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なるべくデザインしない: "Container" 雑感

ドイツ系で括られるゲームデザイン、の中の良い物、の多くに見られる特徴として「ゲームシステムによる主張の強さ」を挙げることができます。という文だけだと何を言っているのか全くわからないはずなので補足しますと、「このゲームはこのような仕組みによって回っている。そのなかで主要な遊び所はこの部分にある」「このゲームのこの部分は旧来からの伝統をそのまま受け継いでおり、一方で新規性はこの部分にある」「私はゲームはこのようにあるべきだと考えており、その思想の実装として今回のゲームはある」みたいな。ドイツのデザイナーズ・ゲームは一様にテーマにおける思想性が希薄ですが、そのぶん彼らは「システム」というものについて何か言いたいことがあるわけですね。

そういうゲームでは大概「ここ!ここ遊んで!」的なポイントが設定されていて、ゲームを進めていくと殆ど自動的にそこのポイントまで連れて行ってくれることになっています。というのは本当は話が逆で、そういうポイントが設定されているゲームの場合、そこまで連れて行ってくれないゲームはサービスが悪いものとして冷たくあしらわれてしまいます。これはまあ尤もな話で、遊ばせたいことがあるのにそこまでの手続きをちゃんとやらないのは単純にデザイナーの怠慢というべきでしょう。

しかしこの物言いが成立するのは、冒頭で述べたように「テーマにおける思想性が希薄で」「ゲームシステムについて何か言いたいことがある」ドイツゲームの場合に限られます。例えばシステム全体が何らかの現実の対象を模倣することを意図している場合(って別にぼかして書く必要はないな。語のそのまんまの意味におけるシミュレーションゲームのことです)、ゲームシステム的な意味での「遊び所」を設定すること自体が是非の議論の対象になりますし、ましてそこに連れて行くために模倣対象と無関係な操作を恣意的に入れたとなれば、ゲームの目的をそもそも達成していないと言えてしまいます。

では、そうでない作品ならば誘導は常に行われるべきか。繰り返しになりますが、アウトプットから逆算して考える限り、いわゆるドイツ系のゲームにおいては回答は極めて高い確率で Yes だったように思います。ごく希に No を回答する作品が現れると我々はいろいろ戸惑ったりするのでして、例えば Ewert and Delonge の "Container" がこれにあたります。

作者の一人である Delonge という人は過去 "TransAmerica" において殆ど犯罪的といっていいレベルのデザイン放棄をやらかしています。実は本作でもその辺の事情はあまり変わっていなくて、何かしら「デザイン」された痕跡というのはほとんど見受けられません。 TransAmerica と本作の間で何が異なるかと言えば、 TransAmerica では結果として何も起きずにゲームが終了しますが、本作ではどんな結果でも起こりえるということです。いや、愉快な意味では決してありません。どんな「凄惨な」結果でも普通に起こりえるのです。ここで言う「凄惨」というのはゲームのマゾヒスティックな楽しみについての婉曲表現ではなく、素直に文字通りに腐った結末のことです。それこそがデザイナーの意図なのだとしたら?

本作では普通のドイツ系ゲームとは全く逆に、あらゆる腐った結末を回避するための機構こそが慎重に取り除かれています。前段で「デザインの痕跡が見受けられない」と言ったのはそういうことで、粉か何かを撒いて消してあるのですねきっと。そうすることによって、それ自体には意図のない剥き出しのシステムの骨格が浮き上がります。何の飾りもない流通システムの模式図を一切の誘導無しに与えられた時、プレイヤーはそこで何をするのか。協調と闘争の間を漂ってそれなりの経済系を構築するか、あるいは失敗国家への道を進んで歩むか。世界が持つ可能性の全てがここには残っています。その意味では、もしかすると本作をシミュレーションゲームと呼ぶこともできるのかもしれません。「『何かの』世界」を真似て遊ぶのではなく、「世界」そのものの抽象的な定義を真似て遊ぶこと。プレイヤーに面白さを保証するために多くのゲームが捨てた世界の欠片。そういうものに興味がある方には、このゲームを強くお勧めしたいと思います。

繰り返しますが、このゲームに柵はありません。事故を厭わない方のみどうぞ。
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by Taiju_SAWADA | 2008-03-23 23:25 | 感想・紹介

おしごとのしくみ

マルチゲーム好きの人々が時折使うスラングに「お仕事」というのがあります。大雑把に言うと、自分の得にはならないんだけどゲームを壊さないためには取らざるを得ない行動、といったところでしょうか。

