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ゲシェンク

[全員、チップを何枚か持ってスタート。毎回、山札から「失点カード(-3から-35まで)」が出てくるので、手番のプレイヤーはこの失点カードを諦めて取るか、とりたくないのでチップを場に1枚払うかする。失点カードを取る場合、場に溜まっているチップも全部取る。山札が尽きた時点で失点の一番少ない人の勝ち。]

実のところこのゲームに対してはだいぶんアンビバレントな感情を持っていて、そのために以下の感想文も混乱したものになるのは間違いない-そういう一切の余計な思いを切り取って、面白いか面白くないか、と言う話だけして終えてしまおうというのであれば、躊躇なく「面白い」と言い切ってしまって構わない。あるいはその度合いを一言で評するのであれば「佳作」ということになる。のだけれど。それで終わりにしてしまうには余りにも何か、惜しい感じがする。-何がいいたいのかというとですね。とても身勝手な言い草ではあるのですが「もっと面白くても良かったんじゃないの?」ということなのです。 Moegul (M.Schacht / Timbuktu 2002) を更に洗練された形で表現したようなルールを読んだときには、10年に1度というレベルを想像していましたから。どこに問題があったのかというのは分からないのですが、作者側のやりたかったこととわたくしの期待する方向が単純に思い切りずれていた、ということはあるかもしれません。何を期待していたのかといいますと、極度に単純化された現在の「取るか取らないか」の意思決定が後になって致命的に効いてくるのが分かりきっているという時の躊躇とか痛みとかそういった諸々をゲームの開始から終了まで途切れることなく感じられる、というような要するに胃痛系の傑作なんですが、実際に提供されているものはむしろカード運に思い切り翻弄されるなかでそれでもまあなんとかして期待利得が高まるよう頑張って遣り繰りしなさいね、というもので、確かにカードゲームにおける一つの王道と言える方法ではありそういうものとして楽しむ分には(若干プレー時間が長いかな、という点を除けば)これはこれで立派なゲーム、ではあるわけです。わけなんですけど。なんですけども。このルールで胃痛への道を切り開こうとしないのは余りに勿体無いのではないか、個人的な思いとして言わせて頂くならばネタ殺しに近いんじゃないかという気分すらあるのです。

Geschenkt
by Thorsten Gimmler
Amigo 2004
★★★
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by Taiju_SAWADA | 2004-12-31 10:57 | 感想・紹介

終盤倫理

トップが取れなくなってしまったプレイヤーに対して、ある種の行動が強制されることがあります。概ね「勝敗に関係ある行動を行ってはならない」か「トップを妨害する行動を取らなくてはならない」のどっちかということになると思います。個人的にはこの種の強制をかけられることに対してはいくらかの不快を感じるのですが、その不快の原因というのは何なのでしょうね、というところを胸に手を当てて考えてみようと。

この話はいくつかのポイントに分かれておりまして、列挙すると

1. そもそもそんな状況が頻発するゲームはどーなのよ問題
2. 利他行為と見られる行為に対する態度の問題
3. 「1位以下順位なし」か「個々の順位に一定の価値を認めるか」の齟齬の問題
4. 自らの行動が自らに対して意味を持たなくなった場合の行動基準の問題
5. プレー中の行動規範一般の問題

ということになると思います。わたくしとしては、ファミリーストラテジーとして括られるようなゲームの場合、[1]そもそもそんな状況が頻発するゲームには欠陥があるんじゃないかという問題はもっと大きく取り扱われてしかるべきだと思うのですが、どっちかというとこの基準をクリアしないゲームのほうが多いだろう(そうでなければこういう話題が出てくることもそうそう無いのでしょうし)ということと、とりあえず今喋りたいこととは関係が無いということで、ここでは脇に置いときたいと思います。

