こうどなしんりせん - 前編:準備としての一般論

さてタイトルをこう決めた以上だいたい何を書きたいかは定まっているのですが、どのような論理と構成を用いるかについては現状まったく未定であって、そうであるからにはともかく話を何らかドライブさせられるような仕掛けを最初に作っておかないといけません。従ってここではひとつの仮説を立てるところから話を始めようと思います。

心理戦とはプロファイリングに関するゲームである。

オリジナリティの点ではあまり高い点は出せませんが、とっかかりの文言としては悪くないような気はします。正しいかどうかはともかく、というかそんなん知ったこっちゃないわけですが、こう定義しておくと色々役に立ちそうな感じがする。世の中には「高度な心理戦」という、迂闊に使うと可哀想な人扱いされる危険なフレーズがございまして、このフレーズのどこが問題かというと、言葉によって指し示される対象の中に分け入っていくのに全く役立たない点だと思うのです。高度な心理戦です、と言ってしまうと、必要とされるはずの次の言葉が出てこない。本来「高度な」というのは最終評価の話であって、ということはそこに至るまでのプロセスが、つまり対象となるゲームの解釈・分析があるはずなのですが、その肝心な解釈・分析の言語化に全く貢献してくれない。対して、プロファイリング、という言葉は、どうしたって次に「どのへんで何に関するプロファイルが溜まるわけ?」という質問に答えないと誰から見たって(「誰から」の中には自分が含まれるところが重要なところですね)何を言ったことにもならないわけですから。
ただ一点注意しておくべきこともあり、それは「ゲームである」の部分でして、これは「ゲーム」という言葉が通常指し示しうる対象の範囲から言うと相当に限定した用法になっています。具体的に言うと「これはゲームじゃないね」という、これも微妙なフレーズがありますが、このフレーズにおいて用いられる「ゲーム」と同じ意味です。微妙繋がりで言うと「ゲーム性」というフレーズにおける「ゲーム」も同じ意味ですね。まあ定義というか注釈なしで使ってはいけない言葉だということです。というわけで。

ゲーム性とは、対象の遊戯において良い結果を得るために行う解析過程、またはその過程の性質を指す。

うわ一気に抽象化した。やめときゃよかった。とはいえ、ま、必要な手続きではあるでしょう。別に珍しい定義ではなく、発想としてはコスティキャンとかに繋がってる、解かれたゲームは最早ゲームではない、というアレです。繰り返しになりますが、きーわーめーてー限定的な定義っていうか用法だということにはご留意を。わたくしが今回ここでやりたいのは、様々な「こうどなしんりせん」の断面図を見てみよう、ということなのでして、そのためにはどの面から切って何を鑑賞するか、最初にこんな感じで決めとかないといけないんですね。いやいけないとまでは言えないかもですが、少なくとも書いてるほうとしては決めとかないとしんどいんで。

準備としてはこんなところでいいんですが、本題(なんてものが本当にあるのかどうかは置いといて)に入る前に、これらの準備から言えそうな一般論について先に考えておきましょう。ここでプロファイリングというのは、「ケースAにおいてアクションaを取りケースBにおいてアクションbを取ったあのプレイヤーはこの(手の)ゲームについてxという行動傾向を持っているはずなので、そうすると現在値直面しているケースCにおいてはアクションcを取るんじゃないか」という、相手プレイヤーに対する推測のことを言っています。そうすると、心理戦のゲーム性とは、いまこのゲームにおける相手の行動傾向をケース/アクションのデータセットから解析する過程(の性質)だということになります。また、ゲーム性という言葉をこの用法で採るとすれば、ゲーム性評価の中で肝心になるのは「解析がすぐ終了してしまわないか?」という点になります。終了というのが必ずしも正常終了のことを指すわけではなく、これ以上は解析不能であると判断されるようなポイント、まあ異常終了とでも言いましょうか、に行き着いてしまっても終了となるってところには注意が必要ですが、ともかくゲームの中で解析を続けていけるということがポイントになります。これを心理戦に当てはめれば、ある時点でのあるプレイヤーの行動-結果のセットが、次の意思決定において有用なデータとなりうることが確保されていなければならず(そうでないと次の意思決定において優劣を判断できず、全ての行動が等価となって解析が終わってしまいます)、しかし同時に、それが決定的なデータではないことも確保されていなければいけません(決定的なデータがあるのであれば、それはもはや意思決定ではないわけです)。これは両立が非常に難しく、まあトレードオフの関係にあると言ってしまっても間違いとは言えないくらいのものですから、実際のゲーム製作では余計な失点を防ぎつつどのへんでバランスを取るかの見極めがデザイナーへの課題となってきます。ところで心理戦には殆ど全ての社会科学的なアレと同様に自己言及のアレというのがありまして、こういった解析そのものがプレイヤーの行動傾向に影響を与えるため、あるプレイヤーの行動傾向そのものが変化を続けることになります。これはさっきの解析正常終了と異常終了のバランスで考えれば明確に異常終了側に巨大な錘を乗っける条件でして、なんとなれば解析の正常終了はほとんど不可能であると言ってしまっても構わないわけです。人によってはこれをもって、そもそもゲームにおいてはプロファイリングというのは不可能であって、従って心理戦は不可能であり単なるスキンを被せたランダマイザに過ぎない、と結論づけることもあるくらいですし。ただ、私は(こういう文章をこれから書こうとしているわけですから)この意見には反対する立場を取ります。ある一定のメタレベルにおいて行動傾向を自発的に変えることがどれくらい容易か、という話で、ゆるやかな変化を続けることは可能というより必然であってもドラスティックな変化は相当に難しい、という仮定が「ある種のルールセットという制約下では」成り立つのであれば、心理戦には意味があることになります。さらに、「ある種のルールセットでのみ」成り立つ制約であるとすれば、ゲームの良し悪しをその面から捉えることもできるでしょう。注意点は2つあります。まず1つめ、ある一定のメタレベルまで心理解析の階を上げればそれに短期的に抗うことは難しい(長期的には当然可能であることは前提として)として、解析側であるプレイヤーはそのメタレベルまで、言語化は困難であるとしても非言語的には比較的容易に到達できないといけません。そうでないと結局ランダムにしか見えませんから。ここで成立させないといけないのは、他のプレイヤーを分析することは容易に可能であっても自分はそこから長期的にしか抜け出せない、という階層が存在していなければ、そのゲームは面白いものにはならないということ。そして2つめ、これはもう少し次元の低い話ですが、非自発的な変化の可能性については常に気を配らないといけません。これは誰が気を配っていないといけないかというと主にゲームデザイナーでして、たとえば端的な話、プレイヤーがサイコロあるいはそれに類するランダマイザを持っていて、これに従って手を決めることが可能であり、しかもそれが自分で手を決めるよりも有用であるとするならば、心理戦はどうしたって存在できません。従って、ゲームデザイナーはランダマイザの可能性を潰すことについて常に意識的である必要があります。逆に言えばここには「人間は本質的にはランダマイザを持っていない」という仮定があり、心理戦のゲームを作ったり遊んだりするということはこの仮定「も」呑んでおくということでもあります。これはつまりよく知られた手本引きと賽本引きの差異の議論のことです。私の立場ではこの両者の差異は自明となるわけですが、一方には人間が生得的にランダマイザを持っているとする立場では、最初に挙げたプロファイリング云々よりずっと手前の話としてこの両者の間に差異は認められないということになります。

ということで。心理戦というものが結構いろんなレベルで必ずしも明白な根拠があるとは限らない仮説に頼って築かれているものだということ、さらに、その仮説が成立しうるのだとして、実際に成立させるためにはデザイン上の意識的な手続きが必要となること。その手続きをクリアしているもののみが心理戦のゲームとして「有効」であり、そのゲームが提供するプロファイリング過程の優劣についてプレイヤーの審判を受ける資格を持つ。そしてその優劣というのは、大きくは「自明」と「解析不可能」の両端の穴に落っこちないようにどのあたりでバランスを取れているかによって定まる。そのバランスを取る上では、行動傾向に関するメタレベルの動学までデザインできていることが望ましい。というあたりが、とりあえずの一般論ということになります。これから個別のケースについて見ていく上でこのへんの前提は置いておく必要がどうしたってあります。あるんですが、実際にこのへんの議論を全部使って個々のゲームの優劣を議論するのかというとそれはまた別の話で。じゃあ最初にまとめてだらだらやるんじゃなくて個々の話をするときにそれぞれ必要な分だけの一般論を持ってくればいいんじゃね? という気も今したんですが、それはまた、それはまた、あったかもしれない別の文章として。

# というわけで次回に続きます。続くんですけど、現時点ではその次回というのを全く書いていません。ほんとにあるのかな次回。誰か代わりに書いてくれないだろうか。
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# by Taiju_SAWADA | 2012-10-01 01:40 | うわごと

短く!

