カテゴリ:うわごと( 44 )

じゃんけんの行方

昔々。たしか「電撃アドベンチャーズ」という雑誌に、ゲームデザイナーの清松みゆきさんだったと思うのですが、誰かが「じゃんけんは最適解(グー・チョキ・パーをそれぞれ等確率で出すのが最適)がすぐわかるのでゲームとしては駄目だ」というような内容のことを書かれていました。書かれていたはずです。書かれていたような気がします。ちょっと自信ない。雑誌名と著者名はともかく昔々そのような内容の記事があってそれを読んだのは確かなので話を続けます。話と言うのはなにかといえば、つまりこれってほんとにほんとなのか。

このグーチョキパー各三分の一、というのは「(ゲーム理論における)混合戦略ナッシュ均衡解」なる解概念を用いたときの解です。そもそもの問題として、この概念は確かにゲーム理論ワールドの中の話としてはたいへんベーシックなものではあるものの、だいたいゲーム理論自体が電撃アドベンチャーズ誌上(って決め付けてますが)で注釈無しに使って「だれでもすぐわかる」と言い切れるようなメジャーなものではないように思うのですが、とりあえずそれは関係ないんで脇に置きましょう。

ここで触れたい問題は二つあります。まず先に簡単なほうの問題ですが、「三分の一ずつ」という確率論をここで急に持ち出したところで、その「三分の一」ってどうやってつくるのよ、という実用性に関する疑問があります。常日頃からポケットにサイコロを忍ばせてじゃんけんが発生するたびにいったん後ろ向いてしゃがんで誰にも覗かれないようにしてサイコロ振るのか、と。それともポケットコンピュータを忍ばせてじゃんけんが発生するたびにメルセンヌツイスター、ってしつこいですか。そりゃ数学的にはそれでいいかもしれないけど一回きりの問題で確率とか言われても無粋だよねえ、という気分もあります。

そしてもう一つ、簡単じゃないほうの問題。ナッシュ均衡解ってそんなに信用できるもんなの?

つまりね、相手が延々とパーを出しているときに、こっちとしてはそれを無視して「三分の一」(というのを簡単に作り出せる確率発生器を持ってるという仮定の上ですけど)を続けることができるのか、ということなのですよ。ナッシュ均衡解というのは、「相手が三分の一で来るみたいだから、こっちも三分の一でまあ問題ないよね」ということを互いに思っている(のでお互いに延々と三分の一をやり続ける)という状態ですから、相手がパーを出し続けるという手を使ってきているんであれば、敢えて三分の一を続けるよりもよっぽど良いやり方(要はチョキを出すことですね)があるわけです。

ここでポイントになることのひとつめ。相手が三分の一で来てるってなんで解るのか。一回きりとか三回勝負とかのじゃんけんで、何を根拠に「相手が三分の一で来てるみたい」とか言えるんですか?

んで二つ目のポイントは、三分の一って別に誰に対しても必ず勝てるキングオブキングスでは全然なくて、単にイーブンに持ち込めるだけだ、ということです。一応負けないのは事実だから(事実なんです)先ほどのナッシュ均衡とかいうものに当てはまってはいますが、イーブンはもちろん勝ちではない。三分の一をやってるかぎり、永遠にじゃんけんには勝てません。

でもって最後のポイント。いままで書いてきたようなことを相手がまともに考えてるって保証はどこにあるのか。相手がゲーム理論っぽい考え方を知ってて、その考え方に同意していて、もちろん混合戦略の実用性も認めていて、まともな乱数発生器を持っていて、こっちもそれは一緒で、あっちもそのことはわかっていて、こっちもそのことはわかっていて、あっちも「こっちもそのことはわかってい」ることはわかっていて、以下略、ってとこまで言えないと、この話はそもそも成り立ちません。相手が「そんなこと知ったこっちゃない」という態度を取った時点で終わりというだけならまだしも、こっちが「相手が『そんなこと知ったこっちゃない』という態度を取るかも」と思った時点で終わりなわけで、これではあまりにもフラジャイルではありますまいか。

何が言いたいのかというと、じゃんけんに面白みがあるとすればこの部分じゃないかということです。この部分というのはつまり解の不安定性で、一応両方が三分の一を出し続ければそれでおしまいということは解っているにもかかわらず、その膠着状態はどっちかが息を吹きかけただけで・どっちかに息を吹きかけられたような気がしただけで、思い切り崩れてしまう。しかし崩れてしまえばやりたい放題かといえば、そこには崩れ落ちたとはいえ三分の一の枠がいることはいるわけで、こいつを横目で見ながら今バランスはどんな感じかなー、これからどうしようかなー、と考える、そして考えることそのものがバランスを振らせる原因になる。ですからじゃんけんというのは、三分の一が解析のゴールなのではなくて、三分の一をスタートにしてバランスのぶれを楽しむゲームである筈なのです。


いや、正直じゃんけんが面白いかと言われると困っちゃいますけど。
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by Taiju_SAWADA | 2005-12-13 01:06 | うわごと

内紛または内紛もどき

何度繰り返しても喋ってるほうは飽きないテーマなのでまた扱うわけですけど、ボードゲームというものは基本的にゼロサムの構造を持っているがために、扱いづらい題材というものがあります。ここで題材というのはアラビアンナイトがどうとか鉄道がどうとかいうスキンの問題ではなく、ディレンマの構造だったり集団思考の結果だったりとかそういう系統の話で、たとえばというので取り上げるのが内紛という現象です。

いや、範囲を限定してしまえばむしろこれは楽なテーマでして、具体的には内紛の発生後をゲームのスタート地点として、その発生した紛争に勝利することをゲームの勝利条件とするのであれば、そのようなゲームはごく普通に存在します。しかしこのような処理を行った場合、元々の題材である「内紛」は、それこそアラビアンナイトと同じく単なる後景になってしまい、構造としての内紛を表現したことにはなりません。

内紛の構造上の楽しさというのは、みなさん一致して本来やるべきことが他にあるにも関わらず、それとは全然関係ない争いに現を抜かしているというところにあります。前述のような形で内紛を取り扱ってしまうと、結局のところその紛争に勝ってしまえばそれでそのゲーム世界における最終目的を果たしてしまえるわけで、「一致して本来やるべきこと」というのがゲームのどこにも出てこない。内紛の一番面白いところが飛んでしまっているのです。

さてどうしましょう。本来やるべきことと全然関係ない争いとどっちが大事かと言えばこれは本来やるべきことなのであって、そして本来やるべきことというのは一致している必要があるので、ということは協力ゲームの枠を持っている必要があります。問題は、これも以前触れたような気がするのですが、協力ゲームというのは実質一人ゲームなので、そのままでは内紛が発生しないということです。

