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内紛または内紛もどき

何度繰り返しても喋ってるほうは飽きないテーマなのでまた扱うわけですけど、ボードゲームというものは基本的にゼロサムの構造を持っているがために、扱いづらい題材というものがあります。ここで題材というのはアラビアンナイトがどうとか鉄道がどうとかいうスキンの問題ではなく、ディレンマの構造だったり集団思考の結果だったりとかそういう系統の話で、たとえばというので取り上げるのが内紛という現象です。

いや、範囲を限定してしまえばむしろこれは楽なテーマでして、具体的には内紛の発生後をゲームのスタート地点として、その発生した紛争に勝利することをゲームの勝利条件とするのであれば、そのようなゲームはごく普通に存在します。しかしこのような処理を行った場合、元々の題材である「内紛」は、それこそアラビアンナイトと同じく単なる後景になってしまい、構造としての内紛を表現したことにはなりません。

内紛の構造上の楽しさというのは、みなさん一致して本来やるべきことが他にあるにも関わらず、それとは全然関係ない争いに現を抜かしているというところにあります。前述のような形で内紛を取り扱ってしまうと、結局のところその紛争に勝ってしまえばそれでそのゲーム世界における最終目的を果たしてしまえるわけで、「一致して本来やるべきこと」というのがゲームのどこにも出てこない。内紛の一番面白いところが飛んでしまっているのです。

さてどうしましょう。本来やるべきことと全然関係ない争いとどっちが大事かと言えばこれは本来やるべきことなのであって、そして本来やるべきことというのは一致している必要があるので、ということは協力ゲームの枠を持っている必要があります。問題は、これも以前触れたような気がするのですが、協力ゲームというのは実質一人ゲームなので、そのままでは内紛が発生しないということです。

この「協力ゲーム=一人ゲーム問題」について、最近の話題作である Shadows over Camelot (Cathala and Laget / Days of Wonder, 2005) では裏切り者を入れるという解決策を試みています。このゲームにおける裏切り者の効果は、他者の提案をそのまま自分の提案として受け入れることをプレイヤーに躊躇わせるというレベルで、情報秘匿によるプレイヤー間の情報差を強調する点については限定的なんじゃないかと思っているのですが、まあ少なくとも一人ゲームでない「おおむね協力ゲーム」というものが存在可能であることが示されてはいます。このような攪乱要素を用意することにより、協力ゲームに内紛を発生させることは、いちおう理屈の上では可能ということになります。

ただねえ。とちょっと溜息をつきたくなるのは、理屈として存在しうるということと実装方法を思いつくというのは全然別のことなので。そもそもまともに検討されたことが殆どない枠組を用いて、その枠組の新しさとは別のところにある新しさを実現する。ということがどれだけの難事業か考えると、ちょっと日和ってもいいかなー、という気分になります。

なので日和ってみましょう。さきほどのアプローチでは理想主義者っぽく、一致して本来やるべきことを優位としたわけですが、ここでは一致してやるべきこととうっかり実際にやっちゃう闘争とを等価で扱うことにします。つまり、さっきの例が「協力ゲームなのになぜか内紛が発生する」ことを目指すものだとすれば、こっちは「協力ゲームとしての側面と闘争ゲームとしての側面を併せ持つ」ものだということになります。

そしてこれは実装にそれほどの苦労を伴いません。単純に考えると、
・一致して目指すべき勝利条件
・ゼロサムゲームとしての勝利条件
以上の両方を満たして初めて勝利とする、としておき、そして両者の間にトレードオフがかかるようにしておけばよさそうです。これも昔触れた「全員勝利=全員敗北=引き分け」という徒労感の排除を考慮に入れるのであれば、ゲームをペア戦ないしグループ戦として、
・グループとして目指すべき(他のグループに対して勝利を収めるための)条件
・グループ内での闘争に勝利するための条件
の両方を満たして初めて勝利、とすれば問題ないでしょう。完全にゼロサムな古典的ボードゲームの枠で取り扱うとなるとこのへんが限界ではないかと思います。

とはいえ、これだとやはり内紛の面白さのいくらかは消えてしまっている感があります。本来やるべきことがあるにもかかわらず、という馬鹿馬鹿しさに内紛の素敵を求めるとすると、グループとしての目的と内部闘争とのバランスを取ることを要求するこの構造は、内紛というにはちょっと賢しすぎる。できるなら内部闘争よりもグループ目標のほうが優位であるということを表現できる協力ゲームの枠を用いてなんとかしたゲームを見てみたいものです。たぶんえらく難しいでしょうけれど。
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by Taiju_SAWADA | 2005-10-26 01:09 | うわごと

Rethinking Nakoshi's 2nd Theorem (summary)

以下に記すのは、 Sawada Taiju, "Rethinking Nakoshi's 2nd Theorem", Theory for Games, No.28, pp.88-103 (2005) の抄訳である。(*)


1. 本論文の意義

「名越の第二命題」とは、名越康裕が Boardwalk Community 誌に発表した論文「確率の理論 2. 運は実力のうちか?」において提示されている命題である。

