並の感想」というスラングがありますが、ゲームについて喋る時には小学生並の語彙しか存在しないので、小学生並の感想ではない事を喋ろうと思ったら、毎回自分で言葉を一から作り上げていかないといけないわけです。もちろん、中学生以上の語彙が用意されている他分野から言葉を借りてくることはできますが、その場合には、借りた言葉がなぜ適用可能かということについて、根拠の説明を毎回自分で行わなければいけません。

ボードゲームの場合はビデオゲームと比べてさらなる困難があり、我々には言葉が無いだけでなく個々の作品を位置づけるための歴史もまともに存在しないのですが、それについては「捏造ドイツボードゲーム現代史」で既に喋ったので置いておくとして、今回は言葉の話です。先ほどは小学生並の語彙しか存在しないと書きましたが、実際のところ現代においては、「あるものがビデオゲームであるとはどういうことなのか。どういう場合にビデオゲームは楽しいものになるのか。ゲームのルールはどのような仕方で機能するのか、またルールはどのようにしてプレイヤーに楽しみを与えるのか。どのようにして、そしてなぜ、プレイヤーはゲームの世界を想像するのか」という動機に基いて、ゲームについて調べ、よその分野から調達した語彙をゲーム用に調整し、また自らも概念を考え出して、とゲームについて考えるための様々なパーツを生産する仕事に従事する「ゲーム研究者」と呼ばれる人々が何人も存在しています。

そして実際にゲーム研究者の方々の仕事は、我々のごとき普通にゲームを考えたい人々が手頃に使用できそうな成果が生まれる程度まで進んでいます。進んでいるんですが、ここで問題になるのが例のバベルの塔です。突然ですがここである一人のついったー民の荒れた呟きをご覧ください。

「ジェスパージュール(※)の主著も未訳だしサットンスミスも軒並み未訳。ジュールは最近の人だから仕方ないがサットンスミスの未訳って絶望的なんじゃないか。ルールズオブプレイの和訳は奇跡と言えるかもしれない」
「Sutton-Smithすら邦訳のない日本のゲーム屋まじで仕事放棄しすぎだと思うんですけど」
「同人ボードゲーム製作をここ数年止めてるのは優先度の都合です。あのゲームも未訳、ジェスパージュールもサットンスミスも未訳、純草場オーラルヒストリーも手付かず(これはいたるさんがやってくれるらしい)、増川宏一も松田道弘も安田均も手付かず(SNEの誰かやってよ)、でゲーム自作ってもねえ」
(※イェスパー・ユールの英語読み)

誰も! 翻訳を出さないから! 英語で読むしか無い! いや読むけど、読むけど! 俺が欲しいのは「俺が手頃に使用できそうな成果」なんであって!

ただわたくしも、このウェブサイト始めたころと違っていい加減おっさんになったので(何せ十五年経ってます)、こういうのは待ってても誰も何もしないものなのだ、ということは解っています。現状の出版状況と一般的な出版社の社員さんのコストを考えれば、普通の商業出版社が出して費用を回収できる可能性はあまり高くないですし。また現在の研究者ワールドにおいて翻訳は直接には業績ポイントにはならない上にゲーム研究だと学術的な出版補助のゲットも厳しそうなんで、学術出版社から出てくることもあまり期待できないですし。上の荒れたツイートとして書いた通り、本来ならゲーム業界が責務として翻訳を出すべきだとは思いますが…まあ現状を鑑みれば妄想以上のものではないですよねそれは。

そういうわけで、自分でやることにしました。

先ほど引用した「あるものがビデオゲームであるとはどういうことなのか。どういう場合にビデオゲームは楽しいものになるのか。ゲームのルールはどのような仕方で機能するのか、またルールはどのようにしてプレイヤーに楽しみを与えるのか。どのようにして、そしてなぜ、プレイヤーはゲームの世界を想像するのか」というのはこのユールの本の冒頭に書かれた文で、この通りの内容になっています。加えて、ビデオゲーム「ではない」古典的なゲームの定義に関する議論と、それを踏まえてビデオゲームがどの点においてユニークなのか、という議論が含まれており、ボードゲームプレイヤーにとっては、展開されるビデオゲームの議論から、ではボードゲーム(古典的なゲーム)というのはどのようなものなのか、ということが逆に照らし出されるようにもなっています。ゲームについて考える・喋るための語彙をつくるベース、という目的において、内容の面でも語り口の簡潔なわかりやすさという意味でも、最も相応しい本のひとつと言えるはずです。無論その語彙は、ゲームを作る上でも大いに必要になるものでしょう(それが「定義を壊すために定義を知っておく必要がある」という使い方なのだとしても)。わたくしはいつでも読みたいときに日本語で読めるようになって大変満足していますので、皆さんも読んで満足していただきたいと思います。



【外部リンク】

読みやすい本ですが学術書である以上は学術的なものとして使える翻訳にしたいということで、翻訳はゲーム研究者の松永伸司さんにお願いしています。原文がそうであるように、誰でも問題なく読めるわかりやすさと学術書としての緻密さが両立された訳文になっています。本のより詳細な内容については、松永さんが紹介を書かれているのでそちらをご覧いただければと思います(http://9bit.99ing.net/Entry/25/)。

また、ボードゲームプレイヤーが読むイェスパー・ユールということで、草場純さんによる読解の録音が「ボードゲーム読書会@高田馬場」で公開されています(http://www.boardgamereaders.com/books/half-real 、現在は4章まで。9月末に最終章まで公開する予定です)。

加えて、購入する前にサンプルを見たいという方のために、ニューゲームズオーダー社のウェブサイトで1章のPDFがダウンロードできるようになっています(http://www.newgamesorder.jp/games/half-real)。
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by Taiju_SAWADA | 2016-09-20 00:20 | 感想・紹介

7つの習慣ボードゲーム プレビュー

「7つの習慣ボードゲーム 成功の鍵」というゲームを買ってきてルールを読みました。ふつうは遊んでいないゲームのプレビューはしないことにしているのですが、ちょっとこのゲームについては例外ということで、この段階で簡単なプレビューを急ぎ足でしたいと思います。

どういう意味で例外なのか、なんですが、まずこのゲームはウェブサイト等でルールが公開されていません。また、値段設定がかなり高め(二万円+税)なので、自分で買って読んでね、と言うのに無理があります。見た感じではルールの詳細に触れたレビューも少ないようです。まあこれらは本当はどうでもよくて、わたくしにとって重要なのは、このゲームがSid Sackson作「アイム・ザ・ボス (I'm the Boss! / Kohle, Kies & Knete)」の強い影響を受けている、悪意のある言い方をすれば所謂ぱくりがある、という話を耳にしたということです。そのぱくりというのがシステムの軽い流用程度のものなのか、それとも完全な盗作なのか。これは確かめてみる必要があります。というのはわたくし、「アイム・ザ・ボス」の日本語版出版に関わっておりまして、具体的にはルール和訳(初稿のみ)と一部ボード・カードのエディトリアルデザインをやってるのです。

そういうわけでございまして、次段落以降、アイムザボスとのルール比較という形で「7つの習慣」のルールを簡単に見ていきます。正直なところ筆致に稚拙な悪意が混じっているのは否定しがたいのですが、上記のような事情なのでご容赦いただきたく。(稚拙なのは単に時間なくて急いで書いているというこっち側の事情もあります)

****

アイムザボスでは、プロジェクトに割って入ったり邪魔したりするために使う手札が重要な役割を果たしますが、7つの習慣には、その意味での手札はありません。あるのはプレイヤーの手元に置くビジネスマンタイルだけです。つまり、プロジェクトの交渉において、例の醜い主導権争いがなくなり、条件闘争のみになります。

【※これが最も決定的な違いと言えるでしょう。個人的にはこれでこのゲームへの興味が完全に萎えましたが、このゲームの本来の目的である講習的なアレを考えればアイムザボスみたいな意地汚いゲームが受け入れられるはずがないので、その意味では妥当な変更であろうと思います。どうしても面白くなきゃいけないってこともないでしょうし。あとまあこの段階で違うゲームになってるので提訴的なやつも無くなると言えるでしょう(そもそもゲームに著作権は…という話をおくとしても)。つまるところドミニオンが劣化デッキビルドを訴える権利も必要もどこにもないわけです。】

そのプレイヤーの手元に置くビジネスマンタイルですが、アイムザボスのように1種類につき1枚ずつしかないのではなく、いっぱいあります。ゲーム開始時には1枚だけしかありませんが、後から金で買えます。また、能力値の概念があり、難しいプロジェクトは能力値が高いビジネスマンしか参加できません。当然、高い能力のビジネスマンは購入費が高くなります。なお、所有ビジネスマンの能力値合計は勝利条件に絡みます。

7つの習慣には勝利点チップというのがあり、プロジェクトを成功させるとお金だけでなく勝利点チップももらえます。当然、勝利点チップも交渉対象になります。お金はビジネスマンタイルを買うのに必要なんで重要ですが、最終的な勝利条件に絡むのは勝利点チップのほうです。この変更はたぶん悪くないんじゃないでしょうか。

アイムザボスでは手番プレイヤーは「プロジェクト」か「手札補充」の2択から選択しますが、このゲームではその部分での選択権は基本的にありません。サイコロを振って出た目の指示に従います。出た目がプロジェクトならプロジェクト(プロジェクトのマスに止まったらプロジェクトの難度は自分で選択できます)、イベントならイベント、雇用ならビジネスマンタイルの購入、という感じです。あと「勝利点カードをもらう」というレアなマスがあります。

ええと、勝利点チップとは別に「勝利点カード」というものがあります。このゲームは何種類かの勝利条件があって、それを全部満たさないと勝利とはみなされません。で、勝利点チップと勝利点カードは完全に別の条件です。勝利点カードは4色あって、これを全て揃える必要があります。勝利点カードをもらうマスにとまったら、自分と誰か1人他プレイヤーを指名して、その2人が1枚ずつ任意の(ではなく山から3枚引いて好きなもの)色のカードを貰います。ちょっとしたネガティブフィードバック装置と考えればよいでしょう。

イベントは昔懐かしいこてこてなやつです。なお、悪いイベントを防ぐためのシールドも用意されており、特定のマスでお金を払うと買えます。

あと何か細かい要素がいくつかあります。

ちょっとおもしろいのは勝利条件で、このゲームは必ずしも勝者を一人決めるものではありません。ゲームは一定ターン数経過で終了し、(明確には書いていないんですが)終了時点で勝利条件を全て満たしているプレイヤーは全員勝利、満たしていないプレイヤーは全員敗北となります。ただし、勝利したプレイヤーの中でも、勝利条件の満たし方で優劣があります。プレイヤーはそれぞれミッションカードというのを1枚だけ渡されてゲームを開始し、そこに書かれたミッションを達成するのが勝利条件の1つになっています。このミッションは1枚1枚違うもので、難易度にばらつきがあり、難易度の高いミッションを達成したほうが優れた勝利だ、というわけです。そして、このミッションカードは特定のマスに止まると交換できます。難度の設定をある程度プレイヤー側で調整できるわけですね。普通の(1人勝ちまたは順位決めの)ボードゲームでは採用できないルールですが、これはこの種のゲームとしては気の利いたルールだと思います。

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と、こんな所です。勝利条件には見るべきところがありますが、その点を除けば、重要なところがスポイルされ、かわりに何か変な要素がいろいろ突っ込まれたアイム・ザ・ボス、というあたりの評価になります。既に書いた通り、その変更にはそれなりに尤もな理由があるんですが、それならアイム・ザ・ボスじゃなくてもよくない? という疑問はどうしたってあります。ただしこれはあくまでもルールのみ読んだ段階でのプレビューであり、遊んだ後には評価の変更を行う可能性が大いにある、とは申し添えておきます(付き合って遊んでくれる人がいればね…)。

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※それから業務連絡。このゲームのデザイナーであるNaoki Matsunagaさんは二度とわたくしの前に顔を出さないでいただけますようお願いいたします。
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by Taiju_SAWADA | 2016-04-14 22:58 | 感想・紹介

