コンペティション「東京ドイツゲーム賞」について

えっとどうもこんにちは、沢田といいます。そのへんで会社員やっております。あとプライベートでボードゲームの和訳とかもやってます。
今回、テンデイズゲームズとニューゲームズオーダーの二社に公募ゲームコンペの企画を持ち込みまして、両社の主催で「東京ドイツゲーム賞」という間抜けなタイトルのコンテストを実施することになりました。わたくしも副賞金出す人として審査員の末席に加えさせていただくことになっております。よろしくお願いいたします。
(なお「末席」というのは謙譲的な表現ではなく、最終選考での発言力でいうと最弱扱いなんじゃないかなーという予測によるものです)

さて、お前のことはどうでもいいが副賞20万円ならもらってやらんこともないので傾向と対策を説明しなさい、という話ですね。テンデイズTV ( http://www.ustream.tv/recorded/24516660 )で基本的なコンセプトは説明していて、そこでは「ドイツゲーム」=「1990年代に勃興し2000年代後半に黄昏時を迎えたある種のスタイル」というのを割と強く押し出していたのですが、実際のところ、じゃあ「これは何ツィアですか?」みたいな投稿作品の山に埋もれてみたいのかというと別にそんなことはないのでして。たとえばこの賞が2007年くらいに実施されていたとして、そこにドミニオンが送られてきたら「これはドイツゲームじゃないよね」とか言って落とす訳がありませんよね常識的に考えて。なのでまあ、もちろん私個人としては「基本的には多主体複雑系的ゲームのほうを強弱解析系ゲームよりいくらか上に取りたいです」くらいの思いはありますが(なんでそう思っているかについてはこのウェブログの過去のエントリをご参照ください)、それは単に陸上競技のハードルみたいなもので、そういうのどうでもいいから俺のゲームを見ろ、くらいのボルテージで飛び越えて送ってきて頂くのはむしろ大変ありがたい。なので送ってきて頂く皆様におかれましては、選考上の細かい有利不利は置いといてレギュレーションとしては「いくら Vlaada Chvatil でも Mage Knight Board Game みたいにルール40頁に加えてカード全テキストとかだとさすがに体力的に拾えないような気がしてます」くらいのものだと解釈していただければ全く問題ありません。

それよりも審査の上で重視しておきたいところがありまして、これ放送あとで見返してみたらきちんと伝えられてなくて拙かったなと反省したところなんですが、とくに一次の審査ではプレゼンテーションは重要な要素になります。なんならルールよりも重要と言っても構いません。そこまではいいとして、問題は「何を」プレゼンテーションしてほしいのかということで、つくりの善し悪しとか資料が凝ってるか凝ってないかというところは全くどうでもよく、「何故このゲームは面白いと言えるのか/どの部分が面白いゲームなのか/どこを遊ぶべきか」「何故ほかのゲームでなくこのゲームを遊ばなければならないのか」、つまり構造と独自性について説明してほしいのです。ルールというのは必ずしもゲームの構造や独自性を説明するのに最適な媒体だとは限らないので、その部分を補足/強調するものとしてプレゼンテーションを使っていただきたいと考えています。

具体例を挙げると、たとえば放送でも挙げたタイトル「いかさまゴキブリ」なら、「UNOみたいに手札を無くしていくタイプのゲームですが、他の人が見ていない隙を狙って自分の手札をテーブルの下に捨ててしまうようなイカサマを有りとします。というかそういうイカサマで遊ぶゲームです。以上」とだけ書いてもらえればプレゼン資料として充分です。「ポラリティ」なら、例の傾いた磁石を写真で写して「こういうのを相手よりいっぱい作ったひとが勝ちです」でOKです。「騎兵ゴルフ」なら何と言ってもプレイ動画でしょう。まあこのへんはルールのみプレゼン資料なしでも充分に意味がわかるゲームなので、もう少し本流ゲーム的な作品で言うと、今年の重い方のSdJ作品「村の人生(ヴィレッジ)」であれば、「一応ワーカープレースメントですが、ワーカーというのは労働者でありつまり人なのでそのうち死にます。ワーカーが死ぬ、というところに焦点を当てたゲームで、誰を殺そう、どこで殺そう、ここの墓地の定員もう残り1人だけどどうする、あと1人殺せばキルボーナスが手に入る、とか言ってたら殺しすぎて人が足りなくなったのでもう少し産んでおこう、ていうかこいつら産まれて死んでるだけで碌に働いてねえけど、というような遊びをワーカープレースメントの枠組の中で行います」という感じでしょうか。このように単純に表せるものであればそれでよいのですが、逆に、このウェブログで前にやった捏造ボードゲーム史みたいなものを書いて「この歴史上このゲームはここに位置づけられるべきである」みたいなことをしてみる方向もあるでしょう。

プレゼン資料を重視するということは、ひとつには、作者に対して「自分が作っているゲームがどういうものであるか分かっている」ことを求める、という意味があります。あともうひとつ「プレゼン資料が書けるゲームである」ことを求めるということでもあります。これはある種の制限でもあって、凡庸なパーツを凡庸に組み合わせただけのゲームでありながら何だかやたらと面白い、しかしこの面白さを説明できない、というゲームが世の中には当然あるんですが、こういうゲームはコンペティション上どうしてもかなり不利な扱いになってしまいます。これはもう申し訳ないとしか言いようがないのですが、なんとかうまいことプレゼンして頂けませんでしょうか。

ということで、何卒よろしくお願いいたします。
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# by Taiju_SAWADA | 2012-08-07 13:01 | 創作関連

カードを破いてみよう

破壊衝動というと無難なところでは窓ガラスを割って回ったりするわけですけど、その最もいじましい形態は何かという囁かな問いを立てるとですね、「カードを破く」というのはなかなか良い線をついた回答なのではないかと思うのです。

というわけでカードをいろいろ破いてみましょう、というのが今回のお題です。とはいえ、実際のわたくしがそういう卑小な破壊衝動を持っているかというと別にそれとは関係ありません。カードの紙というのはどうなっているのでしょう、というお話でございます。

トランプといいますかカードゲームといいますか、まあああいうアレですね、これを作る際には、普通の紙とは構造の異なる専用紙が用いられます。普通の紙と何が違うかといいますと、正面と背面の間に色つきの紙が挟まっていて、これがあるんで正面も背面も白っぽいデザインであったとしても、透けないんだと。もちろん他にもカードのコシがどうとか重さがどうとかありますが、最も重要なのはこの挟まった色紙です。

ただし、こういう専用紙を使わず、普通の紙を使ってるところもあります。「アートペーパー」といわれる種類の紙がよく使われます。何と言ってもお安いからですが、そのかわり透けます。こういう紙を使う場合、背面は黒ベタを採用するなりして透けないように工夫しないといけないんですが、昔のABACUSSPIELEのゲームってカード透けまくりだったよなー、あれって白ベタなのにアートペーパー使ってたんだろうか、と今ちょっと思いました。

で、これは本当か嘘かわからないんですが、同じ専用紙でも、紙の値段によって中に挟まった色紙の色が違うんだとか。安いのは灰色で高いのが黒、中間でピンクとか青とか。どうもにわかには信用なりません。もっとも、一般には紙というのは同系なら重い(厚い)ほど高いのでして、そのコード分けのために中の色紙の色も変えてる、というならある程度はわかります。でも実際のところ本当にそんなカラフルな色紙が使われてるかは破いてみないとわからないわけで。