この「協力ゲーム=一人ゲーム問題」について、最近の話題作である Shadows over Camelot (Cathala and Laget / Days of Wonder, 2005) では裏切り者を入れるという解決策を試みています。このゲームにおける裏切り者の効果は、他者の提案をそのまま自分の提案として受け入れることをプレイヤーに躊躇わせるというレベルで、情報秘匿によるプレイヤー間の情報差を強調する点については限定的なんじゃないかと思っているのですが、まあ少なくとも一人ゲームでない「おおむね協力ゲーム」というものが存在可能であることが示されてはいます。このような攪乱要素を用意することにより、協力ゲームに内紛を発生させることは、いちおう理屈の上では可能ということになります。

ただねえ。とちょっと溜息をつきたくなるのは、理屈として存在しうるということと実装方法を思いつくというのは全然別のことなので。そもそもまともに検討されたことが殆どない枠組を用いて、その枠組の新しさとは別のところにある新しさを実現する。ということがどれだけの難事業か考えると、ちょっと日和ってもいいかなー、という気分になります。

なので日和ってみましょう。さきほどのアプローチでは理想主義者っぽく、一致して本来やるべきことを優位としたわけですが、ここでは一致してやるべきこととうっかり実際にやっちゃう闘争とを等価で扱うことにします。つまり、さっきの例が「協力ゲームなのになぜか内紛が発生する」ことを目指すものだとすれば、こっちは「協力ゲームとしての側面と闘争ゲームとしての側面を併せ持つ」ものだということになります。

そしてこれは実装にそれほどの苦労を伴いません。単純に考えると、
・一致して目指すべき勝利条件
・ゼロサムゲームとしての勝利条件
以上の両方を満たして初めて勝利とする、としておき、そして両者の間にトレードオフがかかるようにしておけばよさそうです。これも昔触れた「全員勝利=全員敗北=引き分け」という徒労感の排除を考慮に入れるのであれば、ゲームをペア戦ないしグループ戦として、
・グループとして目指すべき(他のグループに対して勝利を収めるための)条件
・グループ内での闘争に勝利するための条件
の両方を満たして初めて勝利、とすれば問題ないでしょう。完全にゼロサムな古典的ボードゲームの枠で取り扱うとなるとこのへんが限界ではないかと思います。

とはいえ、これだとやはり内紛の面白さのいくらかは消えてしまっている感があります。本来やるべきことがあるにもかかわらず、という馬鹿馬鹿しさに内紛の素敵を求めるとすると、グループとしての目的と内部闘争とのバランスを取ることを要求するこの構造は、内紛というにはちょっと賢しすぎる。できるなら内部闘争よりもグループ目標のほうが優位であるということを表現できる協力ゲームの枠を用いてなんとかしたゲームを見てみたいものです。たぶんえらく難しいでしょうけれど。
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by Taiju_SAWADA | 2005-10-26 01:09 | うわごと

Rethinking Nakoshi's 2nd Theorem (summary)

以下に記すのは、 Sawada Taiju, "Rethinking Nakoshi's 2nd Theorem", Theory for Games, No.28, pp.88-103 (2005) の抄訳である。(*)


1. 本論文の意義

「名越の第二命題」とは、名越康裕が Boardwalk Community 誌に発表した論文「確率の理論 2. 運は実力のうちか?」において提示されている命題である。

この論文は表題の通り、「出目平均化の法則」として知られる第一命題を提示した「神はサイコロをもてあそぶか?」、第一命題と第二命題の適用範囲について論じた「カメはうさぎに勝ったのか?」とあわせて構成される「確率の理論」の第二部として著されている。一般にはこの三部から成る論文のうち、出目平均化の法則を論じた第一部のみが異端の理論として知られ、第二部および第三部が試みられることは少ない。しかし、特に第三部の論理的不整合性により統一的なゲーム確率論の提唱には失敗したものと捉えられる名越確率論のうち、現代ゲーム研究において研究の価値を持つものはむしろ第二部にある。本論文における我々の目的は、その価値を誤って評価されている名越論文を正しく現代ゲーム研究の中に位置づけることにある。


2. 名越の第二命題の一般化

名越の第二命題は、原論文においては以下の形で示される。

(命題1:名越の第二命題) 八八の順番を決めるとき、花札を引いて決めるとしよう。最も若い月の札を引いた人から順に座り直してゲームを行うわけである。ある人が10回やって7回も親になった。次もこの人が親になる確率はいくらであろうか? 答えは 7/10 つまり7割である。

上記の命題は、一見して解るとおり、特殊な条件を前提として示されたものである。但し論文の全体を読めば、この論文が必ずしも「八八の順番」に固有の問題についてのみ関心を持っているのではなく、むしろ一般的な状況について述べていることが解る。にもかかわらず問題の範囲を特殊化していることには、後述のように重要な意味があるのだが、ここでは敢えてこの命題の一般化を行う。

(命題2:名越の第二命題の一般化) ある試行において事象 A が発生する確率を P(A) とする。この試行を n 回行い、そのうち事象 A の発生回数が m 回だった場合、 P(A) の最も良い推定値は m/n である。

この一般化された命題を否定する読者は少ないだろう。しかしこの一般化は原論文における命題の本質をそのまま残していない。言い換えれば、命題を抽象化する過程で捨象されたものの中に、名越の第二命題の本質がある。


3. 名越の第二命題の本質

前章で触れたように、名越の第二命題は「八八の親決め」に関するものである。八八に限らず、ギャンブル性の強いカードゲームにおける親決めにおいては、通常はどのプレイヤーも親になる確率が等しくなることが望ましいので、デザイナーはこれを意図してルールデザインを行うことが多い。そして八八の親決めもこの例外ではない。命題に記されている手法は、殆どのプレイヤーが等確率性に疑問を持たないがためにごく一般的に採用されるものである。

名越が命題の一般化を避けた意図はこの等確率性に疑義を挟むことにあった、というのが我々の主張である。つまり名越においては、(八八のプレー人数が 6 人であるということを前提として)親になる確率が 1/6 になるようにデザインされていることと、実際の試行結果として親になる確率が 7/10 であるという状況との間では、後者が優先されるべきなのである。

従って、あるデザインに関して、デザイナーの意図およびその意図に対するプレイヤーの了解と、実際に発生した結果が異なる場合、あらゆる物理的・社会的・心理的制約に関わらず、常に後者が優先される。重要な点はプレイヤーの了解とデザイナーの意図が一致しているという仮定が、結論に対して一切の影響を及ぼさないことにある。このことを考慮して、再び命題の一般化を試みよう。

