カテゴリ:うわごと( 43 )

N質

(追記有り / 8月25日)

TGIW経由で。ちゅかmutronixの人じゃん。なんで気づかなかったんだろ? Twitterばっか観てたからかな。

See → http://sanjuan.g.hatena.ne.jp/mutronix/20090731/p2

でまあ、昔から100質とか好きな子だったんで。


* 新作追っかけの是非

新旧関わらず、遊ぶ必要があるゲームだったかどうかは遊んでみるまではわかんないのです。いや事前情報で取捨選択はするですが、しかしその事前フィルタリングで間違えて落っことした傑作がいくつもあってですねー。
逆に言うと、もう遊んじゃったゲームというのは、それが何であるか大抵の場合は解っている以上、なんというか、割とどうでもいいものだとも言えます。

(追記@8月25日)
金持ってんなら落とそうぜヘイ、というのは普通にあるんですが、この問いに対する理由として持ち出したいとは思わんです。「進化」、つうほうが近いんですが、でまた実際にモノポリーと1990年代以降のゲームを比較した場合には進歩してるとも思うんですけど、見たいのは遅れてる/進んでるという一次元的な話じゃなくて、ゲームにできることの範囲を拡げるような、今までと違う物、なのです。新旧は関係ないとも言えるし、新作のほうが旧作よりこの観点では有利とも言える。尤も一方では、マーケットに媚びきった百の「新作」の表層を舐め続けるのが新しさの追求となんか関係有るのか、とも言えるのです。とはいえ目の前にある謎の箱が屑か宝かは開けてみないとわからんので、というところで設問への回答に続きます。
方法についてはそれぞれのひとがそれぞれに持ってるはずのもので、新作を買わないというだけで趣味から退場ってことは全くありません(それはそれとしてお金は落としましょうね)。ただ、いま居る場所の先にあるものとか、別の道にあるものとか、そういうものに関心がない/なくなっているのなら、それは趣味から既に退場しているんじゃないかと。


* ネットに攻略情報を書くことの是非

別に(どうでも)いんじゃね? 論点が想像できないのでパス。


* ネットに否定的な見解を書くことの是非

是非も何も大量に書いておりますがな。このことが問題とされうるのは専ら商業的な理由によるものだと思いますが、別に気にするこたないんすよそんなの。見当外れなとこから否定的なこと書いて商業的な悪影響を及ぼすので害悪、って話なんでしょうけども、それは問題の所在を見誤っていて、害悪なのは「否定的なこと書いて」の部分じゃなくて「見当外れなとこから」の部分です。見当外れな肯定的記事だって同様に害悪ですよ実際。あとは細かい問題として、なんか断定的に書いてあると前提としての「I think」を無視して読んじゃう、って人も確かにいますが、これはそう読むほうが悪い。


* ブログの利用、プレイログを何だと思っているか

これだけだと表現形式のひとつとしか。プレイログを通じてあらわしたいものは棋譜である場合もあるでしょうし、攻略過程であることもあるでしょうし、批評であることもあるでしょう。「ブログの利用」となると更に広すぎてもう何も言えません。問われているのが「ブログとは何か」ということであれば、飯野賢治とかが始めたブログ団体に関して何か楽しげな議論のようなものがあったような気もしますが、そういうことでもないんでしょうし。


* ボドゲは文化だと思っているか。思っているときの「文化」の定義

過去のエントリで散々触れているとおり、小説や音楽や以下略と同様にアート・フォームの一種だと思っています。エントリを一つ挙げるならこれかな? → http://toccobushi.exblog.jp/6679128/


* ボドゲが流行したほうがいいと思っているのか、思っているならどういう未来が理想か、誰が何をすればその未来に近づくのか

まずもって相当に人を選ぶマゾ趣味であって、あと個人的にこの趣味に対する誤解があったまま広まって欲しくはないってこともあり、素直に「流行したほうがいい」とは言いづらいです。ただ、この趣味が合う人とか、趣味になるとまでは言わなくても時折なんかの機会には触れてもいいよって人は今の分布とは全く無関係に薄く広く偏在してると思うので、そういう人がそういう時に手にするのが人生ゲームとかウノみたいなどうしようもないものではなく、例えばカタンやコロレットであってくれればいいな、と。誰が何をすれば…ってのは、今となっては回答するのは立場上難しいです。これについては何か喋るのではなく何かすることで示さんといかんよね、ということで。


* 日本のメーカは頑張るべきか

これも立場上回答が難しいですが、できれば焼畑農業は止めて欲しいなー、とは思います。変な灰が降ってくるから。それ以上のことは何も。


* 未プr…もとい、Web上での情報交換のあるべき姿

過去のエントリで触れてます。 → http://toccobushi.exblog.jp/7147797/


* 自分の趣味の本質はなんだと思っているか

自分の、というより一般論として、 fandom is a way of life, ってくらいのとこまで突っ込まないと趣味とは言えませんことよ。と思っているので、趣味を作りましょう的な言説には強烈な違和感があります。
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by Taiju_SAWADA | 2009-08-17 01:43 | うわごと

触れる幻想ところによりディリュージョン

テレビゲームの偉人であるところの宮本茂は「さわれる映像」という名言を残していて(※)、ほんとテレビゲームってそういうものだよねと思うわけで、ここでは割と意図的にボードゲームをそういうのとは違う領域にあるものとして扱っていたのですが、実際のところ商業的な領域ではボードゲームにしても当然のように触れる映像的な部分が最も重要になります(映像じゃないけどね)。

