カテゴリ:感想・紹介( 47 )

Master Builderの失敗について

最初は単にどっちでもいい、無くても誰も困らないゲームだと思ってたんですが、後で少し振り返ってみて、このゲームの試みと失敗についてはきちんと触れておいたほうがいいんじゃないかと思うようになったのです。

システム云々の話を脇に置くとしてこのゲームの何が一番不愉快かというと、コンポーネントの質が低い。いや、別に他のゲーム、コンテナでもタイタンでもいいですけど、そういうものに対してこのコンポーネントなら充分に及第点です。でもこのゲームの場合、企画自体が「ゲームが終わるとすてきなペーパークラフト村ができあがります!」というものなのでして、であればペーパークラフトはきちんとHABA品質で仕上げて、厚紙を抜くところから愉快が始まっていないといけないわけですよ。企画自体は悪くないのに、メーカーが自分たちの企画の意味をわかってない。ルールゲームとして面白いかつまらないかなんてことは二次的要素に過ぎず、プリミティブな喜びをプレーヤーにいかにして与えるかというところに全力を注がないといけないのに、普段のゲーマーズゲームと全く同じ発想で組み立てている。根本的にこういうゲームを作る資格がこのメーカーにはありません。

企画とずれたことをやってるのはメーカーだけじゃなく作者にも問題ありで、折角のペーパークラフト村も単につくるだけで全く生かしていない。ただ労働力を集めて、組み立てて、テーブルに置くだけ。教会の隣に広場がほしいよねー、とか、開店したレストランに村人を並ばせてボーナス点、とか、村を生きた物にするための工夫がない。勝敗自体への影響は微々たるものであっても別に構わないし、そのためにルールがちょっと「不必要に」複雑になったっていいんです。それはルールゲームとは別の意味で絶対に必要なことなんですから。

なんかやりたいこととやってることが噛み合ってないなー、という切なさはルール/システムのほうにも見受けられます。ゲームは労働者を雇って建設契約を落札して工事開始、という流れになります。この中で意思決定上最も重要なポイントは「労働者は雇ったら人件費が定期的に出ていき更に自由には解雇できない一方、建築契約のほうは毎ターンちょろちょろとしかやってこない上に総数が全然足りない」というところで、企業の人事に関する悩ましい部分をピックアップしたものになっています。ただ、これを60分のサイズにきちんと組み込むとなると、どうしたってKnizia的な直接の数字ジレンマに持ち込まないと表現できないのに、このゲームではイベントカードをぶち込むことでわざわざそのへんをぼかしています(Kramerのこの悪癖はいつまで経っても直らないですねー)。

いや、単独で見れば、ここにイベントカードを持ってくることの意味は理解できるのです。冒頭で述べたように、Knizia的に解決されてしまうようなルールであっては企画の意味がない。職人がサボタージュしやがりますとか、領主が突然わけのわからんこと言い出しました、とか、そういう「てんやわんやの大騒ぎの末、しかしおらが村はこうして立派にできあがりました(ここでスタッフロール)」という演出は、確かに必要です。しかしそれを演るにしては、これも繰り返しになりますが、余りにも他の部分のサポートが弱い。イベントカードはゲーム全体で世界観を表現しきって初めて有意義に使えるものであって、現状では単に、ゲームにリスクの構造を持たせるため無理矢理入れてみました、というだけのものです。

たぶん、どれもこれも埋め込んで60分で収める、というのは何か奇跡が発生しないと無理なんです。今の形は、全てを拾いに行こうとして、全てを取りこぼしています。そういう部分の舵を取れないというのは、これは主として編集者/メーカーの責任だと思います。全部拾って1998年のZochみたいな奇跡を起こしたい、というメーカーの願望は情としては汲み取れますが、しかし脇から冷静に見ればそれは妄想に過ぎません。
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by Taiju_SAWADA | 2009-01-02 14:04 | 感想・紹介

なるべくデザインしない: "Container" 雑感

ドイツ系で括られるゲームデザイン、の中の良い物、の多くに見られる特徴として「ゲームシステムによる主張の強さ」を挙げることができます。という文だけだと何を言っているのか全くわからないはずなので補足しますと、「このゲームはこのような仕組みによって回っている。そのなかで主要な遊び所はこの部分にある」「このゲームのこの部分は旧来からの伝統をそのまま受け継いでおり、一方で新規性はこの部分にある」「私はゲームはこのようにあるべきだと考えており、その思想の実装として今回のゲームはある」みたいな。ドイツのデザイナーズ・ゲームは一様にテーマにおける思想性が希薄ですが、そのぶん彼らは「システム」というものについて何か言いたいことがあるわけですね。

そういうゲームでは大概「ここ!ここ遊んで!」的なポイントが設定されていて、ゲームを進めていくと殆ど自動的にそこのポイントまで連れて行ってくれることになっています。というのは本当は話が逆で、そういうポイントが設定されているゲームの場合、そこまで連れて行ってくれないゲームはサービスが悪いものとして冷たくあしらわれてしまいます。これはまあ尤もな話で、遊ばせたいことがあるのにそこまでの手続きをちゃんとやらないのは単純にデザイナーの怠慢というべきでしょう。