この論文は表題の通り、「出目平均化の法則」として知られる第一命題を提示した「神はサイコロをもてあそぶか?」、第一命題と第二命題の適用範囲について論じた「カメはうさぎに勝ったのか?」とあわせて構成される「確率の理論」の第二部として著されている。一般にはこの三部から成る論文のうち、出目平均化の法則を論じた第一部のみが異端の理論として知られ、第二部および第三部が試みられることは少ない。しかし、特に第三部の論理的不整合性により統一的なゲーム確率論の提唱には失敗したものと捉えられる名越確率論のうち、現代ゲーム研究において研究の価値を持つものはむしろ第二部にある。本論文における我々の目的は、その価値を誤って評価されている名越論文を正しく現代ゲーム研究の中に位置づけることにある。


2. 名越の第二命題の一般化

名越の第二命題は、原論文においては以下の形で示される。

(命題1:名越の第二命題) 八八の順番を決めるとき、花札を引いて決めるとしよう。最も若い月の札を引いた人から順に座り直してゲームを行うわけである。ある人が10回やって7回も親になった。次もこの人が親になる確率はいくらであろうか? 答えは 7/10 つまり7割である。

上記の命題は、一見して解るとおり、特殊な条件を前提として示されたものである。但し論文の全体を読めば、この論文が必ずしも「八八の順番」に固有の問題についてのみ関心を持っているのではなく、むしろ一般的な状況について述べていることが解る。にもかかわらず問題の範囲を特殊化していることには、後述のように重要な意味があるのだが、ここでは敢えてこの命題の一般化を行う。

(命題2:名越の第二命題の一般化) ある試行において事象 A が発生する確率を P(A) とする。この試行を n 回行い、そのうち事象 A の発生回数が m 回だった場合、 P(A) の最も良い推定値は m/n である。

この一般化された命題を否定する読者は少ないだろう。しかしこの一般化は原論文における命題の本質をそのまま残していない。言い換えれば、命題を抽象化する過程で捨象されたものの中に、名越の第二命題の本質がある。


3. 名越の第二命題の本質

前章で触れたように、名越の第二命題は「八八の親決め」に関するものである。八八に限らず、ギャンブル性の強いカードゲームにおける親決めにおいては、通常はどのプレイヤーも親になる確率が等しくなることが望ましいので、デザイナーはこれを意図してルールデザインを行うことが多い。そして八八の親決めもこの例外ではない。命題に記されている手法は、殆どのプレイヤーが等確率性に疑問を持たないがためにごく一般的に採用されるものである。

名越が命題の一般化を避けた意図はこの等確率性に疑義を挟むことにあった、というのが我々の主張である。つまり名越においては、(八八のプレー人数が 6 人であるということを前提として)親になる確率が 1/6 になるようにデザインされていることと、実際の試行結果として親になる確率が 7/10 であるという状況との間では、後者が優先されるべきなのである。

従って、あるデザインに関して、デザイナーの意図およびその意図に対するプレイヤーの了解と、実際に発生した結果が異なる場合、あらゆる物理的・社会的・心理的制約に関わらず、常に後者が優先される。重要な点はプレイヤーの了解とデザイナーの意図が一致しているという仮定が、結論に対して一切の影響を及ぼさないことにある。このことを考慮して、再び命題の一般化を試みよう。

(命題3:名越の第二命題の正しい一般化) デザインにおいて、結果はいかなる意図・制約・状況よりも優先される。

(命題4:命題3の系) デザインの結果をデザイナーの意図の反映として扱うことはできない。

ここに至って、ゲーム確率論と見なされてきた「確率の理論」は、現代ゲーム評論の世界に持ち込まれたポパー哲学であり、その結果としての作家論の否定としての真の姿を明らかにする。この論文がゲーム確率論において異端視されるのは当然のことであり、それは名越の意図が確率論には無いためなのである。


4. 結論と課題

「名越の第二命題」は、ゲーム確率論の視点からゲーム哲学および現代ゲーム評論を捉えたものとして再評価されるべきである。

直接的にポパー的観点を用いて作家論の否定を行うのではなく、確率の理論として迂回した形で提出された理由については今もって不明であり、今後の研究が必要となる。


5. 参考文献

名越康裕「確率の理論」http://homepage2.nifty.com/bwc/joke06.htm (初出Boardwalk Community誌)
Stone2, "Gallery HANAFUDA,KARUTA" http://members.at.infoseek.co.jp/stone2/h-menu.html
カール・R・ポパー「科学的発見の論理」恒星社厚生閣(原題 "Logik der Forshung", 1934)



(*) たぶん Theory for Games などとゆう論文誌は存在していないはと思うのですが、雑誌が仮に存在していたとしても、その雑誌にこの文章は掲載されていません。

(**) 参考文献の最後のはさっきGoogleで調べてみるまで本の題名も知りませんでした。

(***) 名越さんごめんなさい。

※言い回しがへんなふうになってるところが二箇所あったので修正しました。2006/2/12
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by Taiju_SAWADA | 2005-10-03 01:21 | うわごと