・ドイツゲームの歴史を自分流に解釈して、その中で自らを意味のあるポジションに位置づけることができているようなゲームを最も高く評価します。

・いや面白ければ何だっていいですけど。でも要素が無駄に多くて焦点絞れてない【一昔前の】アメゲーみたいのはいかんですよ。つまんないから。

・同様の理由により、ドイツっても Feld や Cramer の劣化コピーみたいのもやめてください。いやそもそも劣化コピー全般がだめなんですが。

・あとアメゲーの場合、面白いんだろうけど体力的についていけないので落とさざるを得ない、ということは結構あるかも。

****

長過ぎるので短く、というご意見が複数あったのでやってみましたが、こんなかんじですかねえ。わたくし個人は傾向と対策のための文章って長ければ長いほどいいと思っているので、これ短すぎないかとは心配していても、もっと短く、っていう要望は全く予想してなかったのです。
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# by Taiju_SAWADA | 2012-08-07 21:38 | 創作関連

コンペティション「東京ドイツゲーム賞」について

えっとどうもこんにちは、沢田といいます。そのへんで会社員やっております。あとプライベートでボードゲームの和訳とかもやってます。
今回、テンデイズゲームズとニューゲームズオーダーの二社に公募ゲームコンペの企画を持ち込みまして、両社の主催で「東京ドイツゲーム賞」という間抜けなタイトルのコンテストを実施することになりました。わたくしも副賞金出す人として審査員の末席に加えさせていただくことになっております。よろしくお願いいたします。
(なお「末席」というのは謙譲的な表現ではなく、最終選考での発言力でいうと最弱扱いなんじゃないかなーという予測によるものです)

さて、お前のことはどうでもいいが副賞20万円ならもらってやらんこともないので傾向と対策を説明しなさい、という話ですね。テンデイズTV ( http://www.ustream.tv/recorded/24516660 )で基本的なコンセプトは説明していて、そこでは「ドイツゲーム」=「1990年代に勃興し2000年代後半に黄昏時を迎えたある種のスタイル」というのを割と強く押し出していたのですが、実際のところ、じゃあ「これは何ツィアですか?」みたいな投稿作品の山に埋もれてみたいのかというと別にそんなことはないのでして。たとえばこの賞が2007年くらいに実施されていたとして、そこにドミニオンが送られてきたら「これはドイツゲームじゃないよね」とか言って落とす訳がありませんよね常識的に考えて。なのでまあ、もちろん私個人としては「基本的には多主体複雑系的ゲームのほうを強弱解析系ゲームよりいくらか上に取りたいです」くらいの思いはありますが(なんでそう思っているかについてはこのウェブログの過去のエントリをご参照ください)、それは単に陸上競技のハードルみたいなもので、そういうのどうでもいいから俺のゲームを見ろ、くらいのボルテージで飛び越えて送ってきて頂くのはむしろ大変ありがたい。なので送ってきて頂く皆様におかれましては、選考上の細かい有利不利は置いといてレギュレーションとしては「いくら Vlaada Chvatil でも Mage Knight Board Game みたいにルール40頁に加えてカード全テキストとかだとさすがに体力的に拾えないような気がしてます」くらいのものだと解釈していただければ全く問題ありません。

それよりも審査の上で重視しておきたいところがありまして、これ放送あとで見返してみたらきちんと伝えられてなくて拙かったなと反省したところなんですが、とくに一次の審査ではプレゼンテーションは重要な要素になります。なんならルールよりも重要と言っても構いません。そこまではいいとして、問題は「何を」プレゼンテーションしてほしいのかということで、つくりの善し悪しとか資料が凝ってるか凝ってないかというところは全くどうでもよく、「何故このゲームは面白いと言えるのか/どの部分が面白いゲームなのか/どこを遊ぶべきか」「何故ほかのゲームでなくこのゲームを遊ばなければならないのか」、つまり構造と独自性について説明してほしいのです。ルールというのは必ずしもゲームの構造や独自性を説明するのに最適な媒体だとは限らないので、その部分を補足/強調するものとしてプレゼンテーションを使っていただきたいと考えています。

具体例を挙げると、たとえば放送でも挙げたタイトル「いかさまゴキブリ」なら、「UNOみたいに手札を無くしていくタイプのゲームですが、他の人が見ていない隙を狙って自分の手札をテーブルの下に捨ててしまうようなイカサマを有りとします。というかそういうイカサマで遊ぶゲームです。以上」とだけ書いてもらえればプレゼン資料として充分です。「ポラリティ」なら、例の傾いた磁石を写真で写して「こういうのを相手よりいっぱい作ったひとが勝ちです」でOKです。「騎兵ゴルフ」なら何と言ってもプレイ動画でしょう。まあこのへんはルールのみプレゼン資料なしでも充分に意味がわかるゲームなので、もう少し本流ゲーム的な作品で言うと、今年の重い方のSdJ作品「村の人生(ヴィレッジ)」であれば、「一応ワーカープレースメントですが、ワーカーというのは労働者でありつまり人なのでそのうち死にます。ワーカーが死ぬ、というところに焦点を当てたゲームで、誰を殺そう、どこで殺そう、ここの墓地の定員もう残り1人だけどどうする、あと1人殺せばキルボーナスが手に入る、とか言ってたら殺しすぎて人が足りなくなったのでもう少し産んでおこう、ていうかこいつら産まれて死んでるだけで碌に働いてねえけど、というような遊びをワーカープレースメントの枠組の中で行います」という感じでしょうか。このように単純に表せるものであればそれでよいのですが、逆に、このウェブログで前にやった捏造ボードゲーム史みたいなものを書いて「この歴史上このゲームはここに位置づけられるべきである」みたいなことをしてみる方向もあるでしょう。

プレゼン資料を重視するということは、ひとつには、作者に対して「自分が作っているゲームがどういうものであるか分かっている」ことを求める、という意味があります。あともうひとつ「プレゼン資料が書けるゲームである」ことを求めるということでもあります。これはある種の制限でもあって、凡庸なパーツを凡庸に組み合わせただけのゲームでありながら何だかやたらと面白い、しかしこの面白さを説明できない、というゲームが世の中には当然あるんですが、こういうゲームはコンペティション上どうしてもかなり不利な扱いになってしまいます。これはもう申し訳ないとしか言いようがないのですが、なんとかうまいことプレゼンして頂けませんでしょうか。

ということで、何卒よろしくお願いいたします。
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# by Taiju_SAWADA | 2012-08-07 13:01 | 創作関連

カードを破いてみよう

破壊衝動というと無難なところでは窓ガラスを割って回ったりするわけですけど、その最もいじましい形態は何かという囁かな問いを立てるとですね、「カードを破く」というのはなかなか良い線をついた回答なのではないかと思うのです。

というわけでカードをいろいろ破いてみましょう、というのが今回のお題です。とはいえ、実際のわたくしがそういう卑小な破壊衝動を持っているかというと別にそれとは関係ありません。カードの紙というのはどうなっているのでしょう、というお話でございます。

トランプといいますかカードゲームといいますか、まあああいうアレですね、これを作る際には、普通の紙とは構造の異なる専用紙が用いられます。普通の紙と何が違うかといいますと、正面と背面の間に色つきの紙が挟まっていて、これがあるんで正面も背面も白っぽいデザインであったとしても、透けないんだと。もちろん他にもカードのコシがどうとか重さがどうとかありますが、最も重要なのはこの挟まった色紙です。

ただし、こういう専用紙を使わず、普通の紙を使ってるところもあります。「アートペーパー」といわれる種類の紙がよく使われます。何と言ってもお安いからですが、そのかわり透けます。こういう紙を使う場合、背面は黒ベタを採用するなりして透けないように工夫しないといけないんですが、昔のABACUSSPIELEのゲームってカード透けまくりだったよなー、あれって白ベタなのにアートペーパー使ってたんだろうか、と今ちょっと思いました。

で、これは本当か嘘かわからないんですが、同じ専用紙でも、紙の値段によって中に挟まった色紙の色が違うんだとか。安いのは灰色で高いのが黒、中間でピンクとか青とか。どうもにわかには信用なりません。もっとも、一般には紙というのは同系なら重い(厚い)ほど高いのでして、そのコード分けのために中の色紙の色も変えてる、というならある程度はわかります。でも実際のところ本当にそんなカラフルな色紙が使われてるかは破いてみないとわからないわけで。

それでは破いてみましょう。

※そのまえに。紙の重さの話もいっしょにしておきたいので、重さの単位についてここで前置きをしておこうと思います。日本でよく使われる単位は四六判換算の連量といわれるもので、書籍とかでよく使われる「四六判(788×1091mm)」で1000枚あたり何kgですか、という重さです。英語圏、というか英語で商談をするような場所だと坪量という単位で記されることが多く、これはその紙1枚1平米で何グラムですか、というものです。で、カードゲームに使われる紙として標準的な重さは、四六判連量だと230kg、坪量だと270グラム/平米[以下gsm]のものが多いです。正確には270gsm=232.1kgくらいの換算レートですが、ざっくり270gsm≒230kgとして扱います。

1.
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まずは王道中の王道、US Playing Card社のトランプ「タリホー」です。ご覧のとおりのくっきりブラック。ところで今回いろんなカードをくらべてみて、タリホーが意外と柔らかい紙を使ってることにちょっと驚きました。ほら何しろトランプ業界を代表する会社なのですし、思い切り重い紙を使ってるのかなーと思うじゃないですか。でも実際これたぶん270gsmくらい(あとで調べたら実際270gsmでした)。まあ必要充分ですし、あんまり重いとリフルシャッフルが厳しいので手品の人には売れなくなるかもですけど、王様としては物足りなくないすかね。

2.
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ひとのものを破くまえにまず自分のものを破きましょうということで、再版日英版の「ファブフィブ」です。印刷は中国製。こちらもブラック。今回比較したカードの中では、このファブフィブと後に出てくるアドルング社のカードが最も重いカードとなっています。数字で言うと300gsm。1割しか違わないじゃんって話ですが、いやしかしこれは結構歴然とした差なのですよ触ってみると。何か分銅とか使ってわかりやすく示せればいいんですけどね、いや頑張れば示せるはずですがそれはまた別の機会に。ところでさっきから色紙の話をせず重さのことばっか喋ってますね。

3.
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色紙といいつつみんな黒ですか、という反応が当然あるかと思いますので、黒じゃない色の紙が入っているケースを見てみましょう。
Amigoの6nimmt(1998年くらいに買ったもの)とHiGの操り人形(たぶん初期の版)です。写真だとちょっとわかりづらいかもしれませんが、どっちも紺色をしてます。これ同じ印刷所で刷ってるんじゃないかと思ってたんですが、よくみるとエンボス加工(英語だとlinen finishって言います)が違ってました。HiGのはドイツものでよく見かけるタイプのパターンなんですが、Amigoのはちょっとレリーフっぽいというか、パターンが大きいんです。どうも時期によっても違うらしくて、比較的最近の作品である「テネキー」では普通のドイツっぽいパターンになってました(後述するKosmos等のカードと同じパターンです)。重さは270か280gsmかな? タリホーより気持ち硬い気がしますが、そりゃ単にブリッジサイズとポーカーサイズの違いでしょ、と言われると返せません。

4.
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ドイツはみんな紺なのか、というとさにあらず、黒いのが挟まってるカードもちゃんとあります。Kosmosの「大聖堂カードゲーム」とHiGの「カードカソンヌ」。たぶんこの2つは印刷所同じです。エンボスのパターンが全く同じですし。紙質ですが、さっきの紺色組にくらべてわずかに柔らかくなってます。これが多分タリホーと同じ。そうすると紺色組は280gsmってことなんですかね。