Dummett and McLeod に書かれたタロットゲームを遊ぶための準備 #2

ところでこれだけイタリアがイタリアが言っておきながら、この本でイタリアのタロットゲームが紹介されるのは第2部。
Ch.2から始まる第一部で紹介されるのはフランスとスイスのタロット。



Ch.2 初期のフランス・スイス物


ミラノが1494年から1522年にかけてフランスの占領下になったとか、スイスもマリニャーノの戦いでフランスに負けて以降フランスの影響が色濃くなったとかで、フランスとスイスには16世紀初頭にタロットが渡っている。16世紀のフランスの文章には、タロットについてかなり多くの言及がある(最初のものは1534年)。宮廷でも、グルノーブルで1579年に遊ばれていたとの記述がある。1615年にはボルドーでルイ13世が遊んだとも。1622年にFrancois Garasseは「フランスではチェスよりタロットのほうが人気がある」と書いている。

タロットゲームのルールについて触れた最も古いフランスの文献は1637年、"Regle du Jeu des Tarots" (Michel de Marolles著。以下RT)に遡る。
その後1659年に別の本La Maison academique des jeux(以下MA)が出ている。MAの記述はRTにくらべて不明瞭な点が多い。MAにはフレンチタロット3種とスイスタロット1種(MAによれば「スイスやドイツでは他のゲームは通常遊ばれない」)が載っているが、説明がクリアなのはスイスタロット1種だけ。なお、「Jの次は必ず10式」が登場するのはMAから。

16-17世紀のスイスでは法令で色々なカードゲームが禁じられていたが、trogge(n)のように認められているゲームもあった。最も古い言及は1572年。1741年頃までは続いていた模様。

パリでは1725年までにタロットは廃れ、東部(アルザス、ブルガンディetc)でのみプレーされるようになった。Depaulisは廃れた時期を1650年頃と推定している。20世紀になってフランスではタロットのリヴァイヴァルがあったのだが、その間も東部ではプレイされていた。



■2.1 17世紀初頭のフレンチタロット(RT 1637)

カードの呼び名について
愚者を含む切札は「Triomphes」と呼ばれる。XXI(世界 le Monde)、I(le Bagat。イタリア語のバガットから)、愚者(le Math。イタリア語の愚者Mattoから)の3枚の切札と、4枚のKが、「Tarot」と呼ばれる。騎士がシュバリエと呼ばれるのはフランスの通例だが、ジャックがFaonsと呼ばれるのは通例とは異なる。勝利点はmarqueと呼ば得れる。コインのAはla belleと呼ばれる。

基本
基本は3人制の個人戦。78枚フルセット使用。愚者は逃げ(エクスキューズ)用、見たところ交換なしの模様。オリジナルランク。
(さわだ:フォロー形式について言及がなし。たぶん標準のマストラフ)

ディールと手役の宣言
1stディーラー決め:一枚めくって最も高いランクのカードを出したプレイヤー(愚者は普通の数字札より下扱い)。
ディーラーは山札の一番下のカードを公開する。これがTarotだった場合、ディーラーは他のプレイヤーから1勝利点ずつ貰える。
その後カードを配る。ディーラー自身に28枚、他の2人に25枚ずつ。
ディーラーは4枚、他の2人は1枚ずつ、捨て札にする。ディール終了時に自分の取り札扱いになる。切札やTarotは捨ててはならない。
捨て札の後、プレイヤーは(たぶんディーラーの右隣から)順々に、手役を宣言していく。
複数の手役を作ってよく、別カテゴリの手役なら同一のカードを複数の手役のために使ってよい。
宣言した手役は公開。手役になるカードがあっても宣言の必要はない。
手役を宣言したら、ただちにそのぶんの勝利点を他の全員から貰える。
(手役の概念はイタリアのタロットゲーム「ミンシェット」に由来)
(さわだ:手役は全部一度に宣言するのか一周ごとにひとつなのか書いていないが、一度に全部と考えるべきだろう)

手役
・コインのA:1点
・Tarot4枚/5枚/6枚/7枚:1点/2点/3点/4点
・Tarot7枚+コインの1:5点
・K3枚/4枚:1点/3点
・愚者+K2枚/3枚/4枚:1点/2点/6点
・切札10枚/15枚/20枚:1点/2点/3点
・同スートのKQCJ揃い:1点
・Q4枚またはC4枚またはJ4枚:1点
・最上位の切札上から4枚/5枚/6枚:1点/2点/3点
・最下位の切札下から4枚/5枚/6枚:1点/2点/3点

加えて、
・XXI, I, 愚者のうち2枚を持っていることを宣言すると、この3枚のうち1枚も持っていないプレイヤーから1点貰える。

プレーにおける特殊なルール
愚者をリードで出してはいけない。最終トリックで出さざるを得なくなったら勝利点2ずつ全員に払う。
最終トリックをIかKで勝ったら全員から勝利点6ずつ貰える。
Tarotでトリックを取ったら、全員から勝利点1ずつ貰える。
Tarotでトリックに負けたら、全員に勝利点1ずつ払う。

二人で遊ぶ場合
ダミーの「三人目」の手札を配り、伏せ山札として積んでおく。プレーでは2人のプレイヤーの分しか出さない。
トリックに勝ったプレイヤーがダミープレイヤーの山札から一枚めくり、これも自分の取り札として獲得する。

66枚ヴァリアント
各スートから最弱の3枚を抜く。手札は24枚/21枚配りの4枚/1枚ディスカード。後は一緒。
パンフレットの著者は非常に好意的にこのヴァリアントを紹介している。
ただし、このヴァリアントが広く遊ばれた形跡はなさそう。



■2.4 フレンチタロット (MA 1959)

カードの呼び名
XXIが世界(モンド)、Iは奇術師(バテル)、愚者はle Fou。Kはシュバリエ、JはValets(従者)。

基本
人数の取り決めなし。個人戦。78枚フルセット。愚者は逃げ(エクスキューズ)用で交換あり。Jの次は必ず10式のランク。

ディール
配る枚数は事前に適当な枚数を決めておく。ディーラー含め全員同枚数。捨て札なし。
全員、合意した賭け金(さわだ:競りのルールとかないのでたぶん固定)をテーブルに置く。

プレイ
ふつうにやる。  

カードの点数
愚者5点、XXI4点、I:4点、K4点、Q3点、C2点、J1点。
書いていないが、おそらく上記に加えて1トリックにつき1点。
最多得点のプレイヤーが賭け金総取り。




■2.5 フレンチタロット(2つめの版)(MA 1659)

2-6人(ベストは4人)。個人戦。全員に12枚配り、捨て札なし。
プレイは普通に行う。愚者5点、XXI4点、I:4点、K4点、Q3点、C2点、J1点。
加えて、「取ったカードの枚数-12」が得失点として加わる。合計点がそのまま勝利点になる。
勝利点の合計が50以上になったらそのプレイヤーの勝利。



■2.6 La rigueur (「厳格」、MA 1659)

ヴァリアント。
「ソード」のスートのカードは全て、準切札となる。
トリックの中に切札が無い場合、準切札であるソードの最高ランクのカードがトリックを取る。
ソード以外のスートがリードされ、そのスートが無い場合、マストラフは準切札でも切札でもOK。
準切札であるソードがリードされ、手持ちにソードがない場合、マストラフは切札で行う。
切札がリードされ、手持ちに切札がない場合、準切札はださなくてもいい。



■2.7 スイスの初期Troggen(MA, 1659)

カードについて
ふつうのフランス式78で紹介されているが、なぜか皇帝と女帝の数字が逆。
誤記とも思われるが、実際に18世紀のフランスのタロットカードには、皇帝と女帝が逆になったものがある。

概要
3人。個人戦。78枚フルパックを使用。愚者はエクスキューズ(交換あり)。おそらくオリジナルランク。

ディールとプレイとスコアリング
ディーラー28枚の子25枚配り。親のみ3枚捨て札。おそらく切札とKと愚者は捨て札禁止。
得点は標準式。ポイントは「XXIが5点、Iが5点、Kが5点、Qが4点、Cが3点、愚者が3点。
Jの2点がないのは、単に書き忘れと思われる。
得点がそのまま勝利点。3ディールの合計得点で勝敗を決める。
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by Taiju_SAWADA | 2015-08-16 18:51 | 感想・紹介

Dummett and McLeod に書かれたタロットゲームを遊ぶための準備 #1

Dummett and McLeod "A History of Games played with the Tarot Pack (vol. 1/2)" (2004) はタロットゲーム本の決定版と名高い本で、なんか200個くらいのルールが、歴史的な流れとかの説明といっしょに詰まっているようです。

前回触れた「ボードゲーム読書会」は20:00集合なんですが人が出揃うのは20:30くらいになるので、その間の暇つぶしにタロットでもやろうかな、と思っており、遊びに必要そうなところを抜き出して適当にまとめていくことにします。

ほんとはまとめとかしないでぱっと英語の本を開いてあそべればいいんですけど、最初のゲームの説明に入る前に原則の話が18頁くらいつづくので、まとめておかないとしんどいんですね。

Dummettといえばタロット占いdisでも有名なひとで、この本にもきっちり載ってますが、そういうところは省略していきます。

タロットゲームの歴史に関しては、なんか面白そうだったら適当にみつくろってまとめていきます。




#1.

タロットカードは北イタリア発祥。おそらく1425年頃。
現存する最古のカードはミラノ宮廷のために作られたもので推定1441年製。
タロットに触れた文献で最も古いものはフェラーラ宮廷から出てきたもので1442年。
15世紀末ころにはローマ以北では知られるように成っていた。
16世紀はじめにはフランスやスイスにひろがる。
15-17世紀にはタロットに関する言及が大量にあり、その言及はすべて(オカルトではなく)カードゲームに関するもの。
占いに使われだしたのは18世紀に入ってから(フランス、ボローニャ)。オカルトタロットは主にフランスで流行。

15世紀イタリアにおいて、タロットゲームは「トリオンフィ(=切札)」と呼ばれていた。
また、タロットのカードパックは「Carte da trionfi(=切札つきのカード)」と呼ばれた。
(タロット、イタリアではタロッコ/タロッキ、の名前になるのは16世紀から。)
15世紀にはすでにイタリア式トランプ(キング、カバロ、ジャックと数字札。スートはソード、バトン、カップ、デナリ)は存在。
(1740年頃から、♠♡♢♣のフランス式に置き換わっていく。ソードとバトンが♠♣、カップとデナリが♡♢)
タロットはこれに特殊な札(21枚の「トリオンフィ」と1枚の愚者(Matto)。スートなし)を追加したもの。
また、切札以外にもクイーンが加わる。
以降、絵札をKQCJA(Aはエース。エースは文脈によって入らないことも、っていうか入らない事のが多い)と呼び、スートはS,B,C,Dと呼ぶ。
なお、切札のうち、「世界 XXI」「天使(または審判)XX」と「バガット(僅少) I」は特殊な扱いになることがある。
タロットゲームというのは要は固定の切札のあるトリックテイキング。通常カードと構成の違う切札の存在が肝になる。
トリックテイキングというのはそれまでにも存在していて、たぶん14世紀にイスラム世界からやってきたのだが、
その段階では切札はなかった。切札の発祥は、タロットのほか、ほぼ同時期のドイツでKarnoeffelというゲームもあるが、切札の概念が広まったのはタロットから。
15世紀後半以降、トランプでもスートのひとつを切札として遊ばれるようになる(「トライアンフ」に類する名前で呼ばれた)。
これらのうち、イギリスのトライアンフはホイストの祖先になる。
なお、この頃すでに切札スートはディールごとに変えらていれたのだが、ビッドの概念がまだ無いので特に意味はなかった。
(ビッドの登場は17世紀以降)



