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重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part5)

わたくしの休日を際限なく食い潰してきた迷惑極まるこのシリーズもやっと最終回でございます。最後はドミニオンと七不思議。最後どう見ても七不思議もう関係ないよねって話題に流れていますが、このシリーズを書くきっかけになった本『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』(岡田暁生/中公新書)もそういう構成なので、オマージュ的なものだと思ってください。



ドミニオン | 2008

ここまでプエルトリコからルイ十四世を挟んでケイラスと、終わる過程を振り返ってきたわけですが、最終的にドイツゲームに死を宣告したゲームは言うまでもなくこちら「ドミニオン」です。どの辺がそうなのかということで、このシリーズの原則通りに外側から見ていきますと、まず作者がニューヨーク在住のアメリカ人、企画出版社がアメリカ(Rio Grande Games. 御存知の通りRioは欧州系の翻訳を本業としているので純粋な米系とは言えない側面がありますが。なお、このゲームはHans im Gluckの企画ではないのでお間違えなきよう)、使用しているシステムのベースがMagic: The Gathering由来で強力な特殊能力ベースの構成。清々しいくらいにどこを取ってもドイツでは無いわけです。ドイツっぽさが残っているとすれば印刷会社が欧州系で箱がカタンサイズというくらいじゃないでしょうか。ちなみにアメリカ人がアメリカのメーカーから出したゲームがSpiel des Jahresを取った例というと一応03-04シーズンの「チケット・トゥ・ライド」がありますが、これは作風が純欧州でそもそもMoonは作風から言えば名誉ドイツ人的なアレですんで、となるとその前は92-93のブラフ(ライアーズダイス)まで遡ることになります。SdJが次のシーズン以降2回連続で「あ、そこに賞を出すんだ?」的な授賞を行ったことも、SdJ/ドイツゲーム業界の果たした役割が終わった、と感じさせる外形的な要素とは言えるでしょう。

さて、そのドミニオンが採用したシステムについて、これはドイツゲームのシステムとは到底いえないのですが、一方で「いわゆる」アメリカの標準的なスタイルともかなり違うものです。先ほどドミニオンのシステムのベースが「M:TG由来」と書きましたが、実際のところドミニオンはM:TG/CCGのシステムを直接採用してはいません。それだと単に別のCCGとか"Blue Moon"(2004)ができあがるだけですし。そうではなく、M:TG/CCGのエコシステムをルールの源としています。これによって、大雑把に言えばソフィスティケイテッド・アメリカなんだけども、でも既存のアメリカのゲームを直接ソフィスティケイトして出来上がるものとは明らかに異なる、そういうルールを作ることに成功しました。これは重要なことで、というのはドイツゲームはこれまで振り返ってきた通りかなり狭い範囲でゲームシステムを捉える作法であってそのことが徐々に進む停滞の原因となっていたわけですが、じゃあ何でアメリカ系のシステムに振らなかったのかといえば単純にそっちはもっと前から停滞していて見るべき進歩がどこにもなかった。半笑いでというよりはクリアな嘲笑と共に語られる「アメゲー」というやつですね。カタンのところでソフィスティケイテッド・アメリカという句を使ったように、アメゲーに対してドイツ的洗練によって何かが産まれないかという試みはずっと行われていて、でも後継のシステムを次々と産み出すインスピレーションの源になるという意味での成功は(カタンも含め)これまで無く、このドミニオンが初めてのブレイクスルーということになります。CCG/のエコシステムをこのような形で参照すれば、いままでとは違う絵を今までの伝統の上に描くことができる。それが解った(参照すべき成功例が存在する)今ならば、その方法のリトライも行われるでしょうし、別のソースからゲームを産み出す試みも行われるでしょう。道が開かれた以上、停滞する狭い概念に固執する必要はどこにもありません。エルグランデがドイツ・ゲーマーズゲームの源となったのとほぼ同じ意味で、ドミニオンはポスト・ドイツゲームの源となるものと思われます。