5.
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続いてはドイツ非標準ものを。どっちもエンボスかかってません。
まずはABACUSの「シュヴァインズギャロップ(オール・ザ・ウェイ・ホーム)」。このころのアバカスはカードにお金をかけてない印象があり、実際エンボスはかかってないわけですけど、でもカードはご覧のとおりちゃんと黒紙を中に入れてました。初版のマンマ・ミーアとか透けまくりだった印象があるんですが、もしかするとわたくしの思い違いだったのかもしれません。お持ちの方はお試しください。重さはたぶん270gsm。
そして問題のAdlung。これは「ベネチアの仮面舞踏会」からとってきました。Adlungというのはいつでも60枚ワンパックの定形フォーマット、という印象がもちろん強いのですが、カードの質は結構ゲームごとに変えてます。この「ベネチアの仮面舞踏会」はすごくて、まず表面加工がマットじゃなくてグロスです。ドイツのカードでグロスのものってかなりレアだと思います(他の国だと結構ふつうだけど)。グロスはマットよりも硬くて丈夫なのでカードの重さを他と同じ基準で考えると間違える可能性がありますが、あえて気にせず比較しますと(どうせ印象論だ)、ファブフィブとほぼ同じ重さ・硬さとなっています。つまり300gsmですね。Adlungがいつもこんなごっついカード使ってるかというとそんなことはないはずで、個人的にはむしろエンボス無しで少し薄めのマット、という印象を持っていますが、何しろゲームごとにころころ紙を変える人たちなので、印象がどうこういっても仕方ないかもしれません。

6.
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変わり種を2つ。1点目は日本物で、モンスターメーカー5リバイズドのカードです。先ほど出てきた紺色のものと少し似てますが、これは水色になってます。これは珍しい。どこで売ってるんでしょうか。カードはエンボス無しのグロス、重さはたぶん270gsm。あと、ドイツものに馴染んでいるとちょっと面食らうことに、大きさがポーカーサイズです。というか冷静に考えてみると、欧州ものってほとんど全部ブリッジサイズですね。やぱしブリッジは欧州のものだってことなんでしょうか。そしてモンスターメーカーはなぜわざわざサイズのでかい(ということは値段も多分高い)ポーカーサイズを選んだのだろう。
あともうひとつ。Gryphon GamesのFor Sale。今回唯一の灰色です。というか、中身のほとんどが灰色ですね。他のカードは白ベースで薄く色紙を挟んだ構成なんですけど、この紙は基本が灰色のボール紙で、いちばん外だけ白い紙を貼ってる、という造りです(モンスターメーカーのも同様に、色紙のほうの比率が高くなってます)。見た目で判断するとこっちのが安そうですが。だってボール紙にしか見えないし。重さはたぶん270gsm。ポーカーサイズです。これがポーカーサイズなのは単純にメーカーが米系だからなんでしょう。

7.
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そして最後に、何の色紙も間に挟まず堂々とアートペーパーを使っている素敵なカードを御紹介。まず一点目の小さいカードは交易王(第1版)の小さい方のカード。まあこのカードは表裏の概念がない以上透けていても全然構わないわけで。大きい方のカードとは作りが露骨に違います。たぶん大きいほうのカードは色紙挟んでる。しかしこういうところでちゃんとコスト削っているのですねえ。そしてもう一点、こっちはあまり言い訳が効かない、Red GloveのBig Cheeseです。いや手札にはならないんでたしかに致命的なことにはならないんですが、でもねえ。ところでRed Gloveなんてメーカー知らないし、って人のが多いかもしれませんね。別に知っておかなければいけないメーカーでもないので気にしないでください。

以上です。ご清聴ありがとうございました。
…また印刷所の人の不興を買いそうだな…
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# by Taiju_SAWADA | 2012-06-09 11:16 | 雑題

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part5)

わたくしの休日を際限なく食い潰してきた迷惑極まるこのシリーズもやっと最終回でございます。最後はドミニオンと七不思議。最後どう見ても七不思議もう関係ないよねって話題に流れていますが、このシリーズを書くきっかけになった本『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』(岡田暁生/中公新書)もそういう構成なので、オマージュ的なものだと思ってください。



ドミニオン | 2008

ここまでプエルトリコからルイ十四世を挟んでケイラスと、終わる過程を振り返ってきたわけですが、最終的にドイツゲームに死を宣告したゲームは言うまでもなくこちら「ドミニオン」です。どの辺がそうなのかということで、このシリーズの原則通りに外側から見ていきますと、まず作者がニューヨーク在住のアメリカ人、企画出版社がアメリカ(Rio Grande Games. 御存知の通りRioは欧州系の翻訳を本業としているので純粋な米系とは言えない側面がありますが。なお、このゲームはHans im Gluckの企画ではないのでお間違えなきよう)、使用しているシステムのベースがMagic: The Gathering由来で強力な特殊能力ベースの構成。清々しいくらいにどこを取ってもドイツでは無いわけです。ドイツっぽさが残っているとすれば印刷会社が欧州系で箱がカタンサイズというくらいじゃないでしょうか。ちなみにアメリカ人がアメリカのメーカーから出したゲームがSpiel des Jahresを取った例というと一応03-04シーズンの「チケット・トゥ・ライド」がありますが、これは作風が純欧州でそもそもMoonは作風から言えば名誉ドイツ人的なアレですんで、となるとその前は92-93のブラフ(ライアーズダイス)まで遡ることになります。SdJが次のシーズン以降2回連続で「あ、そこに賞を出すんだ?」的な授賞を行ったことも、SdJ/ドイツゲーム業界の果たした役割が終わった、と感じさせる外形的な要素とは言えるでしょう。

さて、そのドミニオンが採用したシステムについて、これはドイツゲームのシステムとは到底いえないのですが、一方で「いわゆる」アメリカの標準的なスタイルともかなり違うものです。先ほどドミニオンのシステムのベースが「M:TG由来」と書きましたが、実際のところドミニオンはM:TG/CCGのシステムを直接採用してはいません。それだと単に別のCCGとか"Blue Moon"(2004)ができあがるだけですし。そうではなく、M:TG/CCGのエコシステムをルールの源としています。これによって、大雑把に言えばソフィスティケイテッド・アメリカなんだけども、でも既存のアメリカのゲームを直接ソフィスティケイトして出来上がるものとは明らかに異なる、そういうルールを作ることに成功しました。これは重要なことで、というのはドイツゲームはこれまで振り返ってきた通りかなり狭い範囲でゲームシステムを捉える作法であってそのことが徐々に進む停滞の原因となっていたわけですが、じゃあ何でアメリカ系のシステムに振らなかったのかといえば単純にそっちはもっと前から停滞していて見るべき進歩がどこにもなかった。半笑いでというよりはクリアな嘲笑と共に語られる「アメゲー」というやつですね。カタンのところでソフィスティケイテッド・アメリカという句を使ったように、アメゲーに対してドイツ的洗練によって何かが産まれないかという試みはずっと行われていて、でも後継のシステムを次々と産み出すインスピレーションの源になるという意味での成功は(カタンも含め)これまで無く、このドミニオンが初めてのブレイクスルーということになります。CCG/のエコシステムをこのような形で参照すれば、いままでとは違う絵を今までの伝統の上に描くことができる。それが解った(参照すべき成功例が存在する)今ならば、その方法のリトライも行われるでしょうし、別のソースからゲームを産み出す試みも行われるでしょう。道が開かれた以上、停滞する狭い概念に固執する必要はどこにもありません。エルグランデがドイツ・ゲーマーズゲームの源となったのとほぼ同じ意味で、ドミニオンはポスト・ドイツゲームの源となるものと思われます。

…本来であればここは「源となったのです」と締めたいところなんですが。そうでないと殺された立場であるほうのドイツゲームも浮かばれません。ただ現状は未だそこまでたどり着いておらず、端境期の混乱が続いています。さすがにドミニオン・クローンの乱造みたいな恥ずかしい事態は落ち着いて来ましたが(※)、まだドミニオン自体の咀嚼が続いていて「ネクスト!」って感じにはなっておらず、一方でルイ十四世〜ケイラスの非-ドイツ的手法はそのまま何となく狭い所で市民権を得ていて、ちょっと次が見えてないということが2011エッセンにて浮き彫りにされた感のある2011年11月現在。その中でネクストを宣言し得る可能性と現状のあからさまな停滞とあれやこれやが詰まった現在を象徴する作品を取り上げて、このシリーズを締めることにしましょう。ということで最後の作品、 "7wonders" です。

(※)エルグランデは結構へんな要素がごってり盛り込まれていてそこも面白いゲームだったのでまだクローンの乱造も耐えられなくはなかったのですが、ゲーム単体として見たドミニオンはこれ以上削ると成立しなくなるぎりぎりのところまでの洗練を行っていてそこが大きな魅力なので、考えなしにクローンを作るとそのまま考えなしのゲームにしかなりません。正直なところドミニオン本家の拡張にもその問題が発生しつつあるような。



七不思議 | 2010

七不思議はまだ発表から1年しか経ってないので、重要な作品かそうでないかを判断するには早過ぎるのですが、ドミニオン以降のゲームデザインを明示した(実のところ数少ない、メジャーではおそらく唯一の)ゲームだということと、あと直前で述べたとおりドミニオン以降のゲームシーンをわかりやすく表したゲームなので、締めとして取り上げることにしました。

七不思議はご案内の通りCCGにおいて一般的なカードドラフトを基本構造に置いているゲームですが、「単純にドラフトをドイツゲームに持って来ました」だけだとMoonのSan Marco(2001)とやってることが大差ないのでして。前述の、着眼点を変えることでアメゲー(CCG)由来のシステムを新しいものと見立て直すという意味でのアフター・ドミニオン性は、このゲームの速度にあります。七不思議ってルール説明が結構たいへんで20分くらいかかるんですけど、ゲーム進行の全プレイヤー並列処理が徹底されているので、ゲーム時間も20分くらいしかかからないのです。ルールから普通に予想されるよりもゲームのテンポが強烈に速く、それも割と機械的に作業Aと作業Bを繰り返す形で進んでいくので、ちょっとしたトリップ感を伴ってあわあわと20分間が過ぎていき、終わったときにはさてこのゲームは何だったのかしらと何も残らない空虚感を味わえます。つまりこれ、競争(ルビ:アゴーン)のゲームであるのと同等以上に眩暈(ルビ:イリンクス)のゲームなんですね。ここで大きく取り上げられているのはカードドラフトのゲーム性というよりはカードドラフトが持つ独特のビートであり儀式性です。ドミニオンのあと2年かかったとはいえ、ゲーム製作においてそういう「プレイ風景まで込みでゲームを捉えて再構成すること」という手法によるヒット作が出て、それによってポスト・ドイツにおける一つの方向性が打ち出されたこと。これは七不思議の功績です。