それでは破いてみましょう。

※そのまえに。紙の重さの話もいっしょにしておきたいので、重さの単位についてここで前置きをしておこうと思います。日本でよく使われる単位は四六判換算の連量といわれるもので、書籍とかでよく使われる「四六判(788×1091mm)」で1000枚あたり何kgですか、という重さです。英語圏、というか英語で商談をするような場所だと坪量という単位で記されることが多く、これはその紙1枚1平米で何グラムですか、というものです。で、カードゲームに使われる紙として標準的な重さは、四六判連量だと230kg、坪量だと270グラム/平米[以下gsm]のものが多いです。正確には270gsm=232.1kgくらいの換算レートですが、ざっくり270gsm≒230kgとして扱います。

1.
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まずは王道中の王道、US Playing Card社のトランプ「タリホー」です。ご覧のとおりのくっきりブラック。ところで今回いろんなカードをくらべてみて、タリホーが意外と柔らかい紙を使ってることにちょっと驚きました。ほら何しろトランプ業界を代表する会社なのですし、思い切り重い紙を使ってるのかなーと思うじゃないですか。でも実際これたぶん270gsmくらい(あとで調べたら実際270gsmでした)。まあ必要充分ですし、あんまり重いとリフルシャッフルが厳しいので手品の人には売れなくなるかもですけど、王様としては物足りなくないすかね。

2.
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ひとのものを破くまえにまず自分のものを破きましょうということで、再版日英版の「ファブフィブ」です。印刷は中国製。こちらもブラック。今回比較したカードの中では、このファブフィブと後に出てくるアドルング社のカードが最も重いカードとなっています。数字で言うと300gsm。1割しか違わないじゃんって話ですが、いやしかしこれは結構歴然とした差なのですよ触ってみると。何か分銅とか使ってわかりやすく示せればいいんですけどね、いや頑張れば示せるはずですがそれはまた別の機会に。ところでさっきから色紙の話をせず重さのことばっか喋ってますね。

3.
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色紙といいつつみんな黒ですか、という反応が当然あるかと思いますので、黒じゃない色の紙が入っているケースを見てみましょう。
Amigoの6nimmt(1998年くらいに買ったもの)とHiGの操り人形(たぶん初期の版)です。写真だとちょっとわかりづらいかもしれませんが、どっちも紺色をしてます。これ同じ印刷所で刷ってるんじゃないかと思ってたんですが、よくみるとエンボス加工(英語だとlinen finishって言います)が違ってました。HiGのはドイツものでよく見かけるタイプのパターンなんですが、Amigoのはちょっとレリーフっぽいというか、パターンが大きいんです。どうも時期によっても違うらしくて、比較的最近の作品である「テネキー」では普通のドイツっぽいパターンになってました(後述するKosmos等のカードと同じパターンです)。重さは270か280gsmかな? タリホーより気持ち硬い気がしますが、そりゃ単にブリッジサイズとポーカーサイズの違いでしょ、と言われると返せません。

4.
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ドイツはみんな紺なのか、というとさにあらず、黒いのが挟まってるカードもちゃんとあります。Kosmosの「大聖堂カードゲーム」とHiGの「カードカソンヌ」。たぶんこの2つは印刷所同じです。エンボスのパターンが全く同じですし。紙質ですが、さっきの紺色組にくらべてわずかに柔らかくなってます。これが多分タリホーと同じ。そうすると紺色組は280gsmってことなんですかね。

5.
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続いてはドイツ非標準ものを。どっちもエンボスかかってません。
まずはABACUSの「シュヴァインズギャロップ(オール・ザ・ウェイ・ホーム)」。このころのアバカスはカードにお金をかけてない印象があり、実際エンボスはかかってないわけですけど、でもカードはご覧のとおりちゃんと黒紙を中に入れてました。初版のマンマ・ミーアとか透けまくりだった印象があるんですが、もしかするとわたくしの思い違いだったのかもしれません。お持ちの方はお試しください。重さはたぶん270gsm。
そして問題のAdlung。これは「ベネチアの仮面舞踏会」からとってきました。Adlungというのはいつでも60枚ワンパックの定形フォーマット、という印象がもちろん強いのですが、カードの質は結構ゲームごとに変えてます。この「ベネチアの仮面舞踏会」はすごくて、まず表面加工がマットじゃなくてグロスです。ドイツのカードでグロスのものってかなりレアだと思います(他の国だと結構ふつうだけど)。グロスはマットよりも硬くて丈夫なのでカードの重さを他と同じ基準で考えると間違える可能性がありますが、あえて気にせず比較しますと(どうせ印象論だ)、ファブフィブとほぼ同じ重さ・硬さとなっています。つまり300gsmですね。Adlungがいつもこんなごっついカード使ってるかというとそんなことはないはずで、個人的にはむしろエンボス無しで少し薄めのマット、という印象を持っていますが、何しろゲームごとにころころ紙を変える人たちなので、印象がどうこういっても仕方ないかもしれません。

6.
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変わり種を2つ。1点目は日本物で、モンスターメーカー5リバイズドのカードです。先ほど出てきた紺色のものと少し似てますが、これは水色になってます。これは珍しい。どこで売ってるんでしょうか。カードはエンボス無しのグロス、重さはたぶん270gsm。あと、ドイツものに馴染んでいるとちょっと面食らうことに、大きさがポーカーサイズです。というか冷静に考えてみると、欧州ものってほとんど全部ブリッジサイズですね。やぱしブリッジは欧州のものだってことなんでしょうか。そしてモンスターメーカーはなぜわざわざサイズのでかい(ということは値段も多分高い)ポーカーサイズを選んだのだろう。
あともうひとつ。Gryphon GamesのFor Sale。今回唯一の灰色です。というか、中身のほとんどが灰色ですね。他のカードは白ベースで薄く色紙を挟んだ構成なんですけど、この紙は基本が灰色のボール紙で、いちばん外だけ白い紙を貼ってる、という造りです(モンスターメーカーのも同様に、色紙のほうの比率が高くなってます)。見た目で判断するとこっちのが安そうですが。だってボール紙にしか見えないし。重さはたぶん270gsm。ポーカーサイズです。これがポーカーサイズなのは単純にメーカーが米系だからなんでしょう。

7.
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そして最後に、何の色紙も間に挟まず堂々とアートペーパーを使っている素敵なカードを御紹介。まず一点目の小さいカードは交易王(第1版)の小さい方のカード。まあこのカードは表裏の概念がない以上透けていても全然構わないわけで。大きい方のカードとは作りが露骨に違います。たぶん大きいほうのカードは色紙挟んでる。しかしこういうところでちゃんとコスト削っているのですねえ。そしてもう一点、こっちはあまり言い訳が効かない、Red GloveのBig Cheeseです。いや手札にはならないんでたしかに致命的なことにはならないんですが、でもねえ。ところでRed Gloveなんてメーカー知らないし、って人のが多いかもしれませんね。別に知っておかなければいけないメーカーでもないので気にしないでください。

以上です。ご清聴ありがとうございました。
…また印刷所の人の不興を買いそうだな…
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# by Taiju_SAWADA | 2012-06-09 11:16 | 雑題

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part5)