しかしこの物言いが成立するのは、冒頭で述べたように「テーマにおける思想性が希薄で」「ゲームシステムについて何か言いたいことがある」ドイツゲームの場合に限られます。例えばシステム全体が何らかの現実の対象を模倣することを意図している場合(って別にぼかして書く必要はないな。語のそのまんまの意味におけるシミュレーションゲームのことです)、ゲームシステム的な意味での「遊び所」を設定すること自体が是非の議論の対象になりますし、ましてそこに連れて行くために模倣対象と無関係な操作を恣意的に入れたとなれば、ゲームの目的をそもそも達成していないと言えてしまいます。

では、そうでない作品ならば誘導は常に行われるべきか。繰り返しになりますが、アウトプットから逆算して考える限り、いわゆるドイツ系のゲームにおいては回答は極めて高い確率で Yes だったように思います。ごく希に No を回答する作品が現れると我々はいろいろ戸惑ったりするのでして、例えば Ewert and Delonge の "Container" がこれにあたります。

作者の一人である Delonge という人は過去 "TransAmerica" において殆ど犯罪的といっていいレベルのデザイン放棄をやらかしています。実は本作でもその辺の事情はあまり変わっていなくて、何かしら「デザイン」された痕跡というのはほとんど見受けられません。 TransAmerica と本作の間で何が異なるかと言えば、 TransAmerica では結果として何も起きずにゲームが終了しますが、本作ではどんな結果でも起こりえるということです。いや、愉快な意味では決してありません。どんな「凄惨な」結果でも普通に起こりえるのです。ここで言う「凄惨」というのはゲームのマゾヒスティックな楽しみについての婉曲表現ではなく、素直に文字通りに腐った結末のことです。それこそがデザイナーの意図なのだとしたら?

本作では普通のドイツ系ゲームとは全く逆に、あらゆる腐った結末を回避するための機構こそが慎重に取り除かれています。前段で「デザインの痕跡が見受けられない」と言ったのはそういうことで、粉か何かを撒いて消してあるのですねきっと。そうすることによって、それ自体には意図のない剥き出しのシステムの骨格が浮き上がります。何の飾りもない流通システムの模式図を一切の誘導無しに与えられた時、プレイヤーはそこで何をするのか。協調と闘争の間を漂ってそれなりの経済系を構築するか、あるいは失敗国家への道を進んで歩むか。世界が持つ可能性の全てがここには残っています。その意味では、もしかすると本作をシミュレーションゲームと呼ぶこともできるのかもしれません。「『何かの』世界」を真似て遊ぶのではなく、「世界」そのものの抽象的な定義を真似て遊ぶこと。プレイヤーに面白さを保証するために多くのゲームが捨てた世界の欠片。そういうものに興味がある方には、このゲームを強くお勧めしたいと思います。

繰り返しますが、このゲームに柵はありません。事故を厭わない方のみどうぞ。
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by Taiju_SAWADA | 2008-03-23 23:25 | 感想・紹介

イベント・ドリブン

90年代のドイツ物ゲームからは「70-80年代にはもう絶対戻らない」という堅い固い決意を感じて、例えばそれが何に現れているかというとイベントの扱いだったりします。イベントカードの山を出してくるゲームを見るとああ昔だなあという感慨にふけるのは、90年代のドイツがそれをかなり強い態度で忌避していたからなんじゃないかと。実際70年代とか80年代のイベントカードって最悪ゲームの腰を叩き折るようなものだったり、そこまで行かなくても何のために存在するのか全く理解できないようなものだったりしていたのでして、そりゃイベントは敵って発想には当然なるよね俺もなるし。90年代でイベントめいた山札を見る度に起きる反応は失笑。ま当然ですわね。

一方で伝え聞く話によれば90年代のウォーシムではイベントの扱いに関して長足の進歩があったらしく、そういうことを耳にするたびに、あー嫌いなジャンルでも手をつけるくらいのことは本当はしなきゃいけないんだよなー、とちょっと憂鬱になったりしたのでした。結局手は付けないんだけど。先約いっぱいあるし。

さてそんな90年代を通過して。イベントと比較的近しい概念である特殊能力についてはドイツ物も一応縁を切らずにやってきていて、 Ursuppe (1997) あたりを嚆矢として超能力バトルものにもおっかなびっくり手を出したりしつつ、それでもイベントカードとは絶交したままだったわけですが。ドイツ的洗練という方法論の終焉がいよいよもって目の前に迫ってきた感のある2007-2008シーズン、ついに来たかという感じでドイツ系にもイベント・ドリブンがやってきたようです。

Richard Breese は Morgenland なんかを見る限りでは元々そっち系に興味を持っていた人なんじゃないかと思います。今回の Key Harvest は満を持してというところかもしれません。ゲームシステム自体は土地タイルを巡る変則競りで、タイルは袋から乱数引きなので勝ち負けが引き運に極端に左右されるという問題があります。ドイツ的方法論だと、ゲームを軽くするか運の要素を取り除くかという二択になるわけですが、ここで Breese はどちらでもなくイベントを使ってさらにゲームを揺さぶるという選択を行った。競りのゲームである以上に、必ず全員に平等に大量に振ってくる(用意されたイベントは、順序の差はあれその大多数がゲームに登場します)妙な状況にいかに対処するか、というゲームになるわけです。ある意味では Ursuppe の環境カードに近い使い方ではありますが、このゲームを見た後だと Ursuppe はそれでもドイツ的洗練を意識していたんだな、というように見えます。