ところで七不思議にはもうひとつ、こっちは括弧付きになる「功績」があります。前項ドミニオンのところでドミニオン・クローンの恥ずかしい乱造の話をしたのですが、たぶん七不思議についてもこのあとクローンが大量に出てくるものと思われます。で、こっちの七不思議クローンについては、出てくるゲームが多分そんなに恥ずかしい感じにはならない。なんでドミニオン・クローンの多くが恥ずかしいかといえばドミニオンが削りに削って作られた素敵なゲームだという事実を無視しているからなんですが、七不思議はさっき少し触れた「ルール説明20分」でも分かる通りぜんぜんルールを削っていない上に、イリンクス性を敢えて無視して普通の落ち着いたカードドラフトゲームとして冷静に眺めると、そんなに面白いわけじゃない。誰だって、とまで言うと言い過ぎでしょうが、気の利いたゲームデザイナーであればこれを「競争(アゴーン)のゲームとして」面白くすることは普通に可能ですし、その際には90年代的な純ユーロに寄せることも、元のM:TGに立ち返って特殊能力ゲームにすることも、あるいは七不思議の路線をあまり変更せずに矢印ゲーっぽく作ることも(七不思議自体は矢印ゲーじゃないですが、ちょっとした変換で矢印ゲーにできるというのは簡単に想像できると思います)できます。ここには相当な自由度が用意されていますので、カードドラフトというのがワーカープレースメントみたいな1ジャンルを形成してしまう可能性があります。

ただ、これってあんまり良いことでもないよなー、と思うのでして、まあ七不思議が速度を失うとそんな面白くない、ってのはいいと言えばいいんですが、みんなが七不思議の改良の方向を向くと「プレイ風景をアイデアの源とする」という肝心のところが抜けていってしまいます。さらに、現在の「説明に20分かかる七不思議」「なんか矢印の匂いがする七不思議」を前提として改良ということになると、どうしたって現状を考えると全力で改良ですら無い市場におもねった矢印ゲーが乱造されるだけなんじゃないのか、という心配があります。

だいたい市場への目配せという話ならば七不思議自体が相当にそっちに寄ったゲーム構造をしているのです。ドイツゲームからポストドイツゲームへの流れは、前回までに申し上げたような構造の転換という話とともに、もっと単純に「ゲームのルールがめんどくさくなる」という側面が当然あります。ファミリー層はそういうめんどくさいルールのゲームを好まない傾向がありますんで、ファミリー向けにはファミリー専用設計のゲームがあてがわれ、そうするとこちら方向に対しては当然「ファミリーじゃない層」としてのマーケティングが行われることになります。ここでファミリーストラテジーというカテゴリの崩壊が起きるのですけどもそれはさておき、こっちの「ファミリーじゃない層」がそのままボードゲームマニアのことを指すのかというと、そんなところをポイントしていてはメーカーがそれなりの規模で食っていけるわけがありませんから、もうちょっと大きい市場、つまり「ルールが猥雑で、その中で俺無双できると嬉しい層」をターゲットにしたゲームが作成されることになります。この層の市場についてはご存知のかたも多いでしょう、各方面(CCG, TVゲーム, RPG, 漫画, etc.)で相当な研究が進んでおりまして、例えば日本のCCGメーカーである株式会社ブシロードのデザイナーの方がこの層に向けたゲームデザインの鉄則を講演で述べられています。このサイトでも議事録へのリンクを貼ったことがあります(「せっき〜のゲーム屋さん」より http://sekigames.gg-blog.com/Entry/102/ )。一行でまとめると「勝ったら実力、負けたら運。そのためにはルールの複雑化も受容」という内容です。じゃあってんで七不思議のデザインを見ますと、これがモロにそういう作りになっています。

この層へのマーケティングでゲームを作ることの問題は2つあり、ひとつはこれまで述べてきた事につながる話で、ゲームデザインがどうしても保守化すること。「この層への」というよりはマーケティングでゲームを作ること全般に関する問題ですね。で、もうひとつは、ボードゲームである必然性が全く無くなることです。いま述べたとおりこの層へのマーケティングは各方面でものすごーく進んでいますから。そこにボードゲームが新参で入ってきたところで、最初は開店セールでそれなりのお客さんも呼べるかもしれませんが、一回転目が済んだらもうその店に行く意味ないよね完成度低いし、ということで終わってしまいます。お客さんをとりあえず呼んできた所で、実はうちにはスペシャリテがありまして、とやれれば良いのですけど。そのスペシャリテを開発できるはずのメソッドを(ドミニオンに続くことで)確立した功績を持つ「七不思議」というゲームは同時に、メーカー側から見ると単に「客が喜ぶ柔らかいもの出せば店も畳まないで済むかも」という形でしか受け止められない可能性を持っていて、しかしそういう危険な可能性を持つことで初めて七不思議は注目されるゲームになり得た。ここまでのぐらんぐらんした記述にお付き合い頂いた皆様にはお分かりの通り、わたくしはこのゲームに対して相当にアンビバレントな感情を持っています。

そして1年。業界の雲行きはどうにもよろしくないようです。まだボードゲームがやらなきゃいけないこと、ボードゲームでしか引き受けられないことは結構残っていて、ご新規の方々もそれを期待していらしているはずなのですけれど。



(おまけ)

取り上げたかったんだけどねー、とか、取り上げたくなかったんで、とかそういうコーナー。

フェレータ
役割秘密選択システムを採用した「最初の」ゲーム。役割秘密選択じたいが「操り人形」までで止まっちゃって潮流にならなかったので取り上げられませんでした。無理やりプエルトリコのところまで繋げちゃうという手も無くはなかったのですが。

ちなみに。カサソラ=メルクルの作品はどれも採用しているベースシステムの歴史的な位置付けと、それに対していまこのゲームで何をトライしているかという目的意識が明確なので、今回のシリーズで取り上げたような視線をもって遊ぶと面白いと思います。もっと言うと、この人のゲームに関してはそのへん、ルールに含まれる批評性を意識しないと遊んだことにならないとすら言えます。

魔法にかかったみたい
バッティングゲームのルネサンスになるはずだったんですが、後続が全く出ませんでした。個人的には、面白いゲームを出すメーカーとしてのaleaの遺作、ということになっています。

古代 (Antike)
Antikeに始まるロンデルシステム(と、その系としての「マチュピチュの王子」)は素敵なシステムで、ワーカープレースメントみたいにもっと解析が進んでもいいと思うんですが。作るの難しいんですかねー。

ルイ十四世
明らかに重要なゲームなので本当は一項立てて取り上げなきゃいけないんですが、各項で言及するのみにしました。たいして面白くないんですものこのゲーム。どう重要かについては本文に書いたとおり。

カルカソンヌ
ゲーマーズゲームからファミリーゲームへの揺り戻しそして二極化へ、という意味ではまあ重要なんでしょうけども、あとカタンの次くらいにくる大ヒットゲームなので取り上げるべきという話もあるんですけど。ミープルが可愛いとかタイルのサイズがちょうどいいとかそういうところ(そういうところに凝る流れを決定的にしたゲームではあります)はともかくシステム的には見るべき所が何もないっつうかマルチゲームとしては旧エントデッカーの劣化コピーでしょこれ、というので無視。あ、二人用でタイマー使えば割と面白いです。


第一回は第二回以降と比べて記載がだいぶ甘いです。それでもカタンについてはこれ以上わたくしの側から言うべきことは別にないんですが、わたくしの最愛のゲームのひとつであるモダンアートについては、現状のようなおざなりな記述で済ませるわけにはいかんよなあ、とは思っています。いや、元々はどのゲームについてもモダンアートくらいの記載レベルで行く予定だったのです。こんな手間かかることになるとは。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-11-21 01:54

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part4)

終わんない! このシリーズ長いよ! だいたい1作ごとに文面が長くなってるじゃないか! と執筆者がかなりへばってきている本シリーズ。いままでは1回につき2作行けてましたが今回1作のみです。次回ドミニオン+七不思議で締めるかドミニオンと七不思議で二回に分けるかは今のところ未定。なんでどんどん長くなってきているかというと、最初に挙げた9作で必要なことを全部書かないといけないレギュレーションなので、書いた後で「あのこと書くの忘れてた」が発生すると後のほうの回で盛り込まないといけないからです。今回はケイラスなんですが「それモダンアートのところで書くべき話だよね?」という話題が混じってます。ではどうぞ。


ケイラス | 2005

ケイラスが一つの象徴であるというのは大方のゲームファンの共通認識になっていることと思います。ただ、ケイラスが象徴するものというのは結構いっぱいあるので、文字に起こして確認しておかないと1つくらい漏れが出てきてそれに気づかないということも普通にあるでしょう。ということで、そのあたりを書き起こしながら見て行きましょう。

まず第一に挙げられるべきは、ドイツ以外の国のゲームとしては1991-92年シーズン以来、「ドイツ以外の国の出版社が自国のデザイナーを起用して出したゲーム」としては初めての、Deutscher Spiele Preis(ドイツゲーム賞)受賞作であるということです。「ドイツ以外」といってもJumboやPiatnik、あるいは91-92のParker/Bandaiみたいな大メーカー(いま鼻で笑ったのは誰ですか?)ではない、間違いなくインディーズといっていいYstariというメーカーの受賞だということがポイントです。単に「ドイツかそうでないか」ということではなく、市場のルールが変わったことが明確に告げられた瞬間と言えるでしょう。カタンに始まる全欧米的熱狂(特にアメリカが大きく、ということはMayfair GamesとRio Grande Gamesの仕事が如何に大きかったかという事でもあります)とエルグランデによるゲーマーズゲーム概念の(再)誕生、そしてそれを機会としたLudoFact/PacktやHeidelbergerに代表される小規模流通網の整備、さらにこれは別にボードゲームに限った話ではないインターネットの普及、そういうような諸要因により、「ドイツボードゲーム=ドイツの玩具屋で販売されている、児童玩具性とエグめのゲーム的ジレンマを混ぜ込んだゲーム」であるという前提が崩れていきました。他の市場に住む我々としてはむしろ何で90年代までそんな玩具屋市場が残っていたのか任天堂やセガは何をしていたのか、という疑問は当然あるのですが、それはそれとして。鶏と卵のどちらが先か、システムと外部環境のどちらが先かはともかく現にかつてと違うものとなった以上もう二度と同じものにはならない、ケイラスはその象徴となっています。