【ルールの基本】

大概のタロットゲームでは、カードはディーラーの右隣から反時計回りに配る。
大抵は、最初のトリックのリードはディーラーの右隣。カードプレイも反時計回り。
プレーの前に宣言のフェイズがあるたぐいのゲームでも、ディーラーの右隣から始まるのは一緒。
概ねいわゆるポイントトリックテイキングのルール。
切札が出ていれば最高ランクの切札の勝ち、出てなければリードスートの最高ランクの勝ち。
取ったトリックのカードは1トリック分をひとまとめに伏せて自分の近くにおいておく。切札は数字が大きいほうが強い。
ただし、
・リードスートが無いが切札はあるという場合、切札を出さないといけない。【以降、これを標準ルール(マストラフ)と呼ぶ】
という点は大きく異なる。なおルールに拠っていろいろある。
また、ランクも特徴的で、通常のゲームでは、
・ソードとバトンは(強)KQCJ-10-98765432A(弱)、カップとコインは(強)KQCJA23456789-10(弱)。
以降、これを【オリジナルランク】と呼ぶ。これに対して、フランスやシチリアで遊ばれているタロットでは、
・どのスートでもKQCJ-10-98765432A。
以降、これを【Jの次は必ず10式】と呼ぶ。
(昔のゲームではスートごとにランク順が違うことが多いようです)




【愚者について】

・元々のタロットゲームでは、愚者はマストフォロー/ラフから逃げる(エクスキューズ)ためのカード。
 愚者を出して逃げた場合、出した愚者はトリック勝者のものにならず、愚者を出したプレイヤーが獲得する。
 このルールを【逃げ=エクスキューズ用の愚者】と呼ぶ。
 なお、ルールによっては、愚者は出したプレイヤーが獲得するが、愚者を出したプレイヤーはその代わりに、
 自分が獲得していたカードから任意の一枚を選んでトリックの勝者に差し出さなければならない。
 これを【逃げ用の愚者(交換あり)】と呼び、【逃げ用の愚者(交換なし)】と区別する。
 なお、一般に、愚者を獲得したプレイヤー(チーム)が最後まで一トリックも取れなかった場合、その愚者は、
 元々のトリックを取ったプレイヤー(チーム)に没収される。愚者を出した時点で一トリックも取っていなかった場合、
 いったん愚者を表向きにして置いておき、一トリックとった時点でそこに混ぜ、交換を行う。
 なお、その他にも、最終トリックでの愚者は没収、ラスト数トリックでの愚者は没収、など、いろいろある。

・18世紀以降、上記とは異なる愚者のルールが登場した。つまり、単に愚者を最強の切札として扱う。
 このルールでは愚者はよく「スキューズ」と呼ばれる。
 以降、このルールを、【愚者=スキューズが最強】と呼ぶ。



【ポイントルール】

個人戦の場合もあり、2チーム対抗戦の場合もある。
元々のタロットゲームでは、1トリックにつき1点+ポイントカードによる得点。
ポイントカードによる得点について、K=4点、Q=3点、C=2点、J=1点は多くのゲームで共通。この4ランクを【絵札】と呼ぶ。
切札のポイントには色々あるが、XXI, I, 愚者にポイントが乗る場合が多い。この3枚を【標準役物(オナー)切札】と呼ぶ。
最も標準的なルールでは、【標準役物切札】は各4点。
これに先ほどの絵札とトリックの点とあわせたものを、【初期標準得点系】と呼ぶ。
この初期標準得点系を使って3人でプレイした場合、獲得3枚ごとに1点プラス前述の役物による得点となる。
それはいいのだが、後期のタロットゲームでは、この「3人でプレイした場合」という前提が抜け落ち、
何人で遊ぼうとも「3枚につき1点+役物」という数え方になっているものがままる。これを【常に3枚単位で得点】と呼ぶ。
なお、ディールでトリックやカードから得られる得点と、その得点をもとに決められるゲームの勝利点は異なる。
以降、「得点(またはカードポイント)」と「勝利点」の語は明確に区別される。
その他、多くのゲームでは(花札の八八のような)「手役 declaration」の概念がある。
また、目標を「宣言(announcement)」して達成するとボーナス、失敗すると罰符、という宣言系のゲームもある。

なお、慣習として、上記の初期標準得点系でポイントを数える場合、以下のように行っている
(これを【標準得点系】と呼ぶ。【初期標準得点系】と実質的な差はない)。
いったん役物の点数を上記より1点高いものとして扱う。つまりK=5, Q=4, C=3, J=2, 標準役物切札=5。
そのうえで、トリック(3枚を想定)ごとに、
・得点札が一枚も入っていない=1点
・得点札が一枚だけ入っている=その得点札の得点
・得点札がn枚入っている=得点札の合計マイナス(n-1)点
という形で数える。



【場札(タロン)と捨て札】

手札とは別に通常は1〜6枚の場札(タロン)を伏せて用意しておき、誰か(1人なり複数なり)がこれを手札と交換できる、
とするルールのゲームもある。このとき、交換で捨て札にしてはいけないカードが設定されていることが多い。
特に、最高点のポイントカードが捨て札禁止カードになっていることが多い。
(タロンは「キティ」と言われることもあります。日本のナポレオンとかが、まさにキティ/タロンのあるトリックテイキングですね)



【縮小カードセット】

数字札を抜いて切札含有率を高めることがある。
最も標準的な抜き方は、ソードとバトン(♠♣)のA〜6、カップとデナリ(♡♢)の5-10を抜く方法。
この方法で作ったカードセットを、以降【54枚セット】と呼ぶ。
逆に切札を足すことで切札率を高めるゲームもある。
(枚数少ないカードセットというとスカートをやるドイツ式セットとかが思い浮かびますね)



【ビッド】

タロットゲームのバリエーションは、主にビッドの方式によるもの。
タロットゲームのビッドの概念は、スペインのトリックテイキングゲーム「オンブル」から来ている。
オンブルのビッドはブリッジのビッドと違い、勝利目標(トリック数なりポイント)を競るのではなく、
固定された勝利目標をどの条件下で(場札との交換あり/なし、など)達成するかに関するもの。
(これも割とスカートのイメージ。まあこのへんはタロットに限らない気も)



【ゲームの歴史】

文献からは、タロットゲームは15-16世紀イタリアですでに発展していたらしいのだが、そこに書かれている記述はスケッチ程度のものでしかなく、ルールを起こせるほどではない。現存する最古のルールは16世紀のもの。
1450年の時点で、切札に書かれた絵じたいはどこのものも一緒だったが、強さの順は違っていた。
こういうのとか、絵柄とか、切札の強さが数字で示されているか否かとかを見ると、カードやルールの伝播ルートがわかる。
タロットの場合、ミラノとフェラーラとボローニャの3都市が主要な発信源で…
(以下タロットの中心地の変遷が語られるが省略)
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by Taiju_SAWADA | 2015-08-12 00:58 | 感想・紹介

Characteristics Of Games 2章のレジュメのようなもの

読書会で Elias, Garfield, Gutschera "Characteristics Of Games" (The MIT Press, 2012) を読んでて、2章のプレゼン担当になったので、レジュメの代わりに。
時間なかったので文体とか全く整理してませんが、読書会はオフィシャルなものでもないので特段気にしない方向で。
最後に短めの感想文をつけてます。眠い頭で無理やり書いたのでたぶん一層読みづらいものになっていると思われます。言ってること自体は普段とあんまり変わりません。

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#2「マルチプレイヤー」
おおむね、負け抜けの問題と、マルチゲームのポリティクスの問題と、チームゲームで発生する問題とについて語られています。



定義「マルチサイド・ゲーム (multisided games)」
3陣営以上に分かれて実施するゲーム。
2陣営マルチプレイヤー(多くのスポーツとか)とか1陣営マルチプレイヤー(パーティプレイのゲーム。WoWとかモンハンとか)というのもあって、これはこれでチームワークの問題とかあります。

1陣営が死んでもゲームが続く!
2つの陣営で結託して1陣営をぼこる!(ポリティクス!)
どの陣営が勝つか最後に決めるのは負け犬陣営だ!(キングメーカー!)

というわけでマルチプレイヤーゲームでは(以下めんどいので区別する必要がない限りは「マルチプレイヤーゲーム」でいきます)いろんなインタラクションがいろんな違いを産み出すのです。

定義「レース(競走:races)」「ブロウル(喧嘩:brawls)」【Rules Of Playに同様の定義有り】
レースはマルチサイドで行う1人ゲーム。ブロウルは2人ゲームをコアに置いて(1人でやる喧嘩とか無いよね?)n人目をそこに放り込んだようなゲーム。
ふつう、ゲームはこの2極の間を(時にはエージェンシャルな理由で)揺れ動くものです。マリオカートにも甲羅あるし。
ちなみにブロウル式マルチはクラシカルなゲームやスポーツではあまり見かけません。
(つってもこういう分け方で考えてもなあ、というゲームもポーカーとか色々あります)


#2-1. プレイヤーの排除

排除というのはつまり、一般に言う「負け抜け」というあれ(時には勝ち抜けとかもありますが)。
排除には、
・ほんとうにゲームの場から外される「狭義の排除(厳密な意味での排除:strictly)」と、
・プレーは続けるけど勝ち目がゼロになる「広義の排除(論理的な意味での排除:logically)」
があります。あとは
・「主観的な意味での(perceived, または事実上の effective)排除」というのも。勝ち目が極端に薄い場合、これをゼロとみなすかどうかという。
このへんの取扱はゲームの楽しさにおいて大変重要です。

■1陣営ゲーム
基本的には後述の2陣営ゲームと同様。
ちなみにコンピュータ相手でのゲームの場合、コンピュータは「広義の排除」に関して鈍感だとか、途中で止めても誰も怒らないのであんま気にしなくていいとか。

■2陣営ゲーム
2陣営だと「狭義の排除」は単なるゲームエンドなので基本的には問題にはならない(例外として、2陣営マルチで1チームのうち1人だけ排除される場合とか)。
広義の排除はちょっと問題あるんだけど、まあ投了すればいいわけです。でも仮にプレイヤーが投了しないとしたら、その理由として考えられるのは
・負けてることに気づいてない。このケースだと勝ってる方(大概は技量が上なほう)は苛つくけど、負けてる方自身は別に問題なし。
・投了しないで最後までやることが正義、みたいな。お互いそう思ってるなら別にフラストレーションはたまらないけど、片方しかそう認識してないと色々とアレ。
 (※面白いのは、伝統ゲームだと投了タイミングについてプロトコルみたいのがあって、それ無視するとざわついたり)
・勝ってる相手を苛つかせたい。特にオンゲだとこれ問題になります。「農場隠し(hide the farm)」っつって、RTSで誰にも見つからない所に生産地作って「まだ負けてない」。
 こういうの何とかするには、「広義」を速やかに「狭義」に移行させる仕組みをルールに盛り込んでおくとよいです。

■マルチ陣営
さて本題。狭義の意味で排除されるのはつまんないし、広義の意味で排除される(特にレースだとそこに気づきやすいですね)のはもっとつまんないことも多いんで。
どっちがマシかはゲームの種類にもよって、参加してることが重要なパーティゲームで狭義の排除は大変まずいことになります。
何にせよ、どの意味にしろ排除しないほうが良いんで、ゲームの最後まで一発逆転のチャンスを残しとくデザインというのはよくあります。
ただこれも問題になる場合があり、というのは結局道中関係なしに最後だけやればよくね? とか、一発逆転のムーブが何故か最初に発動しちゃって大変とか。
あとは、勝ち抜け式(勝つと気分がいいので排除の問題が和らぎます)や、1人負け確定でゲーム終了などという方法もあります。

この問題を潰す一つの方法として、ゲームごとにポイント集計するとか、もっと直接的には金賭けるとかあります。
単発ゲームでもスコアとか順位とかを活用して擬似的にそういう効果を狙う場合もありますね。
社会的慣行として「そういうの狙いなさい」みたいな場合もあって、これはそうしないと負けプレイヤーが影響力を求めてキングメーカー方向に走りだすという問題が(後述)。

■オンゲ
オンゲだと対面のマナーとか知ったこっちゃなくなるというデメリットがある一方、狭義の排除を気楽に使えるというメリットもあります
(同じ面子で複数回やる必要がある場合は辛いことになるけど。この場合はオンゲっても対面と変わんないですね)。

Exercise 2.1-2.4


#2-2. インタラクティビティという特性

定義「インタラクティビティ(相互作用性)」プレイヤーが自陣営以外の状況に影響を及ぼせること。(※コンピュータゲームでの一般的な定義とは違うので注意)
レースでも(特に長丁場のは)相手の状況を見て自分の戦略を変えるとかあるんで、インタラクティビティが無いわけじゃないです。