Key Harvest 自体がこの試みに成功しているか否かはここでは述べません(まだ三人ゲーム一回しかやってないのよー)。しかしこの方法は明らかに汎用性のあるもので(なにしろウォーシムの人には経験があるはずだし)、まあパラダイムの変換というほどのものは無いにしても、方法論の内部改革とその結果としての五年程度の延命には繋がるんじゃないか、という期待は感じさせてくれます。
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by Taiju_SAWADA | 2008-01-21 01:51 | 感想・紹介

テーベの東、または台無しにするということ

今更テーベの東というゲームをやって微妙な気分になったりしたわけですが、あのー、偶にこういう、最後に乱数を持ってきて台無しにしてみました、というようなゲームってありますよね。思いつくのがDorraの「Linie 1」とか。Linie 1は相当露骨かつ唐突にそういうことをしていて、対してテーベではもう少しゲームに組み込んだ形になっていてテーマにも沿ったものになってるという違いはあるにしても、「結局乱数なんですか?」という意味では一緒。ただテーベの台無し感は、 Linie 1 とか Moon の Andromeda とかに比べても際だっていて、こういう台無し感というのは何なんだろうと。

不思議なのは、何でこういう構成にしたんだろうということで、というのは決して「台無しになっちゃいました」じゃなくて「台無しにしてみました」なんです。デザインの中でここだけ浮いているということはつまり、構成力の限界によってこうなってしまったんではなく、入れたくて入れているということです。外したって何の問題もなく成立するんだから。どんだけ浮くと解っていても入れたいという風にしか考えられません。

テーマ上の必要というのは当然あります。テーベは石油掘り(いや遺跡だけど)テーマのゲームなんで、マネジメントの巧拙が必ずしも成功と関連するものではない、それでもマネジメントはちゃんとやるんだ、みたいな。Linie 1で言えば、とにかく何でも良いから俺はトラムを走らせたかったんだ文句あるかと。その表現として行っているという解釈は普通にあるんだけど(Linie 1に関してはその気持ち自体はちょっと解るんだけど)、でもそのテーマをファミリーストラテジーという枠で、それもこの形で表現できるかについては、相当な疑念があります。Linie 1については、ああいう形で提示されると突然双六が始まったとしか言いようがないし、テーベについては2時間の枠内で語らないといけないゲームであるという前提を無視している。緻密なマネジメントというのは会社が長期の存在であるってことが前提であって、2時間の枠内で成功か失敗か決定されるような博打世界なら、緻密なマネジメントなんか全然要らない。

他に何が考えられるかというと、勝敗をぼかすという効果を狙っているという線。巧拙の部分は石油を何回掘りに行けるかで本当は終わっていて、それを勝利点換算すればいいようなもんだとしても、それだと換算の方法を決めるのが難しかったり、もっと根源的には、それで勝敗を出してしまうということ自体にゲーマーの腐臭を感じて抵抗感があり、それでこういうヴェールを一枚噛ませてみたんだ、という意図ですね。サイコロが良かったから勝ったんだ、みたいな逃げが効くような形にしておきたいと。まずは商業的な要請として存在するんだと思いますが、ゲームというのはよく解らない対象の中を模索していくものなんだ、という捉え方を念頭に置けば、デザイナー自体の欲望としても有り得る話です。とはいえヴェールを一枚噛ませることとゲームを解らなくするということは全然違っていて、ヴェールを噛ませて解らなくなるのは単に結果としての勝敗だけであって、ゲームの構造自体は別に解らなくならない、というかむしろ逆効果を生み出しかねません。お馴染みの「結局運げー」です。

いや、それでいいんだよ、むしろそれがいいんだよ、という言い方もあります。競争することだけがゲームの楽しみではなく、むしろシステムは博打、テーマとして模倣、という組み合わせによって楽しみを表現することの方がある意味ではよほど正統なのであって、つまりヴェールを噛ませるのは競争的な部分の複雑性を上げたいということではなくて、ゲームとしての形を整えるために競争を持ち出しただけであってむしろ本当は鬱陶しいからヴェールで何も見えなくしておきたいんだ、運げーにしておきたいんだ、と。実際 Linie 1 はそういう解釈が通るゲームですし、Andromeda も一応そういうことにしておけます。もっと複雑なゲームにだって、「これはゲーマーのための癒しゲーなんだよ」という主張は可能です。

テーベの東というゲームの奇妙なところは、そういう解釈をきっぱりと拒絶している点にあります。そういう解釈が可能であるためには、全体的なテイストを運げーにしておくか、そうでなければ少なくとも競争性の部分は手癖でつくり、独創をサイコロ周りに集中させておかなければならない( Andromeda を出したのはそういう意味です)。ところがこのゲームでは、わざわざ時間経過のシステムを発明してまでマネジメントの面白さを強調しています。普通はこの時間経過システムでゲームを一本つくる筈ですし、実際このゲームもその台無しになるたった一点を除いては、普通に面白いゲームとして組み立てています。だからこそ、このあらゆる解釈を拒む謎のくじ引き袋が何だかやたらと気になるわけです。ほんと何なんでしょうねこれ?
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by Taiju_SAWADA | 2007-09-02 17:59 | 感想・紹介

Sioux スー

[トリックテイキングとバッティングゲームの中間くらいの構造のゲーム。1から11までの11枚を持ってゲーム開始、スタートプレイヤーから順に1枚ずつ出していって最後の2人だけ同時出し。最大値を出したプレイヤーが、二番手との数字の差の分だけポイント。二巡目以降は、前の順で出したカードの大きい順にプレイ(無論最後の2人は同時)。謎のルールとして、トップが二人でバッティングすると、条件によっては勝利点を交換しなければならなくなったり、ある条件で得点すると「連鎖」が起きて他人からさらに勝利点を奪えたりする。...と、とりあえずは説明しておきますが。]