さて中身のほうに移りますと、それはまあケイラスですからワーカープレースメントのことを云々しなければいけません(生ける伝説的インディメーカーSplotter Spellenの"Bus"(1999)のことは脇に置いておきましょう)。少なくともケイラスからワーカープレースメントが「始まった」のは間違いありません。単純にドイツゲーム的な観点で言うなら、ワーカープレースメントとは先ずは90年代のオークション全盛に対する「早乗り系」の王政復古であると言ってよいでしょう。いや早乗り系って別の言葉で言えばダッチオークションの多面指しだろ、とか、そもそもドイツゲーってそのレベルまで分解しちゃうとノーマル/ブラインド/ダッチ各種オークションと囚人のジレンマとチキンレースの5つしか構成要素無いよね。という身も蓋もない事実(これはクニーツィアが明らかにした事実と言ってよいと思います)の中でその流行の移動になんか意味あるのかってことではあるのですが、この流行の移動はマルチゲーム構造から2人ゲーム構造への大きな移行期(前回のプエルトリコ参照)だからこそ発生した現象なので、その意味で取り上げる価値があります。剥き出しのマルチ性がきっぱりと忌避されるという事態は前述の5要素で構成されるドイツゲームの開発において手足を縛られるに等しい制限なわけで、その中で何かやれることをとなると、割りきってパーティ/ギャンブル的な方向に行くのでなくあくまでストラテジーのゲームということにこだわるなら、隠蔽されたダッチオークションとしての早乗りシステムを進歩させるしか道はありません。ワーカープレースメントを簡単に言えば、通常の早乗り(典型的には「チケット・トゥ・ライド(2004)」など)と違ってダッチオークションの対象が抽象的な能力と言うか機能になったもの、ということになります。抽象化したんで直感性は失われます(従ってファミリーストラテジーは作りづらくなります)が、その代わりデザインの自由度が手に入ります。

では、その上がった自由度で実際には何をやったか。ここで出てくるのが04-05シーズンのドイツゲーム賞受賞作「ルイ十四世」です。ルイ十四世自体は正直別にすっごく良くできたゲームってわけじゃないんですが、あの資源が取れますとかそのカードが取れますとかこれをあれに変換しますとか、他のゲームなら1手番でそれくらいやらせてくれよ的な小規模な機能を大量に用意してそのそれぞれの権利を取り合う、そういうスタイルを世に広めたゲームとして触れておく必要はあるでしょう。仮にこのスタイルのゲームを「矢印ゲー」と呼びます(前提条件と結果が矢印と一緒にアイコンで書かれてるからです。よくありますよね、資源A→資源B、みたいの)。この矢印ゲーがワーカープレースメントと非常に相性がよかった。つまりワーカープレースメントは抽象的な機能を「早乗り」が成立するほどいっぱい用意して初めて成り立つゲームなので。で、ケイラスの出来がとにかく良かったこともあって、ワーカープレースメントと共にこの矢印ゲーのスタイルも認知され、ワーカープレースメントとは「別に」矢印ゲーはひとつの方法として定着し、ワーカープレースメントと共に有象無象のフォロワーを大量に生み出すことになったのでした。矢印ゲーはワーカープレースメントと違ってドイツ的というよりはポストドイツ的な手法なので、寿命が来るのもワーカープレースメントよりずっと先になるんじゃないかと思います。そうなったとき、みんなルイ十四世のことなんか覚えてないでしょうから、ケイラスには「矢印ゲーの嚆矢」という役割が割り振られることになるんじゃないかと予想しています。素直に告白しますと実はわたくし自身がこれ書くときまで忘れてて、あやうく「矢印ゲーの起源はケイラス」とか素で言っちゃうところだったのです。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-11-13 00:46 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part3)

プエルト・リコ | 2002

プエルトリコがDSPを獲った瞬間はそのままイコール「特殊能力対戦物がドイツにおいてOKになった瞬間」であると言えます。プエルトリコが何で面白かったかという話であれば、独特かつ効果的なフェーズ選択システム(と積荷ルール)によって形作られる「遅延をめぐる攻防」にまず触れる必要があり、このゲームにおける特殊能力の面白さはそれが前提になっているわけで、特殊能力について触れるのは後回しでも別に構わないくらいなんですが、残念なことにそっちのほうはその後ぜんぜん流行らなかったのでして。ここで取り上げるべきは専らテキストのほうになります。

プエルトリコ以前と以降で大きく変わったのは何か。テキストが有りになった、ではありません。イベント的なテキストは90年代にも生き残っていましたし、特殊能力としてのテキストはこれ以後もメジャーになってはいません(特殊能力としてのテキストのメジャー化は「アグリコラ(2008)」あたりでしょうか)。特殊能力が有りになった、というのも本当はちょっと違ってて(いや冒頭ではそう書いたんですけど)、90年代的な特殊能力というのは厳然と存在しています。「90年代的な」というところが重要なポイントで、90年代の特殊能力は概ね「イベントカードをどう現代化するか=ファミリーストラテジーの通常進行の中にどう組み込むか」という問題意識と繋がっています。そのへんが最もよく現れているのが前回の「エルグランデ」で、旧来のイベントデッキを特殊能力デッキに作り替え、プレイヤーの選択次第で場からどのカードを獲得できるか変化するという形を生み出しました。拡張の「エルグランデ K&I (1997)」では更にラディカルになっていて、特殊能力デッキをそのままプレイヤーの手札とし、元々のアクションカードと機能を融合させ、通常のゲーム手順の中に組み込むことで、特殊能力選択のフェーズそのものを削ってしまっています(エルグランデK&Iは特に意識的な例でして、それほどこの部分に拘っていないゲーム、例えば「フィレンツェの匠」などは、カタンの特殊カード的な処理で済ませてしまっています。こちらのほうが多数派ですね)。

プエルトリコが変えたのはこの部分です。プエルトリコ以降(厳密には1年飛んで03-04シーズンから。02-03シーズンのDSP受賞作は、特殊能力に関して典型的なカタン処理を行っている「アメン・ラー」です)、特殊能力はイベント山札から離れ、最初から面陳で全部場に並ぶようになります。プエルトリコ以前のドイツゲームにもそういう取り扱いをやった作品はあって(もうこの流れは今シリーズのお決まりですね)、ここでは「原始スープ(1997)」がこれに当たりますが、97-98当時の原始スープというのはそれはもうエクストリームでカルトな作品という位置づけのゲームでございまして、いや位置づけがどうこうではなく実際原始スープはどの特殊能力をいつ選ぶかで全てが決まるエクストリームなゲームなんですけど、なんにせよ主流派ではなかった。それを言うならプエルトリコそのものだって発表当初は普通にエクストリーム扱いされていたようにも思うのですが、お値段とか流通とか意外と当時のドイツ本流的な部分が強いとかいろいろあったのでしょう、「この手のゲームとしては」の前提付きながら大ヒットしてしまい、実際大ヒットしてみると意外にみんなあっさり受け入れてむしろ嬉々として能力の強弱談義に花を咲かせ、なんならそういう談義とか嫌いじゃないご新規のユーザまで連れてくることになってしまったのです(←ここ重要)。そしてこの流れは、特殊能力から特殊性を取り除いた「サンクトペテルブルク(2004)」、ケイラスの項で再び登場すると思われる【微妙な能力の組み合わせ】ゲームの火付役「ルイ十四世(2005)」で確定的になります。

この流れを振り返った後で改めて「ドイツボードゲームの終わりとその後」というテーマを考えた時、「終わりの始まり」つまり転換点の役を割り振るのに最も相応しいゲームはやはりこのプエルトリコだと言えるでしょう。ただし、何からなにへの転換点なのかということはきちんと言及しておく必要があります。つまり、「多主体複雑系的(≒マルチゲーム的)ジレンマ」をベースとしたゲームから「強弱解析のケーススタディ」をベースとしたゲームへと流れが移り変わる瞬間、という意味です。最初にモダンアートの項で取り上げた「クニツィアレスク」というのは前者の要素のミニマル化だと言えます。そして後者はTCG/CCGを支配する主題であり、より広くは2人用ゲーム一般を支配する主題です。マルチゲームの2人ゲーム化。その最初の作品となったのが、醜い汚れ仕事にまみれた如何にもなマルチゲームである「プエルトリコ」だというのは少し皮肉なところがありますが、歴史というのはそういうものなのでしょう。いや全部わたくしの按配なんですけど。



キャメロットを覆う影 | 2005

ドイツゲームの終わりとその後の話はいったん中断して、ここで協力ゲームの話題を入れておきたいと思います。この話題はこのサイトでは散々しつこくやってて新しく付け加えることって何も無いんですけど、それでも偽史を作る以上はやっとかないといけないトピックではあるのです。ドイツゲームの20年で未解決に終わった問題というのはいくつかあって、たとえば「結局ゲームにおいてダイスというのはどう扱うべきなのか」なんてのがあり、こういうのは次の世代のゲーム(の出版社と作者とプレイヤー)が考えていかないといけないんですが、それら未解決の問題のなかで取り分け大きいのがこの「協力ゲーム問題」です。協力ゲーム問題というのは、協力ゲームを如何にマルチプレイヤーズゲームとして成立させるか、という問題のことです。協力ゲームは放っとくと「声の大きい奴が1人でやってんのと変わらないよね」ということに必ず陥ってしまい、というのはそれを防ぐ強いインセンティブのある人が場に誰もいないからですが、これを何とかしないと複数人で集まってゲームをする意味がなくなってしまいます。

