カテゴリ:うわごと( 44 )

おしごとのしくみ

マルチゲーム好きの人々が時折使うスラングに「お仕事」というのがあります。大雑把に言うと、自分の得にはならないんだけどゲームを壊さないためには取らざるを得ない行動、といったところでしょうか。

この概念をモデル化するのはとりあえず簡単で、例えば四人ゲームでプレイヤー1からプレイヤー4まで順に手番が回ってくるものとすると、

・プレイヤー1がお仕事を引き受ける:(-1,0,0,0)
・プレイヤー2がお仕事を引き受ける:(0,-1,0,0)
・プレイヤー3がお仕事を引き受ける:(0,0,-1,0)
・誰もお仕事を引き受けない:(-3,-3,-3,0)
【括弧内はそれぞれプレイヤー1〜プレイヤー4の利得】

というような形になり、そしてこの場合「お仕事」を担当させられるのはプレイヤー3ということになります。展開としてはプレイヤー1とプレイヤー2が自分のやりたいことをやって、面倒ごとを押しつけられたプレイヤー3がぶつくさ言いながらやりたくもないことをやる、と。ちなみにここで言う【利得】というのは表面上の勝利点の話ではなく、「最終的にどれくらい自分に利益があるか?」という絶対的な(かつ、実際にはそんなもんがそうそう計れるわけはないので仮想的な)指標とお考え下さい。従って、プレイヤー3が合理的なヒトであれば、お仕事を引き受けないという選択肢は取らないということになります。単純に自分にとって利益がないですからね。

で。この構造が頭に強く入りすぎていると、このシチュエーションは「プレイヤー3が引き受ける」一択である、という発想に向かうことになります。ここからの逸脱は場合によっては非難の対象になりますし、またゲーム自体への評価としても、この状況自体には「自由度が無い」ものとみなされ、この状況へ誰かを追い込むことに巧拙が出てくるゲームが評価されることはあっても、この状況がひっきりなしに登場するようなゲームは往々にして「束縛が強い」ものとして減点の対象になります。

それって嘘ですよね。

このシチュエーションに解があるという考え方は、プレイヤー3には場合によっては利益になるかもしれませんが、少なくともプレイヤー1とプレイヤー2にとっては危険すぎる。より具体的に言えばゲーム理論的な思考に毒されすぎているという意味での危険があります。この解が解であるためには、このゲームの構造自体が共通認識になっている必要がまずあって(まあ「解がある」と言い切っちゃうのであれば、その人にとっては当然共通認識なんでしょうけど)、さらにその上で、プレイヤー3の合理性を信じなければならない。合理的であってこそ、プレイヤー3が「いや俺はお仕事なんか受けないよ?」という宣言をしたとしても、それを単なるブラフであると却下することができるのですから。

重要なのは、プレイヤー3が合理的である必要はどこにもないということです。なにしろこの場合、合理的でないほうが圧倒的に都合がよろしい。何ならドラマちっくに激昂してゲーム盤をひっくり返してみちゃったりするのはどうでしょうか(※1)。そこまではいかなくとも、とりあえず激昂して本気で仕事引き受けないでみる、という行動には充分な価値があります。それで「合理的ではないプレイヤー」の称号を手に入れてしまえば、ゲーム中に発生しうる一切のお仕事を他人に押しつけることができるわけですから。言い換えると、ここには「合理的でなくなるための合理的な理由がある」。

そしてお仕事のゲーム性はここに集約されます。要はお仕事というのは一種のメタゲームとして解釈するのが妥当であると。一種の、というのは、通常のいわゆるメタゲームと違い、ゲームを複数のサブゲームから構成されるものと捉えて、そのサブゲームに対するメタである(従って依然としてゲーム全体から見ると、それを超えてはいない)という意味で、従って本当にゲームの外に出る必要は必ずしも無いからなんですが(※2)。「誰も引き受けない」というカタストロフを玩びながらみんなでパートタイムの狂人を演じる心理戦。そこにあるのは束縛ではなく束縛をネタにした無限の選択肢であって、これこそがマルチゲームだと思うのですが。いかがでしょう。


※1: ちなみにこれはわたくしのオリジナルの物言いではなく、学生時代に所属してた研究室の教授が使ってた言い回しです。ここで書いたような非合理性の取り扱いについての試みというのがその界隈では実はあったりします、というのが今回のもう一個のテーマ。

※2: 無論外に出ることもできます。が、それはあまり幸せなことにはならないんじゃないかなー、というのはぼくが“その意味での”メタゲームを(あくまで好き嫌いのレベルで)徹底して嫌っているというだけのことかもしれないですけど。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2008-03-10 02:06 | うわごと