それだったらメルクリンとかボトルシップとかミニチュアとか良い物がいっぱいあるよというのが「個人的な」感想ではあってあんまり興味もないんですけども、とはいえこの領域でもボードゲームには確かに「触れる」という部分に優位性があります。インタラクティビティの中でストーリーを進めることができる、というのは、テレビゲームが映画で代替できないのと同様に、ガンプラでは代用できない何かではあるのです。

ただテレビゲームならそれでいいんですが、この観点を取った場合のボードゲームには残念なことに致命的な欠陥があります。というのは、ボードゲームのインタラクティビティというのは、本物のインタラクティビティなんです。

本物のインタラクティビティの何が悪いかって、コントロールがそうそう効かないことで、プレイヤーの妄想を都合良く叶えてはくれないんですね。いま必要なのは自分のストーリーを進めたり補強したりする手段としてのインタラクティビティであって、生々しい他者ではないんです。

(そこいくとテレビゲームはオンラインだったり対戦だったりしない限りは作者がプレイヤーひとりひとりに対して提供するものなので、基本的には全てのインタラクティビティをプレイヤーに奉仕するためにデザインすることができます。)

例を挙げれば、たとえばエルフの王子が国中を旅することで他の王子との競争に打ち克って見事に次の王となるのでした、みたいな一大叙事詩を描くにしても、これをボードゲームにしちゃうと、かなりスラップスティック気味にみっともない争いを繰り広げた挙げ句、六人のうち五人は競争に敗れてどこかに去るってことになります。そりゃこれだって立派な一つの触れるストーリーではありますけれども、プレイヤーの当初の期待とは随分違うものでしょう。

二人ゲームならシンプルに相手より強ければ勝てるし実力イーブンでも五割は勝てるというのでマルチゲームよりは幾分ましですが、それにしたって友情は全カット・努力・相手を踏みつぶして勝利!という超絶マッチョなストーリーしか表現できず、それも実は本気で勝利を目指して最善を尽くすためには相手を踏みつぶすのとは微妙に異なるせこいルートを通らねばならんので思ってたのとなんか違うなー、という結果が容易に出現します。

近年、インタラクションをぼかしてみたり、あるいはもっと直裁に協力ゲームにしてみたりという傾向が強まっていますが、これは上記のような背景による商業的な要請と考えられます。ただインタラクションをぼかしたところで根本的な勝ち負けのところまではどうしようもないんで、最終的には商業デザイナーは協力ゲーム(的なもの)となんとかして向き合っていかないといけない、ということになるんじゃないでしょうか。問題は、我々は未だ協力ゲームのためのインタラクションを発明したとは言えない状態にあるってことですが…それともそんなもん発明するより適当に誤魔化してったほうがプレイヤーには幸せなんでしょうかね?

(※元は講演での発言らしいですが、出典確認できませんでした。活字では2003年「ファミリーコンピュータ 1983-1994」のインタビュー記事のタイトルが「『触れる映像』を目指して」となってます。ただ、インタビュー自体には、意味内容としてそういうことは喋ってますが、それそのものの発言はありません。2003年時点で既に有名な言葉だったということですね)
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by Taiju_SAWADA | 2009-08-09 23:24 | うわごと

Fandom is a way of life.

SFファンの世界には fandom is a way of life という言葉がある、とどこだかで読んで。あー確かに凄いもんねえSFの人たち、まあ俺には関係ないわけです、と素通りしたり。あるいは学校のゼミで後輩がコミケのスタッフやってていつも忙しそうにしてるのを眺めてはいやあ fandom is a way of life, たまにウェブサイト更新するだけのわたくしと違って引き返せないようなとこまで踏み込んでおりますなあ、と面白がっていたんです。が。

なんか気がつくと、昔から見てたウェブサイトの人だったりゲーム遊んでた知り合いの人だったりがそれぞれみなさん何だかのっぴきならないことになってて、ううむこれは何かただならぬことに事態が進行しつつあるのではないか、どうしたもんかねえ、と呟いて後ろを振り向くとそこにはもうあまりにもべったべたなお約束、バット持った仮面の男が凶悪な笑いを浮かべて曰く。

Fandom is a way of life.

頭部をぶっ叩かれて気がつくと足首を掴まれ引き摺られつつ、お読みの皆様にご忠告申し上げますが、ちょっとした暇つぶしーとか言って趣味のブログを立ち上げたりしてると後でえらい素敵な目に遭わされちゃったりするかもしんないっすよ。その言葉の重さを噛み締める頃には大概もう手遅れなんですがね。

まあそれはそれで一つのきっとたぶん素敵な人生。しらねえけど。
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by Taiju_SAWADA | 2009-02-23 22:48 | うわごと

我々は市場である。だが。しかし。

モノポリーのボードなどを眺めておりまして、昔の人はなんでやたらとぐるぐる回るばかりのゲームばっか作ったり遊んだりしてたんだろうねえ、ゲームと言えば回さないといけないものとか法律できまってたのかな、頭が溶けてバターになっちゃったりしないのかしら、とか物思いにふけっておったのですが、ふと我に返って2008年、あたりを見回してみますとこれがまあ見事なまでのバター・プロダクツ。ゲームと言えば手持ちの人形駒をあっちゃこっちゃに派遣するものか、あるいは特殊能力で都市を育てるものか。それ以外の制作は律令により禁止、みたいな。