(命題3:名越の第二命題の正しい一般化) デザインにおいて、結果はいかなる意図・制約・状況よりも優先される。

(命題4:命題3の系) デザインの結果をデザイナーの意図の反映として扱うことはできない。

ここに至って、ゲーム確率論と見なされてきた「確率の理論」は、現代ゲーム評論の世界に持ち込まれたポパー哲学であり、その結果としての作家論の否定としての真の姿を明らかにする。この論文がゲーム確率論において異端視されるのは当然のことであり、それは名越の意図が確率論には無いためなのである。


4. 結論と課題

「名越の第二命題」は、ゲーム確率論の視点からゲーム哲学および現代ゲーム評論を捉えたものとして再評価されるべきである。

直接的にポパー的観点を用いて作家論の否定を行うのではなく、確率の理論として迂回した形で提出された理由については今もって不明であり、今後の研究が必要となる。


5. 参考文献

名越康裕「確率の理論」http://homepage2.nifty.com/bwc/joke06.htm (初出Boardwalk Community誌)
Stone2, "Gallery HANAFUDA,KARUTA" http://members.at.infoseek.co.jp/stone2/h-menu.html
カール・R・ポパー「科学的発見の論理」恒星社厚生閣(原題 "Logik der Forshung", 1934)



(*) たぶん Theory for Games などとゆう論文誌は存在していないはと思うのですが、雑誌が仮に存在していたとしても、その雑誌にこの文章は掲載されていません。

(**) 参考文献の最後のはさっきGoogleで調べてみるまで本の題名も知りませんでした。

(***) 名越さんごめんなさい。

※言い回しがへんなふうになってるところが二箇所あったので修正しました。2006/2/12
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by Taiju_SAWADA | 2005-10-03 01:21 | うわごと

ぼくの考えた超人もとい八八

麻雀のルールが醜悪すぎる件については別のところで散々腐したのでいいんですが、そういえば八八もルール汚くないすか? 

ということで思うが侭にルールを削ってみましょう。人は誰でも一度は自らの手で自分だけの八八を作り上げなければならないのです。

[気に食わないところ]
・ご祝儀用の手役が多すぎる。5貫以上の手役要らね
・ご祝儀物を除いても手役は少し高すぎるような気がする
・出来役はもう少し楽でもいいと思う。得点獲得方面と出来役方面の背反を強く押し出したい。
・但し二八とかの特殊出来役は不要。
・追い込みは処理も汚いし大体ノーリスクの得点手段なんて存在すべきではない

[こんな感じで]
・1貫=10文. 50貫持ち60貫返し、借金は50貫単位で60貫返し。余った分は吟味勲章扱い。
 (このへんは別にどうでもいい)
・12月1ゲーム。20点札で大場(雨桐による絶場は無し)。最終月は必ず絶場。
 (ショートゲームの場合、6月1ゲーム。最終月は必ず大場。)
・3人縛り、2代縛り、越年、見ず転、抜け、飛込、下げ、追込、ふけ、法度、吹消、全て無し。
・場四は配り直し(親移動無し)。
・降り賃は降り順で、1貫、1貫5文、2貫、2貫5文、3貫とする。
・2人出の場合はサシ強制。(1人出は降り賃総取り)
・既に三人出ていて宣言者がまだ残っている場合、「現時点で出の権利を持っており、かつ出のために他のプレイヤーに貫目を支払っていないプレイヤーの中で、最も出の宣言順が早い者」に対して、出の権利の購入を持ちかけることが出来る。出の権利の購入を持ちかける場合、貫目を任意(文単位の正数)に宣言する。親はこれを受け入れる場合、宣言された貫目を宣言者から受け取って、出の権利を譲る。譲らない場合、逆に宣言された貫目を、宣言者に支払う。
・手役は下記の通り。重複は認めない(最も高い役を採用する)。雨もカス札扱いしない。
 ・赤 2貫(カス札なしの赤も赤と認める。)
 ・一 3貫(短一、十一、光一を総称。全て同じ役とする。)
 ・空巣 4貫
 ・三本(立三本と区別無し) 2貫
 ・くっつき(はねけんと区別なし) 4貫
 ・手四(一二四と区別無し) 4貫
 ・二三本(四三と区別無し) 4貫
・出来役は以下の通り。全て8貫。
 ・四光(雨四光も可)、赤短、青短、七短(雨の短冊も含めてよい)、素十四。
  (バランス次第では猪鹿蝶を入れてもいいかも)
・同点時の降り賃獲得優先順は親>胴二>ビキとする。


とても横浜花ルールっぽい感じ。(http://www10.ocn.ne.jp/~cha/kotenyugi/karuta/yokohama.htm)
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by Taiju_SAWADA | 2005-09-19 01:09 | うわごと

ミニチュアゲームのコンセプト提案書

ミニチュアゲームと通常のボードゲームとは何が違うのか、と言えば。それは勿論「距離の表現」であります。

通常のボードゲームにおいては、ゲーム盤上に何らかのマップ(というかグラフと言えばいいのか)が示され、そしてルールによって定義された「マップの意味」から、物体Aと物体Bの「位置関係」が与えられることになります。

対して、ミニチュアゲームでは、物体Aと物体Bの位置関係は、(物理的な実体としての)物体Aと(物理的な実体としての)物体Bの、(ごくふつうの三次元空間上の)「距離」によって与えられます。もう少しきちんと書くとすれば、その「距離」という数字に対して、ゲームのルールが何らかの意味を与えているとも言えるわけですが、いずれにせよ、ミニチュアゲームにおいて位置関係を示す主要な道具が「盤上のマップ」ではなく「巻尺」である、ということに変わりはありません。

マップと巻尺のどちらがよいのか。という話になりますと、巻尺にはそれはもういろいろな欠点があり、ゲーム盤にはいろいろな利点があるというのは確かにその通り。まずもって、巻尺と言うのは単純な「駒と駒の距離」以外のことを指し示すのには不向きなものでして。力関係の差だったり好き嫌いがどうだったりというような、なんだかよくわからない「距離」を示したいときには、自由に位置関係をデザインできるゲーム盤を用いざるを得ません。そして大概のゲームには、単に何メートル離れているということではない、いろんな複雑な位置関係を示したいという差し迫った必要があるのであって、そうなると巻尺を使おうなどという発想はまず出てこないでしょう。大体いちいち巻尺で測らないと位置関係が分からないというのでは取り扱いが不便ですし、位置関係がいまいちわからないまま遊ぶというのではゲームが大雑把なものになってしまいます。

しかしだ。どんなときでも盤にマップで点と線か?