ダイスまたはフェティッシュ

こないだ Kingsburg ってゲームをやって、新興メーカーでダイスゲームに真っ向勝負を挑んで勝ったのか勇気あるなあと思ったですが、何でそういう感想になるかというと、ダイスゲームというのはとにかくデザインするのがえらいこと難しいはずなのです。

単純な理由としては、カードとちがって、意思決定が必要な状況に持って行くために必要な手続きがかなり多いということが挙げられると思います。カードなら配分紹介してシャッフルして手札配って山札置けば、情報の非対称性も適度な記憶要素も刻々と移り変わる乱数要素もそれだけで表現できてしまうのですが、ダイスはどんだけ用意してもせいぜい確率分布がかわるくらいで、何かデザインを助けてくれるわけではない。

むしろこいつは油断しているとデザインを妨げてくるのでして、前に触れたことにも関連しますが、乱数は最後に置いてしまうと単に勝敗をぼかすだけのことにしかならない。実務上はともあれゲームデザインとしてはマイナスの効果でしかありません。いやどこに置いても実は事情としてはほんとは大差なくて、単に数値の有利不利として「だけ」ダイスを取り扱ってしまうと、単に誰の責任でもない形で勝敗を傾けてしまうだけの非常に哀しいことになってしまいます。(まあマルチゲームなんで、それはそれでイベントとして有りじゃないの、というスタンスが取れるところが最後に置くか最後以外の場所に置くかの違いであるとは言えます)

ですんでダイスを使う以上は、その乱数がきちんと「リスクに関する意思決定」として表現されるか、あるいは前回触れたような、ゲームをドライブするための「イベント」として表現されるか、そんな感じになるように慎重に取り扱わないといけないのです。が。

皆様ご存じのように、ダイスの本質は、そしてそれはダイスの厄介さの本質と言ってよろしいわけですけど、こういう意思決定云々ではありません。ダイスの本質というのは、要するにフェティシズムです。従ってダイスゲームのデザインは、奴らのだだもれのフェティッシュをどう御していくのか、という戦略に帰結します。

あえて無視するとか距離を取るという戦略もあって、最近の例で思いつくのは Ystari のイスファハンとかですが、あれはどれだけたくさんダイスを振ったところで、利用方法としてはただ単なるイベントです。ゲームはイベントを参照しながら別の所で組み立てられていて、普通にゲームとして回っているなら無論それは別にそれでいいのですが、これは決してダイスゲームではない。あくまでダイスを一杯振るだけの普通のゲームです。

いつでもダイスがそういう冷たい距離を保っていてくれるならまだ良いんですけど、時に連中はデザイナーに対して牙を向いてきます。例としては Knizia の Vegas なんか如何でしょうか。あれは基本的にはダイスを振り合うことの怖さを表現したゲームで、意思決定としては如何に美味しいポジションを押さえながらダイスの振り合いを避けるか、というところが肝要なんですが、しかしそれに成功したプレイヤーは、他のプレイヤーがなんか必死になりながらダイスの振り合いをやってるのを一人仲間はずれで寂しく見つめる、という状況に陥ります。勝利条件をダイスへの欲求が振り切っちゃうわけですな。

といってそれでは単純にプレイヤーのフェティシズムに乗っかってゲームを作ればいいのかというと、乗っかってゲームができるならそれでいいのですが。どうも人は堕落するものらしく、乗っかってしまった時点でそれをゲームであると勘違いしてしまうことが多いみたいですね。そのまま提出されて、いやこれはそもそもゲームでは全くなく敢えて言うならダイスを振る儀式でしかありません、というような不愉快な思いをしたこと。みなさま何度となくあるんじゃないでしょうか。

ダイスをいっぱい所有したい、いっぱい振りたい、いつでも振りたい、高い目を出したい、ゾロ目を出したい、天高く積みたい、相手の駒に投げつけてみたい、その他諸々、ダイスというものを巡るみっともない欲望の数々。結局のところデザイナーはこれらの欲望に逆らうことはできないのですが、これらの欲望に忠実に従っただけでは出来る物は屑ばかり。良い意思決定を行えば欲望が叶えられる、という逃げはあるでしょう。しかしそれでは(プレイヤーは喜んでくれるかもしれませんが)ダイスがゲームの中心にあるとは言えない。ダイスがダイスゲームであるためには、その欲望の制御と発露が、考えることの苦しみと喜びに同期していなければ意味がないのです。

そうまでしてダイスゲーム作らなきゃいかんのか? とぼくは正直ちょっと思うのですが。でも作りたいみたいですね。いや面白かったからいいんだけど。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2008-01-31 01:06 | うわごと

再開に当たって

廿四時ブログ期 (Jun2004 - Sep2006) 、再開するなら「第一次ブログ期」と言うべきかもしれませんが、この時期のメインテーマは「批評をやってみよう」だったんですけど、なんかどうも「気にくわないゲームに対して周りの静止も聞かず延々と一方的な罵倒を繰り広げる人」みたいになってて、あれ俺いま変な人って扱い? という微妙な感覚がずっとありました。