作った人にとってはね、どれにしたって偉大なる前進だったんだろうと思うのです。モノポリーは当然として、ヘクスマップもトレーディングもエリアマジョリティもアクションポイントも無論ワーカープレースメントも。俺(または俺等)は前に進めるのでございます、同じ所の周りをぐるぐる回っているだけの能無しではないのです。ほれこれが証拠に。っていう。そして密室を抜け出した先にはまた別の密室ががが。永遠に続くバター。

デザイナーにも責任は当然あって、面白げな枠組ができたら使ってみたいというのはとりあえず人情で、気がついたらその枠組みに縛られてるという。でもそれは割と些細なことで、というのはデザイナーは結構流行に対しては飽きっぽいものだし、別に大概の人はプロフェッショナルな作家じゃないから同じ物を書き続けて糊口をしのぐ必要も無いんで。じゃあ問題はというと、同じ物を出し続けて糊口をしのぐ必要のある人々ということになりますわね。つまりはメーカーです。

メーカーは食わなければいけないので市場というものを眺めては売れそうなネタを拾ってきてなんか作って出すと。ところで市場って何ですか、という話なんですが、今わたくしたちが問題にしないといけないのは昔のモノポリーに相当するもの、たとえばトイバーが捕らわれていたことでお馴染みの開拓農場だったり、永遠に増殖を続けてはトンメルホーファー氏のお戯れの資金を提供するフランスの城塞都市だったり、ではありません。別にいいんですそんなの。だいたいバター現象が発生してるわけでもなし。

ワーカープレースメントの周りを進歩もなくぐるぐる回るだけの虚け者は誰かといえば、そりゃ勿論我々ですね。我々は市場である。嗚呼。全世界合わせてせいぜい数万いればいいだろうという程度のくっそ狭いコミューンにもかかわらず、我々は一人一人の顔も見えないマスなのでした。数万しかいないので大きい鉱脈が埋まってるはずもなく、しかしとりあえず分かりやすいものを放り込めば分かりやすい均一化された反応が戻ってくる市場ではあるので、ちっこいメーカーが二千だか五千だかの釣り糸を垂らしてはBloombergのスクリーン経由で結果を眺めると。
(追記:あ、Bloombergじゃないすね。なんだっけほら。あのBで始まって、情報がいっぱい載ってるネットワークな、格付けとかを拾うためにみんなが見てる、あれ)

モノポリーなら。モノポリーなら仕方ない。だって相手は数千万なり数億だもの。そんなもの市場としか呼びようがない。でもここにいるのは五千か一万。参画できる楽しげなアクティビティだっていくらでも残ってるし、声をあげればデザイナーにもメーカーにも届く。いや、別に届かせなくても、声を持ってる一人一人でありさえすればそれでいいのだけれど。それでも市場であることに安住していたいということなら、俺等にはルーチンワークのワーカープレースメントですら勿体ない。ボードの縁をぐるぐる回ってれば十分。違います?
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by Taiju_SAWADA | 2008-12-25 02:09 | うわごと

保証された面白さは素晴らしいことだろうか

* 1 *

「ドミニオンは最高ですよ。特殊能力満載のアメリカ的フェティシズムに全面的に乗っかりつつ、一回のゲームに実際に登場する能力は10種類しかないし全能力完全公開だからファーストプレーでも十分に全貌を把握できる。そもそもゲームの根幹にあるのは生産力を得点に変換する仕掛け所の見極めって感じで、むしろオールドスクールな欧州系のゲーム理論的相互作用を使ってドライブするゲームだから、どっち方面のうるさ型への対応も万全。そんでもってワンゲーム45分、ルールは極シンプル。8歳以上向けって書いてあるしね。研究はいくらでも効くだろうけどマルチプレーでお馴染みの漁夫の利風なアレとか何なら運の悪さに叩き潰されて負けることだって普通にあるから、そこに色んな鬱屈を押しつけることもできてとりあえず誰も傷つかない。さっきオールドスクールって言ったけど勿論このメカニズムをボードゲーム、まあカードゲームだけどね、に持ってきたことの根本的な、そう小手先のじゃなくて根本的な、新しさについては誰も否定できないでしょう。誰でも満足、あらゆる面で完璧。違う?」
「いやもう全くその通りとしか」
「じゃ何が不満なの?」
「そのこと自体が。銀の匙を銜えて産まれてきたゲームだよねこれ。最初から、言い換えれば俺等プレーヤーが遊ぶ前から完璧な訳でしょ? 別に俺等要らないじゃん」


* 2 *

「面白いか詰まらないか解らないところが素晴らしいと思います!」

あるゲームについてこういう感想を述べたことがある。珍しく我ながら上手いことを言ったものだとご満悦だったのだけれど、感想を聞く側の人の受けは今ひとつよろしくなく、なんか煙に巻いたみたいに思われた。これは別に何かのレトリックを含んだ感想ではなく解釈としてはそのまま文字の通りで、私はそのゲームについて直ちには面白いものであるか詰まらない物か判断することができなかった。そして「面白いか詰まらないか解らない」ゲームを作り仰せたデザイナーには、無条件の賞賛を浴びる権利がある。「面白いか詰まらないか解らない」という状況はそれ自体が面白いものなのだし、そのようなゲームを作るのはとても難しいことだからだ。