インタラクティビティは1人ゲームでは存在しないし2人ゲームでは良いものなので、問題になりうるのは専らマルチにおいてです。

インタラクティビティについては量だけじゃなくて種類についても気にしましょう。まず、「狙い撃ち式」のインタラクティビティ、というのがあります。
(必ずしも攻撃的なものだけを意味してるわけじゃなくて、誰か1人にトスを上げるようなものもここに入れます)

Exercise 2.5-2.7


#2-3, ポリティクス

定義「ポリティクス」他のプレイヤー(達)を恣意的に対象にして、その対象者のゲーム状況を差別的に変えてしまえる(プラス方向かマイナス方向か問わず)、ということ。

■チップテイキング
全員10チップ持ってスタート。手番は時計回り。手番には誰か一人を指名し、その人のチップを1枚捨てる。チップが無くなったら負け抜け。最後の1人に残ったら勝ち。
(ポリティクスのうち、狙い撃ちで他者を攻撃できる面を強調した表現)

このゲームを長いこと楽しむのはまあ厳しいでしょう。ここにはスキルっつうもんがありません。
敢えて言うなら自分のチップを取らせないよう説得するスキルとかでしょうが、そのスキルに気づかれたらまあ最初に丸裸にされますわね。

で問題は、多くのマルチゲームが最終的にこのチップテイキングに帰着してしまうという。狙い撃ち式の強いインタラクティビティがあるゲームはみんなここに帰着する危険があります。
例えば、手番には誰か一人を指名してチェスをやる、手番プレイヤーがチェスに勝ったら相手は2枚没収、負けたら相手は1枚没収と。まあカスパロフでもこれ勝てないよと。

カタンとかだとポリティクスを「誰かを選んで得させる」方向で働かせたりとかしてます。ルールやら社会的慣行やらでポリティクスを和らげるとかありますね。

■投票ゲーム
誰が勝つか決める。具体的には毎ラウンド、誰か1人を投票で排除する。で最後に残った2人の勝ち。
(ポリティクスのうち、勝者がプレイヤーのスキルと関係ないところで決まる点を強調した表現)

クラシカルなゲームやスポーツではポリティクスは滅多に見られません。現代のゲームの特性と言えます。

Exercise 2.8


■ポリティカルなゲームにおける戦略
・目立たないように潜伏
・他の人々同士を戦わせて仕上げのところだけかっさらう
・おだてたり泣き落としたりしてこっちを攻撃しないようにしてもらう
・ゲームの外のことを持ち出す「コーラ奢るから」「月のない夜は以下略」
・直前に攻撃してきた奴を攻撃する
・…と脅してこっちに攻撃がこないようにする
・相手も自分も共に沈むような行動を故意に取ることで「こいつの脅しは本物だ」と思わせる
・攻撃対象を順番に変えたりランダムに選ぶことでフェア感を演出
・攻撃対象に対して攻撃理由とこれが最適解であることを合理的に説明する
・相手がこっちを攻撃しようとしてきた時に、それが相手にとって最適解ではないことをプレゼンする
・自分以外の誰かが「お仕事」(首位のプレイヤーを止めるための自己犠牲的行動)をやるべきと主張
 (Fall on the Grenade。「俺が爆弾を抱いて死ぬ」みたいな?)
・首位を攻撃する機会を意図的にサボって、首位の直前のプレイヤーにお仕事を強制する

■ポリティクスの何が問題か
ポリティクスの問題は、別につまらないってことじゃなくて(ポリティクスがそもそも嫌いなプレイヤーはいるでしょうが)。
ゲームの他の部分を圧倒してしまって、どれ見ても「これポリティクスのゲームよね」と。ゲーム固有のスキルを磨いても集団でぼこられるだけじゃないすかと。
グループによっては、ポリティカルなゲームにおけるヒューリスティックス・ツリーの登り方は面白いものになりえるのは確かです。ポジション把握が困難を極めるので。
その部分でポリティカルな問題が軽減されるとも言えます。逆に言えば、ポジション把握を済ませてしまえば、あとは単なる投票ゲームになっちゃうわけですけど。
あとは前述の戦略のところで分かる通り、不毛な議論が起きがちでもあります(マルチ特有の利他行為による問題ですね)。
※「議論=ポリティクス」じゃないところに注意。RTSとかチップテイキングとか、議論なしでも普通にポリティクスは成り立ちます。逆に人狼は2陣営物なんでポリティクス無いです。

■ポリティクスの利点
スキルの低いプレイヤーがなんとかできる余地があるというのは無論利点でもあります。そうじゃないと対戦相手集めるの大変だし。
ゲーム終了まで誰が勝つか分からないとか(最後だけやりゃいいじゃん的な問題もありますけど)。
このてのインタラクションそのものが好き、というプレイヤーもいっぱいいます。
あとはポリティクスを中心にフィーチャーしておけばゲームを成り立たせるためのややこいルールを排除できてオーディエンスにも分かりやすいとか(Diplomacyみたいに)。
現代ゲームのデザインではこのオーディエンスのことを意識する必要があるというのが重要で。
スキルで勝負させたいなら究極的には2人ゲームにするのが最も良く、そうでなくてもインタラクションは抑えて個人攻撃要素を無くすとか。
カジュアルなプレイヤーを相手にするならポリティクスを突っ込んだほうがプレイヤー層が広がってよいです。

■狙い撃ち式インタラクションがある場合の戦略解析の難しさ -- 風船ゲームの実例
まあこれは必ずしもポリティクスに関する問題そのものということでもないんですが。
3人ゲームで全員風船を背につけてます。3人同時にダーツで誰かの風船を狙って投げます。最後まで割れずに残った1人の勝ち。
Aは60%, Bは50%, Cは40%の確率で風船に当てられるとしましょう。B, Cは共にAを狙えばいい、かとおもいきや実はBはC狙いに変えたほうが勝率が上がります。
で、こういうのにAが明示的なりなんとなくなり気づいていると、フラストレーションが溜まって、こういう構造のゲームを避けるようになります。

Exercise 2.10-12


#2-4. キングメーカー問題

キングメーカー問題の要は、これが狙い撃ち式インタラクションそのものであり、広義の排除によって発生するものだってことで、ポリティクスの明白な問題点なわけです。
キングメーカー以外のチップテイキング問題については、他プレイヤーを攻撃する理由を提供するメカニズムがあれば概ね抑えられるんですけど、キングメーカーはそういうわけにいかんのです。
他のプレイヤーを攻撃する理由ってのはゲーム内で勝ち目を作るための理屈なので、広義の排除がされた後だと、金銭みたいなゲーム外の理屈を作らない限り、理屈に従う理由がないのですね。
和らげるテクニックとしては、キングメークの選択をした時点では誰を選んだか分からないようにしておくとか、コンピュータゲームならリアルタイム性を導入するとか。

ポリティクスが強すぎると単なるチップテイキングのヴァリアントになってしまうので、マルチゲームは大概なんらかポリティクスを抑制する仕組を入れるもんです。
もちろん一番分かりやすいのは2陣営ゲームにすることですが、マルチ陣営だとすれば、インタラクティビティの制限という方向に行きます。つまり、
他のプレイヤーの運命にどれだけ手出しできるか。誰を狙い撃ちして攻撃するかについて何かしらの制限がついているか。
制限が無いとすれば、攻撃対象を選択するにあたって明白に勝利と結びついた指標が与えられているか。
究極的な例はレースで、ほぼ何のインタラクティビティも無いです。つっても完全なレースってあまり無くて、レースを基礎にしてインタラクティビティをのっけるデザインのがよくあります。
(典型的にはユーロゲームの得点制とか)
ブロウルでも、インタラクションの対象の選択に制限をかけるという方法があります。よくあるのが地政学的な「近くにいる奴しか殴れません」。
これは意識的な選択と言うよりもテーマ的な(フレーバー的な)要請であることが多いんですが、フレーバーがメカニクスに及ぼす影響に意識的になるというのは良いことです。

あとは、そこに制限を掛けないとして、特定の誰かを殴ることについてゲーム的なメリットを明示するというのもあります。土をガメてる奴に盗賊を、という。フェア感はありますよね。
誰かを殴るのをみんながためらうような状況というのはゲームを硬直させて大変良くないんで、攻撃にインセンティブを出すようなシステムもありです。攻撃にごぼうびを出すとか。
それでもこの方法ではキングメーカーは抑えられないので(何やっても勝てないならもう関係ないのです)、広義の排除を受けたプレイヤーはゲームに影響を及ぼせないようにしたり、
広義の排除から狭義の排除に速やかに移行させたり、すくなくとも対象の選択にリミットをかけるくらいはしないといけません。

インタラクションそのものに制限かけてるわけじゃないけども、負けプレイヤーがゲームに及ぼせる影響を抑えてキングメーカー問題を潰す方法があります。
たとえばQuakeとかだと、負けてるプレイヤーというのは下手なプレイヤーなので、ゲームに影響をそうそう及ぼせないのですね。
スキルの問題でなくても、RTSだと負けかけのプレイヤーはリソースをぼこすか奪われて殆どなんもできなくなってますね。

Exercise 2.13-16



#2-5. チームワーク

こっからは別の話。チームプレーにおけるプレイヤーの役割とコミュニケーションに焦点を当てて、チームメンバー間の力学を議論します。

■役割
チームゲームのプレイヤーには、普通のプレイヤーとしての欲求に加えて「チームに貢献したい」という欲求があります。そこでチームにおける役割(ロール)という話になるんですが。
まずチームにおける各プレイヤーのロールについては、全員が同一のロールを持つ場合(対称 - シンメトリカル)と、異なる役割を持つ場合があります。
異なる役割を持つ、というのはシステミックな場合もあればエージェンシャルな場合もあります。野球のポジションはシステミックですけどサッカーはキーパー以外はエージェンシャルです。
システミックなロールの上にエージェンシャルなロールが築かれる場合もあります。例えば種族制のゲームで、種族の上にエージェンシャルなロールが(攻撃役・治癒役etc)乗るなど。
全員の貢献欲を満たすには2通りあって、ひとつは能力をバランスさせる方法、もうひとつは全員に別々の特殊能力を割り振ることです。
能力をバランスさせた場合、貢献機会は自動的にイーブンですが、結果としての貢献度合いは当然ながらスキルに左右されます。
異なる役割を振る場合、デザイナーズゲームなら普通は全員同程度の貢献になるよう作るものですが、スポーツはそういうの気にしません(いや一人で全部はできないようになってますが)。
特別なロールとして「リーダー」には言及しておく必要があるでしょう。ルールには定義されてないことも多いですが(でもルール上の何かと結びついてたりはしますね。クオーターバックとか)。

■協力的インタラクション
って言葉はちょっと問題が合って、これ必ずしも協力ゲームに限ったものでもないし、逆に協力ゲームに協力的インタラクションが皆無ってこともあるんですが、それはそれとして。
つまり相方のパフォーマンスに影響を及ぼせる度合いのことです。水泳のメドレーとかだと殆どゼロ、
テニスのダブルスはかなりインタラクティブですがそれでもボール打ち返すのは一人で可能、
アメフトとかだとどんないいパス投げても相方が取ってくれないとなんにもなりません。
人間は社会的生物ってことで、基本的には協力的インタラクションってのは良きものです(勿論オーディエンスの話はここでも有効で、メドレー程度が丁度いい人もいっぱいいます)。
面白いヒューリスティックス・ツリーも構築できるし。ただ、インタラクションの度合いによっては副作用もあります。
具体的に言うと、まずはド下手くそな相方がむかつく問題。水泳とかみたいに相手関係なく自分自身のスコアを計れるものだとそうでもないですが、
ボール取ってくれないキャッチャーとだとそもそも野球できないんで。でまあ、オンゲで極端に雰囲気悪いゲームとかあるじゃないすか。ああいう弊害がね。