…本来であればここは「源となったのです」と締めたいところなんですが。そうでないと殺された立場であるほうのドイツゲームも浮かばれません。ただ現状は未だそこまでたどり着いておらず、端境期の混乱が続いています。さすがにドミニオン・クローンの乱造みたいな恥ずかしい事態は落ち着いて来ましたが(※)、まだドミニオン自体の咀嚼が続いていて「ネクスト!」って感じにはなっておらず、一方でルイ十四世〜ケイラスの非-ドイツ的手法はそのまま何となく狭い所で市民権を得ていて、ちょっと次が見えてないということが2011エッセンにて浮き彫りにされた感のある2011年11月現在。その中でネクストを宣言し得る可能性と現状のあからさまな停滞とあれやこれやが詰まった現在を象徴する作品を取り上げて、このシリーズを締めることにしましょう。ということで最後の作品、 "7wonders" です。

(※)エルグランデは結構へんな要素がごってり盛り込まれていてそこも面白いゲームだったのでまだクローンの乱造も耐えられなくはなかったのですが、ゲーム単体として見たドミニオンはこれ以上削ると成立しなくなるぎりぎりのところまでの洗練を行っていてそこが大きな魅力なので、考えなしにクローンを作るとそのまま考えなしのゲームにしかなりません。正直なところドミニオン本家の拡張にもその問題が発生しつつあるような。



七不思議 | 2010

七不思議はまだ発表から1年しか経ってないので、重要な作品かそうでないかを判断するには早過ぎるのですが、ドミニオン以降のゲームデザインを明示した(実のところ数少ない、メジャーではおそらく唯一の)ゲームだということと、あと直前で述べたとおりドミニオン以降のゲームシーンをわかりやすく表したゲームなので、締めとして取り上げることにしました。

七不思議はご案内の通りCCGにおいて一般的なカードドラフトを基本構造に置いているゲームですが、「単純にドラフトをドイツゲームに持って来ました」だけだとMoonのSan Marco(2001)とやってることが大差ないのでして。前述の、着眼点を変えることでアメゲー(CCG)由来のシステムを新しいものと見立て直すという意味でのアフター・ドミニオン性は、このゲームの速度にあります。七不思議ってルール説明が結構たいへんで20分くらいかかるんですけど、ゲーム進行の全プレイヤー並列処理が徹底されているので、ゲーム時間も20分くらいしかかからないのです。ルールから普通に予想されるよりもゲームのテンポが強烈に速く、それも割と機械的に作業Aと作業Bを繰り返す形で進んでいくので、ちょっとしたトリップ感を伴ってあわあわと20分間が過ぎていき、終わったときにはさてこのゲームは何だったのかしらと何も残らない空虚感を味わえます。つまりこれ、競争(ルビ:アゴーン)のゲームであるのと同等以上に眩暈(ルビ:イリンクス)のゲームなんですね。ここで大きく取り上げられているのはカードドラフトのゲーム性というよりはカードドラフトが持つ独特のビートであり儀式性です。ドミニオンのあと2年かかったとはいえ、ゲーム製作においてそういう「プレイ風景まで込みでゲームを捉えて再構成すること」という手法によるヒット作が出て、それによってポスト・ドイツにおける一つの方向性が打ち出されたこと。これは七不思議の功績です。

ところで七不思議にはもうひとつ、こっちは括弧付きになる「功績」があります。前項ドミニオンのところでドミニオン・クローンの恥ずかしい乱造の話をしたのですが、たぶん七不思議についてもこのあとクローンが大量に出てくるものと思われます。で、こっちの七不思議クローンについては、出てくるゲームが多分そんなに恥ずかしい感じにはならない。なんでドミニオン・クローンの多くが恥ずかしいかといえばドミニオンが削りに削って作られた素敵なゲームだという事実を無視しているからなんですが、七不思議はさっき少し触れた「ルール説明20分」でも分かる通りぜんぜんルールを削っていない上に、イリンクス性を敢えて無視して普通の落ち着いたカードドラフトゲームとして冷静に眺めると、そんなに面白いわけじゃない。誰だって、とまで言うと言い過ぎでしょうが、気の利いたゲームデザイナーであればこれを「競争(アゴーン)のゲームとして」面白くすることは普通に可能ですし、その際には90年代的な純ユーロに寄せることも、元のM:TGに立ち返って特殊能力ゲームにすることも、あるいは七不思議の路線をあまり変更せずに矢印ゲーっぽく作ることも(七不思議自体は矢印ゲーじゃないですが、ちょっとした変換で矢印ゲーにできるというのは簡単に想像できると思います)できます。ここには相当な自由度が用意されていますので、カードドラフトというのがワーカープレースメントみたいな1ジャンルを形成してしまう可能性があります。