ちょっと俺が可哀想になってきたので(いやね、まあ自明だしと思ってたんですよ当時は)、ゲームの批評をしようそうしようと決めたときに、その「批評」という言葉について置いていた前提を、(自分で書くのは面倒なので)他の人の書いた文章を引用して示しておこうと思います。

***

表現と享受の関係は、通常「コミュニケーション」と呼ばれるよりはるかにダイナミックな物、闘争的なものだと想定して下さい。あらゆる表現は鑑賞者に対する挑戦です。鑑賞者はその挑戦に応えなければならない。「伝える」「伝わる」というような生温い関係は、ある程度以上の作品に対しては成立しません。見倒してやる、読み倒してやる、聴き倒してやるという気迫がなければ押し潰されてしまいかねない作品が、現に存在します。作品に振り落とされ、取り残され、訳も解らないまま立ち去らざるを得ない経験も、年を経た鑑賞者なら何度でも経験しているでしょう。否定的な見解を抱いて来た作品が全く新しい姿を見せる瞬間があることも知っている筈です。そういう無数の敗北の上に、鑑賞者の最低限の技量は成り立つのです。
(中略)
作品は、何よりまず表現者と享受者の遊技的な闘争の場であり、副次的には享受者間の遊技的な闘争の場でもあります。(中略)たとえばレオナルドを前にする時、享受者は同時に、自分より前にこの絵を見た人々を意識せざるを得ないーー彼らの美的判断と競っている自分を意識せざるを得ない。無数の、名も知れない愛好家から美術史の大家に至るまでの享受者の判断と、自分の判断を突き合わせ、目の前のタブローそのものと同時に、タブローに加えられてきた注釈と判断をも、再評価せざるを得ない。歴史的文脈に敏感な人なら、その時、一枚のタブローの享受の歴史の中に自分の享受を位置付ける体験をするでしょうし、思想的な文脈に敏感な人なら、支配的集団によって作られてきた価値の体系と、自分自身のアイデンティティからくる判断とが突き合わされ、同化にせよ対立にせよ、あるいはある種の超克にせよ、何らかの関係が結ばれるのを見ることになるでしょう。その上で、享受者は歴史的・社会的に競り勝たなければならない。同意するにせよ反発するにせよ乗り越えるにせよ、かつて為されてきた評価、今為されつつあるであろう評価を踏まえた上に(その中には、かつてそのタブローを前にしたときの自分自身の評価も含まれます)、他ならぬ今、この場における整合性のある判断を成立させなければなりません。

ー以上、「小説のストラテジー」(佐藤亜紀、青土社 2006)pp.25-27 より引用

***

ちょっと恣意的な引用が混じっているので補足しておくと、佐藤亜紀は「鑑賞・享受」と「批評」をはっきりと別の概念として使っていて、批評っちゅうのは純粋な鑑賞とは別物だから、という方向に話が行く場合もあるんですが、わたくしは上記の文章を、ある意味では「批評≒享受」として引用しています。これは一点には、この文脈でなら概ね同一視してもそんなに意味はずれないだろうと判断したのと、あともう一点は対象分野であるボードゲームと・またはそのボードゲームに対するわたくしの立場の特殊性から来るものです。つまるところわたくしはボードゲームという芸術分野を、他の芸術分野と比較して極端に論理性に振れているものと捉えており、ということは鑑賞行為を比較的原型に近い形で言語化することもなんとかやれる、といいな、と考えているのでした。

さて。

なんでこんな自分の目の前のハードルを上げまくるようなことを述べているかというと、もうこういう、真っ当な鑑賞行為の記録としての批評はたぶんやらないからです。もう俺は跳ばないハードルだし折角だから高くしておこうかみたいな。いや鑑賞行為自体を止める気はないんですけど、それをまともな形で記録することはしないんじゃないかと思います。これからは。えーと。そう。無責任な感じで。それこそ「馴れ合いの生温い、伝わる伝わらないのレベルのコミュニケーション」とか「気にくわないゲームに対して周りの静止も聞かず一方的な罵倒を一言投げかけて終わり」とか。そういう方向性で行く予定です。創作行為としての文章の質は極端に下がるはずです(あ、批評はもちろん創作ですし、そもそも自分で書いたまたは選択した文章ならそれは当然創作になっちゃうので、そこから逃げるのは哀しいことに原理的に無理みたいです)が、それはそれでよいことにしました。最初期の立場に戻ったと言えなくもありません。

つーことで、よろしくお願いします。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2008-01-15 05:18 | うわごと