この概念をモデル化するのはとりあえず簡単で、例えば四人ゲームでプレイヤー1からプレイヤー4まで順に手番が回ってくるものとすると、

・プレイヤー1がお仕事を引き受ける:(-1,0,0,0)
・プレイヤー2がお仕事を引き受ける:(0,-1,0,0)
・プレイヤー3がお仕事を引き受ける:(0,0,-1,0)
・誰もお仕事を引き受けない:(-3,-3,-3,0)
【括弧内はそれぞれプレイヤー1〜プレイヤー4の利得】

というような形になり、そしてこの場合「お仕事」を担当させられるのはプレイヤー3ということになります。展開としてはプレイヤー1とプレイヤー2が自分のやりたいことをやって、面倒ごとを押しつけられたプレイヤー3がぶつくさ言いながらやりたくもないことをやる、と。ちなみにここで言う【利得】というのは表面上の勝利点の話ではなく、「最終的にどれくらい自分に利益があるか?」という絶対的な(かつ、実際にはそんなもんがそうそう計れるわけはないので仮想的な)指標とお考え下さい。従って、プレイヤー3が合理的なヒトであれば、お仕事を引き受けないという選択肢は取らないということになります。単純に自分にとって利益がないですからね。

で。この構造が頭に強く入りすぎていると、このシチュエーションは「プレイヤー3が引き受ける」一択である、という発想に向かうことになります。ここからの逸脱は場合によっては非難の対象になりますし、またゲーム自体への評価としても、この状況自体には「自由度が無い」ものとみなされ、この状況へ誰かを追い込むことに巧拙が出てくるゲームが評価されることはあっても、この状況がひっきりなしに登場するようなゲームは往々にして「束縛が強い」ものとして減点の対象になります。

それって嘘ですよね。

このシチュエーションに解があるという考え方は、プレイヤー3には場合によっては利益になるかもしれませんが、少なくともプレイヤー1とプレイヤー2にとっては危険すぎる。より具体的に言えばゲーム理論的な思考に毒されすぎているという意味での危険があります。この解が解であるためには、このゲームの構造自体が共通認識になっている必要がまずあって(まあ「解がある」と言い切っちゃうのであれば、その人にとっては当然共通認識なんでしょうけど)、さらにその上で、プレイヤー3の合理性を信じなければならない。合理的であってこそ、プレイヤー3が「いや俺はお仕事なんか受けないよ?」という宣言をしたとしても、それを単なるブラフであると却下することができるのですから。

重要なのは、プレイヤー3が合理的である必要はどこにもないということです。なにしろこの場合、合理的でないほうが圧倒的に都合がよろしい。何ならドラマちっくに激昂してゲーム盤をひっくり返してみちゃったりするのはどうでしょうか(※1)。そこまではいかなくとも、とりあえず激昂して本気で仕事引き受けないでみる、という行動には充分な価値があります。それで「合理的ではないプレイヤー」の称号を手に入れてしまえば、ゲーム中に発生しうる一切のお仕事を他人に押しつけることができるわけですから。言い換えると、ここには「合理的でなくなるための合理的な理由がある」。

そしてお仕事のゲーム性はここに集約されます。要はお仕事というのは一種のメタゲームとして解釈するのが妥当であると。一種の、というのは、通常のいわゆるメタゲームと違い、ゲームを複数のサブゲームから構成されるものと捉えて、そのサブゲームに対するメタである(従って依然としてゲーム全体から見ると、それを超えてはいない)という意味で、従って本当にゲームの外に出る必要は必ずしも無いからなんですが(※2)。「誰も引き受けない」というカタストロフを玩びながらみんなでパートタイムの狂人を演じる心理戦。そこにあるのは束縛ではなく束縛をネタにした無限の選択肢であって、これこそがマルチゲームだと思うのですが。いかがでしょう。


※1: ちなみにこれはわたくしのオリジナルの物言いではなく、学生時代に所属してた研究室の教授が使ってた言い回しです。ここで書いたような非合理性の取り扱いについての試みというのがその界隈では実はあったりします、というのが今回のもう一個のテーマ。

※2: 無論外に出ることもできます。が、それはあまり幸せなことにはならないんじゃないかなー、というのはぼくが“その意味での”メタゲームを(あくまで好き嫌いのレベルで)徹底して嫌っているというだけのことかもしれないですけど。
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by Taiju_SAWADA | 2008-03-10 02:06 | うわごと