Exercise 2.18

■奉行問題(チームメートに何をすべきか口出しするということ)
インタラクションで起きる問題以外にも、チームメンバー間のコミュニケーションがOKであるようなゲームでは、奉行問題が発生し得ます。
つまり、初心者に対して先輩が口を出し過ぎるので事実上初心者がゲームから排除されているという。
口出しは適度におさめてれば悪くないものだし、場合によっては初心者の側が全く言うこと聞かないということもありますが、まあ大人だと普通そういう圧力には従うでしょう。
これを防ぐには。まずコミュニケーションを制限するというのは当然あります。ブリッジだとビッディングシステムに従ってしかパートナーとコミュニケーションとれないとか。
あとは実行スキルの概念があれば、これも制限として働きます。
カスパロフに「次ルークを2マス前へ」と言われれば誰でもその通りに実行出来ますけど、ジョーダンに「そこでダンク」とか言われても出来ないものは出来ないわけです。
似たような制限方法としては時間の概念を持ち出すというのがあります。時間制限がそのままコミュニケーションと実行の制限として働くのですね。
情報を一部伏せるというのもありでしょう。あと、場合によってはロールプレイが解になることもあります。賢者は全てを教えるのですが、蛮族は聞く耳を持たないよと。

■協力ゲーム
近年まで協力ゲームというのは割とレアなものでした。対戦相手というのはゲームに多くのものをもたらしますし、対戦相手がいなければ一人用ゲームを遊ぶしか無いんで。
事情を変えたのは勿論コンピュータとネットです。
協力ゲームは基本的にはチームワーク付きの一人ゲームです。複数陣営におけるチームワークと比べると、問題の種類は同じですがより難儀になります。
本来コミュニケーションに制限がかかってるゲームで奉行をやると、複数陣営ゲームなら対戦相手から「おいそこの糞チート野郎」と来るわけですが、協力ゲームだとその声が出てきません。
協力ゲームに関する他の問題としては、リプレイアビリティの問題もあります。MMOでチームメイトのために同じシナリオを2度やる人がでてきたりとか。
とりあえずここで重要なのは、こういうメリットやデメリットは、1陣営ゲームであることから湧いてくる問題、チームプレイから湧いてくる問題、インタラクションから湧いてくる問題、
というような形で理解することが可能だ、ってことです。

Exercise 2.19-24.


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内容は以上です。

排除の問題については概念の整理が主になってて、特段どうということは無いと思います。
協力ゲームの問題については、もう少し突っ込んだ詳細に入って行くとどうなるかわかんないですが、このレベルの議論としてはごく穏当、というかこれも紹介的な内容。
我々面倒くさいボードゲームプレイヤーにとって大いに議論の対象になるのはポリティクスの話で。
ただ確認しておかないといけないのは、この議論はユーロゲーム界隈を離れてゲーム一般で考えるとごく正統的なものだってことです。
そもそもマルチというのは鬼っ子であって、というのは本文が(明確にそうとまでは言ってないけど)強く匂わせてるところで。
特にこの本の立場だと、基本的にはゲームの楽しみというのはヒューリスティックス・ツリーの構築にあるので。
マルチでは自己言及性の問題から素直なヒューリスティックス・ツリーが描けないので、まっとうなアゴーンのゲームは造れない。正統なアゴーンのゲームってのはいつでも2陣営用です。
オンゲ以降のマルチプレイヤー物には本文中のテクニックを駆使してマルチ性をぐっと抑制したゲームというのがありますが、そういうものについては根源的な問題が付きまといます。
つまり、なんでマルチじゃないといけないのかと。この点に関する著者たちの立場というのは、フレーバーとして振りかける程度の使用ならマルチ(この場合は≒ポリティクス)も
悪くないものだ、というもので、だからこそポリティクスの「コントロール」という言葉を「デザイン」の類義語ではなく「抑制」の類義語として使ってます。
これはここ数年のユーロにも共通する立場で、モダンユーロというのはルールの本質的にはレースを志向していて、ルールに載せてるインタラクションは
本書の意味でのインタラクションと言うより、n人が一同に介して同じ席に付いているという状態におけるコミュニケーション推進、が意図されていることが多いです。
ゲームとしてはレースのがいいんだけどそれはそれとしてコミュニケーターが必要だと。
一方で英米マルチ〜90sユーロを基準に考える立場からすると、このような抑制の対象としてのポリティクスという議論はいかにも曖昧に思えます。それなら2人ゲームやってりゃいいよねと。
英米マルチ〜90sユーロでは、ポリティクスこそをデザインの対象としています。
サブゲーム内でのポリティクスを絡め合わせて一つのメタゲーム系を作り上げる、というのがユーロ(面倒なので「英米マルチ〜」は省略)の本質の一つとしてあり、
そこでは当然ヒューリスティックス・ツリーは登ろうとすると自己言及性によって変な方向に折れ曲がる。
その折れ曲がり方は、巨視的に書いてしまえば全部本文中の「ポリティカルなゲームにおける戦略」でおしまいなんですが、ここをミクロに見ると色々面白い差異があり、
その差異を鑑賞する(別の言い方をするなら、折れ曲がるヒューリスティックス・ツリーの折れ曲がり方を楽しむ)のがユーロのプレイヤーの【非正統的な】立場なのですよ、
ということは述べておきたい。です。
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by Taiju_SAWADA | 2013-02-21 00:58 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part4)

終わんない! このシリーズ長いよ! だいたい1作ごとに文面が長くなってるじゃないか! と執筆者がかなりへばってきている本シリーズ。いままでは1回につき2作行けてましたが今回1作のみです。次回ドミニオン+七不思議で締めるかドミニオンと七不思議で二回に分けるかは今のところ未定。なんでどんどん長くなってきているかというと、最初に挙げた9作で必要なことを全部書かないといけないレギュレーションなので、書いた後で「あのこと書くの忘れてた」が発生すると後のほうの回で盛り込まないといけないからです。今回はケイラスなんですが「それモダンアートのところで書くべき話だよね?」という話題が混じってます。ではどうぞ。


ケイラス | 2005

ケイラスが一つの象徴であるというのは大方のゲームファンの共通認識になっていることと思います。ただ、ケイラスが象徴するものというのは結構いっぱいあるので、文字に起こして確認しておかないと1つくらい漏れが出てきてそれに気づかないということも普通にあるでしょう。ということで、そのあたりを書き起こしながら見て行きましょう。

まず第一に挙げられるべきは、ドイツ以外の国のゲームとしては1991-92年シーズン以来、「ドイツ以外の国の出版社が自国のデザイナーを起用して出したゲーム」としては初めての、Deutscher Spiele Preis(ドイツゲーム賞)受賞作であるということです。「ドイツ以外」といってもJumboやPiatnik、あるいは91-92のParker/Bandaiみたいな大メーカー(いま鼻で笑ったのは誰ですか?)ではない、間違いなくインディーズといっていいYstariというメーカーの受賞だということがポイントです。単に「ドイツかそうでないか」ということではなく、市場のルールが変わったことが明確に告げられた瞬間と言えるでしょう。カタンに始まる全欧米的熱狂(特にアメリカが大きく、ということはMayfair GamesとRio Grande Gamesの仕事が如何に大きかったかという事でもあります)とエルグランデによるゲーマーズゲーム概念の(再)誕生、そしてそれを機会としたLudoFact/PacktやHeidelbergerに代表される小規模流通網の整備、さらにこれは別にボードゲームに限った話ではないインターネットの普及、そういうような諸要因により、「ドイツボードゲーム=ドイツの玩具屋で販売されている、児童玩具性とエグめのゲーム的ジレンマを混ぜ込んだゲーム」であるという前提が崩れていきました。他の市場に住む我々としてはむしろ何で90年代までそんな玩具屋市場が残っていたのか任天堂やセガは何をしていたのか、という疑問は当然あるのですが、それはそれとして。鶏と卵のどちらが先か、システムと外部環境のどちらが先かはともかく現にかつてと違うものとなった以上もう二度と同じものにはならない、ケイラスはその象徴となっています。

さて中身のほうに移りますと、それはまあケイラスですからワーカープレースメントのことを云々しなければいけません(生ける伝説的インディメーカーSplotter Spellenの"Bus"(1999)のことは脇に置いておきましょう)。少なくともケイラスからワーカープレースメントが「始まった」のは間違いありません。単純にドイツゲーム的な観点で言うなら、ワーカープレースメントとは先ずは90年代のオークション全盛に対する「早乗り系」の王政復古であると言ってよいでしょう。いや早乗り系って別の言葉で言えばダッチオークションの多面指しだろ、とか、そもそもドイツゲーってそのレベルまで分解しちゃうとノーマル/ブラインド/ダッチ各種オークションと囚人のジレンマとチキンレースの5つしか構成要素無いよね。という身も蓋もない事実(これはクニーツィアが明らかにした事実と言ってよいと思います)の中でその流行の移動になんか意味あるのかってことではあるのですが、この流行の移動はマルチゲーム構造から2人ゲーム構造への大きな移行期(前回のプエルトリコ参照)だからこそ発生した現象なので、その意味で取り上げる価値があります。剥き出しのマルチ性がきっぱりと忌避されるという事態は前述の5要素で構成されるドイツゲームの開発において手足を縛られるに等しい制限なわけで、その中で何かやれることをとなると、割りきってパーティ/ギャンブル的な方向に行くのでなくあくまでストラテジーのゲームということにこだわるなら、隠蔽されたダッチオークションとしての早乗りシステムを進歩させるしか道はありません。ワーカープレースメントを簡単に言えば、通常の早乗り(典型的には「チケット・トゥ・ライド(2004)」など)と違ってダッチオークションの対象が抽象的な能力と言うか機能になったもの、ということになります。抽象化したんで直感性は失われます(従ってファミリーストラテジーは作りづらくなります)が、その代わりデザインの自由度が手に入ります。

では、その上がった自由度で実際には何をやったか。ここで出てくるのが04-05シーズンのドイツゲーム賞受賞作「ルイ十四世」です。ルイ十四世自体は正直別にすっごく良くできたゲームってわけじゃないんですが、あの資源が取れますとかそのカードが取れますとかこれをあれに変換しますとか、他のゲームなら1手番でそれくらいやらせてくれよ的な小規模な機能を大量に用意してそのそれぞれの権利を取り合う、そういうスタイルを世に広めたゲームとして触れておく必要はあるでしょう。仮にこのスタイルのゲームを「矢印ゲー」と呼びます(前提条件と結果が矢印と一緒にアイコンで書かれてるからです。よくありますよね、資源A→資源B、みたいの)。この矢印ゲーがワーカープレースメントと非常に相性がよかった。つまりワーカープレースメントは抽象的な機能を「早乗り」が成立するほどいっぱい用意して初めて成り立つゲームなので。で、ケイラスの出来がとにかく良かったこともあって、ワーカープレースメントと共にこの矢印ゲーのスタイルも認知され、ワーカープレースメントとは「別に」矢印ゲーはひとつの方法として定着し、ワーカープレースメントと共に有象無象のフォロワーを大量に生み出すことになったのでした。矢印ゲーはワーカープレースメントと違ってドイツ的というよりはポストドイツ的な手法なので、寿命が来るのもワーカープレースメントよりずっと先になるんじゃないかと思います。そうなったとき、みんなルイ十四世のことなんか覚えてないでしょうから、ケイラスには「矢印ゲーの嚆矢」という役割が割り振られることになるんじゃないかと予想しています。素直に告白しますと実はわたくし自身がこれ書くときまで忘れてて、あやうく「矢印ゲーの起源はケイラス」とか素で言っちゃうところだったのです。
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by Taiju_SAWADA | 2011-11-13 00:46 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part3)

プエルト・リコ | 2002

プエルトリコがDSPを獲った瞬間はそのままイコール「特殊能力対戦物がドイツにおいてOKになった瞬間」であると言えます。プエルトリコが何で面白かったかという話であれば、独特かつ効果的なフェーズ選択システム(と積荷ルール)によって形作られる「遅延をめぐる攻防」にまず触れる必要があり、このゲームにおける特殊能力の面白さはそれが前提になっているわけで、特殊能力について触れるのは後回しでも別に構わないくらいなんですが、残念なことにそっちのほうはその後ぜんぜん流行らなかったのでして。ここで取り上げるべきは専らテキストのほうになります。