新しい服

ところで「オーナーズチョイス」のゲーム盤。バンクラプシーの綴りが間違ってるように見えるんだけど、なんで誰も突っ込まないんだろう。特にゲームリパブリックにあんだけ批判的なねらーは何でみんなスルーなの? ウェブスターには載ってなくても実はあれでも正しい綴りだとか? それとも英語と違う言語? 間違ってるの俺のほう?
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2006-09-20 22:11 | うわごと

すべて言い訳と甘え。

レビューがおっつきません。なぜかというと書くのが遅いのと、USキーボードのキー配置にまごついてるのと、エディタの操作がよくわかんなくてとまどってるのと、ことえりの変換にいらついてるのと、まあ原因はいろいろあるんですがとりあえず7月になったら。も絶対ATOK買う。あと好みに合ったエディタも探す。もしかすると導入が途中で止まってるParallels Desktopをもういちどなんとか頑張ったほうが早いかも。

ということでレビューが書けないので星だけ予告という形で示しておきます。あとで書きますきっと。たぶん。まあいつかは。

ケイラス ★★★☆ (気分的にはやや6寄りの7)
アウグスブルグ ★★★ (同7寄りの6)
テクノウィッチ ★★★☆ (ストレートな7)
郵便馬車 ★★★ (ストレートな6)

ちなみに今回の二つはどっちも8寄りの7。「なんとか寄りのなんとか」みたいな表現を使うくらいならもっと使う星のレンジを広げればいいのに、とは自分でも思いました。満点はまだしも9も1も一回も使った事無いし。

# Caylus の 8.4 はまあ Geek ならそんなもんでしょうが、 Thurn und Taxis が 7.6 で Augsburg 1520 が 7.0 で Seeraeuber が 6.6 ですか。ふーん。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2006-06-28 23:43 | うわごと

ボードゲームの市場 (再掲:初出JAGAMAGA2006年3月号)

 ボードゲームには健全な市場が無いのがよくないと思うのです。

 例えばカタン島で小さい家を五つ建て切ったけど六つ目を立てたいと。こんな時は先進国なら市場から調達という発想になるのですが、かの島にはプレイヤーが数人しかいないのでまともな市場原理は期待できず、というかそもそも国の規制で家は売買できないことになってます。

 ならばグローバリゼーションの波に乗ってレッツ国際闇貿易ってことで隣のモノポリー卓のプレイヤーを突っついてホテルを売ってもらうことにするです。しかしここで障壁になるのがまたしても為替市場の不在。お願い小麦と鉄と以下略を出すんでその赤いプラスチックの家を分けてと申し出ても返ってくる答はうるせえドル持って来い。

 かように市場の不備は勝利への道における深刻な障害となるわけですけども、逆に言えばこれは国家が旗振り役となって新規商品の市場を立ち上げ新たな王道を築き上げる絶好の機会ともいえます。駒や札だけ扱うんじゃ新味が薄いんで、存在をアピールするためにもっと変な商品も売りましょう。例えば手番とか座り位置とかイカサマ権とかゲーム中の甘物とか思いつくもの全部。せっかくだし現物だけじゃなく各種の先物とか保険とかいろいろ派生商品もくっつけて素人さんにはお勧めできないリスクヘッジ用市場のできあがり。何のリスクだ。

 もうついでだから勝敗も売場に並べちまいますか。いくらで買います?


***********************

この文章自体はごく個人的な凝りかたをした構成になっていて割と愛着があるんですけど、掲載されてるのを見たら漢字ばっかりで強烈な違和感が。読んだ人はもっとそうだと思いますごめんなさい。やぱし印刷物って勝手が違うのね、とそのときは思ったんですが実際どうなんでしょうかこのサイト。漢字ばっかで鬱陶しいとか思われてますか? あるいは小理屈うぜえとか。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2006-06-08 00:06 | うわごと

負け犬決定戦

そんなにエキセントリックじゃないんだけど決してマジョリティにはなれないゲーム形式として、「負け犬決定戦」というものがあります。というものが、というか当然のように皆様ご存知かと思うのですが、ジェンガだったりピラニアペドロだったり、敗者が一人だけ決まるゲームです。この形式を採用しているゲームはその他の部分でも割と似通っていて、たとえば判で押したように軽量級だったり、失点を積み重ねて最初に一定値に到達したプレイヤーを敗者とする形になっていたり。要は誰もあんまりまじめに考えてなくて「あーゆーパーティゲームにしよう」「じゃ負け犬で」てな勢いで決めてしまっているんじゃないかという気がするのですが、なんかこれは勿体なくないですかね、というのが今回のテーマです。