ゲーム盤を使うからといって、物理的な制限から開放されるわけじゃない。ボードゲームには駒だかカードだか何だかが必要であって、それらのことごとくが盤上なり盤外なりで一定の面積なり体積を占有する以上、ボードゲームといえど面積・体積によるデザイン上の制限から自由ではない。というより、「盤面積」という言葉はゲームデザインにとって思い切り抑圧的に働く(ここで「電源付ゲームはいいねえ」と溜息をつきつつ、しかしあっちにはあっちで画面の面積というおもーい問題があったりして、やっぱり非電源でいいやと元に戻ってくるのだった)。位置関係を何らかの図柄によって表現しなければいけない都合上、ゲーム盤が表現できる位置関係の総量は、同一面積を使って巻尺表現を行う場合に比べて少なくなる傾向がある。そして最も重要なこととして、ゲーム盤の面積というのは殆どの場合、そのゲーム盤を設置する空間の面積に比べて遥かに小さい。

まだある。ゲーム盤というのはどう見たって平面的な存在なので、三次元的空間の表現には向かない。いや、まあ、三次元だろうが十次元だろうが、ゲームに必要なぶんだけ何らかのロジックを使って表現しちまえばいいのだろうが、第一にプレイヤーがその空間を把握しようとする際にえらいこと大変な思いをしないといけないという問題、第二に三次元空間の表現はまともにやると大量の位置関係を保存しておかなければいけないということになり、すると前段で述べた量の問題から、ゲームデザインに厄介な束縛がかかることになる。

では巻尺だ。いや実際のところ、巻尺が上記のような「ゲーム盤の欠点」を常に解決できるわけではないんだけども。これは巻尺によって表現できる空間というのが、「とりあえず今現在現実に目前に確実に存在している空間」だけであるからで、百メートル平方の空間を用意できるかといえばそれは無理だし、ホバリングするヘリコプターを表現しようとすればボードゲームと同じように難解かつ滑稽な手法を採用しなきゃいけない。

巻尺が完全な優位に立てる状況は極めて限定される。必要な位置関係は距離と大雑把な高低差の2種類であること。物体に要請される動きと、物体に実現可能な動きが一致していること。

そして何よりも、いま目の前に存在している使用可能な空間と同じ面積体積および構成が、ゲームにとって必要であること。

ここまでくれば、ミニチュアゲームに必要なゲーム風景がどのようなものかは明らかだ。ゲーム会場全体を、より限定的に言えば「誰かの部屋を」、よくわからないが存在感だけはある駒という駒が、隅から隅まで駆け巡る風景。やっと企画っぽい話になったと思ったらもう書くことが無い。

んーと、ある意味ではミニチュアゲームの文法に逆らう企画ではありますね。概ねミニチュアゲームでは何らかの舞台をセッティングして、その上で駒を動かすわけですから。でもこれまでの話から行けば、「舞台」なぞセッティングして使用可能面積を狭めている場合ではないのですよ。いや起伏を作るのはOK。OKなんですけど、それだったらジオラマ山を作るのではなくて、どっかからか衣装ケースを引っ張り出して部屋の中央に置くべきだと。ジオラマ山より衣装ケースのほうが大きいんで。

それとこれは個人的な趣味の問題なんですけども、なんというかあれだ、平原の上で衝突する二つの軍団をシミュレートするよりも、部屋になんだかわからないミニチュアが大量に現れて運動会をしたり殺し合いをしたりする状況をシミュレートするほうが、話としては遥かに上出来で興奮しませんかね? ということです。


※1年くらい前に身内向けで書いたもの。まだこのアイデア自体は諦めてないんですが、じゃ作ろうかというのでできたものがどこからどう見ても御弾きの亜種であってミニチュアゲームとは何の関係も無いよ、というものだったりしてもう一度落ち着いて考え直してみましょう、という意味をこめて公開してみます。
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by Taiju_SAWADA | 2005-09-17 01:18 | うわごと

考古学ゲーム

世の中には考古学なるものがあるようです。良く知らないのですが、何か古いものについて調べたり見つけたりして研究する学問らしいです。

それ自体は別にどうでもいいんですが、考古学の人々は生業の一環として、ときおり古いゲーム道具を発見してくることがあります。エジプトの土の中から5000年前のエジプトゲームのボードらしきものがでてきました。とか。

いや、掘り出してくるとこまでなら何も引っかかるところはないのですが、考古学の人はですね、時と場合によっては、その5000年前のエジプトゲーのルールを推測して、「当時の人々はこのように遊んでいたものと思われる」と宣言してしまったりするわけです。

ここで書籍とかをこちらの側には、いいのか? という疑問のようなものが沸いてきます。何を根拠に、という。だって出てきたものってボードと、せいぜいがダイス、運がよければゲームをしている人を描写した絵、というくらいのものでしょう? ルールブック出土してないよね。出土してたら推測とかする必要もないし。コンポーネントの一部を見ただけでルールを推測できるものなんだろうか。

たとえば「まあ大体マンカラみたいなゲーム」とか「まあ大体バックギャモンっぽいんだけどあそこまで洗練されてない感じで」みたいにして片付けられたゲームがあったとして、それを遊んでいた人は「バックギャモンっぽいけどあそこまで洗練されてない感じの」ゲームに熱中して王様に禁止令を食らった哀れな市民、として描かれることになります。しかし彼らが熱中していたものは本当に洗練されていないバックギャモンなのか。実はちょっとした・しかし極めて重要なルールがそのゲームには付与されており、その付与されたルールのために全貌としてはとても洗練されていないバックギャモンという言葉では片付けられないような素晴らしいものになっていたのではないか。それはもう国中の市民が嵌って王様に怒られるくらいに。それほどのゲームに対して洗練されていないバックギャモンなどという言葉を投げかけるのは彼らプレイヤー・そしてゲームデザイナーに対する冒涜なのではないのか。

そして冒涜というのはいつでも楽しいものなので。同じようなことをやってみたいなー、という発想に至ります。

できれば一切の前情報を遮断した状態で向き合っていただきたいので、審判を一人用意すべきでしょう。審判は可能な限りマイナーな、あるいは古くて忘れ去られている、そしてテキストを多用しない(ゼロ使用が望ましい)ゲームを用意して、プレイヤーを呼んできます。プレイヤーにはそのゲームに関する何やかやの情報を知らせないまま、説明書・サマリー類を除いたコンポーネントだけを手渡します(パッケージのイラストを見せてよいかどうかでゲームの難易度と言うか方向性が変わりますが、このへんはお好みで)。そしてプレイヤーは手渡されたコンポーネントから、ゲームのルールを再現する。

別に勝ち負けがどうこうということにはならないと思いますので、評価パートは適当でいいでしょう。実際に遊んでみて近さとか面白さで決めるか、あるいはルールのそれっぽさを批評しあうとか。今度試しにやってみようかと考えています。
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by Taiju_SAWADA | 2005-06-06 00:13 | うわごと