* 3a *

Greg Costikyan が Chris Crawford を引いて曰く:

Chris Crawfordは、その著書"The Art of Comper Game Design" の中で、彼が呼ぶところの「ゲーム」と「パズル」を比較して、次のように述べている。パズルは静的である。パズルが提供するものは、論理的な構造体だ。「プレーヤー」は、手掛かりをもとに、この構造体を解決しようとする。これに対して、「ゲーム」は静的ではない。ゲームはプレーヤーの行動によって変化する。

【"I Have No Words & I Must Design" (http://www.costik.com/nowords.html), 邦訳は「馬場秀和ライブラリ」内に掲載 (http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html)】

その Crawford は以下のようにも述べている:

ゲームは、他のいろいろなものを取り込むことができるのと同じように、パズルをその一部として取り込むことができる。ほとんどの場合、パズルはゲーム全体の中のほんの一部である。パズルに重きをおいているゲームは、そのパズルがいったん解かれてしまうとその価値を失ってしまうだろう。

【"The Art of Computer Game Design" Chapter 1 (http://www.vancouver.wsu.edu/fac/peabody/game-book/Coverpage.html), 邦訳は "Scoops RPG" 内に掲載 (http://www.scoopsrpg.com/contents/special/acgd/Coverpagej.html)】

ところで、知的遊戯の面白さは、メタレベルのパズルを解く面白さとして捉えることが可能なのではないか。


* 3b *

もう一度佐藤亜紀を引用。この文章便利すぎる。

作品は、何よりまず表現者と享受者の遊技的な闘争の場であり、副次的には享受者間の遊技的な闘争の場でもあります。(中略)たとえばレオナルドを前にする時、享受者は同時に、自分より前にこの絵を見た人々を意識せざるを得ないーー彼らの美的判断と競っている自分を意識せざるを得ない。無数の、名も知れない愛好家から美術史の大家に至るまでの享受者の判断と、自分の判断を突き合わせ、目の前のタブローそのものと同時に、タブローに加えられてきた注釈と判断をも、再評価せざるを得ない。歴史的文脈に敏感な人なら、その時、一枚のタブローの享受の歴史の中に自分の享受を位置付ける体験をするでしょうし、思想的な文脈に敏感な人なら、支配的集団によって作られてきた価値の体系と、自分自身のアイデンティティからくる判断とが突き合わされ、同化にせよ対立にせよ、あるいはある種の超克にせよ、何らかの関係が結ばれるのを見ることになるでしょう。その上で、享受者は歴史的・社会的に競り勝たなければならない。同意するにせよ反発するにせよ乗り越えるにせよ、かつて為されてきた評価、今為されつつあるであろう評価を踏まえた上に(その中には、かつてそのタブローを前にしたときの自分自身の評価も含まれます)、他ならぬ今、この場における整合性のある判断を成立させなければなりません。

【「小説のストラテジー」青土社】


* 3c *

例えばチェスは2人完全情報ゲームなので、理論的には両者最善を取ることによって先手勝ちか後手勝ちか引き分けかを決めることができます。その状態まで行ってしまうとこれは最早ゲームではなく、つまりこれが「パズルとしてのゲームが解かれた」状態になります。「解かれていない」状態でないとゲームとして遊ぶことができないわけですけど、じゃ一方でその状態が遊ぶことによって変化しないのがいいかというと、果たして永遠に誰も解くことに向かって前進することのできないパズルが面白いのかって話で、解かれていない状態から解かれる状態に向かって前進ときに後退する、その過程の中にパズルないしパズルとしてのゲームの面白さがあります。あることにしましょう。

ここで考えたいのは、「チェス」自体ではなく「チェスを遊ぶこと」についても、これをゲーム=「遊技的な闘争」として捉えることが可能なのではないか、ということです。対象となるゲームについて、あらゆる文脈から鑑賞を行い、結論に近づくこと。無論この場合、何か単一の結論が一般的に存在するわけではないので、厳密な意味では「解かれた」という状態は存在しない訳ですけれども、「俺的にはもう評価は揺らがない」という状態に実際になってしまえば、それでゲームとしての鑑賞はおしまいとなります。もっとも「真に揺らがなくなった状態」と「揺らがなくなったと思いこんだ状態」は分けて考えなければならず、にもかかわらず実際には区別を行えないという問題はあるんですが。

ゲームを遊ぶことをこのように捉え直すと、「パズルとしてのゲーム鑑賞行為」は、「そのゲームのことが解らない状態」から「そのゲームについて鑑賞者としての結論を出した状態」に移行する過程を指すことになります。この立場からなら明確に言えるのですが、『あらゆる意味で完璧。誰にとっても面白いことが解りきっている』ゲームの何が面白くないかというと、ゲーム鑑賞行為の対象物として面白くないわけです。遊ぶ側が結論を出すまでの過程が短すぎる。まあ極度に程度の高い鑑賞者であれば、作り手が想定しているものとは全く別でかつ有意義なパラダイムを持ち出してきて全てを引っ繰り返すことも可能なのかもしれませんし、鑑賞行為というメタ視点をそもそも持たないプレーヤーならばゲームの内部にきちんと正しく耽溺できるでしょうが、しかし純プレーヤーとしての視点とメタプレーヤーとしての視点を何となく併せ持っている普通のプレーヤーにとっては、「もう面白いことは解っているので遊ぶ必要すらない」という所に容易に行き着いてしまう。面白さが保証されていることは必ずしも良いことではないんじゃないかと思うのです。
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by Taiju_SAWADA | 2008-11-17 00:58 | うわごと