本日の収穫、と簡単に言い切ってしまえれば楽なんですけど。

ドイツには変態トリックテイキングならいくらでもありますが、変態バッティングゲームとなると珍しい。なんでかみんなバッティングゲームは正格で作りたがるみたいで。そんな中に現れた正真正銘のド変態で、しかもこのゲームには変態であることに確固とした意味があります。

冒頭で記述したとおり謎のルールがいっぱいあるんですが、その妙なルールがむしろ意思決定の構造としては焦点をくっきりと見えやすいものにしている、というのが第一の美点です。「どのカードにも一定の意味がある」「どのカードを誰が出したかということが、そのプレイヤーの意図を明確に伝えている」(基本的には、高いカードは得点の主張、低いカードは次の巡目での得点の主張。また、自分の持ってるポイントによってバッティングをしたいか避けたいかが違ってくるので、それによって行動も変化する。あと説明してない特殊な極悪ルールがあって、その絡みも強く影響する)ということが正しく表現されています。

また、ラウンド前半と後半で展開がゆっくりと変わっていき、最後の数手番には最初と全く異なった様相が見えるという点も、起承転結のない単調な読み合いに終始することの多いバッティングゲームとしては大きく評価できます。

これは一つには「バッティング=得点総取り替え」という無謀っぽいルールがきちんと効いているためです。但しそれでも、普通に全員同時プロットとしてしまうと、結局のところ作業が繰り返しに堕してしまう危険は避けられません。といって普通に一枚ずつカードを出していったのではそれこそ変態トリックテイキングゲームの山の中に埋もれてしまいます。

このゲームがどちらの穴にも落ちていないのは、部分的な同時プロットという独自性の強いルールが最大限に生かされているからでしょう。このルールによって実現されているのは、「ターンごとにプレイヤーの立場あるいは役割が目まぐるしく変動し、しかしその変動は数ターンぶんであれば予測が可能である」という効果です。このルールと、前述の大胆な逆転ルールが噛み合わさってこそ、「焦点のはっきりしたコンパクトなカードゲームであるにもかかわらず多様な展開が発生する」、という易々とは行えないようなアクロバットが実現できるのです。

いや、単なるバッティングゲームにここまでの可能性があるものとは全然思ってませんでした。いったんトップが走り出すと止めるのが困難という大きな減点箇所を考慮してなお★★★★クラスの大傑作、と言いたいところなんですがここで問題が一つ。僕が遊んだルールなんですけど、相当にオリジナルルールからの変更が入ってるんですよねー。つまり元のルールが駄目なんでプレイヤーの側で直して直して直して、それでここまで持って行きましたと。どうもオリジナルルールだと(遊んでないので正当な評価じゃないですが)革新性を最大限に評価しても★★★、普通に取ればせいぜい★★〜★★☆くらいまでしかいかなそうな感があります。そうすると名誉は誰が受け取るべきなんでしょうか。というか僕の遊んだゲームに「Sioux」という看板を立てることは可能なんでしょうか。こういう作家論に固執するのは現代人としてはちょっとどうかとは思うんですが、でもボードゲーム業界はやっと作家論が成立する状況になったという段階だしなあ。

Sioux
by Frank Stark
Heidelberger Spieleverlag, 2006
評価保留(本文で示した理由による)
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by Taiju_SAWADA | 2006-09-04 22:03 | 感想・紹介

レビュー未満。

きちんとしたレビューの形に整えようと思って先に草稿だけ書いて内輪向け掲示板にメモしておいたものの、時間がずいぶん経ってしまってゲーム内容をすっかり忘れてしまいすでに整形が不可能となってしまいましたとか。勿体ないのと時間もないししばらくサイトの更新も(まっとうなネタでは)できなさそうなんでいいや上げちゃえ。

そんなわけでレビューの質は低いですが、まあ生きてます通信ということでお目こぼし願いたく。申し訳ない。


「ミケリノス」Ystari
YstariGamesの第三作。前作のケイラスがいかにも新興メーカーの勝負作という解りやすいゲーマーズゲームだったのに対して、最新作はウェルメイドな小品という「お前んとこでそれ出す意味あるのか」と問い詰めたいブツを出してきました。
しかし完成度はかなりのもので、SdJとかDSPとかに普通にノミネートされたり一着取ったりしてても何の違和感も感じないでしょう。ゲーマー向けにウェルメイド志向をアピールする(九十年代前半のファミリーゲームの枠に難易度上は回帰しつつ、そこにゲーマー好みのワンポイントを差し込む)というのは今年のSdJ作品「郵便馬車」と全く同じ方向で、もしかすると最近の流行なのかもしれません。その観点で言えば、実はこっちのほうが「郵便馬車」よりもうまいことゲーマー向けに仕上げています。ルールの単純さは同程度か少し少ないくらいで、その上でカード引きの運に左右される部分を可能な限り抑え技巧で決まりそうな雰囲気を形成しています。逆にSdJ向けという視点で考えると、テーマ的にどうしようもなく乾ききっててあまりにシステムが露骨すぎるんで、うまく主題とルールを合わせている郵便馬車に軍配があがるとも言えますけど。
というわけで面白いです。が、そこに未来があるのか、という話になるとちょっと微妙かなー。テーマ性が無い時点で大向こう受けは期待できないし、このサイズでゲーマー向けならもう少し弾けててほしいんです。良くできてる。実に良くできてる。そこで終わって良いのか? と。まあ高水準のゲームに対してだけ成立する贅沢な批判ですね。
★★★(★★★☆寄り)
※ミケリノスは遊んだのつい最近なんで内容覚えてますが、きちんと書こうとするともう一ゲーム要るなー、でもそこまで待ってたらまた忘れておしまいだなー、というのが書きかけで上げた理由です。