マナーからルールへ:追記

※意味の無い長文になってしまいましたが、前回の文章の追記として意味があるのはたぶん最終段落だけです。他の部分は前回の文章と関係あるようなないような。


とはいえ、じゃあお前は暗黙のルールのようなものの存在自体を認めないのか、ルール書くときに全部注釈付けるのか、というと全然そんなことはない。という時点で一貫性の欠片もないんですけども。

ということで、失われた一貫性を求めて、どこを基準にしているのか見つめる個人的な旅行に出てみることにします。


・他人のカードを覗き見てはならない

ルールがこの文を省略していた場合、たぶん、殆どの場合は(殆どの人の場合は、ではなくて、わたくしの場合は殆どの場面で、という意味です)自分の中での暗黙ルールとして「~ならない」を採用すると思います。採用していない人と一緒にゲームをしていた場合どういう態度をとるかというのは予測にしかなりませんけど、たぶん黙って自分の手札をがんばって隠そうとするだけでそれ以上のことにはならないでしょう。しかもちょっと嫌な気分になったりとかしながら。二者の俺ルールが微妙な感じで衝突しないままなんとなくやりきれない気分を抱えて進んでいくというのは悲しいことです。少なくともこのケースでは衝突したほうが面白い。「手札管理を伴うゲームでは自分の手札を他人から覗かれないように管理するのは個々の責任において行うべきものであって、その管理状態の良し悪し・あるいは管理状態の悪さを突くという行為は当然のようにゲームの技量のうちに含まれる」とか主張してくれたりするとゲーム本体そっちのけになるかもしれないくらい楽しそうです。
じゃあ何でそんな楽しげな主張を自分自身のものとしては採用しないのかというと、まあ慣習的にというのもあるんですけども、それ以外の理由としては、「手札を何としてでも覗き見たいとがんばる人がでてきた場合、ゲームの半分以上は頑張り具合を試すだけのものになってしまって、他のルールとの整合性が全然取れない」というところでしょうか。ですので、ゲームによっては、必ずしも覗き見の禁止を強いルールとして持たせる必要はないんじゃないかな? と思うこともあります。具体的にはギャンブルゲームとか。


・山札を勝手に捲って中身を確認してはいけない

ここまで奇矯な行為になるとさすがに実地では起こりえない気もしますが、しかしルールにおいて省略されていた場合に「なんでダメか」を説明するのは案外難しい。基本線としては、山札が伏せて置いてあるとルールに書いてある場合、それはそのまま、ルールに書かれている以外の手段で山札を開けてはならないことを意味しているからだ、という方向で行きたいと思います。任意に中身を確認できるということは山札が全て開けられている(単純にひっくりかえしただけだと「1枚目だけ開いている」というのと区別がつかないんで、ひっくり返したうえで一列に崩すという状態を指す必要がありますが)のと同じことであり、ルールにおいて山札の記述がそういう「開けておく」というようにはなっていなくて「伏せ山にしておく」となっているということは、つまり山札を勝手に開けることはできないというルールを指し示しているのだ、という感じ。でもこれって理屈としてはかなり微妙で。ある種のゲームについては、「勝手に捲るのを有りにするとゲームそのものが成り立たなくなるから」という一言で終わらせられるんですが、そうじゃないような「それはそれであり」というものだった場合は。うーむ。


・勝利、または順位点が設定されている場合は獲得順位点の最大化を、自らの主観のもとでを目指さなくてはならない

いきなりレベルが違う話を持ってきてるような。実は必ずしもこれを前提と置いていないで遊んでいるケースは少なくないんじゃないかと思いますが、一応みなさんそうするふりくらいはしないといけないことになっている前提、ということでいいんでしょうか。理由付けとしては、そうしないとゲームが想定どおりに機能しないから、ということになるでしょうか。逆に言えば、一部のプレイヤーが離脱してもゲームが全体として機能するならどうでもいいんですけど。全員がきちんと上記の前提を持っていると機能しなくなる糞ゲームについてはどうでしょうか。ゴミの日に出しちゃえばいいんじゃないでしょうか。


・ゲームの外側の事項、具体的には社会的地位や人間関係を、ゲームの内側でリソースとして使用してはならない

またレベルが違う話ですが、これはさすがに理由なし無条件の前提とさせてくださいお願いします。誰に懇願しているのか。外側と完全に切れた世界に自分の意思で突っ込むからこそのゲームなんですよう。


・勝手に手札を交換してはならない

脱線がふたつほど続いたので話をもとに戻しましょう。手札、に限らずですが、自分の管理対象となっているリソースを他人と融通しあってはいけない、というもの。ルールにおいて記述が省略されていた場合、わたくしの俺ルールでは、ルール作者に対して一定の文句をつけた上でですが、リソース交換の禁止を採用します。また、プレイヤー色の採用などにより、一人のプレイヤー専用のリソースであることが指し示されていた場合は、文句をつけることなく自動的に採用します(ほんとは他プレイヤーのリソースを自分で操作するというゲームは充分に成り立つはずなので、自動的には採用できないはずですが)。逆に金銭などの明示的な全てのプレイヤーに共通のリソースが存在している場合は、一応の俺基準としては採用するものの、ルールとまでしていいかどうかはかなり悩みます。
コントラクトブリッジっぽいカードゲームがあったとして、たとえばカードを誰かから貰うだけ、みたいなやりとりを認めてしまうと、ゲームのルール全体に不整合を起こしてしまうので、ああこれはつまりそういうことは無しという前提で作っているんだな、とわかります。しかし交換となると。別に不整合は起きないし、ゲームとしても取り立てて問題なく成立する。実際にはトリックテイキングならば、このジャンルは過去の資産にはっきりと寄り添ったものなので「明示されていない場合は過去のトリックテイキング標準ルールを参照のこと」で終わらせてしまえそうなのですが、そうでないゲームだとどうなるのか。
でもって、最初の例として出した「自分の手札をみせびらかしていいのか?」というお題に最も近いのは、いままでに掲げた5つの中では間違いなくこれなんですよね。自分のものとして与えられたリソースをどのように管理するのか、という話で、更に言えば、認める・認めない、どちらの立場をとってもゲームとしては成立して、他のルールとの整合性にもとりたてて問題が生じることは無い。


そうすると二者を分けるものはなんでしょうか。

1) 無い。

ので、各行為につき(明文化された・あるいは暗黙の)ローカルルールを定めておきます、という立場。本来これはマナーとは違う、あくまでローカルルールとして扱われるべきものの筈ですが、マナーとルールを区別しないことにより困るケースってそんなに多くは無いので仕方ないのでしょう。というより、区別がされていないことによって困るのは、当の区別しないで扱っている人々じゃなくてそこに直面する「区別する人々」の側なので。