そもそも何で重いゲームにこの形式が採用されないかというと、最初に思いつくのは勝てないので詰まらないんじゃないかということですが(2006/5/24追記:ここで言う「勝てない」というのは、単に負け犬にならなかっただけで「勝ち」の爽快感を得るのは無理だろう、という意味で、この直後に出てくる「ひとり以外全員勝ち」というのと一見矛盾したことを言ってるようにみえますが、実際のところこれは矛盾というよりはむしろ同じことを二回くりかえして言ってるだけです)、別にこれは重い軽い関係ないだろという感もあり。次に出てきそうなのは負けるとショックが大きいからという理由で、これが実際のところ大きいんじゃないかと。普通のマルチプレイヤーズゲームでは勝つの一人だけで、四人とか五人とかで遊んでればまあ基本負けるわけです。勝てないということはそんなにきついことではない。一方で世の中の真剣勝負なゲームにおけるマジョリティは一対一で、この場合勝つか負けるか五分と五分。これはこれで非情な感じが大変よろしい。さて我らが負け犬決定戦はといいますと、これは五人いて一人しか負けない訳ですから勝って当たり前。勝つことには何のカタルシスもなく、そして負ける奴は余程の馬鹿の不名誉ゲット。じっつに厭ぁなテーストであって、まあ負けても洒落で済ませられるようにするんであれば余計な十字架を背負わなくていいようなふわふわしたゲームにしか採用できないよね、というのは商業的には正しい判断と言えるでしょう。

ところで人生とはそういうもんじゃなかったか。

せっかくなんで大きく張ってみましたけど別にここから説教になだれ込んでみたりはしません。そうではなく、ここでしたいのはシミュレーションの話なんです。ゲームの制作意図の少なくとも一部が現実における何らかの現象(あるいは「システム」と言ってもいいでしょうが)の模倣にある、というのは極々よくあることですが、少なからぬ場合においてその模倣対象は「勝者一人」という形を取っていません。典型例としては商売ネタなんかがこれで、だいたい会社なんてものは普通ゴーイングコンサーンがどうとか持続的成長が云々でありとあらゆるリスクをヘッジしながら一歩一歩踏み固めるもので、「ゲーム終了時点で一番儲けたプレイヤーの勝ち」などという湧いた発想をする経営者からは可能な限りの距離を取るべきでしょう。

こういう地味で堅実な安定志向を通常の一人勝ちゲームで表現するのはなかなか大変だったりします。つうのはつまり、安定志向じゃそもそも勝てないんですな。そりゃリスク取らないんですから五人中三番にはなれても一番にはそうそうなれない。勝つためにはどうすりゃいいかといえば、巧拙を抜きにして考えればとにかく大量のリスクを抱え込んでボラティリティに賭けるというのが正しく(以前にも触れましたが、常にトップラス戦略がボードゲームプレイヤー唯一の王道なわけです)、そして真っ当なビジネスをテーマとしていたはずのあらゆるゲームが気がつくと山師シミュレータに化けてて何の真似か。

別に面白ければ山師シミュレータでも構わないは構わないのですが、あくまで堅気な商売のゲームをつくろうというんであれば、本来は当然のように負け犬形式を選択しないといけません。全人格の否定を迫られるプレッシャーと戦いながら余計な誘惑には目もくれずにどうしても取らないといけないリスクだけを選び抜くことを要求される、この冷たい厳しさこそがビジネスというものでしょう。無論このようなゲームにふわふわとした軽さによる誤摩化しは不要。露骨に実力がものを言う(ように錯覚できる)ような重厚なシステムを備えてこそ、対象を正しく模倣できたことになります。

とはいえやっぱりこういうカタルシスと無縁のゲームを売りに出すのは難しく、嘘八百と解ってはいても山師ビジネスゲームに仕上げてしまうのはこれはもう仕方ないことではあります(そもそも別に嘘八百が悪いわけじゃ全然ないし)。ですのでここはひとつ、既存のビジネスゲームを負け犬ルールで遊んでみるというのはいかがでしょう。単に順位の解釈を変えるだけですから、ゲームシステムに影響が及ぶことはありません。手順の巧拙が支配的なゲームではあんまり色が変わらず単につまらなくなるだけでしょうが(2006/5/31追記:むしろ駄目度の高さで言えば個人叩きができるゲームが全く駄目であってメジャーな形式になれない原因はこれが一番大きいですという話で終わってしまうかもです)、リスクテイキングを主要素としているようなゲームであれば、今までとは大きく異なるプレー感覚が楽しめるんじゃないでしょうか。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2006-05-23 23:59 | うわごと

「である」のではなく「になる」こと

前にも触れた疑心暗鬼がまた一人という話題なんですけど、とりあえずゲームマスター云々は措くとすると、この話で大事なのは「最初はプレイヤーは別に疑心暗鬼に陥っていない」ということです。ゲームを進めていくうちに非疑心暗鬼状態から疑心暗鬼状態に移行する、というのでないといけない。スタートから既に疑心暗鬼状態、というゲームはそれこそ前回で例に挙げた「キャメロットを覆う影」を筆頭にしていくらでもあります。というかテーマ(裏切りがどうのこうの)を外して構造だけ見れば、これはディプロマシーの例を挙げるまでもなく、使用される頻度から言っても重要性から言ってもボードゲームの基本要素なのでして。