「アウグスブルグ」
Chinatown以来7年ぶりとなるHartwig第二作(と思ってたけど実はその間に共作が一個あったらしい)、は風変わりな要素を用意しつつも総体としてはウェルメイド気味にまとめた競りゲーム。得点要素を積み重ねてラウンド単位で決算、得点要素は持ち越しなので得点は累積的に積重なり、ただし得点要素の数は有限でありなくなったらおしまいではなくて無くなったら他人から奪えるという仕組みがあって油断できません。というのが一つと、もう一個は特徴的な競りの仕組み。同一スートのカードn枚だして最大値比較、という方式ですが、枚数は任意ではなく、全員の意見の一致、というかレイズコール方式で決定されるので、弱いカードいっぱい持ってる人は何枚で勝負すべきか(大きい枚数でレイズすれば確実に勝てるけどもったいない)悩んだりします。
ルールは最小セットではないものの比較的コンパクトにまとめられてるんですが、ただこのゲームはもう少し膨らませてもよかったんではないかと思います(すごい珍しいことをしゃべってる気がする)。カード取ってくるところでどうしても運が強くなっちゃうですが、このゲームの本来ということで言えばもうちょっと操作感が強いほうがいいはず。つまりはゲーマーズゲーム(というほどきつくもないけど)として仕上げようという意図が見えるんで、それなら、ということですね。
でもよいゲームです。
★★★

「テクノウィッチ」
コスモスの昨年末のゲーム。作者はたぶんこれがデビュー作。アナログ距離を使うアナログレースゲームで、要は全然真っすぐ飛ばない方向指示器をなんとか使い分けながら障害物にぶつからないようにちゃんと進みましょう、というものです。
こういうシステムの場合、プレーにストレスをどれくらいかけるか(フラストレーションがたまるレベルまでいっちゃうと問題だけど何もないのもねえ)というのがすべてになるんですが、意思決定(一気に進んで距離を稼ぐかちびちび進むか)を絡めながらうまく作ったなと思うわけです。ちびちび進むのは必要な場合(あります)を除いては、遅いという以上に苛々するんでやりたくない。一気に進むのはフラストレーションをちょっとためてから一気に解放、というかたちになるんで、失敗さえしなければ(障害物にさえ当たらなければ)何処に行こうとそれなりに気分がよろしい。アイデアに対して実装が過不足なく纏まってて実によくできましたという印象を持ちました。
★★★☆。

「郵便馬車」
日本ではついこないだ出た新作。作者はSeyfarthで、つまりは「プエルトリコ」の人ですね。とはいえこのゲームにプエルトリコ的な要素は全くなく、むしろ同作者のもうひとつの代表作「マンハッタン」のつくりに近いです。
都市カードを引いてマップ上をつなげていくという内容で、良くも悪くもクラシカル/ミニマルな印象を与えます。良くも、というのは特殊要素を一切混ぜない思い切りの良さと余計な時間延長要素を加えない清々しさ、悪くもというのは結局引きが悪けりゃどうにもならんじゃない?というファミリーストラテジーの限界をそのまま引きずってるところが。でもまあ無難に誰にでも勧められるゲームなのは間違いありません。
そういう意味では近年のメガヒットTicket to Rideと同趣向と言えますが、個人的には
あれよりこっちのが好きです。いやまあ、Ticket to Rideに比べれば難易度はだいぶ高いですけどね。この二つを似たような物と言い切ってしまうのは何か毒されているかもしれない。
★★★

「ハチエンダ」★★★☆ 面白いです。ちょっとクラシカルすぎる気はしますが。
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by Taiju_SAWADA | 2006-08-31 01:24 | 感想・紹介

手荷物検査 Hart an der Granze

[税関を通して良いものと良くないものが混ぜこぜになって手札にやってくるので、まぜこぜにしてトランクに突っ込んで蓋をして、「俺はテキーラ三本しか詰めてません」(今でも酒三本免税制ってあるんだっけ?)と言い張りましょう、というゲーム。査察官はターンごとに持ち回りで誰か一人が担当。最も怪しそうなところ一人に対してのみ(使い切りのアイテムを使用した場合のみ複数人可)査察を行います。査察を受けた場合、おとなしく没収されるのではなく、査察官に賄賂を払って合意の上で切り抜けてもよし。手札は常に一定枚数になるようにターンごとに補充。全員が三回査察官を担当した所でゲーム終了、より価値の高いものを通した人の勝ち。]

うーん。楽しいか楽しくないかつうと楽しいんですけどー、なんかルールいろいろ無駄なんじゃないのかなー、という気がしないでもありません。というのは別に余計な枝葉がどうとかいつも愚痴ってるようなことではなくて、なんというか、その、ルールの根幹が。