裏紙を複写しました:無論お祭りは好きです

プロレスは...好きかな、どうかな。DVDで借りた"マッスル"は面白かったけど。
候補作に禄に触れてないまま大賞が決まってしまってすっごいがっかり。
だって6月は忙しかったんだもん。ウェブログ更新だって出張先からやってたんだもん。
せめてお喋りくらいには参加したい。ということで。

(前略)

みんな今でも「ゲーム好きとしてはSdJよりDSPのが」とか言ってるのかな。ほんとに心から?
2000年以降でDSPがはっきりした「ゲーマーの見識」を示せたことってそうないと思うなー。
ケイラス郵便馬車Antikeと並べた2006年くらいじゃない? 
でもこの年はSdJだって郵便馬車に出してるんだから十二分だよね。
2005年なんてルイ14世だし。もう誰もあのゲーム憶えてないじゃん。
ナイアガラに出したSdJのが余程きちんと見てる。
2007年だって...この話は昨日したからいいか。
SdJが駄目でDSPがまともだった年って2002年だけじゃないかなー。
それだってSdJを一方的に責めるのは可哀想な面もあったし。
DSPは目を瞑ったって間違えようが無いけど、さすがにSdJはプエルトリコ選べないでしょう。

ん? 当然SdJ派ですが。
いや、ランク圏内からTaluva落としやがったことをまだ恨んでるとかそういうことじゃなくて。
ほんとだって。それ言ったらアンチSdJ派だって1999年のこと根に持ってるだけじゃないの?
大体さあ...

(後略)
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by Taiju_SAWADA | 2008-07-07 01:22 | うわごと

偽ゲーマーズ

プレーしてる間は楽しいんだけど終わった後ですっごく微妙な気分になるゲーム、というのがあります。正確に言うとプレーの前、ルール説明を聞いている瞬間からちょっと複雑な感情を覚えて、あとプレー中にしても楽しさとは別の何かが。何についての話かというと具体例としては Rieneck のキューバとか大聖堂(は共作ですが)とか。いや、便利なんですよこの二つのゲーム。ゲームがほぼ破綻しない構造になってるから安心できますし、意思決定ポイントもあちこちに分散してたくさん用意されてるので何か遊んだような感覚が容易に得られ(逆に疲れてるときには適当な手を指してもとりあえずゲームは進み)、さらには何か新しげなメカニズムまで用意されてる。いったい何が不満なのかと。

何が不満なのかと言えば、そのこと自体が不満なのですね。この種のゲームはあまりに安全すぎる。勿論大聖堂といえば最早業界トップメーカーと呼んでも構わないだろう KOSMOS の勝負作かつ原作モノなので、万一にもユーザの不興を買ってはいけないという事情はわかります。しかし問題は、このゲームはそもそも中心ユーザとして準一般層ではなくファン層を念頭に置いているということです。事実として大聖堂が取った賞は SdJ ではなく DSP なのでして。キューバに至っては Eggert という冒険が許されるメーカーからの出版でありながら大聖堂と同様の安全設計。

では安全設計の何が嫌なのか。これは立場を変えて、「ゲーマー」向けに安全設計のゲームを作るデザイナー、という状況を考えてみれば大変解りやすいのですが、つまりここには、「ゲーマー」という層に対して、安全設計でゲームを作らないとろくな事にならんだろう、という判断があるって事なんですね。安全設計でゲームを作るというのは言い換えれば、ゲームから多様性を剥ぎ取る、少なくとも逸脱の結果が読み切れないような枝についてはこれを刈り落としていく、ということです。

それで残るのは何か。結果の予測できる意思決定、どこかで見かけたことがあるから安心して進んでいける展開。そして大量の手続きと、場合によっては物珍しいメカニズムです。大量の手続きを捌くためには過去の類型を参照できるだけの知識なり経験なりが必要となりますから必然としてゲームは「ゲーマー」向けのものとなり、また物珍しいメカニズムによって、一種の批評的成功をも勝ち取ることができます。物珍しいメカニズムと物珍しい意思決定がここでは等号で結ばれないことに注意しましょう。メカニズムは意思決定のためのものではなくギミックとして用いられます。

これだけ親切に囲ってくれれば、それは面白くならない訳がない。と同時に、不愉快にならないはずもありません。プレイヤーがデザイナーに全く信頼されていないという明瞭なサインを手番ごとに受け取るようなものですから。「ゲーマー」というのはその程度の人種でしかないのだという諦念がなければ、このような設計は選べないでしょう。ゲームの構造に対する理解を欠いているかゲームを運用する能力を持たない人々を対象として作られた、危険な場所には立ち入らせないアトラクション。どれだけルールが複雑な造形をしていようと、これらは(鉤括弧無しの)ゲーマーズゲームではありません。

問題は、これが必ずしもデザイナーの側の非によるものではないということでしょう。こういうことについて過剰に苛立たしく思えるのは、原因の少なくとも一部がこちらにあることに自覚があるからです。掛け値無しのゲーマーズゲーム、例えば少し前に挙げた Container は正しく相当すると思いますが、これを我々が常に遊びこなせるか(遊びこなせているか)どうか。そう考えれば、我々の元に届けられるものの多くが偽ゲーマーズゲームでしかないのも仕方のないことです。手元の事実を突き合わせれば確かに、我々はどうもその程度でしかないらしい。