わたくしの休日を際限なく食い潰してきた迷惑極まるこのシリーズもやっと最終回でございます。最後はドミニオンと七不思議。最後どう見ても七不思議もう関係ないよねって話題に流れていますが、このシリーズを書くきっかけになった本『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』(岡田暁生/中公新書)もそういう構成なので、オマージュ的なものだと思ってください。



ドミニオン | 2008

ここまでプエルトリコからルイ十四世を挟んでケイラスと、終わる過程を振り返ってきたわけですが、最終的にドイツゲームに死を宣告したゲームは言うまでもなくこちら「ドミニオン」です。どの辺がそうなのかということで、このシリーズの原則通りに外側から見ていきますと、まず作者がニューヨーク在住のアメリカ人、企画出版社がアメリカ(Rio Grande Games. 御存知の通りRioは欧州系の翻訳を本業としているので純粋な米系とは言えない側面がありますが。なお、このゲームはHans im Gluckの企画ではないのでお間違えなきよう)、使用しているシステムのベースがMagic: The Gathering由来で強力な特殊能力ベースの構成。清々しいくらいにどこを取ってもドイツでは無いわけです。ドイツっぽさが残っているとすれば印刷会社が欧州系で箱がカタンサイズというくらいじゃないでしょうか。ちなみにアメリカ人がアメリカのメーカーから出したゲームがSpiel des Jahresを取った例というと一応03-04シーズンの「チケット・トゥ・ライド」がありますが、これは作風が純欧州でそもそもMoonは作風から言えば名誉ドイツ人的なアレですんで、となるとその前は92-93のブラフ(ライアーズダイス)まで遡ることになります。SdJが次のシーズン以降2回連続で「あ、そこに賞を出すんだ?」的な授賞を行ったことも、SdJ/ドイツゲーム業界の果たした役割が終わった、と感じさせる外形的な要素とは言えるでしょう。

さて、そのドミニオンが採用したシステムについて、これはドイツゲームのシステムとは到底いえないのですが、一方で「いわゆる」アメリカの標準的なスタイルともかなり違うものです。先ほどドミニオンのシステムのベースが「M:TG由来」と書きましたが、実際のところドミニオンはM:TG/CCGのシステムを直接採用してはいません。それだと単に別のCCGとか"Blue Moon"(2004)ができあがるだけですし。そうではなく、M:TG/CCGのエコシステムをルールの源としています。これによって、大雑把に言えばソフィスティケイテッド・アメリカなんだけども、でも既存のアメリカのゲームを直接ソフィスティケイトして出来上がるものとは明らかに異なる、そういうルールを作ることに成功しました。これは重要なことで、というのはドイツゲームはこれまで振り返ってきた通りかなり狭い範囲でゲームシステムを捉える作法であってそのことが徐々に進む停滞の原因となっていたわけですが、じゃあ何でアメリカ系のシステムに振らなかったのかといえば単純にそっちはもっと前から停滞していて見るべき進歩がどこにもなかった。半笑いでというよりはクリアな嘲笑と共に語られる「アメゲー」というやつですね。カタンのところでソフィスティケイテッド・アメリカという句を使ったように、アメゲーに対してドイツ的洗練によって何かが産まれないかという試みはずっと行われていて、でも後継のシステムを次々と産み出すインスピレーションの源になるという意味での成功は(カタンも含め)これまで無く、このドミニオンが初めてのブレイクスルーということになります。CCG/のエコシステムをこのような形で参照すれば、いままでとは違う絵を今までの伝統の上に描くことができる。それが解った(参照すべき成功例が存在する)今ならば、その方法のリトライも行われるでしょうし、別のソースからゲームを産み出す試みも行われるでしょう。道が開かれた以上、停滞する狭い概念に固執する必要はどこにもありません。エルグランデがドイツ・ゲーマーズゲームの源となったのとほぼ同じ意味で、ドミニオンはポスト・ドイツゲームの源となるものと思われます。

…本来であればここは「源となったのです」と締めたいところなんですが。そうでないと殺された立場であるほうのドイツゲームも浮かばれません。ただ現状は未だそこまでたどり着いておらず、端境期の混乱が続いています。さすがにドミニオン・クローンの乱造みたいな恥ずかしい事態は落ち着いて来ましたが(※)、まだドミニオン自体の咀嚼が続いていて「ネクスト!」って感じにはなっておらず、一方でルイ十四世〜ケイラスの非-ドイツ的手法はそのまま何となく狭い所で市民権を得ていて、ちょっと次が見えてないということが2011エッセンにて浮き彫りにされた感のある2011年11月現在。その中でネクストを宣言し得る可能性と現状のあからさまな停滞とあれやこれやが詰まった現在を象徴する作品を取り上げて、このシリーズを締めることにしましょう。ということで最後の作品、 "7wonders" です。

(※)エルグランデは結構へんな要素がごってり盛り込まれていてそこも面白いゲームだったのでまだクローンの乱造も耐えられなくはなかったのですが、ゲーム単体として見たドミニオンはこれ以上削ると成立しなくなるぎりぎりのところまでの洗練を行っていてそこが大きな魅力なので、考えなしにクローンを作るとそのまま考えなしのゲームにしかなりません。正直なところドミニオン本家の拡張にもその問題が発生しつつあるような。



七不思議 | 2010

七不思議はまだ発表から1年しか経ってないので、重要な作品かそうでないかを判断するには早過ぎるのですが、ドミニオン以降のゲームデザインを明示した(実のところ数少ない、メジャーではおそらく唯一の)ゲームだということと、あと直前で述べたとおりドミニオン以降のゲームシーンをわかりやすく表したゲームなので、締めとして取り上げることにしました。

七不思議はご案内の通りCCGにおいて一般的なカードドラフトを基本構造に置いているゲームですが、「単純にドラフトをドイツゲームに持って来ました」だけだとMoonのSan Marco(2001)とやってることが大差ないのでして。前述の、着眼点を変えることでアメゲー(CCG)由来のシステムを新しいものと見立て直すという意味でのアフター・ドミニオン性は、このゲームの速度にあります。七不思議ってルール説明が結構たいへんで20分くらいかかるんですけど、ゲーム進行の全プレイヤー並列処理が徹底されているので、ゲーム時間も20分くらいしかかからないのです。ルールから普通に予想されるよりもゲームのテンポが強烈に速く、それも割と機械的に作業Aと作業Bを繰り返す形で進んでいくので、ちょっとしたトリップ感を伴ってあわあわと20分間が過ぎていき、終わったときにはさてこのゲームは何だったのかしらと何も残らない空虚感を味わえます。つまりこれ、競争(ルビ:アゴーン)のゲームであるのと同等以上に眩暈(ルビ:イリンクス)のゲームなんですね。ここで大きく取り上げられているのはカードドラフトのゲーム性というよりはカードドラフトが持つ独特のビートであり儀式性です。ドミニオンのあと2年かかったとはいえ、ゲーム製作においてそういう「プレイ風景まで込みでゲームを捉えて再構成すること」という手法によるヒット作が出て、それによってポスト・ドイツにおける一つの方向性が打ち出されたこと。これは七不思議の功績です。