プエルトリコ以前と以降で大きく変わったのは何か。テキストが有りになった、ではありません。イベント的なテキストは90年代にも生き残っていましたし、特殊能力としてのテキストはこれ以後もメジャーになってはいません(特殊能力としてのテキストのメジャー化は「アグリコラ(2008)」あたりでしょうか)。特殊能力が有りになった、というのも本当はちょっと違ってて(いや冒頭ではそう書いたんですけど)、90年代的な特殊能力というのは厳然と存在しています。「90年代的な」というところが重要なポイントで、90年代の特殊能力は概ね「イベントカードをどう現代化するか=ファミリーストラテジーの通常進行の中にどう組み込むか」という問題意識と繋がっています。そのへんが最もよく現れているのが前回の「エルグランデ」で、旧来のイベントデッキを特殊能力デッキに作り替え、プレイヤーの選択次第で場からどのカードを獲得できるか変化するという形を生み出しました。拡張の「エルグランデ K&I (1997)」では更にラディカルになっていて、特殊能力デッキをそのままプレイヤーの手札とし、元々のアクションカードと機能を融合させ、通常のゲーム手順の中に組み込むことで、特殊能力選択のフェーズそのものを削ってしまっています(エルグランデK&Iは特に意識的な例でして、それほどこの部分に拘っていないゲーム、例えば「フィレンツェの匠」などは、カタンの特殊カード的な処理で済ませてしまっています。こちらのほうが多数派ですね)。

プエルトリコが変えたのはこの部分です。プエルトリコ以降(厳密には1年飛んで03-04シーズンから。02-03シーズンのDSP受賞作は、特殊能力に関して典型的なカタン処理を行っている「アメン・ラー」です)、特殊能力はイベント山札から離れ、最初から面陳で全部場に並ぶようになります。プエルトリコ以前のドイツゲームにもそういう取り扱いをやった作品はあって(もうこの流れは今シリーズのお決まりですね)、ここでは「原始スープ(1997)」がこれに当たりますが、97-98当時の原始スープというのはそれはもうエクストリームでカルトな作品という位置づけのゲームでございまして、いや位置づけがどうこうではなく実際原始スープはどの特殊能力をいつ選ぶかで全てが決まるエクストリームなゲームなんですけど、なんにせよ主流派ではなかった。それを言うならプエルトリコそのものだって発表当初は普通にエクストリーム扱いされていたようにも思うのですが、お値段とか流通とか意外と当時のドイツ本流的な部分が強いとかいろいろあったのでしょう、「この手のゲームとしては」の前提付きながら大ヒットしてしまい、実際大ヒットしてみると意外にみんなあっさり受け入れてむしろ嬉々として能力の強弱談義に花を咲かせ、なんならそういう談義とか嫌いじゃないご新規のユーザまで連れてくることになってしまったのです(←ここ重要)。そしてこの流れは、特殊能力から特殊性を取り除いた「サンクトペテルブルク(2004)」、ケイラスの項で再び登場すると思われる【微妙な能力の組み合わせ】ゲームの火付役「ルイ十四世(2005)」で確定的になります。

この流れを振り返った後で改めて「ドイツボードゲームの終わりとその後」というテーマを考えた時、「終わりの始まり」つまり転換点の役を割り振るのに最も相応しいゲームはやはりこのプエルトリコだと言えるでしょう。ただし、何からなにへの転換点なのかということはきちんと言及しておく必要があります。つまり、「多主体複雑系的(≒マルチゲーム的)ジレンマ」をベースとしたゲームから「強弱解析のケーススタディ」をベースとしたゲームへと流れが移り変わる瞬間、という意味です。最初にモダンアートの項で取り上げた「クニツィアレスク」というのは前者の要素のミニマル化だと言えます。そして後者はTCG/CCGを支配する主題であり、より広くは2人用ゲーム一般を支配する主題です。マルチゲームの2人ゲーム化。その最初の作品となったのが、醜い汚れ仕事にまみれた如何にもなマルチゲームである「プエルトリコ」だというのは少し皮肉なところがありますが、歴史というのはそういうものなのでしょう。いや全部わたくしの按配なんですけど。



キャメロットを覆う影 | 2005

ドイツゲームの終わりとその後の話はいったん中断して、ここで協力ゲームの話題を入れておきたいと思います。この話題はこのサイトでは散々しつこくやってて新しく付け加えることって何も無いんですけど、それでも偽史を作る以上はやっとかないといけないトピックではあるのです。ドイツゲームの20年で未解決に終わった問題というのはいくつかあって、たとえば「結局ゲームにおいてダイスというのはどう扱うべきなのか」なんてのがあり、こういうのは次の世代のゲーム(の出版社と作者とプレイヤー)が考えていかないといけないんですが、それら未解決の問題のなかで取り分け大きいのがこの「協力ゲーム問題」です。協力ゲーム問題というのは、協力ゲームを如何にマルチプレイヤーズゲームとして成立させるか、という問題のことです。協力ゲームは放っとくと「声の大きい奴が1人でやってんのと変わらないよね」ということに必ず陥ってしまい、というのはそれを防ぐ強いインセンティブのある人が場に誰もいないからですが、これを何とかしないと複数人で集まってゲームをする意味がなくなってしまいます。

なんでこの問題が未解決なのかというと、まず解くのが難しい問題であるというのがひとつ。あとは80-90年代のドイツゲームが基本的に協力ゲームにあんまり興味を持ってなかった、ということもあるでしょう。なぜ興味が無かったのかというと、その年代のドイツゲームでは勝敗というのはいい加減に決まるものだったので(多主体複雑系的ゲームでは勝敗というのは本質的にいい加減なものなのです)、勝敗についてさほどシリアスに考える必要がなかった、ということは指摘できます。それがエルグランデ以降のゲーマーズゲームの定着で「スキル」の概念がクローズアップされ、さらに前述のプエルトリコのところで述べた解析化の流れにより、勝敗、つまり勝ったひとと負けたひとがいること、という事実が相応に重いものになってきました。その緩衝材として必要になるのが(カジュアルゲームと)協力ゲームであった、という筋書きは、ひとつあり得るんじゃないかなと思います。

前置きが長くなりましたがそんなわけなので、ドイツゲームでは協力ゲームの歴史そのものがあんま無いのです。相応しいスタート地点はおそらく「ロード・オブ・ザ・リング」ですが、これ2000年のゲームですから。そしてこれはあくまで(ドイツゲームとしては)開始点なので、協力ゲーム問題は別に何も解消されていません。欧州のボードゲームで、まっとうにこの問題に取り組んで成果を挙げ、さらに市場にもそれなり以上に受け入れられた、という条件を満たすものを探すと、出てくるタイトルがこの「キャメロットを覆う影」になります。

キャメロットが何をやったか。これは一言で表すことができて、「裏切り者がいる<可能性>の導入」です。いるかもしれない、いないかもしれない。その揺らぎが重要だ...というのはそのまま別のエントリで述べたので詳しくはそちらを(【「である」のではなく「になる」こと】 http://toccobushi.exblog.jp/3461437/ )。実際に裏切り者が1人います、だと今度は単純な1vsNになってしまって協力ゲームではないので、「可能性」にとどめておくことで「全員協力しているのだけれども全員の情報をオープンにできない」という状態をともかく現出させたことが「キャメロット」の主要な功績です。まあ実際にはかなりの確率で普通にいるんですけどね裏切り者。

それだけ? それだけ。それだけです。それでも、やっぱり初めにやった人は偉いんですよ。このあと協力ゲームはそれなりに数が出るようになり、その中で協力ゲーム問題をクリアしたといえる水準にあるゲームも複数出てきています(具体的には「スペースアラート(2008)」と「花火(2010)」。「パンデミック(2008)」は楽しいゲームですが協力ゲーム問題に関する限り2000年の水準を一歩も出ていません)。で、何でそういうものが出てくるようになったかを考えた時、キャメロットがデザイナーに与えた影響、つまり「協力ゲーム問題というものがある」と認識させたこと、これは大きかったんじゃないかと思うのです。
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by Taiju_SAWADA | 2011-10-24 01:23 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part2)

2回目でーす。今回も勝手な断定をエクスキューズなしでばんばん飛ばしてますが、「俺の中ではこれが真実」以上の保証は何も無いんで、「な、なんだってー」くらいの気分でよろしくどうぞ。逆に言うなら「俺の中ではこれが真実」ってところまででよければ確実に保証します。意味のある保証かどうかはともかく。

さて今回はクラマー&ウルリッヒ二連発。内容を一言でまとめると「クラマーはえらいひと」。



エル・グランデ | 1995

1995ニュルンベルグ発表のカタンがアメリカのゲーマーズゲームからゲーマー臭を取り除くことによって「ファミリーストラテジー」の再定義(っていうか「定義」ですね。ファミリーストラテジーはカタン以降のドイツゲーム・ムーブメントの中で使われだした言葉ですから)を行ったゲームであるとするならば、1995エッセン発表のエルグランデは、ドイツにおけるゲーマーズゲームのフォーマットをこれ一作で規定することになったゲーム、と申せましょう。

この「フォーマットの規定」というのは、たとえばモダンアートによって現代の競りゲームのあり方が規定された、というのとは意味合いがちょっと違います。現代競りゲームの場合はモダンアート以前には殆どそういうものが無かったのに対して、エルグランデ以前にもドイツ的なゲーマーズゲームと呼べるものはそれなりに存在しています。例えば同じメーカーの最初の批評的成功作である「ディ・マッヒャー(1986)」は典型的なドイツルールで構成されたゲーマーズゲームですし、ドリス&フランクも「でっかい馬鈴薯(1989)」や「フッガー・ヴェルザー・メディチ(1994)」みたいなものを出しています。「チョコ&コー(1987)」など今遊んでこそ新鮮なゲームと言えるでしょう(言えるんです。いや面白いんですってチョコ&コー)。そういうわけでゲーム自体は存在していたのですが、「ドイツ・ゲーマーズゲーム」というフォーマットのほうがこの時点までは無かったのです。もっとも分かりやすいところで言えば、「ドイツ・ゲーマーズゲームは表示時間が90分(実際遊ぶと初ゲームなら2時間半)」というのは、このエルグランデが始め、このエルグランデによって広まった慣習です。従って我々が、あるいはメーカーが「90分のゲーム」というとき、そこでは「エルグランデくらいの長さのゲーム」ということが暗示されています。そしてこのエルグランデ参照というのは中身の方にも及んでいて、エルグランデがSdJを取って以降、つまり1996-97シーズン以降ドイツゲームの終焉(2008年頃)まで、「ドイツ・ゲーマーズゲーム」は実質「エルグランデみたいなプレイ感を持つゲーム」を指すことになります。歴史的な意味でのエルグランデの重要性は、何よりもまずここにある、というのがわたくしの認識です。カタンによってファミリーストラテジーが定義されました。カタンは超ヒット作になりましたから、カタンによって産まれた「ボードゲーマー」というのも数多くいたことでしょう。そのようにして形成された土壌の上に、わずか8カ月後に産み落とされたエルグランデが、そのようなボードゲーマーの熱狂的な支持を受けたことは間違いありません(何せこの重たい内容でご家庭向けの賞であるSdJを獲っているのです。如何に当時のドイツ人が熱に浮かされていたことか)。エルグランデによってドイツ・ゲーマーズゲームの市場が整備され、ここに我々がいま知っているゲームシーンが完成します。