俺は違う、と言いたくはなります。なりましょう。でもそれも結局、ねえ?
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by Taiju_SAWADA | 2008-07-06 02:11 | うわごと

価格の設定とルールの公開について

重力についていくつか評を頂いていて、まあゲームの内容自体については、既にルールとヴァリアントと(ヴァリアントがルールに入ってなかったのは、その、ごめんなさい)前口上で概ねこちらからご返答すべきこととしては充分足りてるかなと思うわけですが(※)、価格とルール公開について疑義のある方がいらっしゃるようで、この話は割といろんな方向に面白い内容を含んでいる気がするので、記事にしてみようと思います。

(※いまのところ見かけてませんが、もし「あんだけ『テーベの東』を腐しといて全く同じ乖離を起こしてるってのはどーゆーこと?」という感想をお持ちの方がいらしたら、苦笑とともに申し訳ないと謝っておきます。)

まずは事実関係から。このゲームの原価率は 67% くらいで、つまるところ原価 3350 円前後となっています。 この 67% という原価率設定が高いか安いかという話になると、同人として見ればやや高く、営利メーカーが自社製品の直売に対して付けるものと見れば安すぎ、営利ショップが他所の製品を売るときの原価として見るなら妥当、というところでしょうか(重力、というか Late Toccobushi Game Club の製品はこの三者いずれの立場もそれぞれ含んでいます)。内容物については、最小限とまでは言えませんが不要なものによる嵩上げはしてない、はず。ここから原価を下げるとなるとみんな大好き Cheapass Games 的手法によりフェルトを外し石を外し秤を外し、ってやってくと箱とルールしか残りませんね。

(追記:原価率の話で「高いか安いか」と書くべきところを「高いか低いか」と書いてしまい、意味が全く逆になってしまっていたので、修正しました)

購入側から見てみましょう。フルサイズのボードゲームが 5000 円という値付け自体は、現状の日本あるいは欧州のデザイナーズゲーム市場を見る限りでは、普通です(欧州では 30 ユーロが多いです)。欧州には商業ときっぱり分かれた同人市場というのはどうやら無いようで、その代わりにみんな大好き(かどうかは疑問がありますが) R&D Games みたいな「同人のようなもの」メーカーがいて、ブツの品質(ゲームの品質、じゃないですよ)としては大メーカーと一緒だったりちょっと劣っていたり思い切り劣っていたりするものを、思い思いの値段で売っているようです。

では重力の値段であるところの 5000 円というのに納得性があるかというとまた別の観点が必要で、というのは普通の(市販の)ボードゲームの場合、メーカーにとっての原価と、同じものを一個だけユーザが自作した場合の原価には大きな差があり、この量産効果の部分がメーカーの大きな存在意義となります。他所の製品を挙げるとあれなので Defenders of ClayArt を例にとると、あれの原価率は当然のように 50% を下回ってますが(それでも正直原価高すぎて困ってはいるわけですが)、あれと同じものを一つだけ作ろうとして 2500 円で済むということは、まずありません。 5000 円で作るのも難しいでしょう。しかしこの理屈は重力については殆ど成立しません。一箇所だけ量産効果のある箇所(題字の判子が 2000 円)がありますが、これを除けば誰が作っても 3250 円と工賃です。工賃としての 1750 円が妥当か否かは人によるところでしょう。

ところで、ここまでの文章においては「著作物/作品としてのゲーム」という観点を意図的に外しています。というのは、純粋に作品としてゲームを捉えると、価格設定は別段いくらであっても構わないことになるからです。ただの石にルールを付属させただけで数万円しても別にいい。というよりもこの場合、製品の量が限られているのであれば、値段はオークションで設定するのが妥当です。「アイデアに対して金を払う」という言葉を聞くことが時折ありますが、その言葉の含意がここにあります。そしてこの場合、アイデアという無形のものに対して金銭の遣り取りが発生していることになるので、その無形のものの取り扱いについては注意が必要となります。ルールの公開の是非についての議論というのは、基本的にはこの発想から来ているものと考えてよいでしょう。

私はこの発想を全く信用していません。

これについては B2FGames LLC では別の意見があるはずですが(というか B2FGames はお客様を試すようなことをわざわざしたがる嫌なメーカーなので、そのうち『ただの石にルールを付属させただけで数万円』というようなものを本当に作るかもしれません)、 Late Toccobushi Game Club の製品は一貫して、金銭の遣り取りは有形のモノの流通に対して行われる、という前提のもとに作られています。この前提がどこに現れているかというと、 Late Toccobushi Game Club の出版物は五点全て(*)、ルールの公開が、遅くとも出版物の販売直後には行われています。

(*この「全て」には、 Reiner Knizia によるルール集の和訳である「古代ローマの新しいゲーム」が含まれることを特記しておきます。実は最初は書籍そのもののデータをPDFにして無料で丸上げするという計画だったんですが、それはさすがに Knizia に断られました。)