ところで七不思議にはもうひとつ、こっちは括弧付きになる「功績」があります。前項ドミニオンのところでドミニオン・クローンの恥ずかしい乱造の話をしたのですが、たぶん七不思議についてもこのあとクローンが大量に出てくるものと思われます。で、こっちの七不思議クローンについては、出てくるゲームが多分そんなに恥ずかしい感じにはならない。なんでドミニオン・クローンの多くが恥ずかしいかといえばドミニオンが削りに削って作られた素敵なゲームだという事実を無視しているからなんですが、七不思議はさっき少し触れた「ルール説明20分」でも分かる通りぜんぜんルールを削っていない上に、イリンクス性を敢えて無視して普通の落ち着いたカードドラフトゲームとして冷静に眺めると、そんなに面白いわけじゃない。誰だって、とまで言うと言い過ぎでしょうが、気の利いたゲームデザイナーであればこれを「競争(アゴーン)のゲームとして」面白くすることは普通に可能ですし、その際には90年代的な純ユーロに寄せることも、元のM:TGに立ち返って特殊能力ゲームにすることも、あるいは七不思議の路線をあまり変更せずに矢印ゲーっぽく作ることも(七不思議自体は矢印ゲーじゃないですが、ちょっとした変換で矢印ゲーにできるというのは簡単に想像できると思います)できます。ここには相当な自由度が用意されていますので、カードドラフトというのがワーカープレースメントみたいな1ジャンルを形成してしまう可能性があります。

ただ、これってあんまり良いことでもないよなー、と思うのでして、まあ七不思議が速度を失うとそんな面白くない、ってのはいいと言えばいいんですが、みんなが七不思議の改良の方向を向くと「プレイ風景をアイデアの源とする」という肝心のところが抜けていってしまいます。さらに、現在の「説明に20分かかる七不思議」「なんか矢印の匂いがする七不思議」を前提として改良ということになると、どうしたって現状を考えると全力で改良ですら無い市場におもねった矢印ゲーが乱造されるだけなんじゃないのか、という心配があります。

だいたい市場への目配せという話ならば七不思議自体が相当にそっちに寄ったゲーム構造をしているのです。ドイツゲームからポストドイツゲームへの流れは、前回までに申し上げたような構造の転換という話とともに、もっと単純に「ゲームのルールがめんどくさくなる」という側面が当然あります。ファミリー層はそういうめんどくさいルールのゲームを好まない傾向がありますんで、ファミリー向けにはファミリー専用設計のゲームがあてがわれ、そうするとこちら方向に対しては当然「ファミリーじゃない層」としてのマーケティングが行われることになります。ここでファミリーストラテジーというカテゴリの崩壊が起きるのですけどもそれはさておき、こっちの「ファミリーじゃない層」がそのままボードゲームマニアのことを指すのかというと、そんなところをポイントしていてはメーカーがそれなりの規模で食っていけるわけがありませんから、もうちょっと大きい市場、つまり「ルールが猥雑で、その中で俺無双できると嬉しい層」をターゲットにしたゲームが作成されることになります。この層の市場についてはご存知のかたも多いでしょう、各方面(CCG, TVゲーム, RPG, 漫画, etc.)で相当な研究が進んでおりまして、例えば日本のCCGメーカーである株式会社ブシロードのデザイナーの方がこの層に向けたゲームデザインの鉄則を講演で述べられています。このサイトでも議事録へのリンクを貼ったことがあります(「せっき〜のゲーム屋さん」より http://sekigames.gg-blog.com/Entry/102/ )。一行でまとめると「勝ったら実力、負けたら運。そのためにはルールの複雑化も受容」という内容です。じゃあってんで七不思議のデザインを見ますと、これがモロにそういう作りになっています。

この層へのマーケティングでゲームを作ることの問題は2つあり、ひとつはこれまで述べてきた事につながる話で、ゲームデザインがどうしても保守化すること。「この層への」というよりはマーケティングでゲームを作ること全般に関する問題ですね。で、もうひとつは、ボードゲームである必然性が全く無くなることです。いま述べたとおりこの層へのマーケティングは各方面でものすごーく進んでいますから。そこにボードゲームが新参で入ってきたところで、最初は開店セールでそれなりのお客さんも呼べるかもしれませんが、一回転目が済んだらもうその店に行く意味ないよね完成度低いし、ということで終わってしまいます。お客さんをとりあえず呼んできた所で、実はうちにはスペシャリテがありまして、とやれれば良いのですけど。そのスペシャリテを開発できるはずのメソッドを(ドミニオンに続くことで)確立した功績を持つ「七不思議」というゲームは同時に、メーカー側から見ると単に「客が喜ぶ柔らかいもの出せば店も畳まないで済むかも」という形でしか受け止められない可能性を持っていて、しかしそういう危険な可能性を持つことで初めて七不思議は注目されるゲームになり得た。ここまでのぐらんぐらんした記述にお付き合い頂いた皆様にはお分かりの通り、わたくしはこのゲームに対して相当にアンビバレントな感情を持っています。

そして1年。業界の雲行きはどうにもよろしくないようです。まだボードゲームがやらなきゃいけないこと、ボードゲームでしか引き受けられないことは結構残っていて、ご新規の方々もそれを期待していらしているはずなのですけれど。



(おまけ)

取り上げたかったんだけどねー、とか、取り上げたくなかったんで、とかそういうコーナー。

フェレータ
役割秘密選択システムを採用した「最初の」ゲーム。役割秘密選択じたいが「操り人形」までで止まっちゃって潮流にならなかったので取り上げられませんでした。無理やりプエルトリコのところまで繋げちゃうという手も無くはなかったのですが。

ちなみに。カサソラ=メルクルの作品はどれも採用しているベースシステムの歴史的な位置付けと、それに対していまこのゲームで何をトライしているかという目的意識が明確なので、今回のシリーズで取り上げたような視線をもって遊ぶと面白いと思います。もっと言うと、この人のゲームに関してはそのへん、ルールに含まれる批評性を意識しないと遊んだことにならないとすら言えます。

魔法にかかったみたい
バッティングゲームのルネサンスになるはずだったんですが、後続が全く出ませんでした。個人的には、面白いゲームを出すメーカーとしてのaleaの遺作、ということになっています。

古代 (Antike)
Antikeに始まるロンデルシステム(と、その系としての「マチュピチュの王子」)は素敵なシステムで、ワーカープレースメントみたいにもっと解析が進んでもいいと思うんですが。作るの難しいんですかねー。

ルイ十四世
明らかに重要なゲームなので本当は一項立てて取り上げなきゃいけないんですが、各項で言及するのみにしました。たいして面白くないんですものこのゲーム。どう重要かについては本文に書いたとおり。

カルカソンヌ
ゲーマーズゲームからファミリーゲームへの揺り戻しそして二極化へ、という意味ではまあ重要なんでしょうけども、あとカタンの次くらいにくる大ヒットゲームなので取り上げるべきという話もあるんですけど。ミープルが可愛いとかタイルのサイズがちょうどいいとかそういうところ(そういうところに凝る流れを決定的にしたゲームではあります)はともかくシステム的には見るべき所が何もないっつうかマルチゲームとしては旧エントデッカーの劣化コピーでしょこれ、というので無視。あ、二人用でタイマー使えば割と面白いです。


第一回は第二回以降と比べて記載がだいぶ甘いです。それでもカタンについてはこれ以上わたくしの側から言うべきことは別にないんですが、わたくしの最愛のゲームのひとつであるモダンアートについては、現状のようなおざなりな記述で済ませるわけにはいかんよなあ、とは思っています。いや、元々はどのゲームについてもモダンアートくらいの記載レベルで行く予定だったのです。こんな手間かかることになるとは。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-11-21 01:54

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part4)