なんでこの問題が未解決なのかというと、まず解くのが難しい問題であるというのがひとつ。あとは80-90年代のドイツゲームが基本的に協力ゲームにあんまり興味を持ってなかった、ということもあるでしょう。なぜ興味が無かったのかというと、その年代のドイツゲームでは勝敗というのはいい加減に決まるものだったので(多主体複雑系的ゲームでは勝敗というのは本質的にいい加減なものなのです)、勝敗についてさほどシリアスに考える必要がなかった、ということは指摘できます。それがエルグランデ以降のゲーマーズゲームの定着で「スキル」の概念がクローズアップされ、さらに前述のプエルトリコのところで述べた解析化の流れにより、勝敗、つまり勝ったひとと負けたひとがいること、という事実が相応に重いものになってきました。その緩衝材として必要になるのが(カジュアルゲームと)協力ゲームであった、という筋書きは、ひとつあり得るんじゃないかなと思います。

前置きが長くなりましたがそんなわけなので、ドイツゲームでは協力ゲームの歴史そのものがあんま無いのです。相応しいスタート地点はおそらく「ロード・オブ・ザ・リング」ですが、これ2000年のゲームですから。そしてこれはあくまで(ドイツゲームとしては)開始点なので、協力ゲーム問題は別に何も解消されていません。欧州のボードゲームで、まっとうにこの問題に取り組んで成果を挙げ、さらに市場にもそれなり以上に受け入れられた、という条件を満たすものを探すと、出てくるタイトルがこの「キャメロットを覆う影」になります。

キャメロットが何をやったか。これは一言で表すことができて、「裏切り者がいる<可能性>の導入」です。いるかもしれない、いないかもしれない。その揺らぎが重要だ...というのはそのまま別のエントリで述べたので詳しくはそちらを(【「である」のではなく「になる」こと】 http://toccobushi.exblog.jp/3461437/ )。実際に裏切り者が1人います、だと今度は単純な1vsNになってしまって協力ゲームではないので、「可能性」にとどめておくことで「全員協力しているのだけれども全員の情報をオープンにできない」という状態をともかく現出させたことが「キャメロット」の主要な功績です。まあ実際にはかなりの確率で普通にいるんですけどね裏切り者。

それだけ? それだけ。それだけです。それでも、やっぱり初めにやった人は偉いんですよ。このあと協力ゲームはそれなりに数が出るようになり、その中で協力ゲーム問題をクリアしたといえる水準にあるゲームも複数出てきています(具体的には「スペースアラート(2008)」と「花火(2010)」。「パンデミック(2008)」は楽しいゲームですが協力ゲーム問題に関する限り2000年の水準を一歩も出ていません)。で、何でそういうものが出てくるようになったかを考えた時、キャメロットがデザイナーに与えた影響、つまり「協力ゲーム問題というものがある」と認識させたこと、これは大きかったんじゃないかと思うのです。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-10-24 01:23 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part2)

2回目でーす。今回も勝手な断定をエクスキューズなしでばんばん飛ばしてますが、「俺の中ではこれが真実」以上の保証は何も無いんで、「な、なんだってー」くらいの気分でよろしくどうぞ。逆に言うなら「俺の中ではこれが真実」ってところまででよければ確実に保証します。意味のある保証かどうかはともかく。

さて今回はクラマー&ウルリッヒ二連発。内容を一言でまとめると「クラマーはえらいひと」。



エル・グランデ | 1995

1995ニュルンベルグ発表のカタンがアメリカのゲーマーズゲームからゲーマー臭を取り除くことによって「ファミリーストラテジー」の再定義(っていうか「定義」ですね。ファミリーストラテジーはカタン以降のドイツゲーム・ムーブメントの中で使われだした言葉ですから)を行ったゲームであるとするならば、1995エッセン発表のエルグランデは、ドイツにおけるゲーマーズゲームのフォーマットをこれ一作で規定することになったゲーム、と申せましょう。

この「フォーマットの規定」というのは、たとえばモダンアートによって現代の競りゲームのあり方が規定された、というのとは意味合いがちょっと違います。現代競りゲームの場合はモダンアート以前には殆どそういうものが無かったのに対して、エルグランデ以前にもドイツ的なゲーマーズゲームと呼べるものはそれなりに存在しています。例えば同じメーカーの最初の批評的成功作である「ディ・マッヒャー(1986)」は典型的なドイツルールで構成されたゲーマーズゲームですし、ドリス&フランクも「でっかい馬鈴薯(1989)」や「フッガー・ヴェルザー・メディチ(1994)」みたいなものを出しています。「チョコ&コー(1987)」など今遊んでこそ新鮮なゲームと言えるでしょう(言えるんです。いや面白いんですってチョコ&コー)。そういうわけでゲーム自体は存在していたのですが、「ドイツ・ゲーマーズゲーム」というフォーマットのほうがこの時点までは無かったのです。もっとも分かりやすいところで言えば、「ドイツ・ゲーマーズゲームは表示時間が90分(実際遊ぶと初ゲームなら2時間半)」というのは、このエルグランデが始め、このエルグランデによって広まった慣習です。従って我々が、あるいはメーカーが「90分のゲーム」というとき、そこでは「エルグランデくらいの長さのゲーム」ということが暗示されています。そしてこのエルグランデ参照というのは中身の方にも及んでいて、エルグランデがSdJを取って以降、つまり1996-97シーズン以降ドイツゲームの終焉(2008年頃)まで、「ドイツ・ゲーマーズゲーム」は実質「エルグランデみたいなプレイ感を持つゲーム」を指すことになります。歴史的な意味でのエルグランデの重要性は、何よりもまずここにある、というのがわたくしの認識です。カタンによってファミリーストラテジーが定義されました。カタンは超ヒット作になりましたから、カタンによって産まれた「ボードゲーマー」というのも数多くいたことでしょう。そのようにして形成された土壌の上に、わずか8カ月後に産み落とされたエルグランデが、そのようなボードゲーマーの熱狂的な支持を受けたことは間違いありません(何せこの重たい内容でご家庭向けの賞であるSdJを獲っているのです。如何に当時のドイツ人が熱に浮かされていたことか)。エルグランデによってドイツ・ゲーマーズゲームの市場が整備され、ここに我々がいま知っているゲームシーンが完成します。

さて、「エルグランデみたいなゲーム!」という影響は、当然ながらゲームシステム面にもあったわけです。というより、「歴史的に見てエルグランデってどんなゲーム?」という話をすれば、どちらかというとシステム面のことが先に来るでしょう。つまり、ドイツ式=一着二着式の非戦型エリアマジョリティというジャンルを作ったゲーム、としての評価です。例によってエルグランデが本当の最初のゲームというわけではなく、例えばクニーツィアの「古代ローマの新しいゲーム(1994)」に収録されている「インペリウム」などはこのジャンルの先行作品と言えば言えるんですが、1996-97シーズン以降ひと山いくらって程に大量生産されたドイツ式エリアマジョリティが先行作例として「インペリウム」を参照していたはずはなく、みんなエルグランデみたいなゲームを作りたかったんです(もうちょっと意地の悪くない言い方のがよければ「エルグランデを超えるゲーム」ですかね)。何しろエルグランデは腹に重く来る面白いゲームですし。でもそれだけなら、あんだけ売れたカタンに嫡子が最後まで生まれ無かったのに、ということになってしまうのでして、要はエルグランデみたいなゲームって作りやすいんです特にカタンなんかと比べると断然。基本構造はチキンレースのジレンマの多面指しで、地形学的あるいはルール的な縛りによりリソース投入に「ここから入るならこのルート」という戦略的な選択肢を整えて、あとは妨害とかリソースの複雑化とか、何でもいいんで素敵なサムシングを独自要素として放り込めば一丁上がり(一応補足しておくと、そんな簡単には素敵なサムシングなんか作れません)。「エルグランデがドイツ・ゲーマーズゲームを作った」という言葉は、良くも悪くも「エルグランデがドイツ・ゲーマーズゲームをデザインするためのメソッドを作った」という裏を含んだものです。もっとも、そういうメソッドで生産された製品の横にエルグランデを並べてみると「いったいどうしたのだお前は」と言いたくなるほどキャラが違っていて、久しぶりに遊んでみても作りの自由さに改めてびっくりすることになるのですが。



フィレンツェの匠 | 2000

何でこのラインアップでフィレンツェの匠が混じってんの、というのは入れたわたくしでも思う所で、面白いことは間違いなく面白いゲームですが別に何かセンセーションを巻き起こしたりムーブメントを先導したりはしていないのであって、実際入れるか入れないかでかなり迷ったのですが。何で入れたのかといいますとですね、とある方との会話の中で確かにそうだなあと思ったことがあって、これ「リソース or 勝利点」の二択システムをメジャーに押し上げたゲームなんです。一応振り返っておきますと、このゲームでは名誉な何かをゲットする機会がプレイヤーにつきだいたい5〜8回くらい巡ってきまして、その都度もらった名誉をお金と勝利点に振り分けると。これは競りゲームなので当然ながらゲームの遂行にはお金が必要であり、そしてお金を獲得する手段は事実上これだけなので、名誉を勝利点に割り振るというのはゲームを畳みに入っているということになります。で、これ、どうということもないシステムに見えますし、いかにもドイツゲーム的な美意識を持ったシステムでもあり、さらに言えば現在では「ドミニオン(2008)」をはじめとして多くのゲームに普通に搭載されています。あとは別ジャンルですが、RPGでは経験点をスキルに割り振るみたいなのは(これがフィレンツェの二択システムとは似て非なるものだというのは後で触れますが)遙か昔から王道中の王道です。ですが実際に振り返ってみた時、このゲームより以前には、そういうシステムはほとんど見られないのです(例外についても後で触れます)。