問えば口では皆さん「この素晴らしいルールに対して金銭を支払っている」と答えるのですが、そして私もそう答えるのですが、結局のところ我々が関わっているのは悲しいくらいファインアートとは異なる世界なので、どれほどの名作であっても、コンポーネントと価格が釣り合っていなければ皆さん「高い」と言うわけです。私も言います。ですんで Late Toccobushi Game Club のゲームの価格設定は、あくまで工賃と相場という考え方に基づいて行われ、ルールはそれ単独であればただの文章に過ぎないということで無料で提供されています。

(しつこいようですが B2FGames LLC は別です。『くいずです』については著作者である私に6%の印税が支払われており、ルール公開もいまのところ行われていません。【B2FGames側からの指摘により訂正。ルール公開してましたねそういえば。一年しか経ってないのに既に記憶が風化している...】ちなみにこの 6% というのは Casasola-Merkle にドイツゲー業界における印税の相場について聞いたら返ってきた数字であり何か Costikyan 、じゃなくて Designer X だったか、が愚痴っていたのとは随分違うような)

さて、ここまでは Late Toccobushi Game Club の話だったわけですが。このドライな割り切りというのはドイツボードゲーム業界全体が持っている特徴であり美質である、と私は考えています。

他の著作権絡みの業界を覗いてみると、ポピュラー音楽業界なんかが正に典型で、情報とメディアの分離が可能になり、そして根源的価値がどうも情報の側にあるんじゃないか、ということになってきた今になって業界全体がうろたえています。消費者は「メーカーなんざ死んじゃえ」とか平気で言うし(私も言いますが)、場合によってはミュージシャンも同じことを言うし、でも別に消費者はミュージシャンに対して直接「この素晴らしい音楽に対して金銭を支払」うための何かを真剣に考えているわけでもなく、メーカーの側もミュージシャンの恨みを買う程度には粗雑な対応をどうもしているらしい。なんかまあ大変ですねという感じではあります。

これと比べると、そもそもボードゲームというのは情報とメディアが、ルールとコンポーネントとして最初からきっぱり分かれています。そして別にルールを眺めるだけでは何も嬉しいことが無い。構造自体がメーカーにとってわかりやすい形になってるのですね。六十年代米国や七十年代英国のメーカーが態度を明確にしていたかどうかは定かではありませんが、九十年代ドイツのメーカーは www の大衆化と殆ど同時と言っていい素早さで腹を決めました。アップロードされる英訳に対して黙認ないしは明示的な許可を与え、また後には自らも英訳を公開するようになります。

また、これは本来の意図とか Costikyan の愚痴とかを考えると微妙なこともありますが、ゲームデザイナーに対してあくまで 6% の印税とアドバンスを払うだけ、という冷たい態度を貫いたことも、今となっては有利に働きました。要はルールには印税分の価値しか無く、故にゲームデザインを生業とすることは殆ど不可能である、作家とは職業ではない、ということが明確になったのです。この観点ではゲームのルール自体では無く文章にしか著作権が働かない、という例のあれも効いているのでしょう。ゲームデザインが職業とならないことによる利点は二つあり、ひとつは作品が締め切りに制約されなくなるということですが、もうひとつ挙げられるのは、作家が著作に対して経済的に依存するあまり醜悪な執着を見せることが無くなるという点です。これも説明よりは他の著作権業界との対比を例示するほうがわかりやすい話ですが... 例示するまでも無いですかね。対してデメリットは作品に対して金銭コストをかけられなくなることですが、幸いにもボードゲームのルールは元々たいして金銭コストのかかるものではありませんでした。

結果として、情報は金銭的価値を持たないかわりに文化的価値を持ち、メディアは情報の文化的価値を金銭的価値に変換する役割を持つという、他所の泥沼を見るに付け奇跡としか思えないほどの理想的な分業が実現されます。見た目にはびっと性の欠片も無いデザイナーズボードゲームの世界が、ときに依存が感じられるほど www と相性のよい側面を見せるのは、この分業がなせるものです。

最後に Late Toccobushi Game Club に話を戻すと、少なくとも私は www の上の情報に相当な助けを受けてきたので、製品販売においてもなるべく矛盾しないような態度を取りたいし、もし可能ならば購入していただける方ともその部分の価値観については共有できると嬉しいな、と思うわけです。

そして無論、ルールが公開されている以上、批判としての不買行為はいつでも可能です。
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by Taiju_SAWADA | 2008-06-13 09:51 | うわごと

(以下の文は直接にはボードゲームのことを指してはいないのですが)

微温的な世界にはそれゆえの良さというものが当然あって、というかそれは基本的には概ね良いことであって、何よりも何となく楽しいような気分で居続けられる幸せというのを噛み締めるように味わうべきではあるのだが、しかしその温度に対する強制が発生して身動きが取れなくなるというデメリットも、残念ながら、存在する。

例えば批判を受けた時の態度の問題で、そこで単に萎縮してしまうと、それは個人の問題に留まらずコミュニティの萎縮に繋がることになるので、それに対する予防として「萎縮させるような批判を行うことに対する萎縮」という、しょうもない空気の形成が行われることになる。

従って、コミュニティに対して僅かであっても責任を受けようとするのであれば、批判という「行為」自体に対して単に萎縮してしまうという態度は捨てる必要がある。それがどれほど難しいことであっても。