終わんない! このシリーズ長いよ! だいたい1作ごとに文面が長くなってるじゃないか! と執筆者がかなりへばってきている本シリーズ。いままでは1回につき2作行けてましたが今回1作のみです。次回ドミニオン+七不思議で締めるかドミニオンと七不思議で二回に分けるかは今のところ未定。なんでどんどん長くなってきているかというと、最初に挙げた9作で必要なことを全部書かないといけないレギュレーションなので、書いた後で「あのこと書くの忘れてた」が発生すると後のほうの回で盛り込まないといけないからです。今回はケイラスなんですが「それモダンアートのところで書くべき話だよね?」という話題が混じってます。ではどうぞ。


ケイラス | 2005

ケイラスが一つの象徴であるというのは大方のゲームファンの共通認識になっていることと思います。ただ、ケイラスが象徴するものというのは結構いっぱいあるので、文字に起こして確認しておかないと1つくらい漏れが出てきてそれに気づかないということも普通にあるでしょう。ということで、そのあたりを書き起こしながら見て行きましょう。

まず第一に挙げられるべきは、ドイツ以外の国のゲームとしては1991-92年シーズン以来、「ドイツ以外の国の出版社が自国のデザイナーを起用して出したゲーム」としては初めての、Deutscher Spiele Preis(ドイツゲーム賞)受賞作であるということです。「ドイツ以外」といってもJumboやPiatnik、あるいは91-92のParker/Bandaiみたいな大メーカー(いま鼻で笑ったのは誰ですか?)ではない、間違いなくインディーズといっていいYstariというメーカーの受賞だということがポイントです。単に「ドイツかそうでないか」ということではなく、市場のルールが変わったことが明確に告げられた瞬間と言えるでしょう。カタンに始まる全欧米的熱狂(特にアメリカが大きく、ということはMayfair GamesとRio Grande Gamesの仕事が如何に大きかったかという事でもあります)とエルグランデによるゲーマーズゲーム概念の(再)誕生、そしてそれを機会としたLudoFact/PacktやHeidelbergerに代表される小規模流通網の整備、さらにこれは別にボードゲームに限った話ではないインターネットの普及、そういうような諸要因により、「ドイツボードゲーム=ドイツの玩具屋で販売されている、児童玩具性とエグめのゲーム的ジレンマを混ぜ込んだゲーム」であるという前提が崩れていきました。他の市場に住む我々としてはむしろ何で90年代までそんな玩具屋市場が残っていたのか任天堂やセガは何をしていたのか、という疑問は当然あるのですが、それはそれとして。鶏と卵のどちらが先か、システムと外部環境のどちらが先かはともかく現にかつてと違うものとなった以上もう二度と同じものにはならない、ケイラスはその象徴となっています。

さて中身のほうに移りますと、それはまあケイラスですからワーカープレースメントのことを云々しなければいけません(生ける伝説的インディメーカーSplotter Spellenの"Bus"(1999)のことは脇に置いておきましょう)。少なくともケイラスからワーカープレースメントが「始まった」のは間違いありません。単純にドイツゲーム的な観点で言うなら、ワーカープレースメントとは先ずは90年代のオークション全盛に対する「早乗り系」の王政復古であると言ってよいでしょう。いや早乗り系って別の言葉で言えばダッチオークションの多面指しだろ、とか、そもそもドイツゲーってそのレベルまで分解しちゃうとノーマル/ブラインド/ダッチ各種オークションと囚人のジレンマとチキンレースの5つしか構成要素無いよね。という身も蓋もない事実(これはクニーツィアが明らかにした事実と言ってよいと思います)の中でその流行の移動になんか意味あるのかってことではあるのですが、この流行の移動はマルチゲーム構造から2人ゲーム構造への大きな移行期(前回のプエルトリコ参照)だからこそ発生した現象なので、その意味で取り上げる価値があります。剥き出しのマルチ性がきっぱりと忌避されるという事態は前述の5要素で構成されるドイツゲームの開発において手足を縛られるに等しい制限なわけで、その中で何かやれることをとなると、割りきってパーティ/ギャンブル的な方向に行くのでなくあくまでストラテジーのゲームということにこだわるなら、隠蔽されたダッチオークションとしての早乗りシステムを進歩させるしか道はありません。ワーカープレースメントを簡単に言えば、通常の早乗り(典型的には「チケット・トゥ・ライド(2004)」など)と違ってダッチオークションの対象が抽象的な能力と言うか機能になったもの、ということになります。抽象化したんで直感性は失われます(従ってファミリーストラテジーは作りづらくなります)が、その代わりデザインの自由度が手に入ります。

では、その上がった自由度で実際には何をやったか。ここで出てくるのが04-05シーズンのドイツゲーム賞受賞作「ルイ十四世」です。ルイ十四世自体は正直別にすっごく良くできたゲームってわけじゃないんですが、あの資源が取れますとかそのカードが取れますとかこれをあれに変換しますとか、他のゲームなら1手番でそれくらいやらせてくれよ的な小規模な機能を大量に用意してそのそれぞれの権利を取り合う、そういうスタイルを世に広めたゲームとして触れておく必要はあるでしょう。仮にこのスタイルのゲームを「矢印ゲー」と呼びます(前提条件と結果が矢印と一緒にアイコンで書かれてるからです。よくありますよね、資源A→資源B、みたいの)。この矢印ゲーがワーカープレースメントと非常に相性がよかった。つまりワーカープレースメントは抽象的な機能を「早乗り」が成立するほどいっぱい用意して初めて成り立つゲームなので。で、ケイラスの出来がとにかく良かったこともあって、ワーカープレースメントと共にこの矢印ゲーのスタイルも認知され、ワーカープレースメントとは「別に」矢印ゲーはひとつの方法として定着し、ワーカープレースメントと共に有象無象のフォロワーを大量に生み出すことになったのでした。矢印ゲーはワーカープレースメントと違ってドイツ的というよりはポストドイツ的な手法なので、寿命が来るのもワーカープレースメントよりずっと先になるんじゃないかと思います。そうなったとき、みんなルイ十四世のことなんか覚えてないでしょうから、ケイラスには「矢印ゲーの嚆矢」という役割が割り振られることになるんじゃないかと予想しています。素直に告白しますと実はわたくし自身がこれ書くときまで忘れてて、あやうく「矢印ゲーの起源はケイラス」とか素で言っちゃうところだったのです。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-11-13 00:46 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part3)

プエルト・リコ | 2002

プエルトリコがDSPを獲った瞬間はそのままイコール「特殊能力対戦物がドイツにおいてOKになった瞬間」であると言えます。プエルトリコが何で面白かったかという話であれば、独特かつ効果的なフェーズ選択システム(と積荷ルール)によって形作られる「遅延をめぐる攻防」にまず触れる必要があり、このゲームにおける特殊能力の面白さはそれが前提になっているわけで、特殊能力について触れるのは後回しでも別に構わないくらいなんですが、残念なことにそっちのほうはその後ぜんぜん流行らなかったのでして。ここで取り上げるべきは専らテキストのほうになります。