最初に片付けておかないといけないのは[2]、利他行為に対する態度の問題ですかね。終盤云々とかほんとは関係なく、そこでトップに優位になるように動くのは単純に利他行為じゃないの? というだけの話。こういう場合は一応向こうの言い分を聞いておいたほうが無難なのでしょう。その行動が利他行為であると主張するからには、より(主張している者にとって、ではなく、自分にとって)良い代替案を教えてくれる可能性が高いからです。但しここで気をつけておかないといけないのは、相手の主張が正しいと保証してくれるものは何も無い、ということで、向こうが本当に自分にとってより正しい道を示してくれているのか、あるいは単に自分の不利を避けたいだけなのかということも分からないし、それ以前に相手がそこまでの頭を持ってものを喋っているのかどうかすら怪しいものです(特に、「トップを叩かないのは利他行為だ」と主張してそれ以上のことを言わない人に対しては、単に脊髄反射で叫んでるだけという可能性を疑ってかかるべきでしょう)。相手方の“証明”を最後まで聞いて、それに納得したら、行動を変えればよいというだけのこと。そのような「証明」が可能な場面が、大概のゲームでは終盤に偏っているため、この問題は終盤倫理の問題と同時に現れることが多いのですが、ここで取り上げたい問題とこの問題はたぶん別物なので、これで終わりにして次にいきます。

次に出てくるのが[3]の順位の価値の話で、ここが問題全体の源泉として扱われることも多いかと思います。この問題はつまるところ、2位以下の各順位の価値について、プレイヤー間での認識がばらばらであるという問題であると言い換えられます。ゲームに関するプレイヤー間の認識の統一というのは第一にルールブックによって行われるべきなのですが、こういうことを書いていないルールブックは結構多く、またそれよりも厄介な点として、わざわざルールブックに書いてあることを無視するプレイヤーが大変多かったりします。ルールブックに「以下、2位、3位とつけていきます」と書かれているのに「1位以外はみんな負け」という価値観のもとに謎の行動倫理を強制されるのはいい加減なんとかならないかと思うのですが、どちらにせよ「ルールブックに書いてない」「書いてあっても気にとめられない」となると、解決策としては事前に認識の統一を明示的に行っておく、ということしか無いでしょう。

と書いたところで、逆に認識の統一を行わない場合どうなるかを考えて見ますと、これは暗黙の前提が全プレイヤー間に共有されているのが確実でない限りは、両者の考え方が共存する可能性を認めるということを意味します。ということは、プレイヤーはプレー中、「他プレイヤーは順位について自分と異なった価値体系を持っている」という可能性を常に意識しないといけなくなります。そのへんを履き違えて失敗して後で文句言われても知ったこっちゃねえよと。全然問題ないじゃん。

話が混乱してしまいました。価値観(というより、本来は単に「ルール」というべきなのですが)が統一されていない場合、あるいは「価値観(というより、本来はルール以下略)が統一されているという保証が存在しない場合」のほうが、価値観(ルール)の非統一性を指摘して終わりにしてしまえるぶん話は単純に済んでしまうようで。むしろ認識統一がされている場合、あるいはそもそも認識の齟齬が起こりえない場合(具体的にいうと、あるプレイヤーが、以降どんな行動を取っても、自分の順位にも自分の点数にも何の影響ももたらさない、という場合です)を考えないといけないということになりそうです。

ということで問題[4]、「あるプレイヤーが、以降どんな行動を取っても、自分の順位にも自分の点数にも何の影響ももたらさない場合(但しここでは、自分の順位は2位以下であるとしましょう)の行動基準」に移ることになります。問題[3]と違って、(「負け抜け制」が取られているようなゲームを例外とすると)この問題に対してルールブックに何がしかの指針が示されているということは基本的にありません。でも処方箋のほうはたぶんやっぱり一緒で、最初に話をあわせておく、と。ただこの処方箋はいかにも弱そうな臭いがしていて、というのは前の問題の場合、2位をどう解釈するのかという単純なルール設定の話だったのに対して、ここでは「自分の順位が確定した・と思われる・場合」という句がつきます。「と思われる」の句を取り外してしまうと、きわめて限定された状況のルールとなってしまってあんまり役にたたなくなってしまい、逆に「と思われる」を残しておくと、順位の確定に対する認識のずれの問題が出てきて事態はより混迷の度合いを深めていきます。

というわけであんまりこの方法は役に立たなさそうなんですが、わたくしがこの方法に対して持っている違和感の源泉は、その役立たずっぷりとは全く別のところにあります。というのはこの制限って、[3]のときとは違って、きわめて直接的な「意思決定権の剥奪」なわけです。なにしろ順位の変動と関係がなくなった瞬間に行動の自由が奪われてしまうのですから。なんで行動の自由も無いのにゲームに参加していなきゃいかんのか。