ただ、これってあんまり良いことでもないよなー、と思うのでして、まあ七不思議が速度を失うとそんな面白くない、ってのはいいと言えばいいんですが、みんなが七不思議の改良の方向を向くと「プレイ風景をアイデアの源とする」という肝心のところが抜けていってしまいます。さらに、現在の「説明に20分かかる七不思議」「なんか矢印の匂いがする七不思議」を前提として改良ということになると、どうしたって現状を考えると全力で改良ですら無い市場におもねった矢印ゲーが乱造されるだけなんじゃないのか、という心配があります。

だいたい市場への目配せという話ならば七不思議自体が相当にそっちに寄ったゲーム構造をしているのです。ドイツゲームからポストドイツゲームへの流れは、前回までに申し上げたような構造の転換という話とともに、もっと単純に「ゲームのルールがめんどくさくなる」という側面が当然あります。ファミリー層はそういうめんどくさいルールのゲームを好まない傾向がありますんで、ファミリー向けにはファミリー専用設計のゲームがあてがわれ、そうするとこちら方向に対しては当然「ファミリーじゃない層」としてのマーケティングが行われることになります。ここでファミリーストラテジーというカテゴリの崩壊が起きるのですけどもそれはさておき、こっちの「ファミリーじゃない層」がそのままボードゲームマニアのことを指すのかというと、そんなところをポイントしていてはメーカーがそれなりの規模で食っていけるわけがありませんから、もうちょっと大きい市場、つまり「ルールが猥雑で、その中で俺無双できると嬉しい層」をターゲットにしたゲームが作成されることになります。この層の市場についてはご存知のかたも多いでしょう、各方面(CCG, TVゲーム, RPG, 漫画, etc.)で相当な研究が進んでおりまして、例えば日本のCCGメーカーである株式会社ブシロードのデザイナーの方がこの層に向けたゲームデザインの鉄則を講演で述べられています。このサイトでも議事録へのリンクを貼ったことがあります(「せっき〜のゲーム屋さん」より http://sekigames.gg-blog.com/Entry/102/ )。一行でまとめると「勝ったら実力、負けたら運。そのためにはルールの複雑化も受容」という内容です。じゃあってんで七不思議のデザインを見ますと、これがモロにそういう作りになっています。

この層へのマーケティングでゲームを作ることの問題は2つあり、ひとつはこれまで述べてきた事につながる話で、ゲームデザインがどうしても保守化すること。「この層への」というよりはマーケティングでゲームを作ること全般に関する問題ですね。で、もうひとつは、ボードゲームである必然性が全く無くなることです。いま述べたとおりこの層へのマーケティングは各方面でものすごーく進んでいますから。そこにボードゲームが新参で入ってきたところで、最初は開店セールでそれなりのお客さんも呼べるかもしれませんが、一回転目が済んだらもうその店に行く意味ないよね完成度低いし、ということで終わってしまいます。お客さんをとりあえず呼んできた所で、実はうちにはスペシャリテがありまして、とやれれば良いのですけど。そのスペシャリテを開発できるはずのメソッドを(ドミニオンに続くことで)確立した功績を持つ「七不思議」というゲームは同時に、メーカー側から見ると単に「客が喜ぶ柔らかいもの出せば店も畳まないで済むかも」という形でしか受け止められない可能性を持っていて、しかしそういう危険な可能性を持つことで初めて七不思議は注目されるゲームになり得た。ここまでのぐらんぐらんした記述にお付き合い頂いた皆様にはお分かりの通り、わたくしはこのゲームに対して相当にアンビバレントな感情を持っています。

そして1年。業界の雲行きはどうにもよろしくないようです。まだボードゲームがやらなきゃいけないこと、ボードゲームでしか引き受けられないことは結構残っていて、ご新規の方々もそれを期待していらしているはずなのですけれど。



(おまけ)

取り上げたかったんだけどねー、とか、取り上げたくなかったんで、とかそういうコーナー。

フェレータ
役割秘密選択システムを採用した「最初の」ゲーム。役割秘密選択じたいが「操り人形」までで止まっちゃって潮流にならなかったので取り上げられませんでした。無理やりプエルトリコのところまで繋げちゃうという手も無くはなかったのですが。