うん、まあ、そうかもしれない(そうじゃないかもしれない)。でもだからなんなの、それがそんなに大事なことか? というのはごもっともなのですが、ここで触れておきたいのは、あのボードの外周にくっついている謎の目盛、つまり「勝利点トラック」という概念です。勝利点vsリソース二択システムは導入の効果がたいへん明確であり(完全な拡大再生産化を回避してゲームを収束させ、加えてその収束のさせかたもプレイヤー側に委ねることでジレンマの数をひとつ増やす)、導入の際の困難も全くなく、誰でも入れようと思えば簡単に入れられる扱いやすいシステムでありながら、ほとんど誰も入れようとはしなかった。なぜか。考えられるのは、それまでは「勝利点」という考え方がまだ完全には自明のものになっていなかった、という仮説です。名誉によって買えるものとして、お金と勝利点が同じ売場に同じ扱いで並んでいる。こういうやり方は、勝利点というものがお金やその他リソースと同じような、ボードゲームにおいて操作の対象となるひとつのブツである、という発想に立つ、そしてそのような発想が自然に受け入れられることで初めて可能なものです。今を生きる我々としてはつい「いや、勝利点ってそもそもそういうものでしょ?」となりがちですが、少なくともドイツのボードゲームにおいて、勝利点というのはかつてそれほど自明のものではありませんでした。いま我々は「お金(やその他のリソース)をたくさん手元に持ってきた人の勝ち」と「最初に勝利点を一定量稼いだ人の勝ち」と「ゲーム終了時に勝利点トラックで最も先に行っていた人の勝ち」とを別段区別して扱いませんが、これらは歴史的には全て別のものです。お金を稼いだ人の勝ち、リソースを集めた人の勝ち、というゴールには百年来の伝統がありますが、勝利点を一定以上、というゴールはこれに比べると数がだいぶ少なくなります(トイバー「バルバロッサ (1988)」「貴族の務め (1990)」など。おそらくこれはレースゲームから派生したシステムでしょう)。そしてもっと少ないのはゲーム終了時に勝利点トラックを最も先へ、というゴールで、例えば80年代のSdJを見てみると「ゲーム終了時に勝利点トラックを最も先に」を堂々と使っているのはどうやらクラマーくらい(「アンダーカバー (1984)」「フォルム・ロマヌム(1988)」)だということがわかります。おおクラマー。

先ほど保留にしていたRPGのスキル分配とこのシステムの先行作例についてここで触れましょう。RPGのスキル分配がこの文脈においては似て非なるものだということは、もうお分かりいただけるかと思います。RPGにおいてスキルというのはいずれにせよリソースですから、単にどれにしようかな、というだけの話であり、2択システムのメタ言及性(勝利点というメタ概念をエクスキューズなしで非メタなリソースと同じ高さに引きずり下ろしてしまう、ということ)とは関係ありません。そして例外的な先行作例についてですが、フリーゼの初期作品「贋金づくり (1994)」が挙げられます。ただ決定的に違うのは、フィレンツェにおいて勝利点トラックにあたるものが、贋金づくりでは「コイン」なんですね。手元にプラスチックのチップが受け渡されます。ゲーム的な効果自体は全く一緒であっても、フリーゼにおいては交換対象にテーマ的な意味とブツの触感をはっきり持たせることで糖衣を被せていた。2000年のクラマーには、そういう躊躇はありませんでした。盤上で堂々と勝利点をめぐる剥き出しのメタフィクションを展開しても普通に受け入れられる、ゲームシーンは既にそうなっていたのです。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-10-13 23:36 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part1)

「歴史的重要性の観点からわたくしが勝手に選ぶこの20年の代表的ボードゲーム(欧州系システム限定)。モダンアート・カタン・エルグランデ・フィレンツェの匠・プエルトリコ・キャメロットを覆う影・ケイラス・ドミニオン・七不思議。みんなもやってみよう。みんなって誰だ?」

ボードゲームの歴史、特に現代史を考えることは重要なことだと思うのですが、重要なことだとは思っていても知らないものは知らないし教科書もでていない。のでおしまい、というのは少々後ろ向きすぎるようにも思えるので、とりあえず現代史を捏造してみるところから始めましょう、というお話でございます。「みんなもやってみよう」というのは、みんなもここに挙げたゲームをやってみよう、という意味ではなく(いや基本的にここに挙げたゲームについては未プレイならぜひ遊んでみるといいとは思いますけども)、みんなも勝手に歴史的重要性の観点から代表的ボードゲームを挙げてマイ現代史を捏造してみよう、という意味であります。捏造の山から正史が立ち上がることもあるかもしんないというポジティブシンク。根拠無いけど。

なんで20年で欧州系限定かというと、その範囲を外れると捏造しようにもなんも知らないので書くことがない、というのが理由のほとんどです。残りの理由としては、たとえばこの20年で欧州系限定をはずしてしまうとどうしたってM:TGに触れざるを得なくなり、そうするとM:TGと並べて恥ずかしくない程度の影響力を持ったボードゲームってこの20年ではカタンだけなので、ちょっとやりたいことと違ってきちゃう、というのがあります。レンジが30年だとウォーハンマー、40年ならD&D、50年だとタクティクスみたいな初期のウォーゲーム、とかまあいろいろあるんでしょうけど、よく知らないのでとにかくこの20年、「欧州系」限定です。正確に言うと「欧州系以降」限定。つまりドミニオンは冷静に考えてみると欧州系と言えるための条件を殆ど満たしてないけど当然入れるからね、という宣言です。


モダン・アート | 1992

欧州ボードゲーム20年偽史をモダンアートから始めるというのは何かたいへん意義あることのような錯覚を覚えて書いてる方としてはちょっとした興奮があります。というのは、「欧州ボードゲーム20年史」というのはほぼ「ドイツ・ファミリーストラテジーの興隆と衰退、そしてその後の展開」に等しいわけで、その書き出しというのは何をもってドイツゲーム・ルネッサンスの始まりと定義するか、につながります。そこでたとえばカタンを出してくるという態度があり、あるいは20年縛りを無視してスコットランドヤードという手もある(というか、「スコットランドヤード(1983)」を始まりと定義するのであれば、お題のほうを「30年史」に変えるわけです)。その中でクニーツィア、それもモダンアート。含意はふたつあり、「ドイツゲーム・ルネッサンスの時代とはそのまま競りゲームのルネッサンスの時代と言い換えることが可能である」ということ、そして「ドイツ・ファミリーストラテジーの最も大きな主題は、クニツィア的なるもの、であった」ということです。

特に前者については、競りゲームの歴史ははっきりとモダンアート以前・モダンアート以降に分けることができます(もちろんクーハンデル(1985)みたいな例外はあるにせよ)。全てが競りだけで構成され、あらゆる行動が価格付けという言語によって構成されるゲームでありながら、しかしその言語によって行われることは必ずしも単なる価格付けだというわけではなく、むしろ本質的にはプライシングというよりも空気の形成に関するゲームである。クニーツィアはこのモダンアートにおいて、競りというシステムをミニマルに用いることで、競りというだけに留まらない複雑な味を持たせることに成功しました。これにより、九十年代のボードゲームにおいて競りは第一級のゲーム要素に格上げされ、クニツィアがリファレンス的なゲームを同時期にいっぱいつくったこともあり、やたら数多く出回るようになります(各作者の名誉のために、その多くが十分に遊べる水準を保っていた、ということは付け加えておくべきでしょう)。また、ここで提示されたミニマリズムも、その後のドイツゲームにとってひとつの規範をもたらしました。そしてこの「競りとミニマリズム」によって退潮したボードゲーム要素というのも確実にあり、それはたとえばダイスだったりイベントだったりするわけで(直接戦闘は八十年代の時点でドイツではマイナーになっていました)、そういう新たに追加された要素と退潮していった要素とが九十年代、つまりドイツ・ファミリーストラテジーの時代を形作ることになったのでした。

 そうすると今度は、この時代がどこで終わったのか、という話になり、これも当然いろいろキーイベントを挙げることができるのですけども(後述するいくつかのゲームの登場なんてのは分かりやすい例ですね)、今述べたような競り史観=クニツィア(レスク)史観を採用するのであれば、1999年のスティーブンソンズロケットか2003年(だっけ)のアメンラーというのが分かりやすい終わりの始まりと言えます。前者はクニツィアが初めて狙って作ったゲーマーズゲーム、後者はそれがDSPを獲得した、というイベントです。何なら2008年のケルトを、ドイツ・ファミリーストラテジーの時代への別れの挨拶、という扱いで見ることだって可能でしょう。ああいうミニマリズム的な45-60分クラスのゲームが大箱で並ぶようなことは本当に少なくなりました。

※追記:タージマハル(2000)というのもあるのですけど、あれはどっちかというとチグリス・ユーフラテス(1997)と同じ系統、つまり「できちゃった」ゲームなんじゃないかなーと。ポーカー狂いのクニーツィアがうっかり産み落とした危険なドイツ・ゲーマーズゲーム。



カタン | 1995

ドイツゲームの象徴をなにか1つ、という条件だったらふつうはこのゲームを挙げますわね。少なくとも商業的には、ドイツゲームの時代というのは完全にカタンの時代とイコールです。その後10年、ドイツゲームが生産される基盤そのものを作ったゲームですから、当然歴史的に見てこの20年で最も重要な作品でございます。

システム面から言えば、ファミリーストラテジーにおいて許される複雑さの上限を再定義した作品というのがまず第一に来るでしょう。カタンというのは玩具屋で平積にされて売りに出るメジャーな作品としてはかーなり複雑なルール構成のゲームで(いやヴェルニサージ(1993)十分複雑じゃね、とか言わんように。あれは五千部しか出てません)、これが大ヒットしたことで、ここまではやってOKとなった。もちろんこれはちょっとずれた認識で、ルールの複雑さとユーザが遊んだ事後の印象としての複雑さとゲームの難度はそれぞれ別のことである、というのが本当のところなのですが、ともあれルールの複雑さについてはここまでOKになりました。と。このゲーム自体は別にゲーマーズゲームじゃないんですが、システム面でも「ゲーマー」が産まれるきっかけになったゲームとは言えます。
なんか口調が煮え切らないんですけどこれは何故かというとですね、よく言われることだと思いますが、このゲームって各パーツを抽出してみると全然九十年代ドイツ風ファミリーストラテジーじゃないんですよね。まずルールが複雑なことが第一に挙げられますが、それよりも重要な点があって、それはドイツゲームの系譜のどこかに位置づけることがかなり難しいシステムだということです。カタンの先行作品として良く名前が出てくるゲームって"Borderlands (1982)"と"McMulti (1974)"だと思うのですが、どっちもアメリカのゲームなわけです。そして後に続くゲームはないと。んでこれは外側から見た言い方ですが、内側から同じ事を言うなら、何より全面的なダイスの採用と堂々たる特殊能力カードの運用。特殊能力カードはその後もなんとなく残っていくことになりますが、ダイスを好んで大箱に突っ込むデザイナーはたぶんトイバーが最後の一人で、トイバーが一線から引いたら本当にダイスはメインストリームから消えてしまいました。ドイツゲームが終わった現在になっておずおずとダイスの再定義が始まっていますけれども、第一級の要素として復帰するのは(あったとしても)だいぶ先のことでしょう。トイバーは当時の基準で考えるとダイス的な乱数を本当に愛した人で、ことあるごとにダイスやらルーレットやらを、結構アクロバティックな方法で取り込んでいます。90年代にダイスを用いるにはここまでやらんと駄目だったですか、ダイス末期ですしねえ、という印象もありますけど、ただたとえばこのカタンが代表例ですが、トリッキーかつ全体から浮かないような使い方でありながら、プリミティブなダイス勝負感覚、つまりあの「この目を出したんぞオラ」なオカルト、そういうものを大事に残しているんですね。最後の一人だけあってダイスを使うのが最も巧かった人だと思います。