とここまで書いたところで、「意思決定に制限がかかるのは別に駄目なこととは限らないんじゃないのか」だったり「別にそーゆうシチュエーションで意思決定ができなくなるくらいのことは甘受すべきじゃないのか」という疑問が湧いてきたのでこれに答えなければいけません。ええと、前者については、駄目ではないです。というのは、基本的にゲームにおいては、全プレイヤーが「勝利を目指すこと」を前提としており、勝利を目指さないような、つまりは負けに行くことを意図して行動すると言うのはよろしくない、ということになっています。プレイヤーがどっちの方角を向かなければいけないか、ということが予め定まっているように看做されるよと。大体のプレイヤーが基本線としてのこの制約は内面化しているといっていいと思います。問題になるのは、この基本線にどういう装飾がくっつくかということ。ここでさっきの2つめの疑問に話が戻りまして、たとえばプレイヤーが以下のような制約を内面化しているとして。

・プレイヤーは(ルールの範囲内で)勝利を目指さなければならない
・プレイヤーは、全プレイヤーの「楽しさ」の総量を高めるよう努めなければならない

少しでも下側の(「全員の楽しさ」の)制約を自分の中に持っているプレイヤーにとっては、終盤における意思決定権の剥奪は当然のこととして受け止められます。今回問題にしている状況というのは、上側の(勝利に関する)制約の対象外ですから、二つの制約の比率は問題ではありません。勝敗が関係ないんだから周りを気にしましょうよ、ということですね。

逆に、「全員の楽しさ」の制約を持たないプレイヤーにとって、唯一の制約である「勝利に関する制約」の対象外であるような状況においては「何をやってもいい」ということになります。ところで、こういうプレイヤーは、というのは制約を一つしか持たないプレイヤーのことですが、他プレイヤーについても「勝利に関する制約が外れたプレイヤーは行動の基準がなくなり、したがって何をしてくるか全く分からなくなる」ということを前提として考えますから、他のプレイヤーが戦線から離脱してしまうということを避けます。また、他プレイヤーが自分に対して取る行動についても同様のことを期待するか、少なくとも、その他プレイヤーが取った行動によって自分が戦線から離脱した場合には自分がどのような行動をとっても構わない、ということについては了解が取れているものと考えます。

一方で、制約を二つ持つプレイヤーにとっては、勝利に関する制約が外れたプレイヤーは別の制約によって動くことになり、ということはそういう人々が何をしてくるか分からなくなるなんてことには全くならないので、他プレイヤーが戦線から外れるような行動を躊躇う理由はありません。そしてそのような行動を取った結果、相手が戦線から離脱した場合、その離脱したプレイヤーについては、二つ目の制約に沿って動くことを期待します。

という過程を経て、ここにめでたく衝突が発生します。これが最後のトピック、[5]プレイヤーが自分の中に持っている倫理の問題で、わたくしの感じる不快の原因はここにたどり着くのではないかというのが結論です。全員の楽しさというものの追求を、意思決定に対する(倫理的な)制約として採用している人としていない人との対立。といって「全員の楽しさの追求」を制約として持たない人がそういうことを全く考えていないかというとそんなことは無くて、たとえばゲームを評価する際の基準として「全員が楽しかったか?」ということを考えていたりするのです。つまりは「全員の楽しみ」ということをどの部分の責任として考えるかという考え方の違いであって、これをルール化して強制するのは無理があり、そうすると対立およびそれに伴う不快が解消されることは残念ながら無いのだなあ、という悲しい結びになってしまいました。



[Dec17/2004 追記]
最後から二番目の段落の「プレイヤーが戦線から外れるような行動を躊躇う理由はありません。」という部分は単純に間違いですね。このプレイヤーは「楽しさの総量」に関する制約を持っているので、そういう行動を取ることに躊躇はあるはずです。そういう行動を「取らない」かどうかは、各人が持つ制約のバランスの問題になるので決まったことは言えず、またそういう行動が取られた後のことに関しては修正の必要はないので、話の全体としてはこのまま通すことにしますが、ちょっと主張としては弱くなりますかね。
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by Taiju_SAWADA | 2004-12-14 00:40 | うわごと