ちなみに。カサソラ=メルクルの作品はどれも採用しているベースシステムの歴史的な位置付けと、それに対していまこのゲームで何をトライしているかという目的意識が明確なので、今回のシリーズで取り上げたような視線をもって遊ぶと面白いと思います。もっと言うと、この人のゲームに関してはそのへん、ルールに含まれる批評性を意識しないと遊んだことにならないとすら言えます。

魔法にかかったみたい
バッティングゲームのルネサンスになるはずだったんですが、後続が全く出ませんでした。個人的には、面白いゲームを出すメーカーとしてのaleaの遺作、ということになっています。

古代 (Antike)
Antikeに始まるロンデルシステム(と、その系としての「マチュピチュの王子」)は素敵なシステムで、ワーカープレースメントみたいにもっと解析が進んでもいいと思うんですが。作るの難しいんですかねー。

ルイ十四世
明らかに重要なゲームなので本当は一項立てて取り上げなきゃいけないんですが、各項で言及するのみにしました。たいして面白くないんですものこのゲーム。どう重要かについては本文に書いたとおり。

カルカソンヌ
ゲーマーズゲームからファミリーゲームへの揺り戻しそして二極化へ、という意味ではまあ重要なんでしょうけども、あとカタンの次くらいにくる大ヒットゲームなので取り上げるべきという話もあるんですけど。ミープルが可愛いとかタイルのサイズがちょうどいいとかそういうところ(そういうところに凝る流れを決定的にしたゲームではあります)はともかくシステム的には見るべき所が何もないっつうかマルチゲームとしては旧エントデッカーの劣化コピーでしょこれ、というので無視。あ、二人用でタイマー使えば割と面白いです。


第一回は第二回以降と比べて記載がだいぶ甘いです。それでもカタンについてはこれ以上わたくしの側から言うべきことは別にないんですが、わたくしの最愛のゲームのひとつであるモダンアートについては、現状のようなおざなりな記述で済ませるわけにはいかんよなあ、とは思っています。いや、元々はどのゲームについてもモダンアートくらいの記載レベルで行く予定だったのです。こんな手間かかることになるとは。
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by Taiju_SAWADA | 2011-11-21 01:54

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part4)

終わんない! このシリーズ長いよ! だいたい1作ごとに文面が長くなってるじゃないか! と執筆者がかなりへばってきている本シリーズ。いままでは1回につき2作行けてましたが今回1作のみです。次回ドミニオン+七不思議で締めるかドミニオンと七不思議で二回に分けるかは今のところ未定。なんでどんどん長くなってきているかというと、最初に挙げた9作で必要なことを全部書かないといけないレギュレーションなので、書いた後で「あのこと書くの忘れてた」が発生すると後のほうの回で盛り込まないといけないからです。今回はケイラスなんですが「それモダンアートのところで書くべき話だよね?」という話題が混じってます。ではどうぞ。


ケイラス | 2005

ケイラスが一つの象徴であるというのは大方のゲームファンの共通認識になっていることと思います。ただ、ケイラスが象徴するものというのは結構いっぱいあるので、文字に起こして確認しておかないと1つくらい漏れが出てきてそれに気づかないということも普通にあるでしょう。ということで、そのあたりを書き起こしながら見て行きましょう。

まず第一に挙げられるべきは、ドイツ以外の国のゲームとしては1991-92年シーズン以来、「ドイツ以外の国の出版社が自国のデザイナーを起用して出したゲーム」としては初めての、Deutscher Spiele Preis(ドイツゲーム賞)受賞作であるということです。「ドイツ以外」といってもJumboやPiatnik、あるいは91-92のParker/Bandaiみたいな大メーカー(いま鼻で笑ったのは誰ですか?)ではない、間違いなくインディーズといっていいYstariというメーカーの受賞だということがポイントです。単に「ドイツかそうでないか」ということではなく、市場のルールが変わったことが明確に告げられた瞬間と言えるでしょう。カタンに始まる全欧米的熱狂(特にアメリカが大きく、ということはMayfair GamesとRio Grande Gamesの仕事が如何に大きかったかという事でもあります)とエルグランデによるゲーマーズゲーム概念の(再)誕生、そしてそれを機会としたLudoFact/PacktやHeidelbergerに代表される小規模流通網の整備、さらにこれは別にボードゲームに限った話ではないインターネットの普及、そういうような諸要因により、「ドイツボードゲーム=ドイツの玩具屋で販売されている、児童玩具性とエグめのゲーム的ジレンマを混ぜ込んだゲーム」であるという前提が崩れていきました。他の市場に住む我々としてはむしろ何で90年代までそんな玩具屋市場が残っていたのか任天堂やセガは何をしていたのか、という疑問は当然あるのですが、それはそれとして。鶏と卵のどちらが先か、システムと外部環境のどちらが先かはともかく現にかつてと違うものとなった以上もう二度と同じものにはならない、ケイラスはその象徴となっています。