プエルトリコ以前と以降で大きく変わったのは何か。テキストが有りになった、ではありません。イベント的なテキストは90年代にも生き残っていましたし、特殊能力としてのテキストはこれ以後もメジャーになってはいません(特殊能力としてのテキストのメジャー化は「アグリコラ(2008)」あたりでしょうか)。特殊能力が有りになった、というのも本当はちょっと違ってて(いや冒頭ではそう書いたんですけど)、90年代的な特殊能力というのは厳然と存在しています。「90年代的な」というところが重要なポイントで、90年代の特殊能力は概ね「イベントカードをどう現代化するか=ファミリーストラテジーの通常進行の中にどう組み込むか」という問題意識と繋がっています。そのへんが最もよく現れているのが前回の「エルグランデ」で、旧来のイベントデッキを特殊能力デッキに作り替え、プレイヤーの選択次第で場からどのカードを獲得できるか変化するという形を生み出しました。拡張の「エルグランデ K&I (1997)」では更にラディカルになっていて、特殊能力デッキをそのままプレイヤーの手札とし、元々のアクションカードと機能を融合させ、通常のゲーム手順の中に組み込むことで、特殊能力選択のフェーズそのものを削ってしまっています(エルグランデK&Iは特に意識的な例でして、それほどこの部分に拘っていないゲーム、例えば「フィレンツェの匠」などは、カタンの特殊カード的な処理で済ませてしまっています。こちらのほうが多数派ですね)。

プエルトリコが変えたのはこの部分です。プエルトリコ以降(厳密には1年飛んで03-04シーズンから。02-03シーズンのDSP受賞作は、特殊能力に関して典型的なカタン処理を行っている「アメン・ラー」です)、特殊能力はイベント山札から離れ、最初から面陳で全部場に並ぶようになります。プエルトリコ以前のドイツゲームにもそういう取り扱いをやった作品はあって(もうこの流れは今シリーズのお決まりですね)、ここでは「原始スープ(1997)」がこれに当たりますが、97-98当時の原始スープというのはそれはもうエクストリームでカルトな作品という位置づけのゲームでございまして、いや位置づけがどうこうではなく実際原始スープはどの特殊能力をいつ選ぶかで全てが決まるエクストリームなゲームなんですけど、なんにせよ主流派ではなかった。それを言うならプエルトリコそのものだって発表当初は普通にエクストリーム扱いされていたようにも思うのですが、お値段とか流通とか意外と当時のドイツ本流的な部分が強いとかいろいろあったのでしょう、「この手のゲームとしては」の前提付きながら大ヒットしてしまい、実際大ヒットしてみると意外にみんなあっさり受け入れてむしろ嬉々として能力の強弱談義に花を咲かせ、なんならそういう談義とか嫌いじゃないご新規のユーザまで連れてくることになってしまったのです(←ここ重要)。そしてこの流れは、特殊能力から特殊性を取り除いた「サンクトペテルブルク(2004)」、ケイラスの項で再び登場すると思われる【微妙な能力の組み合わせ】ゲームの火付役「ルイ十四世(2005)」で確定的になります。

この流れを振り返った後で改めて「ドイツボードゲームの終わりとその後」というテーマを考えた時、「終わりの始まり」つまり転換点の役を割り振るのに最も相応しいゲームはやはりこのプエルトリコだと言えるでしょう。ただし、何からなにへの転換点なのかということはきちんと言及しておく必要があります。つまり、「多主体複雑系的(≒マルチゲーム的)ジレンマ」をベースとしたゲームから「強弱解析のケーススタディ」をベースとしたゲームへと流れが移り変わる瞬間、という意味です。最初にモダンアートの項で取り上げた「クニツィアレスク」というのは前者の要素のミニマル化だと言えます。そして後者はTCG/CCGを支配する主題であり、より広くは2人用ゲーム一般を支配する主題です。マルチゲームの2人ゲーム化。その最初の作品となったのが、醜い汚れ仕事にまみれた如何にもなマルチゲームである「プエルトリコ」だというのは少し皮肉なところがありますが、歴史というのはそういうものなのでしょう。いや全部わたくしの按配なんですけど。



キャメロットを覆う影 | 2005

ドイツゲームの終わりとその後の話はいったん中断して、ここで協力ゲームの話題を入れておきたいと思います。この話題はこのサイトでは散々しつこくやってて新しく付け加えることって何も無いんですけど、それでも偽史を作る以上はやっとかないといけないトピックではあるのです。ドイツゲームの20年で未解決に終わった問題というのはいくつかあって、たとえば「結局ゲームにおいてダイスというのはどう扱うべきなのか」なんてのがあり、こういうのは次の世代のゲーム(の出版社と作者とプレイヤー)が考えていかないといけないんですが、それら未解決の問題のなかで取り分け大きいのがこの「協力ゲーム問題」です。協力ゲーム問題というのは、協力ゲームを如何にマルチプレイヤーズゲームとして成立させるか、という問題のことです。協力ゲームは放っとくと「声の大きい奴が1人でやってんのと変わらないよね」ということに必ず陥ってしまい、というのはそれを防ぐ強いインセンティブのある人が場に誰もいないからですが、これを何とかしないと複数人で集まってゲームをする意味がなくなってしまいます。

なんでこの問題が未解決なのかというと、まず解くのが難しい問題であるというのがひとつ。あとは80-90年代のドイツゲームが基本的に協力ゲームにあんまり興味を持ってなかった、ということもあるでしょう。なぜ興味が無かったのかというと、その年代のドイツゲームでは勝敗というのはいい加減に決まるものだったので(多主体複雑系的ゲームでは勝敗というのは本質的にいい加減なものなのです)、勝敗についてさほどシリアスに考える必要がなかった、ということは指摘できます。それがエルグランデ以降のゲーマーズゲームの定着で「スキル」の概念がクローズアップされ、さらに前述のプエルトリコのところで述べた解析化の流れにより、勝敗、つまり勝ったひとと負けたひとがいること、という事実が相応に重いものになってきました。その緩衝材として必要になるのが(カジュアルゲームと)協力ゲームであった、という筋書きは、ひとつあり得るんじゃないかなと思います。

前置きが長くなりましたがそんなわけなので、ドイツゲームでは協力ゲームの歴史そのものがあんま無いのです。相応しいスタート地点はおそらく「ロード・オブ・ザ・リング」ですが、これ2000年のゲームですから。そしてこれはあくまで(ドイツゲームとしては)開始点なので、協力ゲーム問題は別に何も解消されていません。欧州のボードゲームで、まっとうにこの問題に取り組んで成果を挙げ、さらに市場にもそれなり以上に受け入れられた、という条件を満たすものを探すと、出てくるタイトルがこの「キャメロットを覆う影」になります。

キャメロットが何をやったか。これは一言で表すことができて、「裏切り者がいる<可能性>の導入」です。いるかもしれない、いないかもしれない。その揺らぎが重要だ...というのはそのまま別のエントリで述べたので詳しくはそちらを(【「である」のではなく「になる」こと】 http://toccobushi.exblog.jp/3461437/ )。実際に裏切り者が1人います、だと今度は単純な1vsNになってしまって協力ゲームではないので、「可能性」にとどめておくことで「全員協力しているのだけれども全員の情報をオープンにできない」という状態をともかく現出させたことが「キャメロット」の主要な功績です。まあ実際にはかなりの確率で普通にいるんですけどね裏切り者。