2) ゲームの性質の変化によって区別される。

ゲームのルールから、そのゲームが志向していると思われるジャンルを推測し、そのジャンルからの差分量をもって暗黙のルールを考える立場。手札交換を有りとした場合、ゲームに大きな交渉要素が導入されることになります。元々のゲームが交渉を志向していないと思われるものであれば、暗黙のルールとしては交渉要素を導入できない、ということになります。手札の公開についても同様。元のゲームのルールから整合性を気合で読み取りましょう、ということです。問題は当然、読み取った結果が全員一致するとは全く限らないことで、衝突が起きるとルール解釈論争が始まります。

3) 行為がリソースを動かす度合いによって区別される。

ゲームにおいて用いられるリソースをどれくらい動かす行為か、という点から仕分けを行う立場。たとえば、手札交換・手札公開と、他にも口先交渉とか発言(独り言)とかを考えて、「他プレイヤーの合意を必要とするか否か(必要とするほうが大きい行為)」「ゲーム上の明示的なリソースを動かすものか否か(動かすもののほうが大きい行為)」という二軸を取ると、手札交換が一番大きい行為であり、独り言が一番小さい行為ということになります。で、一定の大きさ以上の行為は無し。この立場の問題は軸の取り方と閾値の二つ。

4) 行為の過失可能性によって区別される。

過失可能性というのは今作った言葉です。同じ行為を故意ではなく過失によって行えるか否かによって区別を行う立場。カードを故意でなく過失でうっかり落としてしまって他プレイヤーにばれてしまう、というのは有り得る(よくある)ことなので、故意によって同様のことを行うのも認める。手札を交換するというのは過失によっては起こりえないと判断できるので認めない。判断基準としては他のものよりは明瞭といえます(明瞭ならいいのか、という話は別にして)が、それでも重過失を認めるか否かという話は残り、そして重過失とは何かという方向に話が進むと止まらなくなります。


まだあるかな。手札公開と手札交換の違いに関してだけでも可能な立場はたくさんあります。わたくし個人の立場は、前回の内容のとおり[2]なのですが、全員が同一の立場をとる場合でも、個々のゲーム・個々のルールに関する解釈の違いによって揉めることは普通にあり、立場そのものが異なっている場合には、相手の主張の内容の意味がわからない、というレベルにまで断絶が広がってしまうことも充分に考えられます。


そろそろ旅行から帰ってこれなくなりそうなので話を無理にでも切り上げたいと思いますが、そもそも何の話をしていたのでしょうか。ルールに書いてない部分の解釈の話でしたか。えっと、とりあえずルール作者の方々(他人事では全く無いが)に関しては、重要なルールくらい書いとけと。特に交渉関連と所有リソースの管理の部分はいくらでも揉める余地があるので精密に。それはそれとして書いていないルールについては、結局のところどちらの側も俺デフォルトルールを当然としていて、その怪しさについては気づくまでは考えてもみないでしょうから、実際に衝突が起きてはじめて問題の所在を認識するということになるのは仕方ない。但し、衝突が発生した時点では問題は顕在化しているわけですから、場所固有のローカルルールを、全ての場所と状況においてプレイヤーが道徳として遵守すべきものとしてこの段階で主張されると、これは相手側の立場の一切が無視されている訳で、やはり少々悲しいものがあります。ローカルルールはローカルルールとして、「この問題については複数の立場が選択可能であり、ここではこういう立場が共通のものとして選択されている」という話であれば、別に何も厄介なことはないのですけれども。
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by Taiju_SAWADA | 2005-05-04 13:46 | うわごと

マナーからルールへ

※東京都千代田区とは無関係です

あらゆる趣味や活動やその他の諸々と同様、ボードゲームだったりカードゲームだったりという趣味の分野にも、その分野に独自のマナーとされるものがあります。そしてこれもあらゆる文化と同様、分野に所属する人の中には若人というのが一定の割合で混在しており、若人は若人の義務として設定されたマナーへの違和感を表明するわけです。

わたくしが若人であるか否かの判断は読者の皆様方にお任せしたいと思いますが。

ゲームの外側にあって「ゲーム趣味」の内側にある、対人関係における礼節という枠で括ってしまえる部分について問題視する予定はまったくございません。あるいは、各ゲームないしゲーム群において設定されている作法につきましても、それがゲームにおける意思決定の根幹とは無関係なものであれば、作法の煩雑や不合理についての疑問こそあれ、特段なにか声をあげて反抗を行いたいというほどの気分にはならないものです。

不愉快なのはルールを侵食するマナーなのであります。

紙に書かれたルールと「勝利を目指すこと」という前提とによって、総体としての行動ルールが設定されます。プレイヤーはその中で可能なあらゆる行動を選択肢として抱え、そして抱えた選択肢の全てを吟味して、最も有利であると判断した行動を実行に移します。すると他のプレイヤーからの制止。

「いや、それはマナー違反だから」
誰が決めたんだよ。

古代でも中世でもない現代のボードゲームなりカードゲームを遊ぶ上で重要なのは、そういうことを決めるべき人が厳然と存在しているということで、これは当然ゲームデザイナーということになります。ゲーム上の意思決定に関する全ての行動ルールはゲームデザイナーが設定するものでなければならず、そうでなければプレイヤーは何を基準に行動すべきか分からなくなってしまいますから。古くから存在し、デザイナーも不明なら基準となるルールも一つに定まらず、かつプレイヤーの間で遊び方にコンセンサスが何となく出来上がっているようなゲームと、現代のゲームとは、この点においては同列には並べられません。無論、現代のゲームにおいてもプレイヤーの間の何らかの常識なるものに寄り添った形でルール設計されている可能性は否定しませんし、というよりもむしろ基本的には明確に寄り添った形で設計されていたりするのですが、しかし少なくともそのゲームはつい最近になって誰かが考え出した新しいゲームなのであって、その新しいゲームに対して、過去のゲームにおける常識をそのまま外挿してマナーとして意思決定に介入させるのは、デザイナーに対してそれこそ礼を失することになるのではないでしょうか。

という抽象的な憤りの後に何を具体例として持ってくるのかといえば、「手札を他プレイヤーに見せびらかしたら怒られたので悲しかった」というだけの話なんですけど。でもルールには手札見せちゃだめって書いてないのよー。
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by Taiju_SAWADA | 2005-04-29 12:44 | うわごと

「トップ・ラス」への反抗

あー。そだ。金賭けりゃ良いんだ。

表題と上記の一行目だけで一部の人には何を言ってるか分かってもらえるような気もするのですが、そういう無理やりな我侭を通すのもどうかと思うので、以下多少の補足を。

まず何について触れたいのかというと、多くのマルチプレイヤーゲームのルールと、それ以上に多くのマルチプレイヤーゲームのプレイヤーが、一位以外の順位を全く気にかけていないという話題なのです。このことが良いことか悪いことかというと、んーとどっちかというとやや良い感じ? くらいのポジションであって、何が良いのかというと、マルチプレイヤーであってかつ「良い位置」に付けることができるのが一人だけ、となると大半の人は「良くない位置」に付かざるを得ないわけで、それでもそのゲームをやろうというからには、その動機として「勝ちたい(又は強くなりたい)」以外のものをどうしても持たないと話にならない。それであってこそゲームの良し悪しに視線を送る余裕も出てこようというものでしょう。そうでないひともいっぱいいるでしょうけども、とりあえず一つのそれなりに個人的には納得できる主張だと思います。