あー、とはいえキャメロットと「ディプロマシー」(をはじめとする疑心暗鬼モノの大多数を占めるゲーム)とではこれまた基本構造がだいぶ違いますね。キャメロット式はディプロマシー式に比べればごく少数派でしょう。ディプロマシー式の裏切りつき交渉の場合、これはそもそも全ての同盟が終わりある仮初のものという大前提が敷かれているので、疑心暗鬼の内実は例えば「(俺が抜け駆けするより先に)相手に抜け駆けされるかも」みたいな、たいへんドライなものであって、実際言葉にしてみるとこれは疑心暗鬼とはちょっと違うような気さえしてくるものです。この殺伐とした安心感はどこから生じるのかといえば、目の前にいる相手プレイヤーの立場が「最終的には倒すべき敵である」と固定されていることに拠っています。

これに対してキャメロット式の場合、不安の内容は「このなかに裏切り者がいる(かもしれない)」という形で説明できます。こっちから見えないだけで相手の立場は最初から敵だったり味方だったりで、その関係性は最後まで変わらないわけです、が、それでもこっちからはわかりません。相手の立場がどっちなのかによって、こちらが取るべき対応は変わってきます。味方だとすれば最後まで突き放すことなくフォローしてサポートして助け合わないといけないのですが、敵の場合は今すぐにでも喉元に剣を突きつけてやる必要があります。相手が誰だろうととりあえず抜け駆けを考えておけばよかったディプロマシー式にくらべて、相手の本質に対する不安という上位の疑心暗鬼が存在しているのです。

つまり。ディプロマシー式では、相手プレイヤーは敵でした。この構造は安心です。キャメロット式では、相手プレイヤーは敵か味方かどっちかですが、こちらからは解りませんでした。この構造はちょっと不安です。

ここまでくれば何を言いたいのかは自動的にお分かりいただけると思うのですが、それでもキャメロット式のゲームは、相手が敵か味方かという関係性は最初から最後まで第三者視点では固定されています。あくまで自分から見てどっちか解らないというだけで、全体を眺めれば「敵と味方にわかれて勝敗を争う」というオーソドックスな構造には変わりありません。実際のところキャメロット自体には「敵が0人かもしれない」という素敵な捻りが入っており、このおかげで全体が「敵味方式のオーソドックスなゲーム」か「全員協力ゲーム」のいずれかなんだけど(裏切り者以外の)プレイヤーからは見えない、ということになっていて不安度は上がっているのですけども、第三者視点でどっちかに固定、という点では一緒です。

そこを変えるってのが面白いんじゃないの? というのがRPG式の愉快なところなのです。ゲームスタート時点では全員が間違いなく味方ということが保証されている(ということは本当は必須要件じゃないですけど)、でもゲームが進むにつれて何故か誰かが敵に化けてしまうかもしれない。不可抗力か自らの意思かは不明ながら、相手が自分の把握しているのとは違う存在に移り変わっている可能性を考えなければいけない。自分と相手との関係は主観視点のみならず第三者から見ても不安定で、従ってゲーム全体の構造のほうも同じくどこから眺めてたところで最後まで固定されません。不安と不安定を同じものと見る先ほどまでの例えで言うなら、この構造はえらいこと不安を掻き立てます。

ある時期以降、RPGは「関係についてのゲーム」としての側面を強めていきました。元々は「ゲームマスターと複数のプレイヤーが会話によって即興とシナリオとの間を通り抜けていくようにゲームを進めていく」という独自の形式によって自然発生的に出てきた効果なのだと思いますが、一部のRPGではこの要素について極めて自覚的なルールデザインが行われています。そして前回からの繰り返しになりますが、この構造自体ははRPG形式でなくても導入できるのですから、そういうボードゲームが存在してもいいんじゃないか。とりあえずそういうゲームがたくさん出てきてくれると、私はとても嬉しいわけです。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2006-04-10 01:48 | うわごと

悪いゲームマスターに立ち向かう

※ケーブルがみつかんないのでパリのことはしばし忘れて別の話を

コンピュータRPGじゃないとまともに表現できないよなー、というジャンルとしてホラーを挙げることができます。無論ホラーを扱ったテーブルトップのRPGはいくらもあるのですがー、ただどうしてもねえ、なんか事を起こして正気を保てなくなって飛んじゃいました、って面と向かって厳かに宣言されるとー、まあ爆笑っすよねえ。というわけでホラーとしてスタートしたはずのものが気がつくと発狂タイムトライアルに早代わりとなってしまってうーんこれは楽しいんだけど当初の予定とはなんか違うなあ。