それだけ? それだけ。それだけです。それでも、やっぱり初めにやった人は偉いんですよ。このあと協力ゲームはそれなりに数が出るようになり、その中で協力ゲーム問題をクリアしたといえる水準にあるゲームも複数出てきています(具体的には「スペースアラート(2008)」と「花火(2010)」。「パンデミック(2008)」は楽しいゲームですが協力ゲーム問題に関する限り2000年の水準を一歩も出ていません)。で、何でそういうものが出てくるようになったかを考えた時、キャメロットがデザイナーに与えた影響、つまり「協力ゲーム問題というものがある」と認識させたこと、これは大きかったんじゃないかと思うのです。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-10-24 01:23 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part2)

2回目でーす。今回も勝手な断定をエクスキューズなしでばんばん飛ばしてますが、「俺の中ではこれが真実」以上の保証は何も無いんで、「な、なんだってー」くらいの気分でよろしくどうぞ。逆に言うなら「俺の中ではこれが真実」ってところまででよければ確実に保証します。意味のある保証かどうかはともかく。

さて今回はクラマー&ウルリッヒ二連発。内容を一言でまとめると「クラマーはえらいひと」。



エル・グランデ | 1995

1995ニュルンベルグ発表のカタンがアメリカのゲーマーズゲームからゲーマー臭を取り除くことによって「ファミリーストラテジー」の再定義(っていうか「定義」ですね。ファミリーストラテジーはカタン以降のドイツゲーム・ムーブメントの中で使われだした言葉ですから)を行ったゲームであるとするならば、1995エッセン発表のエルグランデは、ドイツにおけるゲーマーズゲームのフォーマットをこれ一作で規定することになったゲーム、と申せましょう。

この「フォーマットの規定」というのは、たとえばモダンアートによって現代の競りゲームのあり方が規定された、というのとは意味合いがちょっと違います。現代競りゲームの場合はモダンアート以前には殆どそういうものが無かったのに対して、エルグランデ以前にもドイツ的なゲーマーズゲームと呼べるものはそれなりに存在しています。例えば同じメーカーの最初の批評的成功作である「ディ・マッヒャー(1986)」は典型的なドイツルールで構成されたゲーマーズゲームですし、ドリス&フランクも「でっかい馬鈴薯(1989)」や「フッガー・ヴェルザー・メディチ(1994)」みたいなものを出しています。「チョコ&コー(1987)」など今遊んでこそ新鮮なゲームと言えるでしょう(言えるんです。いや面白いんですってチョコ&コー)。そういうわけでゲーム自体は存在していたのですが、「ドイツ・ゲーマーズゲーム」というフォーマットのほうがこの時点までは無かったのです。もっとも分かりやすいところで言えば、「ドイツ・ゲーマーズゲームは表示時間が90分(実際遊ぶと初ゲームなら2時間半)」というのは、このエルグランデが始め、このエルグランデによって広まった慣習です。従って我々が、あるいはメーカーが「90分のゲーム」というとき、そこでは「エルグランデくらいの長さのゲーム」ということが暗示されています。そしてこのエルグランデ参照というのは中身の方にも及んでいて、エルグランデがSdJを取って以降、つまり1996-97シーズン以降ドイツゲームの終焉(2008年頃)まで、「ドイツ・ゲーマーズゲーム」は実質「エルグランデみたいなプレイ感を持つゲーム」を指すことになります。歴史的な意味でのエルグランデの重要性は、何よりもまずここにある、というのがわたくしの認識です。カタンによってファミリーストラテジーが定義されました。カタンは超ヒット作になりましたから、カタンによって産まれた「ボードゲーマー」というのも数多くいたことでしょう。そのようにして形成された土壌の上に、わずか8カ月後に産み落とされたエルグランデが、そのようなボードゲーマーの熱狂的な支持を受けたことは間違いありません(何せこの重たい内容でご家庭向けの賞であるSdJを獲っているのです。如何に当時のドイツ人が熱に浮かされていたことか)。エルグランデによってドイツ・ゲーマーズゲームの市場が整備され、ここに我々がいま知っているゲームシーンが完成します。

さて、「エルグランデみたいなゲーム!」という影響は、当然ながらゲームシステム面にもあったわけです。というより、「歴史的に見てエルグランデってどんなゲーム?」という話をすれば、どちらかというとシステム面のことが先に来るでしょう。つまり、ドイツ式=一着二着式の非戦型エリアマジョリティというジャンルを作ったゲーム、としての評価です。例によってエルグランデが本当の最初のゲームというわけではなく、例えばクニーツィアの「古代ローマの新しいゲーム(1994)」に収録されている「インペリウム」などはこのジャンルの先行作品と言えば言えるんですが、1996-97シーズン以降ひと山いくらって程に大量生産されたドイツ式エリアマジョリティが先行作例として「インペリウム」を参照していたはずはなく、みんなエルグランデみたいなゲームを作りたかったんです(もうちょっと意地の悪くない言い方のがよければ「エルグランデを超えるゲーム」ですかね)。何しろエルグランデは腹に重く来る面白いゲームですし。でもそれだけなら、あんだけ売れたカタンに嫡子が最後まで生まれ無かったのに、ということになってしまうのでして、要はエルグランデみたいなゲームって作りやすいんです特にカタンなんかと比べると断然。基本構造はチキンレースのジレンマの多面指しで、地形学的あるいはルール的な縛りによりリソース投入に「ここから入るならこのルート」という戦略的な選択肢を整えて、あとは妨害とかリソースの複雑化とか、何でもいいんで素敵なサムシングを独自要素として放り込めば一丁上がり(一応補足しておくと、そんな簡単には素敵なサムシングなんか作れません)。「エルグランデがドイツ・ゲーマーズゲームを作った」という言葉は、良くも悪くも「エルグランデがドイツ・ゲーマーズゲームをデザインするためのメソッドを作った」という裏を含んだものです。もっとも、そういうメソッドで生産された製品の横にエルグランデを並べてみると「いったいどうしたのだお前は」と言いたくなるほどキャラが違っていて、久しぶりに遊んでみても作りの自由さに改めてびっくりすることになるのですが。



フィレンツェの匠 | 2000

何でこのラインアップでフィレンツェの匠が混じってんの、というのは入れたわたくしでも思う所で、面白いことは間違いなく面白いゲームですが別に何かセンセーションを巻き起こしたりムーブメントを先導したりはしていないのであって、実際入れるか入れないかでかなり迷ったのですが。何で入れたのかといいますとですね、とある方との会話の中で確かにそうだなあと思ったことがあって、これ「リソース or 勝利点」の二択システムをメジャーに押し上げたゲームなんです。一応振り返っておきますと、このゲームでは名誉な何かをゲットする機会がプレイヤーにつきだいたい5〜8回くらい巡ってきまして、その都度もらった名誉をお金と勝利点に振り分けると。これは競りゲームなので当然ながらゲームの遂行にはお金が必要であり、そしてお金を獲得する手段は事実上これだけなので、名誉を勝利点に割り振るというのはゲームを畳みに入っているということになります。で、これ、どうということもないシステムに見えますし、いかにもドイツゲーム的な美意識を持ったシステムでもあり、さらに言えば現在では「ドミニオン(2008)」をはじめとして多くのゲームに普通に搭載されています。あとは別ジャンルですが、RPGでは経験点をスキルに割り振るみたいなのは(これがフィレンツェの二択システムとは似て非なるものだというのは後で触れますが)遙か昔から王道中の王道です。ですが実際に振り返ってみた時、このゲームより以前には、そういうシステムはほとんど見られないのです(例外についても後で触れます)。