基本的に額面の小さい物埋めても儲けにはならないってのと、額面の高い物埋めるためには額面の高い物引かないといけなくて、で額面の高い物引くためには手札を回さないといけないので、さらに言えば額面の高い物埋めたってペナルティを受けることはそうそう無いし、となれば基本はみんな全勝負ということに流れがちです。あとは開けるほうが誰か(つまり全勝負をかけてるプレイヤーのうちの誰かということですが)に数回連続で放火して牽制をかけることで、一時的にその放火対象のプレイヤーの全勝負を止めることは可能だと思うんですが、問題はそれやってると他のプレイヤーが、【全勝負を基本スタンスとしていないプレイヤーでも】全勝負に流れるでしょう。そうすると、既に放火していて沈んでるプレイヤーに追い打ちをかけるのは、他のプレイヤーを単に利するだけで(他のプレイヤーは一回も沈まないわけですから)あまり良い姿勢であるとは言えない。そうなるとやっぱり全勝負が基本だよなー、となります。特に周りが全勝負となると、一人だけで地味な態度を取るのは何の意味もない。

一人か二人だけ枚数で突出して目立っていると査察を食らうんでそこでルール上の規制がかかっている、というのがデザイナーの意図なんだろうと思いますが(もしかして期待値換算して一人か二人突出の場合はそっちのが不利、とかやってるのかもしれませんが)、ちょっと不十分なんじゃないのかしら。仮にそういう意図だとして、全員全勝負だとやっぱりどうやったって解消はされないし、そうでないとしても高い物が来たら当然埋める訳で、あとは他の物も埋めて枚数を回して査察上等で勝負するか、高いものだけ埋めて枚数を目立たなくしてそのかわり高い物がくる確率の減少は甘受するか、その二択で戦略を決めてあとは山から引き勝負(ともう一個、ゲームの根幹とはあまり関係ないけど得点上は有用な要素があるんでそっちで勝負)、ということになってしまってそれはデザイナーの選択としてどうなのよ。と。

繰り返しますが、楽しい事は間違いなく楽しいんです。箱にカード詰めて差し出して「俺だけは今回真実です」みたいな目の泳がせ方をする瞬間とか。少なくともそういうプリミティブな楽しさがルールによってスポイルされているってことはないんで、最低限の仁義は切ってあるとは言える以上、「それで充分じゃね?」と納得できるならしてもいいんですが。でも僕としてはこのゲームは少し頼りすぎてるという印象を持っています。

Hart an der Grenze
by Andre Zatz and Sergio Halaban
(Estrela, release date unknown, as Jogo da Fronteira)
(Kosmos, 2006)
★★☆
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by Taiju_SAWADA | 2006-07-10 00:36 | 感想・紹介

エグザクティカ Xactika

[ノートランプマストフォローの宣言ジャスト狙い系トリックテイキング。特徴はカードに記載されたスートが複数(12スート存在し、うち4スートが記載)。カード出すときに、そのカードに書かれた四つのスートのうちひとつだけ指定。ルールは以上です。]

結論だけ先に書くと面白かったんですけど、どう面白かったかという話になると説明がしづらくて。一つ言えるのはとにかく解りやすいゲームだということですかね。そもそもトリックテイキングは歴史の古さとかルール自体の構造とか複数の理由により御作法化しがちであり、かつプレー人口の多さとかドイツ人がアレだとかそういう理由により変態化しがちでもあって、結論としてどうなるかというと楽しみ方が込み入りがち。きちんとこうなってああなってそれがどうなるからつまりはそうなるからなるほどこれは確かに最高に素晴らしい、って遠くに行き過ぎです帰ってきてください。無論そこでお前らがこっちまで来いという論を立てる事も可能ではあるんですが、ことトリックテイキングに関して言えばそこまで行くの面倒だし入り口付近で遊んでいたいなあというのが個人的な事情でもあります(別にどのジャンルだって入り口に愉快なアトラクションが置いてあるのがきーわーめーてー大事だってことに変わりはないんですけど)。

さて何が解りやすいかというと、必ずしもルールが解りやすいというわけではなく、いやルールだってトリックテイキング知ってれば全然解りやすい部類だとは思いますがそれでもホイストもブリッジもブラックレディもルールなら十分解りやすいんで、ここで言いたいのは遊びどころ、というか悶えどころ。「このトリックは取れるけど取っていいんだろうか取ったけどこれでよかったのか」「トリックを取ったのでリードなんだけど次のトリックは取りに行くべきだろうか、あるいはここは降りて他人のリードを掬うべきだろうか」「そろそろトリック取れないと展開的に不味いけど取れるのかなあ」「ここでトリック取らされるのは早すぎるんじゃねえのか」「最終トリックは一応負けられそうな(あるいは勝てそうな)カードを残せたけど実際どうなるかは祈るしか無いし」と、まあ宣言ジャストものであればそうあるべきである、というような要素はきちんと一通り【誰にでも解る形で】用意されています。

用意されているだけでなく、あるべき形で用意されている、というところが大事で。つまり、コントロールできそうな部分と祈るしかない部分の配合が正しく行われており、トリックごとの状況の変化が急すぎず緩すぎず、とりわけ、早い段階における突然死ないし勝ち確定がほぼ無いので全員が最終トリック近くまで不安ないし期待を持ちつづけることができます。