但し、それだけじゃなんかねえ、と思うのもまたありまして、その残念な感じというのは言い換えると、全てのゲームが「目的はトップ獲得のみ」となってしまったがために、そうでない目的を持つゲームならば実現できたかもしれない別のゲームデザインが何か煙のようにどっかに行ってしまったんじゃないか、という喪失感なのです。

しかし、じゃあトップ獲得のみを目的としないファミリーストラテジー系マルチプレイヤーゲームを作れるのか? という問題を設定すると、実際にはそう簡単でもなかったりします。厄介なのはデザインの技術面ではありません。いや、技術面でも厄介な部分は充分に存在しそうではありますが、最初に圧倒的な壁として立ちはだかるのはそこではない。最初にしてたぶん最大の壁は、プレイヤーの意識にあります。ルールブックにどれだけ大きい文字で「1位の価値と2位の価値と3位の価値と以下略」と書いたところで、プレイヤーは簡単に「それはそれとしてトップ以外は全員屑ね」と変換してしまうでしょう。これはそういうゲームじゃないんだ、2位狙いと3位狙いと1位至上主義者がその価値観の摩擦によって泥だらけになる様を味わうためのゲームなんだ、とデザイナーが主張したところで、たぶん受け流されて終わり。じゃあどうすればいいのか。

[ここで一行目に戻る]

つまりは他所から別の価値の体系を取ってくればよいのだね、と。トップ以外は全員屑であろうと、そんなイデオロギーとは全く無関係に1000円の浮きは1000円の浮きであって、抽象的な2位なるものとは全く違った重い喜びをこの一枚の紙は与えてくれます。とりあえず既存の多数のゲーム、あるいは新たにそういうことを意識して製作したゲームに金を賭けてみる(賭けさせてみる)ことによって、トップ至上主義と離れたところにあるゲームがどのようなものであるのか観察することができるかもしれません。

ここからは補足の補足。昔どこかの哲学だかなんだかよくわからない人が、競技性のゲームの楽しみとギャンブルゲームの楽しみは基本的に相反するものであって、ギャンブルゲームはただ偶然性によって自分の運命(の一部)が翻弄されることをこそ楽しむものであるから、そのルールはなるべくスキルの関与しないものであることが望まれている、とか書いていて一定のポピュラリティを得ていたような気がしないでもないですが、知らねえよそんなフランス人のことなんか。

もう一つ。それなりの競技性を持ちつつ一般的にギャンブルゲームとして普及している麻雀にはしかし、トップに対して小さくないボーナスポイントが与えられるという慣習が存在するみたいで、なんだよ結局トップラスかよ。何のために金賭けてんだよ。
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by Taiju_SAWADA | 2005-01-30 23:52 | うわごと

終盤倫理

トップが取れなくなってしまったプレイヤーに対して、ある種の行動が強制されることがあります。概ね「勝敗に関係ある行動を行ってはならない」か「トップを妨害する行動を取らなくてはならない」のどっちかということになると思います。個人的にはこの種の強制をかけられることに対してはいくらかの不快を感じるのですが、その不快の原因というのは何なのでしょうね、というところを胸に手を当てて考えてみようと。

この話はいくつかのポイントに分かれておりまして、列挙すると

1. そもそもそんな状況が頻発するゲームはどーなのよ問題
2. 利他行為と見られる行為に対する態度の問題
3. 「1位以下順位なし」か「個々の順位に一定の価値を認めるか」の齟齬の問題
4. 自らの行動が自らに対して意味を持たなくなった場合の行動基準の問題
5. プレー中の行動規範一般の問題

ということになると思います。わたくしとしては、ファミリーストラテジーとして括られるようなゲームの場合、[1]そもそもそんな状況が頻発するゲームには欠陥があるんじゃないかという問題はもっと大きく取り扱われてしかるべきだと思うのですが、どっちかというとこの基準をクリアしないゲームのほうが多いだろう(そうでなければこういう話題が出てくることもそうそう無いのでしょうし)ということと、とりあえず今喋りたいこととは関係が無いということで、ここでは脇に置いときたいと思います。

最初に片付けておかないといけないのは[2]、利他行為に対する態度の問題ですかね。終盤云々とかほんとは関係なく、そこでトップに優位になるように動くのは単純に利他行為じゃないの? というだけの話。こういう場合は一応向こうの言い分を聞いておいたほうが無難なのでしょう。その行動が利他行為であると主張するからには、より(主張している者にとって、ではなく、自分にとって)良い代替案を教えてくれる可能性が高いからです。但しここで気をつけておかないといけないのは、相手の主張が正しいと保証してくれるものは何も無い、ということで、向こうが本当に自分にとってより正しい道を示してくれているのか、あるいは単に自分の不利を避けたいだけなのかということも分からないし、それ以前に相手がそこまでの頭を持ってものを喋っているのかどうかすら怪しいものです(特に、「トップを叩かないのは利他行為だ」と主張してそれ以上のことを言わない人に対しては、単に脊髄反射で叫んでるだけという可能性を疑ってかかるべきでしょう)。相手方の“証明”を最後まで聞いて、それに納得したら、行動を変えればよいというだけのこと。そのような「証明」が可能な場面が、大概のゲームでは終盤に偏っているため、この問題は終盤倫理の問題と同時に現れることが多いのですが、ここで取り上げたい問題とこの問題はたぶん別物なので、これで終わりにして次にいきます。

次に出てくるのが[3]の順位の価値の話で、ここが問題全体の源泉として扱われることも多いかと思います。この問題はつまるところ、2位以下の各順位の価値について、プレイヤー間での認識がばらばらであるという問題であると言い換えられます。ゲームに関するプレイヤー間の認識の統一というのは第一にルールブックによって行われるべきなのですが、こういうことを書いていないルールブックは結構多く、またそれよりも厄介な点として、わざわざルールブックに書いてあることを無視するプレイヤーが大変多かったりします。ルールブックに「以下、2位、3位とつけていきます」と書かれているのに「1位以外はみんな負け」という価値観のもとに謎の行動倫理を強制されるのはいい加減なんとかならないかと思うのですが、どちらにせよ「ルールブックに書いてない」「書いてあっても気にとめられない」となると、解決策としては事前に認識の統一を明示的に行っておく、ということしか無いでしょう。