そして、これは功罪半ばするところですが、交渉要素の大幅なカジュアル化、というのもこのゲームの残した大きな影響と言えるでしょう。モノポリー(1933)からディプロマシー(1959)を経て延々と続く交渉=鉄火場論。カタンはそういうのと関係のないところでプレイヤー間の交渉をメインストリームのユーザに提示し成功しました。そして鉄火場的な交渉ゲームはその後完全に立場を失いました(いや、これは割と恨みがましい嘘が混じってますけど)。この流れを決定的にしたのはローゼンベルクの衝撃的なデビュー作「ボーナンザ(1997)」で、この二作によってドイツにおける交渉とはそういうことです、というスタンダードが形作られました。前述のアメリカからカタンへという話と組み合わせると、カタンが行ったのはドイツゲームとしての要素を入れ込むというよりは、アメリカのゲームを象徴する生臭さをアメリカのゲームから取り除くことだった、というように言っても良いかもしれません(ただ、そう言ってしまうと後継者がKeyaertsということになってしまい、それはそれで違和感があるのですけども)。

※一応追記しておきますと、これはあくまでカタン単体の話であって、トイバーが常にソフィスティケイテッド・アメリカの人だと言いたいわけではありません。というより、「カタン」シリーズを除けば、トイバーはほぼ常に王道ドイツの人で、それも1997年版レーベンヘルツを除けば王道ドイツ・ファミリーストラテジーの人だと言えます(前述のとおりヴェルニサージはゲーマー寄りですが)。



...すぐ終わると思いきや意外にも全然先に進まないのでここで切ります。続きは近いうちに。


追記(10/12): あーキャメロット抜けてたー。というわけで足しました。決して個人的にはそこまで好きじゃなくて書くのめんどくさいからこっそり削ったわけではー。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-10-12 00:34 | 感想・紹介

のいのわーる(未テスト創作)

Neu/Noir


ゲーム概要

O'No99とか101とかNeuとかああいうゲームの面白さが分からない人のための、つまりわたくし自身のための、ああいうゲームの面白さを完全にスポイルしたああいうゲーム。とりあえずNeuの拡張として。タイトルはsac noirのオマージュですが冷静になって考えてみると独仏ちゃんぽんですね。


4-7人用

内容物
・Neu一式(ノイカード58枚、白チップ21枚 http://www.mmjp.or.jp/icarus/neu/neu_rule1.html)
・黒チップ17枚くらい
・プレイヤー担当色表示マーカー 7色各1
・ベットチップ 7色各1


準備

・黒チップをテーブル中央にまとめて置く。
・プレイヤーはそれぞれ担当色1色を決め、その色のマーカーとベットチップを受け取って手元に置く。
 (マーカーとベットチップは少し離して置く)
・各プレイヤーに以下の枚数だけ白チップを配る。配られたら手元に置く。
 4人ゲーム時は各自5枚/5人なら各4枚/6-7人なら各3枚。
・余った白チップ・マーカー・ベットチップはゲームに使わないのでかたづける。
・カードをシャッフルし、各プレイヤーに以下の枚数だけ手札を伏せて配る。
 配られた手札は手に持って自分だけ確認、他人に見せない(喋るのはOK)。
 4人ゲーム時は各自14枚/5人なら各11枚/6人なら各9枚/7人なら各8枚。
・余ったカード(2枚か3枚)は中央に伏せておく。
・スタートプレイヤーを適当な手段で決める。
・「現在値:ゼロ」「進行方向:時計回り」「手番:スタートプレイヤー」でゲーム開始。



流れ

手番が回ってきたプレイヤーは、以下の3つのうち1つを選んで行う。
 1. 手札からカードを最低1枚出す
2. 自分のベットチップを出す
3. ラウンド敗北宣言を行う(ラウンド終了となる)
1か2を選んだ場合、これを実行した後、次のプレイヤーに手番を渡す。
「次のプレイヤー」とは、基本的には現在の進行方向に見て隣に位置するプレイヤーのこと。
ただし、手番プレイヤーが出したカードによっては、そうならない場合がある。



1. 手札からカードを最低1枚出す

複数枚出したければ何枚出しても構わない。その際は出す順番を明確にすること。
数字カードを出すと、その出した数字カードの値のぶんだけ、「現在値」が増える
(マイナスの数の場合は値が減るが、ゼロ未満にはならない)。
現在値が101を超えるような出し方はできない。
101カードを出した場合、現在値が101になる。
指示カードは、出しても現在値は変化しない。指示カードはそれぞれ後述する特殊な効果を持つ。
出したカードは自分の手元に置く。手元に、前回(またはそれ以前)の手番に出したカードが
既にあるのであれば、その上に重ねて置く。



指示カード

Shot:次の手番プレイヤーを任意に指名する。
Turn:進行方向が逆転する。
Double:次の手番プレイヤーは、最低限出さなければいけないカードの枚数が1枚増える。
Pass:Doubleが効いている場合、Doubleの対象が自分ではなく次のプレイヤーになる。

Shot, Passの効果は累積しない。複数枚出しても、1枚だけ出したときと同一の効果。
Turnは偶数枚出すと効果が相殺され、奇数枚出したときのみ効果が発揮される。
Doubleの効果のみ累積する。
複数枚のDoubleが効いている場合でも、Pass1枚だけで
その全てのDoubleの効果が次の手番のプレイヤーに引き渡される。
Doubleが効いていないときのPassは単に「数字の+0」扱い。



2. 自分のベットチップを出す

ベットチップを出す場合は、自分以外のプレイヤーを1人選ぶ。
選んだプレイヤーのマーカーの下に、自分のベットチップを敷く。
既に誰かのベットチップが敷かれている場合、そのようなプレイヤーを対象に選ぶことはできない。
自分以外の全員のマーカーの下にそれぞれベットチップが敷かれているという状態にある場合、
この行動は選択できない。
また、既に自分のベットチップが誰かのマーカーの下に敷かれている場合も、この行動は選べない。

ベットチップを出した場合、直前にDoubleが効いていたとしても、そのDoubleは無効になる。
ベットチップを出した場合、次は、ベットチップを敷く対象に選んだプレイヤーの手番となる。



3. ラウンド敗北宣言を出す

この行動を選んだら、直ちにラウンド終了となる。
この行動を選んだプレイヤーは、手持ちの白チップを1枚捨てる。

・このプレイヤーのマーカーの下にベットチップが敷かれている場合:
 そのベットチップの所有者は、ラウンドの「勝者」となる。
・このプレイヤーのマーカーの下にベットチップが敷かれていない場合:
 直前の手番を行ったプレイヤーが、ラウンドの「勝者」となる。

ラウンドの勝者は、テーブル中央から黒チップを1枚獲得する。

後述するゲーム終了条件を満たしているか確認する。以下の手順は、
ゲームが続行する場合にのみ行う。

全員、自分のベットチップを回収して手元に置く。

敗北宣言を出したプレイヤーは、自分を含む全員の中から任意の1人を選び、
そのプレイヤーの手元に出され積まれているカードを全て取って手札に加える。
第1ラウンド終了時に限り、中央に伏せて置かれた2-3枚のカードも合わせて取って手札に加える。
なお、手札の補充はこのように敗北宣言を自分で出すことによってしか行えない。
残りのプレイヤーは手札の補充はない。手元に出したカードもそのままにしておく。

新しいラウンドを、この敗北宣言を出したプレイヤーから始める。
現在値はゼロに戻る。進行方向は前のラウンドから変わらない。



終了条件

ラウンド終了時、以下のいずれかが満たされていたら、ゲーム終了となる。

・誰かが規定枚数だけ黒チップを集めた場合。そのプレイヤーの勝利。規定枚数は以下の通り。
 4人ゲーム時は5枚/5人ゲーム時は4枚/6-7人ゲーム時は3枚
・誰かが白チップを全て失った場合。白チップを全て失ったプレイヤーは失格。
 それ以外のプレイヤーの中で、集めた黒チップが最も多いプレイヤーの勝利。
 同点首位が複数いる場合、
 ・その中の誰かが「最後のラウンドの勝者」なのであれば、そのプレイヤーの勝利。
 ・そうでなければ、手元に残した白チップの枚数が多いほうを優位とする。
 ・それでも同点首位が複数いるという場合、その同点首位のプレイヤーだけで、
  延長戦として1ラウンドだけ追加で行う。この延長ラウンドの勝者がゲームの勝者となる。
  延長戦を誰から開始するかは、失格となったプレイヤーが選ぶ。



To Do

・チップ枚数はもう一枚くらい多いほうがいいかもしれない
・三人だとどんなかんじだろうか
・たぶんこのルールだとスキップがあったほうがいい。
 -10と-1は全部スキップ効果を持つとしたほうがいいかも。n枚重ねて出せばn人飛ばし。

・(追記)1人だけベット載せられなくてはぶられることがあって、それは別にいいことにしたんですが、
 やっぱり問題なような気もします。
 解消法としては、ベット使ってないのが残り2人になったときに置く先に制限をかけるとか。
 ただルールがだいぶ汚くなるのが。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-08-16 00:57 | 創作関連