ルールとして効いているのは、まず複数スート選択制であることを生かした数値の配分。あるスートは低めの数値に寄っていて別のスートは高めの数値に寄っているので、同じカードでも、勝ちに行きたい使い方と負けに行きたい使い方のどっちにするか悩む事ができます。無論マストフォローの縛りによってカードは変なところで徴発されますし、ノートランプなんで微妙な数値のカードでも結構勝てたり(勝ててしまったり)して、コントロール可能/不能感の演出がされているあたりは如何にも正統的なトリックテイキングちゅうか。当然このあたりのルールが生きているのはジャスト宣言物を選択しているからということでもあります。そして何より大きいのは、同値カード後出し優位の法則。このゲームは同値カードが割と大量にあるんで、トリック数のコントロールのために、リードを取ったけど一旦抜けて後で他人のリードを掬いに行こう、という選択がかなり効きます。逆にこのルールにより、別にそれほど強いわけでもないカードなのに手番の関係でうっかり拾ってしまったり、というナイスな事態も発生するでしょう。

総じて(複数スート選択制というゲームの根幹を除いては)奇を衒うようなルールは排除されており、その上でトリックテイキング標準ルールオプション選択チェックシートの中から全ての分岐で正しい選択肢にマルをつけているなー、という印象を受けました。トリックテイキング特有の技量がどうこうという点に囚われず誰でも楽しく気軽に悶えましょう、という視点で堅く作られたウェルメイドな傑作だと思います。

Xactika
designer unknown
(SET Enterprises, 2002)
★★★☆
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by Taiju_SAWADA | 2006-07-10 00:36 | 感想・紹介

海賊組合 Seeraeuber

[手元には自分の色の海賊チップが五枚並んでいます。それぞれの海賊チップには2とか5とか数字が書かれています。場には30とか9とか大小の数字が書かれた何枚かの客船カードが出ています。手番には、「自分のチップ(が一番上に載ったスタック)を他人のチップ(が一番上に載ったスタック)の上に重ねる」か、「自分のチップが一番上に載ったスタック(単独のチップは禁止)で任意の客船カードを襲う」かの二者択一を行います。スタックをカードの上に載せるとそのカードを取る事ができて数字の分だけ得点になりますが、スタックに含まれている他プレイヤーのチップの数字のぶんだけ、それぞれの他プレイヤーに報酬として得点を支払わないといけません。清算が終わったらスタックはバラします。客船カードが無くなった時点で一番得点の多い人の勝ち。さてどんなゲームでしょう。1996年作品のリメイク。]

正統派の競りゲームというのはKniziaが九十年代前半5年足らずの間に全部の可能性を掘り起こしてしまったかのような感があり、そうするとその後からできることというのはその研究成果を使って重厚なゲーマーズゲームを仕立ててみるか、あるいは非正統的な変態競りゲームに新天地を見るか、ということになります。これは別に悪い事では全くなく、そのおかげで競りという行為に含まれる様々な側面を見たり様々な行為に競り性を見いだす事ができるようになったわけですから。

という前段のもとにこのゲーム。これは正に、一見すると競りに見えない行為に競り性を見いだす類の変態競りゲーム、それもかなりの変態と言ってよろしいかと思います。正直なところルール聞いただけでは(さらに言えば、始まって最初の一二手番を通過するくらいまでは)何のゲームなのか全く解りませんでした。基本的には「一手番回ってまだ最高値だったら落札資格あり」「ビッド対象同時複数」「展開によっては落とそうと思ってたビッド対象が先に落とされてしまっていて涙をのむ事あり(つっても劣化した商品を無理矢理買わされることは殆どないんで一安心とは言えます)」という(あれどっかで聞いた事あるぞっつうか作った事ある気がする)内容で、それだけでも十分に変質者気味ではあるんですけど、それ以上に提示の方法が特殊です。

「手元にある自分のチップ(正確には、自分のチップが一番上に載っているスタック)を、他人のチップ(が一番上に載ったスタック)の上に載せる」。これを行うと、スタック内の他人のチップに書かれた数値の総和を、自分がビッドしたことになります。自分も他人もチップの数は有限なので、いつまでも競りが決まらないと、だんだんビッドに使えるチップというかスタックの総和が減っていき、スタックの一本あたりの高さは上がっていって、行動に身動きが取れなくなっていきます。で、しょうがないからどっちかが降りる、と。いまは最初から競りゲームとして説明してるのである程度把握できるかもしれませんが、前情報無しにルールを眺めると何のことだか全く解りません。海賊チップを載せる? 報酬を支払う? はあ?

で、ゲームの途中で理解できる瞬間があって、その後で改めて眺めると、いろいろと気の利いたルールだなー、と感心することになります。どちらかというと競りゲームにおいてはその勘所を競り対象物のプライシングおよびまたはプライス操作に置くのが多数派だと思いますが、このゲームではそっちは最初から割と明瞭になっていて(いくらかプライシング要素もあることはありますが)、要点は(これまでの説明でわかるように)ビッドの制限となっています。制限といってもかけかたはいろいろありますが、このゲームで重要なのは「ビッドの履歴」です。具体的なルールとしては「競りに勝ったら、負けた他人に、その他人が積んでいたチップ分の報酬を支払う」というところ。