さて、「エルグランデみたいなゲーム!」という影響は、当然ながらゲームシステム面にもあったわけです。というより、「歴史的に見てエルグランデってどんなゲーム?」という話をすれば、どちらかというとシステム面のことが先に来るでしょう。つまり、ドイツ式=一着二着式の非戦型エリアマジョリティというジャンルを作ったゲーム、としての評価です。例によってエルグランデが本当の最初のゲームというわけではなく、例えばクニーツィアの「古代ローマの新しいゲーム(1994)」に収録されている「インペリウム」などはこのジャンルの先行作品と言えば言えるんですが、1996-97シーズン以降ひと山いくらって程に大量生産されたドイツ式エリアマジョリティが先行作例として「インペリウム」を参照していたはずはなく、みんなエルグランデみたいなゲームを作りたかったんです(もうちょっと意地の悪くない言い方のがよければ「エルグランデを超えるゲーム」ですかね)。何しろエルグランデは腹に重く来る面白いゲームですし。でもそれだけなら、あんだけ売れたカタンに嫡子が最後まで生まれ無かったのに、ということになってしまうのでして、要はエルグランデみたいなゲームって作りやすいんです特にカタンなんかと比べると断然。基本構造はチキンレースのジレンマの多面指しで、地形学的あるいはルール的な縛りによりリソース投入に「ここから入るならこのルート」という戦略的な選択肢を整えて、あとは妨害とかリソースの複雑化とか、何でもいいんで素敵なサムシングを独自要素として放り込めば一丁上がり(一応補足しておくと、そんな簡単には素敵なサムシングなんか作れません)。「エルグランデがドイツ・ゲーマーズゲームを作った」という言葉は、良くも悪くも「エルグランデがドイツ・ゲーマーズゲームをデザインするためのメソッドを作った」という裏を含んだものです。もっとも、そういうメソッドで生産された製品の横にエルグランデを並べてみると「いったいどうしたのだお前は」と言いたくなるほどキャラが違っていて、久しぶりに遊んでみても作りの自由さに改めてびっくりすることになるのですが。



フィレンツェの匠 | 2000

何でこのラインアップでフィレンツェの匠が混じってんの、というのは入れたわたくしでも思う所で、面白いことは間違いなく面白いゲームですが別に何かセンセーションを巻き起こしたりムーブメントを先導したりはしていないのであって、実際入れるか入れないかでかなり迷ったのですが。何で入れたのかといいますとですね、とある方との会話の中で確かにそうだなあと思ったことがあって、これ「リソース or 勝利点」の二択システムをメジャーに押し上げたゲームなんです。一応振り返っておきますと、このゲームでは名誉な何かをゲットする機会がプレイヤーにつきだいたい5〜8回くらい巡ってきまして、その都度もらった名誉をお金と勝利点に振り分けると。これは競りゲームなので当然ながらゲームの遂行にはお金が必要であり、そしてお金を獲得する手段は事実上これだけなので、名誉を勝利点に割り振るというのはゲームを畳みに入っているということになります。で、これ、どうということもないシステムに見えますし、いかにもドイツゲーム的な美意識を持ったシステムでもあり、さらに言えば現在では「ドミニオン(2008)」をはじめとして多くのゲームに普通に搭載されています。あとは別ジャンルですが、RPGでは経験点をスキルに割り振るみたいなのは(これがフィレンツェの二択システムとは似て非なるものだというのは後で触れますが)遙か昔から王道中の王道です。ですが実際に振り返ってみた時、このゲームより以前には、そういうシステムはほとんど見られないのです(例外についても後で触れます)。

うん、まあ、そうかもしれない(そうじゃないかもしれない)。でもだからなんなの、それがそんなに大事なことか? というのはごもっともなのですが、ここで触れておきたいのは、あのボードの外周にくっついている謎の目盛、つまり「勝利点トラック」という概念です。勝利点vsリソース二択システムは導入の効果がたいへん明確であり(完全な拡大再生産化を回避してゲームを収束させ、加えてその収束のさせかたもプレイヤー側に委ねることでジレンマの数をひとつ増やす)、導入の際の困難も全くなく、誰でも入れようと思えば簡単に入れられる扱いやすいシステムでありながら、ほとんど誰も入れようとはしなかった。なぜか。考えられるのは、それまでは「勝利点」という考え方がまだ完全には自明のものになっていなかった、という仮説です。名誉によって買えるものとして、お金と勝利点が同じ売場に同じ扱いで並んでいる。こういうやり方は、勝利点というものがお金やその他リソースと同じような、ボードゲームにおいて操作の対象となるひとつのブツである、という発想に立つ、そしてそのような発想が自然に受け入れられることで初めて可能なものです。今を生きる我々としてはつい「いや、勝利点ってそもそもそういうものでしょ?」となりがちですが、少なくともドイツのボードゲームにおいて、勝利点というのはかつてそれほど自明のものではありませんでした。いま我々は「お金(やその他のリソース)をたくさん手元に持ってきた人の勝ち」と「最初に勝利点を一定量稼いだ人の勝ち」と「ゲーム終了時に勝利点トラックで最も先に行っていた人の勝ち」とを別段区別して扱いませんが、これらは歴史的には全て別のものです。お金を稼いだ人の勝ち、リソースを集めた人の勝ち、というゴールには百年来の伝統がありますが、勝利点を一定以上、というゴールはこれに比べると数がだいぶ少なくなります(トイバー「バルバロッサ (1988)」「貴族の務め (1990)」など。おそらくこれはレースゲームから派生したシステムでしょう)。そしてもっと少ないのはゲーム終了時に勝利点トラックを最も先へ、というゴールで、例えば80年代のSdJを見てみると「ゲーム終了時に勝利点トラックを最も先に」を堂々と使っているのはどうやらクラマーくらい(「アンダーカバー (1984)」「フォルム・ロマヌム(1988)」)だということがわかります。おおクラマー。

先ほど保留にしていたRPGのスキル分配とこのシステムの先行作例についてここで触れましょう。RPGのスキル分配がこの文脈においては似て非なるものだということは、もうお分かりいただけるかと思います。RPGにおいてスキルというのはいずれにせよリソースですから、単にどれにしようかな、というだけの話であり、2択システムのメタ言及性(勝利点というメタ概念をエクスキューズなしで非メタなリソースと同じ高さに引きずり下ろしてしまう、ということ)とは関係ありません。そして例外的な先行作例についてですが、フリーゼの初期作品「贋金づくり (1994)」が挙げられます。ただ決定的に違うのは、フィレンツェにおいて勝利点トラックにあたるものが、贋金づくりでは「コイン」なんですね。手元にプラスチックのチップが受け渡されます。ゲーム的な効果自体は全く一緒であっても、フリーゼにおいては交換対象にテーマ的な意味とブツの触感をはっきり持たせることで糖衣を被せていた。2000年のクラマーには、そういう躊躇はありませんでした。盤上で堂々と勝利点をめぐる剥き出しのメタフィクションを展開しても普通に受け入れられる、ゲームシーンは既にそうなっていたのです。
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by Taiju_SAWADA | 2011-10-13 23:36 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part1)

「歴史的重要性の観点からわたくしが勝手に選ぶこの20年の代表的ボードゲーム(欧州系システム限定)。モダンアート・カタン・エルグランデ・フィレンツェの匠・プエルトリコ・キャメロットを覆う影・ケイラス・ドミニオン・七不思議。みんなもやってみよう。みんなって誰だ?」

ボードゲームの歴史、特に現代史を考えることは重要なことだと思うのですが、重要なことだとは思っていても知らないものは知らないし教科書もでていない。のでおしまい、というのは少々後ろ向きすぎるようにも思えるので、とりあえず現代史を捏造してみるところから始めましょう、というお話でございます。「みんなもやってみよう」というのは、みんなもここに挙げたゲームをやってみよう、という意味ではなく(いや基本的にここに挙げたゲームについては未プレイならぜひ遊んでみるといいとは思いますけども)、みんなも勝手に歴史的重要性の観点から代表的ボードゲームを挙げてマイ現代史を捏造してみよう、という意味であります。捏造の山から正史が立ち上がることもあるかもしんないというポジティブシンク。根拠無いけど。

なんで20年で欧州系限定かというと、その範囲を外れると捏造しようにもなんも知らないので書くことがない、というのが理由のほとんどです。残りの理由としては、たとえばこの20年で欧州系限定をはずしてしまうとどうしたってM:TGに触れざるを得なくなり、そうするとM:TGと並べて恥ずかしくない程度の影響力を持ったボードゲームってこの20年ではカタンだけなので、ちょっとやりたいことと違ってきちゃう、というのがあります。レンジが30年だとウォーハンマー、40年ならD&D、50年だとタクティクスみたいな初期のウォーゲーム、とかまあいろいろあるんでしょうけど、よく知らないのでとにかくこの20年、「欧州系」限定です。正確に言うと「欧州系以降」限定。つまりドミニオンは冷静に考えてみると欧州系と言えるための条件を殆ど満たしてないけど当然入れるからね、という宣言です。


モダン・アート | 1992

欧州ボードゲーム20年偽史をモダンアートから始めるというのは何かたいへん意義あることのような錯覚を覚えて書いてる方としてはちょっとした興奮があります。というのは、「欧州ボードゲーム20年史」というのはほぼ「ドイツ・ファミリーストラテジーの興隆と衰退、そしてその後の展開」に等しいわけで、その書き出しというのは何をもってドイツゲーム・ルネッサンスの始まりと定義するか、につながります。そこでたとえばカタンを出してくるという態度があり、あるいは20年縛りを無視してスコットランドヤードという手もある(というか、「スコットランドヤード(1983)」を始まりと定義するのであれば、お題のほうを「30年史」に変えるわけです)。その中でクニーツィア、それもモダンアート。含意はふたつあり、「ドイツゲーム・ルネッサンスの時代とはそのまま競りゲームのルネッサンスの時代と言い換えることが可能である」ということ、そして「ドイツ・ファミリーストラテジーの最も大きな主題は、クニツィア的なるもの、であった」ということです。

特に前者については、競りゲームの歴史ははっきりとモダンアート以前・モダンアート以降に分けることができます(もちろんクーハンデル(1985)みたいな例外はあるにせよ)。全てが競りだけで構成され、あらゆる行動が価格付けという言語によって構成されるゲームでありながら、しかしその言語によって行われることは必ずしも単なる価格付けだというわけではなく、むしろ本質的にはプライシングというよりも空気の形成に関するゲームである。クニーツィアはこのモダンアートにおいて、競りというシステムをミニマルに用いることで、競りというだけに留まらない複雑な味を持たせることに成功しました。これにより、九十年代のボードゲームにおいて競りは第一級のゲーム要素に格上げされ、クニツィアがリファレンス的なゲームを同時期にいっぱいつくったこともあり、やたら数多く出回るようになります(各作者の名誉のために、その多くが十分に遊べる水準を保っていた、ということは付け加えておくべきでしょう)。また、ここで提示されたミニマリズムも、その後のドイツゲームにとってひとつの規範をもたらしました。そしてこの「競りとミニマリズム」によって退潮したボードゲーム要素というのも確実にあり、それはたとえばダイスだったりイベントだったりするわけで(直接戦闘は八十年代の時点でドイツではマイナーになっていました)、そういう新たに追加された要素と退潮していった要素とが九十年代、つまりドイツ・ファミリーストラテジーの時代を形作ることになったのでした。

 そうすると今度は、この時代がどこで終わったのか、という話になり、これも当然いろいろキーイベントを挙げることができるのですけども(後述するいくつかのゲームの登場なんてのは分かりやすい例ですね)、今述べたような競り史観=クニツィア(レスク)史観を採用するのであれば、1999年のスティーブンソンズロケットか2003年(だっけ)のアメンラーというのが分かりやすい終わりの始まりと言えます。前者はクニツィアが初めて狙って作ったゲーマーズゲーム、後者はそれがDSPを獲得した、というイベントです。何なら2008年のケルトを、ドイツ・ファミリーストラテジーの時代への別れの挨拶、という扱いで見ることだって可能でしょう。ああいうミニマリズム的な45-60分クラスのゲームが大箱で並ぶようなことは本当に少なくなりました。

※追記:タージマハル(2000)というのもあるのですけど、あれはどっちかというとチグリス・ユーフラテス(1997)と同じ系統、つまり「できちゃった」ゲームなんじゃないかなーと。ポーカー狂いのクニーツィアがうっかり産み落とした危険なドイツ・ゲーマーズゲーム。



カタン | 1995

ドイツゲームの象徴をなにか1つ、という条件だったらふつうはこのゲームを挙げますわね。少なくとも商業的には、ドイツゲームの時代というのは完全にカタンの時代とイコールです。その後10年、ドイツゲームが生産される基盤そのものを作ったゲームですから、当然歴史的に見てこの20年で最も重要な作品でございます。