さて中身のほうに移りますと、それはまあケイラスですからワーカープレースメントのことを云々しなければいけません(生ける伝説的インディメーカーSplotter Spellenの"Bus"(1999)のことは脇に置いておきましょう)。少なくともケイラスからワーカープレースメントが「始まった」のは間違いありません。単純にドイツゲーム的な観点で言うなら、ワーカープレースメントとは先ずは90年代のオークション全盛に対する「早乗り系」の王政復古であると言ってよいでしょう。いや早乗り系って別の言葉で言えばダッチオークションの多面指しだろ、とか、そもそもドイツゲーってそのレベルまで分解しちゃうとノーマル/ブラインド/ダッチ各種オークションと囚人のジレンマとチキンレースの5つしか構成要素無いよね。という身も蓋もない事実(これはクニーツィアが明らかにした事実と言ってよいと思います)の中でその流行の移動になんか意味あるのかってことではあるのですが、この流行の移動はマルチゲーム構造から2人ゲーム構造への大きな移行期(前回のプエルトリコ参照)だからこそ発生した現象なので、その意味で取り上げる価値があります。剥き出しのマルチ性がきっぱりと忌避されるという事態は前述の5要素で構成されるドイツゲームの開発において手足を縛られるに等しい制限なわけで、その中で何かやれることをとなると、割りきってパーティ/ギャンブル的な方向に行くのでなくあくまでストラテジーのゲームということにこだわるなら、隠蔽されたダッチオークションとしての早乗りシステムを進歩させるしか道はありません。ワーカープレースメントを簡単に言えば、通常の早乗り(典型的には「チケット・トゥ・ライド(2004)」など)と違ってダッチオークションの対象が抽象的な能力と言うか機能になったもの、ということになります。抽象化したんで直感性は失われます(従ってファミリーストラテジーは作りづらくなります)が、その代わりデザインの自由度が手に入ります。

では、その上がった自由度で実際には何をやったか。ここで出てくるのが04-05シーズンのドイツゲーム賞受賞作「ルイ十四世」です。ルイ十四世自体は正直別にすっごく良くできたゲームってわけじゃないんですが、あの資源が取れますとかそのカードが取れますとかこれをあれに変換しますとか、他のゲームなら1手番でそれくらいやらせてくれよ的な小規模な機能を大量に用意してそのそれぞれの権利を取り合う、そういうスタイルを世に広めたゲームとして触れておく必要はあるでしょう。仮にこのスタイルのゲームを「矢印ゲー」と呼びます(前提条件と結果が矢印と一緒にアイコンで書かれてるからです。よくありますよね、資源A→資源B、みたいの)。この矢印ゲーがワーカープレースメントと非常に相性がよかった。つまりワーカープレースメントは抽象的な機能を「早乗り」が成立するほどいっぱい用意して初めて成り立つゲームなので。で、ケイラスの出来がとにかく良かったこともあって、ワーカープレースメントと共にこの矢印ゲーのスタイルも認知され、ワーカープレースメントとは「別に」矢印ゲーはひとつの方法として定着し、ワーカープレースメントと共に有象無象のフォロワーを大量に生み出すことになったのでした。矢印ゲーはワーカープレースメントと違ってドイツ的というよりはポストドイツ的な手法なので、寿命が来るのもワーカープレースメントよりずっと先になるんじゃないかと思います。そうなったとき、みんなルイ十四世のことなんか覚えてないでしょうから、ケイラスには「矢印ゲーの嚆矢」という役割が割り振られることになるんじゃないかと予想しています。素直に告白しますと実はわたくし自身がこれ書くときまで忘れてて、あやうく「矢印ゲーの起源はケイラス」とか素で言っちゃうところだったのです。
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by Taiju_SAWADA | 2011-11-13 00:46 | 感想・紹介