同時に複数の客船(競り対象物)が存在していてそれぞれの客船の価値は異なっているので、どのスタックへのビッドがどの対象物へのビッドを意味する事になるのか、だんだんと何となく決まっていきます。高いスタックは高い客船へ、ということですね(最初から決まっている訳じゃなく、最後まで決めずに通せる訳でもないというのが素敵なところ)。そしてさっきのルールのために、何となくスタックと対象客船との関係が決まりだした頃には、それまでにどのスタックに(ということはどの客船にということでもあります)ビッドを出していたかによって、その後のビッドの有利不利があっさりと決まってしまっているのです。要はオーバービッドを食らえば食らうほど(あるいは、オーバービッドをかければかけるほど)そのスタックにおいて有利になる。でも「そのスタック」が「どの対象物」を指差した競りなのかは、いざ有利不利が決まってからじゃないとクリアにならない。じゃあどうするの? 当然それは予測と操作ということになるでしょう。つまりそういうゲームだったのです。

と宣告された瞬間と、その後に続く「確かにそうなってる!」という感嘆。リメイクですがこれがSdJでも僕は何の文句もありません。

Seeraeuber
by Stefan Dorra
(ASS, 1996 as Safeknacker)
(Queen Games, 2006)
★★★☆
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by Taiju_SAWADA | 2006-06-28 23:34 | 感想・紹介

オイそれは俺の魚だぜ Hey! That's My Fish!

[ヘクスタイルが六十枚くらい。それぞれのタイルには魚が一匹から三匹まで書かれています。これを適当にくっつけてマップにして、各自自分のペンギン駒を置いてゲームスタート。手番には、自分のペンギンを直線で動かせるところまで(マップのへりとかほかの駒にぶつかる直前まで)動かしてから、もといた場所のタイルを取り去り、これに書かれた魚を自分の得点とします。全員動けなくなったらおしまい、得点の多い人の勝ち。2003年の「Pingvinas」のリメイク。]

「テーマ的にもシステム的にもどうしたってNanuuk(G.Cornett / Bambus, 1998)を思い起こさざるを得ないつくりですが、しかしこっちのが数段洗練されてます」という書き出しを考えた後で作者とメーカー確認したらCornettでBambusじゃないすか共作だけど。そーかそーか諦めきれなかったんだねあのシステム(とテーマ)を。俺もあれは何か惜しいと思ってた。

といってもNanuuk自体マイナーなゲームなんで概要をおさらいしておきましょう。ハンターが北極でヘクスマップに散らばったなんやかやの獲物を取得しつつおうちにかえる、というゲームで、ハンターが一歩あるくごとに、元いたマスにつながる通路の一部が遮断されます、というのがゲームのポイント。すごーく似てるでしょ。Nanuukが駄目なのは悪い意味で地味だってことで、ハンターはいっぺんに一歩しか動けないし通路の遮断も徐々にしか行われないしってんで、展望の開け方がとにかくもっさりしてるんです。遊んでるうちにあーなんとなくこーゆー結末を迎えそうですねー、でだんだん輪郭がはっきりしてきて、10分後にはあーやっぱりそーなりましたかー。と。

このゲームではその問題にはっきりとした反省がみえていて、具体的にはプレイヤー駒は直線で遮蔽物に当たるまで自動で進みますし、駒の数も一人複数個持ち、さらに大きな点として、移動が行われたら元いたマスは直ちに全面的に移動禁止になります。このルールが何を意味しているのかというと、これは偏に一手番ごとにかなりドラスティックに局面が変わるということであって、ということはたった今行ったアクションの正否が、早ければ次の手番、遅くともその次の手番には致命的な結果となって現れます(逆に言うと、二手番かかって致命的な結果にならなかったのであれば、問題はなかったものと見なせます)。何をやったか覚えているうちに結果が出るというのが重要なところで、これが空気の茫洋を防いでいます。

あと副次的な効果として、手読みがかなり難しくなっています。一手番くらいはみんな読みますが、二手番読むのはかなりの努力が必要で(しかも無駄になることも多く)、それ以上になると完全に無駄な努力という。これは前段の行動→結果のレスポンスタイムと絶妙にマッチしていて、つまり二手番ぎりぎり読めるかなやっぱ無理かなというあたりの行為を要求していて結果も二手番先ですから、これはちょうど自分の読み(をやったとして、ですが)との答え合わせが常にできることになります。そしてこの面倒な手読みをさぼることもできて、その場合でも半分くらいは問題なく通り、といっていつもさぼっていると必ずどこかでどうしようもない結果に陥る事になります。

そしてうっかりどうしようもない結果に陥った場合の処理なんですが、ほぼそのまま終了します。というのは、ゲーム時間がとにかく短いんですね。なんかやらかしたら即負け内定、で3分後から5分後には正式にゲームセット。この残酷かつ後を引かない爽やかなテンポがとても効いていて、これがあるがために「油断して歩いていたらいきなり死亡」という恐ろしいゲームデザインが平気で許されている訳です。


知恵熱風にも気楽にも遊べる軽量級の傑作。ぜひどうぞ。

Hey! That's My Fish!
by Guenter Cornett and Alvydas Jakeliunas
(Bambus, 2003 as Pingvinas)
(Phalanx, 2005)
★★★☆

※メーカーのスペル間違ってたので修正しました恥ずかしー。あと実はルールも違うという説が濃厚というか少なくともBambusに載ってる英文見る限りでは間違ってる。「直線でぶつかるところまで自動」じゃなくて「直線でぶつかるところまで任意」ですね。ということで上記レビューは取り消しになる可能性が高いです。
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by Taiju_SAWADA | 2006-06-28 23:33 | 感想・紹介