そのものを演るのは諦めるとしてももうちょっと当初の計画に近いものがいいな、ってんで、サスペンス気味のホラーならなんとかなるんじゃないか。つまり知り合いの口から「あなたは発狂しました」とか正気を疑うような言葉を聴くことになるのが拙いんで、ゲームマスターはプレイヤー間の相互不信を煽ることに専念して余計なことはしない。ゲームマスターとプレイヤーの間には情報の非対称性がありますから、これを悪用すれば、あと雰囲気を崩さないように気をつければ、それなりの疑心暗鬼を呼び出すことも可能でしょう。相互不信を煽るRPGは実際にありますよね。

さて、このゲームマスターとプレイヤーの間の情報格差という構造は現状では実質ガイギャックス一派の占有物となっていて他の業界ではあまり見られないのですが、でも別にパテントが出てるわけでもなさそうだし勝手に使ったっていいでしょう。というかむしろ何で今までマイナーな存在に留まっていたのかという話で、特に協力ゲームをやるんであれば積極的に使っていくべきなんじゃないでしょうか。RPGと区別つかないから? でもルールゲームとして整えられたRPGって魅力的だと思いますけど。

取りうる構造はいろいろあるとは思うのですが、ここはボードゲームの古典に忠実に、正確にはボードゲームの駆動力に忠実にといったほうが良いとは思いますが、勝ち負けを決めるものとして描いてみましょう。つまり、悪いゲームマスターに立ち向かう勇者が五人。勇者は知恵と力と鋼の結束でまた一歩と平和を目指し、しかし卑劣なるゲームマスターは勇者を堕落させんと彼らの耳に惑いを吹き込み、すると鋼の結束はいつの間にか霧となり残るは露になった不和ばかり、一人が賢くも我に返っては大義を呼びかけるも哀れ仲間の手によって断頭台に消えるのであった、とかそんなん。

何がポイントかといいますと、RPGではゲームマスターに極めて強い権限が与えられていて、「そうであるがために」ルールとして記載されているか否かに関わらず、ゲームの成立のための自明な前提としてこの権限は中立的にしか作動させられないことになっていました。ゲームマスターの中立はRPGにおいてジャンル全体を縛る規則なんですが、これは権限の前提があるから必要になるだけのものであって、元々ルールが強くて権限を云々しなくてもいいボードゲームではこれに捕らわれなくても構いません。理屈で言えば如何様なポジションでも取ることができます。先の例では解り易い例として対決構造を取るようにしましたが、ゲームマスターも一人のプレイヤーと同様に扱うとか、あるいは誰かに肩入れするとか、いくらでも歪な構造を考えられます。歪というとあまり良い言葉ではありませんが、ここではその歪みこそがゲームを駆動する力なのですから、端正でなければならない理由など何処にもないのです。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2006-02-09 00:40 | うわごと

「じゃんけんの行方」に関する補注

はーい、ゲーム理論の時間ですよー。好きな人だけよっといでー。

※ほんとにゲーム理論関連だけです。数式こそ出てきませんが専門用語とか注釈なしでばんばん登場します。申し訳ない。

EL-CO さんのコメント (2005-12-15)

ナッシュ均衡解を含めたゲーム理論は基本的に試行回数の有限性を前提としていないように思われます(専門家ではないので断言は出来ませんが、私の知る限りにおいてはそうです)。しかしながら実際のゲームにおいては試行回数は有限であり、「この1回に勝つか(あるいはこれからの数回において勝ち越すか)」こそが重要なのです。なので次の1回に勝てばその戦略が最適でなかろうが、その後ずっと負け越すことになろうがどうでもいい、というわけです。「囚人のジレンマ」において報復戦略が有効、とか言っても当の囚人にとっては「今ここでどうするか」だけが問題なのです。全体として個人的には「実際のゲームにゲーム理論を持ち込むこと自体が危険行為」だと思っています。


ということで今日はこのコメントへの回答です。ちょっと話が錯綜しそうなので、いくつかの文に分解して、順番も弄らせていただきたいと思います。


1a. 「囚人のジレンマ」において報復戦略が有効、とか言っても当の囚人にとっては「今ここでどうするか」だけが問題

1b. 「この1回に勝つか(あるいはこれからの数回において勝ち越すか)」こそが重要なのです。なので次の1回に勝てばその戦略が最適でなかろうが、その後ずっと負け越すことになろうがどうでもいい

2. ナッシュ均衡解を含めたゲーム理論は基本的に試行回数の有限性を前提としていない

3.「実際のゲームにゲーム理論を持ち込むこと自体が危険行為」


ということで楽な問題から片付けましょう。『1a. 報復戦略と「いまここ」』の話から。これは単純なことで、例示されている『当の囚人にとっては「今ここでどうするか」だけが問題』は1回きりの囚人のジレンマゲームであるのに対して、報復戦略は無限回繰り返し囚人のジレンマゲームの解(割引率に関して条件を付与する必要がありますが)を構成する戦略です。1回きり囚人のジレンマゲームと無限回繰り返し囚人のジレンマゲームは(ゲーム理論の範疇では)全然別のゲームですので、1回きり囚人のジレンマゲームのプレイヤーであるところの当の囚人さんが報復戦略に基づいて行動しないのは、ゲーム理論的に言えば当然です。