と書いたところで、逆に認識の統一を行わない場合どうなるかを考えて見ますと、これは暗黙の前提が全プレイヤー間に共有されているのが確実でない限りは、両者の考え方が共存する可能性を認めるということを意味します。ということは、プレイヤーはプレー中、「他プレイヤーは順位について自分と異なった価値体系を持っている」という可能性を常に意識しないといけなくなります。そのへんを履き違えて失敗して後で文句言われても知ったこっちゃねえよと。全然問題ないじゃん。

話が混乱してしまいました。価値観(というより、本来は単に「ルール」というべきなのですが)が統一されていない場合、あるいは「価値観(というより、本来はルール以下略)が統一されているという保証が存在しない場合」のほうが、価値観(ルール)の非統一性を指摘して終わりにしてしまえるぶん話は単純に済んでしまうようで。むしろ認識統一がされている場合、あるいはそもそも認識の齟齬が起こりえない場合(具体的にいうと、あるプレイヤーが、以降どんな行動を取っても、自分の順位にも自分の点数にも何の影響ももたらさない、という場合です)を考えないといけないということになりそうです。

ということで問題[4]、「あるプレイヤーが、以降どんな行動を取っても、自分の順位にも自分の点数にも何の影響ももたらさない場合(但しここでは、自分の順位は2位以下であるとしましょう)の行動基準」に移ることになります。問題[3]と違って、(「負け抜け制」が取られているようなゲームを例外とすると)この問題に対してルールブックに何がしかの指針が示されているということは基本的にありません。でも処方箋のほうはたぶんやっぱり一緒で、最初に話をあわせておく、と。ただこの処方箋はいかにも弱そうな臭いがしていて、というのは前の問題の場合、2位をどう解釈するのかという単純なルール設定の話だったのに対して、ここでは「自分の順位が確定した・と思われる・場合」という句がつきます。「と思われる」の句を取り外してしまうと、きわめて限定された状況のルールとなってしまってあんまり役にたたなくなってしまい、逆に「と思われる」を残しておくと、順位の確定に対する認識のずれの問題が出てきて事態はより混迷の度合いを深めていきます。

というわけであんまりこの方法は役に立たなさそうなんですが、わたくしがこの方法に対して持っている違和感の源泉は、その役立たずっぷりとは全く別のところにあります。というのはこの制限って、[3]のときとは違って、きわめて直接的な「意思決定権の剥奪」なわけです。なにしろ順位の変動と関係がなくなった瞬間に行動の自由が奪われてしまうのですから。なんで行動の自由も無いのにゲームに参加していなきゃいかんのか。

とここまで書いたところで、「意思決定に制限がかかるのは別に駄目なこととは限らないんじゃないのか」だったり「別にそーゆうシチュエーションで意思決定ができなくなるくらいのことは甘受すべきじゃないのか」という疑問が湧いてきたのでこれに答えなければいけません。ええと、前者については、駄目ではないです。というのは、基本的にゲームにおいては、全プレイヤーが「勝利を目指すこと」を前提としており、勝利を目指さないような、つまりは負けに行くことを意図して行動すると言うのはよろしくない、ということになっています。プレイヤーがどっちの方角を向かなければいけないか、ということが予め定まっているように看做されるよと。大体のプレイヤーが基本線としてのこの制約は内面化しているといっていいと思います。問題になるのは、この基本線にどういう装飾がくっつくかということ。ここでさっきの2つめの疑問に話が戻りまして、たとえばプレイヤーが以下のような制約を内面化しているとして。

・プレイヤーは(ルールの範囲内で)勝利を目指さなければならない
・プレイヤーは、全プレイヤーの「楽しさ」の総量を高めるよう努めなければならない

少しでも下側の(「全員の楽しさ」の)制約を自分の中に持っているプレイヤーにとっては、終盤における意思決定権の剥奪は当然のこととして受け止められます。今回問題にしている状況というのは、上側の(勝利に関する)制約の対象外ですから、二つの制約の比率は問題ではありません。勝敗が関係ないんだから周りを気にしましょうよ、ということですね。

逆に、「全員の楽しさ」の制約を持たないプレイヤーにとって、唯一の制約である「勝利に関する制約」の対象外であるような状況においては「何をやってもいい」ということになります。ところで、こういうプレイヤーは、というのは制約を一つしか持たないプレイヤーのことですが、他プレイヤーについても「勝利に関する制約が外れたプレイヤーは行動の基準がなくなり、したがって何をしてくるか全く分からなくなる」ということを前提として考えますから、他のプレイヤーが戦線から離脱してしまうということを避けます。また、他プレイヤーが自分に対して取る行動についても同様のことを期待するか、少なくとも、その他プレイヤーが取った行動によって自分が戦線から離脱した場合には自分がどのような行動をとっても構わない、ということについては了解が取れているものと考えます。

一方で、制約を二つ持つプレイヤーにとっては、勝利に関する制約が外れたプレイヤーは別の制約によって動くことになり、ということはそういう人々が何をしてくるか分からなくなるなんてことには全くならないので、他プレイヤーが戦線から外れるような行動を躊躇う理由はありません。そしてそのような行動を取った結果、相手が戦線から離脱した場合、その離脱したプレイヤーについては、二つ目の制約に沿って動くことを期待します。

という過程を経て、ここにめでたく衝突が発生します。これが最後のトピック、[5]プレイヤーが自分の中に持っている倫理の問題で、わたくしの感じる不快の原因はここにたどり着くのではないかというのが結論です。全員の楽しさというものの追求を、意思決定に対する(倫理的な)制約として採用している人としていない人との対立。といって「全員の楽しさの追求」を制約として持たない人がそういうことを全く考えていないかというとそんなことは無くて、たとえばゲームを評価する際の基準として「全員が楽しかったか?」ということを考えていたりするのです。つまりは「全員の楽しみ」ということをどの部分の責任として考えるかという考え方の違いであって、これをルール化して強制するのは無理があり、そうすると対立およびそれに伴う不快が解消されることは残念ながら無いのだなあ、という悲しい結びになってしまいました。



[Dec17/2004 追記]
最後から二番目の段落の「プレイヤーが戦線から外れるような行動を躊躇う理由はありません。」という部分は単純に間違いですね。このプレイヤーは「楽しさの総量」に関する制約を持っているので、そういう行動を取ることに躊躇はあるはずです。そういう行動を「取らない」かどうかは、各人が持つ制約のバランスの問題になるので決まったことは言えず、またそういう行動が取られた後のことに関しては修正の必要はないので、話の全体としてはこのまま通すことにしますが、ちょっと主張としては弱くなりますかね。
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by Taiju_SAWADA | 2004-12-14 00:40 | うわごと