システム面から言えば、ファミリーストラテジーにおいて許される複雑さの上限を再定義した作品というのがまず第一に来るでしょう。カタンというのは玩具屋で平積にされて売りに出るメジャーな作品としてはかーなり複雑なルール構成のゲームで(いやヴェルニサージ(1993)十分複雑じゃね、とか言わんように。あれは五千部しか出てません)、これが大ヒットしたことで、ここまではやってOKとなった。もちろんこれはちょっとずれた認識で、ルールの複雑さとユーザが遊んだ事後の印象としての複雑さとゲームの難度はそれぞれ別のことである、というのが本当のところなのですが、ともあれルールの複雑さについてはここまでOKになりました。と。このゲーム自体は別にゲーマーズゲームじゃないんですが、システム面でも「ゲーマー」が産まれるきっかけになったゲームとは言えます。
なんか口調が煮え切らないんですけどこれは何故かというとですね、よく言われることだと思いますが、このゲームって各パーツを抽出してみると全然九十年代ドイツ風ファミリーストラテジーじゃないんですよね。まずルールが複雑なことが第一に挙げられますが、それよりも重要な点があって、それはドイツゲームの系譜のどこかに位置づけることがかなり難しいシステムだということです。カタンの先行作品として良く名前が出てくるゲームって"Borderlands (1982)"と"McMulti (1974)"だと思うのですが、どっちもアメリカのゲームなわけです。そして後に続くゲームはないと。んでこれは外側から見た言い方ですが、内側から同じ事を言うなら、何より全面的なダイスの採用と堂々たる特殊能力カードの運用。特殊能力カードはその後もなんとなく残っていくことになりますが、ダイスを好んで大箱に突っ込むデザイナーはたぶんトイバーが最後の一人で、トイバーが一線から引いたら本当にダイスはメインストリームから消えてしまいました。ドイツゲームが終わった現在になっておずおずとダイスの再定義が始まっていますけれども、第一級の要素として復帰するのは(あったとしても)だいぶ先のことでしょう。トイバーは当時の基準で考えるとダイス的な乱数を本当に愛した人で、ことあるごとにダイスやらルーレットやらを、結構アクロバティックな方法で取り込んでいます。90年代にダイスを用いるにはここまでやらんと駄目だったですか、ダイス末期ですしねえ、という印象もありますけど、ただたとえばこのカタンが代表例ですが、トリッキーかつ全体から浮かないような使い方でありながら、プリミティブなダイス勝負感覚、つまりあの「この目を出したんぞオラ」なオカルト、そういうものを大事に残しているんですね。最後の一人だけあってダイスを使うのが最も巧かった人だと思います。

そして、これは功罪半ばするところですが、交渉要素の大幅なカジュアル化、というのもこのゲームの残した大きな影響と言えるでしょう。モノポリー(1933)からディプロマシー(1959)を経て延々と続く交渉=鉄火場論。カタンはそういうのと関係のないところでプレイヤー間の交渉をメインストリームのユーザに提示し成功しました。そして鉄火場的な交渉ゲームはその後完全に立場を失いました(いや、これは割と恨みがましい嘘が混じってますけど)。この流れを決定的にしたのはローゼンベルクの衝撃的なデビュー作「ボーナンザ(1997)」で、この二作によってドイツにおける交渉とはそういうことです、というスタンダードが形作られました。前述のアメリカからカタンへという話と組み合わせると、カタンが行ったのはドイツゲームとしての要素を入れ込むというよりは、アメリカのゲームを象徴する生臭さをアメリカのゲームから取り除くことだった、というように言っても良いかもしれません(ただ、そう言ってしまうと後継者がKeyaertsということになってしまい、それはそれで違和感があるのですけども)。

※一応追記しておきますと、これはあくまでカタン単体の話であって、トイバーが常にソフィスティケイテッド・アメリカの人だと言いたいわけではありません。というより、「カタン」シリーズを除けば、トイバーはほぼ常に王道ドイツの人で、それも1997年版レーベンヘルツを除けば王道ドイツ・ファミリーストラテジーの人だと言えます(前述のとおりヴェルニサージはゲーマー寄りですが)。



...すぐ終わると思いきや意外にも全然先に進まないのでここで切ります。続きは近いうちに。


追記(10/12): あーキャメロット抜けてたー。というわけで足しました。決して個人的にはそこまで好きじゃなくて書くのめんどくさいからこっそり削ったわけではー。
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by Taiju_SAWADA | 2011-10-12 00:34 | 感想・紹介

Keywoodという土着的暴力

英国のゲーム作家Richard Breeseのゲームを通しで遊ぶというイベントが7月にB2FGamesで催され、それでKeywoodとかKeydomとか初期の作品を遊んだのですが、その中で特にKeywoodに感銘を受けまして。一言で言うと、最高すぎる。二言使ってよければ、あまりに不健康。もう一言だけ許して頂けるなら、こんなゲーム絶対売れない!

そもそもRichard Breeseのゲームの特徴は2点あって、ひとつは他のデザイナーからはそうそう出てこない着想の豊かさ、もうひとつはゲームなんだから何やっても別に良いよねと言わんばかりの喧嘩上等殴り合い宇宙、なんですけど、それでもKeythedral以降の作品では表現が随分マイルドになっていることが、Keywood/Keydom/Keytownの初期三作を遊んでみることで逆に理解できます。KeythedralやReef Encounterでは「お前が俺の道を塞いでいるので殴り倒さざるを得ない」、Key Harvestでは「まあどっちにしろイベントに殴り倒されるわけだし」というエクスキューズがゲームシステムの根幹に組み込まれており、プレイヤー側に一応の理由を与えてくれるのですね。(Fowl playは遊んでないので何とも言えませんが)

初期三作はそうではありません。ただルールに「殴れば宜しいので御座います」とだけ書いてある強烈な苦み。

三作の中でこの味が「不要な苦み」となってしまっているのがKeydomで、抽象化された機能をブラインドビッドで取り合う、というそれだけで十分にゲームとして(それも別にそれほど可愛くはないゲームとして)成立するキャッチーな着想があるところに、Breese印の苦香辛料を無遠慮に投入しているので、どうしても「面白いけど、俺ら全員倒れるまで殴り合わないと駄目なの?」という感想になってしまいます。ちなみにこれ結構比喩じゃないところがあって、Keydomって(よりによって)エンドゲームの処理に問題を抱えているので、最後は本当に全員で全勢力を使ってほとんどナンセンスな殴り合いを繰り広げることになります。たぶんこのゲームを見たHans im Gluckの人も同じ事を思ったのではないかと思われ、この余計な香辛料を取り除いて無害化したのが、かの名作Morgenlandであるのは皆様ご存じの通り(※今回、この点をご存じない方は1行目で読むの止めてる筈なので、特段遠慮とかしません)。

でもって残りのKeywoodとKeytown。この2作は着想そのものが殴れば宜しいので御座います。いずれもどう殴るかという点で独創があり、その意味ではやりたいこととやってることが正しく対応しているので、わたくしはこの2品をKeydomより上と見ますが、一方でそれはどうあってもヴァイオレンスを取り除くことができない、ということでもあります。まだアメリカ系のルールであればプレイヤーにも暴力に対して慣れというか耐性がありますが、Keyシリーズが属するのは短い言葉で本質を的確に突くことを旨とする欧州系のルールですから、暴力に慣れていないプレイヤーとしては家に帰ってきたらいきなり連れ合いが包丁を上下逆さに持って突っ立っている状況に遭遇したようなもので、この突然の家庭内暴力に対して固まるか逃げるかしか選択肢がないわけです。

とはいえこの2作には、同じ暴力という言葉でひとくくりにできない大きな差異があり、Keytownのほうは「自分の持つリソースを、相手を引きずり下ろすために投入、より引きずり下ろされ度の低いほうが得点」というシンプルで開けっぴろげな殴り合いであるのに対し、Keywoodではもっと陰湿にしたたり落ちるような暴力が繰り広げられます。ということでようやっと本題。

まずはテーマからご説明しましょう。舞台は深い森に囲まれた集落Keywood。この何もない集落にプレイヤーの皆様が住み着き、協力して村々をつくり収入を得ていく、というゲームなのですが、といって別に村を大きくして収穫を得ていくカタンのようなゲームではまったくありません。いや、一収入を倍にするアイテムを競りで取り合うという要素もあるんですが、それよりも大事なこととして、このゲームでは村に住み着いた皆様がラウンドごとに行うのは、村から誰を追い出すか決める寄り合いです。ちなみにどの村でも基本は住民1駒につき1票。村にいないと収入を得られないという点もさることながら、基本的にこのゲームでは村に人を置いていないとその村を起点とした移動が事実上できなくなるので、状況にもよりますが追い出されると概ね厳しいことになります。名指しで行われる「お前が死ねばいい」という罵り合い。それだけならまだ普通の交渉ゲームですが、Breeseは何を考えたのか、追い出されたほうのプレイヤーに復讐の手段を用意します。村から追い出された棄民の皆様は集まって崖の上に街をつくり議会を開き、どのプレイヤーに嫌がらせ(課税またはアイテム没収)をするか、これも合議で決めるのです(※正確に言うとプレイヤー個人に対する嫌がらせじゃないんですが、まあ実際には個人攻撃です)。

ということでこの寒村では、なけなしの金を数えるか(書いていませんが中盤までは金勘定が恐ろしく厳しいゲームでもあるのです)、そうでなければ誰を蹴落とすかの協議が常に行われています。特に金を稼ぐ手段(アイテム)を手に入れた者への憎悪は凄まじく、またよりによって「アイテム没収」という余りにもストレートな嫌がらせの手段が提供されているものですから、この憎悪はあまりに簡単に直接的な暴力に変換されることになります。

Keywoodが世論操作のゲームとして優れているのは、ひとつにはパワーバランスの変化の表現が美しく明快であるということです。駒を1つ村Aから村Bに動かすだけのことがゲームにおいてどの様な実体的効果を持ち、そしてそれがどのような心理的影響を持ち、さらにそのことがどのような実体的効果として跳ね返ってくるか、ということ。パワーバランスに関するゲームというのはこの影響についてプレイヤー全員がそれなりの理解を持っていないと本来は成立せず、しかし多くのゲームでは往々にしてルールがその部分の理解を隠蔽するので遊び所がぼやけてしまったり、あるいは単にそういうことをルールが何も考えていないためにパワーバランスの操作もへったくれもない人間力のみのゲームになってしまったりするのですが、Keywoodではプレイヤーがみな、心理と実体の相互作用について考えることができ、そこを遊び所とすることができます。

そしてもう一点。「パワーバランスについての明快な表現」「森の中の村」「襲いかかる赤貧」など、このゲームのテーマと構造によって否応なく想起されるもの。欧州系のゲームが、システムから離れた主題の表現をあまり好まず得意ともしない傾向にある中、このゲームが行っている主題の表現の精密さは特筆すべきレベルにあります。主題とは言うまでもなく、村社会の暗黒です。

正直に申し上げて、土着村八分ワールドというのは割と日本的な主題なんだろうとわたくし御花畑的にもぼんやり思っていたのですが、そんなぼんくらの横っ面をひっぱたく様なこの英国カントリーサイドの強烈な腐臭。連中のガーデニングで着飾ったテラコッタの下には確実に死体が埋まっています。人間はおっかねえ。

素晴らしい。素晴らしいんですが、どうなんでしょうね? 少なくとも商業的には、セールス上許されない表現ではありましょう。実際1995年の発表後、一部ジャーナリズムの熱狂的な支持を受けつつも、このゲーム自体は同人の規模(200部)で終わっています。逆に言えば、Keywoodこそが同人ゲームでしか表現し得ないものが存在することの証明である、とも言えるわけですが...

* * *

ついしん
そういえば8月のB2FGamesではWilko Manzの"Fifth Avenue"(五番街)その他のゲームを遊ぶというイベントが立ってるんですが、この五番街というゲームも、Keywoodとは全く別の意味で、商業的には踏み込んじゃいけなかったかもしれない先端的領域に土足で突っ込んでいった作品と言えます。本来Aleaでは小さいバジェットでこういう尖ったゲームを出していきたかったんだろうな−、と。
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by Taiju_SAWADA | 2010-08-03 01:57 | 感想・紹介