『1b. この一回に勝つかどうかこそが重要』についても、少なくともそう考えている人としては単純に1回きりのゲームをプレーしているのです、として片付けることができます。これからの数回の結果が重要だという人は、そういう割引率設定のゲームのプレイヤーなんでしょう。但し前項の話と違うのは、相手プレイヤーと認識に差があるかもしれないという点で、向こう側が五回ベースで考えていてこっちは無限回ベースで考えているとか、そうなると共有知識の前提が成り立たなくなるのでベーシックなゲーム理論の範疇ではなくなります(いや、じゃんけんだとどうせ1/3混合ですけど。囚人のジレンマなら)。

今は相手固定ってことにしましたけど、相手があちこちにいていろんな人とゲームする、というような、有名なアクセルロッドのコンテストみたいな状況だとさらに違って、これはどっちかというと実験経済学の話になると思います(報復戦略が繰り返しゲームの解として位置づけられたというのと、アクセルロッドのコンテストでラパポートが勝ったというのは、ここでは別個の話として考えています)。

(話ずれますが、相手と自分とで認識がずれてますよっていう状態でのゲームが個人的に大好きで論文書いたこともあるくらいなので、このへんを専門的に扱うハイパーゲームとか認識論的ゲーム理論みたいな分野がもっとメジャーになってくれると嬉しいです。ハイパーゲームなんてゲーム理論の専門家ですら知らないし。なんでかなー。みんなそんなにベイジアンが好きなの?)


んで『2.ナッシュ均衡解を含めたゲーム理論は基本的に試行回数の有限性を前提としていない』かどうか。まず、ゲーム理論が扱うゲームが何を前提としているかは、そこに書いてあるゲームがどのように定式化されているかによります。1回きりゲームと書いてあれば当然前提は1回きりですし、無限回と書いてあれば無限回前提です。ただ、ベーシックなゲーム理論が扱うのは「1シリーズ限定」であることが多い、とはいえると思います。つまり「無限回ゲームを一回だけ」とか。進化論ゲームとかの話が持ち出されると微妙になっちゃいますけど。

ゲーム理論自体はそれでいいとして、ナッシュ均衡という解概念についてはどーなの?というのは当然別の問題です。ということで箪笥の奥から教科書を引っ張り出してきました (Osborne and Rubinstein, "A Course in Game Theory", The MIT Press, 1994) 。この本の Ch.1.5 The Steady State and Deductive Interpretations, 引用はめんどくさいんで省きますが、要は Steady State (または evolutive) な解釈と deductive な解釈というのがあって、前者だと「みんながゲームをいっぱいプレーした結果このへんに落ち着いてるみたいなんでそれを数学的に分析するとこーゆう意味なんだよ」という解釈、後者だと「いや1回きりのゲームで合理性について要件を被せるとこうすべきであるという正解がでてくるのだ」という解釈になります(リクエストをいただければ、原文を直接引用します)。後者だとワンショット前提、前者だと無限回(すくなくともたくさん回)前提と言っていいんじゃないでしょうか。つまりどっちもあると。

そして『3. 実際のゲームにゲーム理論を持ち込むこと自体が危険行為』。実際のゲームというのがいわゆるドイツゲームの場合、その全体をゲーム理論で捌こうというのは無謀以外の何者でもなく、結局のところゲーム理論による分析というのはゲームの構造が分析可能な程度の大きさであることを前提としているのに対して、ドイツゲーム(に限らずロジカルなゲーム一般)は分析しきれないくらいの大きさを持っていることを前提としていますから。「クク」程度のゲームでさえ、分析をやろうとすると一筋縄ではいきません。さてならば繰り返しじゃんけんとか繰り返し囚人のジレンマゲームみたいな小さいゲームを実地に持ち込めるかどうか。うーん。共有知識をどれくらい信じられるかどうかですかねー。

(個人的にはゲームを作るときにゲーム理論を齧ってると便利かなー、と思ってます。)


なお本文で疑念を出した混合戦略の解釈についても、前掲書Ch.3.2でスペースを取っていろんな立場(5つほど書かれています)が述べられてます。専門家にとっても混合戦略均衡の解釈ってのはけっこう厄介なものみたいですね。ただ、本文でメインに取り上げているのは混合戦略の怪しさよりも「じゃんけんにおける」ナッシュ均衡の解としての弱さなので、ここでは教科書の引用は止めておきます。
[PR]
by Taiju_SAWADA | 2005-12-25 15:25 | うわごと