行為ではなく内容を。その内容が的確なものであれば三日鬱ぎ込んだ後に感謝して前に進めば良く、当を得ないかそもそも内容の無いものであれば、馬鹿が馬鹿を晒すことで恥をかくのはその馬鹿であって私ではない、と蔑んでやらなければならない。とりわけ重要なのは後者のほうで、その後で親切にも啓蒙を加えてやるか鼻で嗤って終わりにするかは自由としても、このようなものに対しては鬱ぎ込むことすら避けるべきだ。それは理不尽を受け入れることであり、強く言えばコミュニティに徒為すことでもある。

無論ここには最初に触れたようにトレードオフがあるので、最終的に天秤をどちらに傾けるかは各自の判断による。しかし天秤のもう片方が存在するという事実そのものにまで目を背けるなら、その先にあるのは腐敗だけだ。
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by Taiju_SAWADA | 2008-05-26 02:39 | うわごと

おしごとのしくみ

マルチゲーム好きの人々が時折使うスラングに「お仕事」というのがあります。大雑把に言うと、自分の得にはならないんだけどゲームを壊さないためには取らざるを得ない行動、といったところでしょうか。

この概念をモデル化するのはとりあえず簡単で、例えば四人ゲームでプレイヤー1からプレイヤー4まで順に手番が回ってくるものとすると、

・プレイヤー1がお仕事を引き受ける:(-1,0,0,0)
・プレイヤー2がお仕事を引き受ける:(0,-1,0,0)
・プレイヤー3がお仕事を引き受ける:(0,0,-1,0)
・誰もお仕事を引き受けない:(-3,-3,-3,0)
【括弧内はそれぞれプレイヤー1〜プレイヤー4の利得】

というような形になり、そしてこの場合「お仕事」を担当させられるのはプレイヤー3ということになります。展開としてはプレイヤー1とプレイヤー2が自分のやりたいことをやって、面倒ごとを押しつけられたプレイヤー3がぶつくさ言いながらやりたくもないことをやる、と。ちなみにここで言う【利得】というのは表面上の勝利点の話ではなく、「最終的にどれくらい自分に利益があるか?」という絶対的な(かつ、実際にはそんなもんがそうそう計れるわけはないので仮想的な)指標とお考え下さい。従って、プレイヤー3が合理的なヒトであれば、お仕事を引き受けないという選択肢は取らないということになります。単純に自分にとって利益がないですからね。

で。この構造が頭に強く入りすぎていると、このシチュエーションは「プレイヤー3が引き受ける」一択である、という発想に向かうことになります。ここからの逸脱は場合によっては非難の対象になりますし、またゲーム自体への評価としても、この状況自体には「自由度が無い」ものとみなされ、この状況へ誰かを追い込むことに巧拙が出てくるゲームが評価されることはあっても、この状況がひっきりなしに登場するようなゲームは往々にして「束縛が強い」ものとして減点の対象になります。

それって嘘ですよね。

このシチュエーションに解があるという考え方は、プレイヤー3には場合によっては利益になるかもしれませんが、少なくともプレイヤー1とプレイヤー2にとっては危険すぎる。より具体的に言えばゲーム理論的な思考に毒されすぎているという意味での危険があります。この解が解であるためには、このゲームの構造自体が共通認識になっている必要がまずあって(まあ「解がある」と言い切っちゃうのであれば、その人にとっては当然共通認識なんでしょうけど)、さらにその上で、プレイヤー3の合理性を信じなければならない。合理的であってこそ、プレイヤー3が「いや俺はお仕事なんか受けないよ?」という宣言をしたとしても、それを単なるブラフであると却下することができるのですから。

重要なのは、プレイヤー3が合理的である必要はどこにもないということです。なにしろこの場合、合理的でないほうが圧倒的に都合がよろしい。何ならドラマちっくに激昂してゲーム盤をひっくり返してみちゃったりするのはどうでしょうか(※1)。そこまではいかなくとも、とりあえず激昂して本気で仕事引き受けないでみる、という行動には充分な価値があります。それで「合理的ではないプレイヤー」の称号を手に入れてしまえば、ゲーム中に発生しうる一切のお仕事を他人に押しつけることができるわけですから。言い換えると、ここには「合理的でなくなるための合理的な理由がある」。

そしてお仕事のゲーム性はここに集約されます。要はお仕事というのは一種のメタゲームとして解釈するのが妥当であると。一種の、というのは、通常のいわゆるメタゲームと違い、ゲームを複数のサブゲームから構成されるものと捉えて、そのサブゲームに対するメタである(従って依然としてゲーム全体から見ると、それを超えてはいない)という意味で、従って本当にゲームの外に出る必要は必ずしも無いからなんですが(※2)。「誰も引き受けない」というカタストロフを玩びながらみんなでパートタイムの狂人を演じる心理戦。そこにあるのは束縛ではなく束縛をネタにした無限の選択肢であって、これこそがマルチゲームだと思うのですが。いかがでしょう。


※1: ちなみにこれはわたくしのオリジナルの物言いではなく、学生時代に所属してた研究室の教授が使ってた言い回しです。ここで書いたような非合理性の取り扱いについての試みというのがその界隈では実はあったりします、というのが今回のもう一個のテーマ。

※2: 無論外に出ることもできます。が、それはあまり幸せなことにはならないんじゃないかなー、というのはぼくが“その意味での”メタゲームを(あくまで好き嫌いのレベルで)徹底して嫌っているというだけのことかもしれないですけど。
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by Taiju_SAWADA | 2008-03-10 02:06 | うわごと