うん、まあ、そうかもしれない(そうじゃないかもしれない)。でもだからなんなの、それがそんなに大事なことか? というのはごもっともなのですが、ここで触れておきたいのは、あのボードの外周にくっついている謎の目盛、つまり「勝利点トラック」という概念です。勝利点vsリソース二択システムは導入の効果がたいへん明確であり(完全な拡大再生産化を回避してゲームを収束させ、加えてその収束のさせかたもプレイヤー側に委ねることでジレンマの数をひとつ増やす)、導入の際の困難も全くなく、誰でも入れようと思えば簡単に入れられる扱いやすいシステムでありながら、ほとんど誰も入れようとはしなかった。なぜか。考えられるのは、それまでは「勝利点」という考え方がまだ完全には自明のものになっていなかった、という仮説です。名誉によって買えるものとして、お金と勝利点が同じ売場に同じ扱いで並んでいる。こういうやり方は、勝利点というものがお金やその他リソースと同じような、ボードゲームにおいて操作の対象となるひとつのブツである、という発想に立つ、そしてそのような発想が自然に受け入れられることで初めて可能なものです。今を生きる我々としてはつい「いや、勝利点ってそもそもそういうものでしょ?」となりがちですが、少なくともドイツのボードゲームにおいて、勝利点というのはかつてそれほど自明のものではありませんでした。いま我々は「お金(やその他のリソース)をたくさん手元に持ってきた人の勝ち」と「最初に勝利点を一定量稼いだ人の勝ち」と「ゲーム終了時に勝利点トラックで最も先に行っていた人の勝ち」とを別段区別して扱いませんが、これらは歴史的には全て別のものです。お金を稼いだ人の勝ち、リソースを集めた人の勝ち、というゴールには百年来の伝統がありますが、勝利点を一定以上、というゴールはこれに比べると数がだいぶ少なくなります(トイバー「バルバロッサ (1988)」「貴族の務め (1990)」など。おそらくこれはレースゲームから派生したシステムでしょう)。そしてもっと少ないのはゲーム終了時に勝利点トラックを最も先へ、というゴールで、例えば80年代のSdJを見てみると「ゲーム終了時に勝利点トラックを最も先に」を堂々と使っているのはどうやらクラマーくらい(「アンダーカバー (1984)」「フォルム・ロマヌム(1988)」)だということがわかります。おおクラマー。

先ほど保留にしていたRPGのスキル分配とこのシステムの先行作例についてここで触れましょう。RPGのスキル分配がこの文脈においては似て非なるものだということは、もうお分かりいただけるかと思います。RPGにおいてスキルというのはいずれにせよリソースですから、単にどれにしようかな、というだけの話であり、2択システムのメタ言及性(勝利点というメタ概念をエクスキューズなしで非メタなリソースと同じ高さに引きずり下ろしてしまう、ということ)とは関係ありません。そして例外的な先行作例についてですが、フリーゼの初期作品「贋金づくり (1994)」が挙げられます。ただ決定的に違うのは、フィレンツェにおいて勝利点トラックにあたるものが、贋金づくりでは「コイン」なんですね。手元にプラスチックのチップが受け渡されます。ゲーム的な効果自体は全く一緒であっても、フリーゼにおいては交換対象にテーマ的な意味とブツの触感をはっきり持たせることで糖衣を被せていた。2000年のクラマーには、そういう躊躇はありませんでした。盤上で堂々と勝利点をめぐる剥き出しのメタフィクションを展開しても普通に受け入れられる、ゲームシーンは既にそうなっていたのです。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-10-13 23:36 | 感想・紹介

重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part1)

「歴史的重要性の観点からわたくしが勝手に選ぶこの20年の代表的ボードゲーム(欧州系システム限定)。モダンアート・カタン・エルグランデ・フィレンツェの匠・プエルトリコ・キャメロットを覆う影・ケイラス・ドミニオン・七不思議。みんなもやってみよう。みんなって誰だ?」

ボードゲームの歴史、特に現代史を考えることは重要なことだと思うのですが、重要なことだとは思っていても知らないものは知らないし教科書もでていない。のでおしまい、というのは少々後ろ向きすぎるようにも思えるので、とりあえず現代史を捏造してみるところから始めましょう、というお話でございます。「みんなもやってみよう」というのは、みんなもここに挙げたゲームをやってみよう、という意味ではなく(いや基本的にここに挙げたゲームについては未プレイならぜひ遊んでみるといいとは思いますけども)、みんなも勝手に歴史的重要性の観点から代表的ボードゲームを挙げてマイ現代史を捏造してみよう、という意味であります。捏造の山から正史が立ち上がることもあるかもしんないというポジティブシンク。根拠無いけど。

なんで20年で欧州系限定かというと、その範囲を外れると捏造しようにもなんも知らないので書くことがない、というのが理由のほとんどです。残りの理由としては、たとえばこの20年で欧州系限定をはずしてしまうとどうしたってM:TGに触れざるを得なくなり、そうするとM:TGと並べて恥ずかしくない程度の影響力を持ったボードゲームってこの20年ではカタンだけなので、ちょっとやりたいことと違ってきちゃう、というのがあります。レンジが30年だとウォーハンマー、40年ならD&D、50年だとタクティクスみたいな初期のウォーゲーム、とかまあいろいろあるんでしょうけど、よく知らないのでとにかくこの20年、「欧州系」限定です。正確に言うと「欧州系以降」限定。つまりドミニオンは冷静に考えてみると欧州系と言えるための条件を殆ど満たしてないけど当然入れるからね、という宣言です。


モダン・アート | 1992

欧州ボードゲーム20年偽史をモダンアートから始めるというのは何かたいへん意義あることのような錯覚を覚えて書いてる方としてはちょっとした興奮があります。というのは、「欧州ボードゲーム20年史」というのはほぼ「ドイツ・ファミリーストラテジーの興隆と衰退、そしてその後の展開」に等しいわけで、その書き出しというのは何をもってドイツゲーム・ルネッサンスの始まりと定義するか、につながります。そこでたとえばカタンを出してくるという態度があり、あるいは20年縛りを無視してスコットランドヤードという手もある(というか、「スコットランドヤード(1983)」を始まりと定義するのであれば、お題のほうを「30年史」に変えるわけです)。その中でクニーツィア、それもモダンアート。含意はふたつあり、「ドイツゲーム・ルネッサンスの時代とはそのまま競りゲームのルネッサンスの時代と言い換えることが可能である」ということ、そして「ドイツ・ファミリーストラテジーの最も大きな主題は、クニツィア的なるもの、であった」ということです。

特に前者については、競りゲームの歴史ははっきりとモダンアート以前・モダンアート以降に分けることができます(もちろんクーハンデル(1985)みたいな例外はあるにせよ)。全てが競りだけで構成され、あらゆる行動が価格付けという言語によって構成されるゲームでありながら、しかしその言語によって行われることは必ずしも単なる価格付けだというわけではなく、むしろ本質的にはプライシングというよりも空気の形成に関するゲームである。クニーツィアはこのモダンアートにおいて、競りというシステムをミニマルに用いることで、競りというだけに留まらない複雑な味を持たせることに成功しました。これにより、九十年代のボードゲームにおいて競りは第一級のゲーム要素に格上げされ、クニツィアがリファレンス的なゲームを同時期にいっぱいつくったこともあり、やたら数多く出回るようになります(各作者の名誉のために、その多くが十分に遊べる水準を保っていた、ということは付け加えておくべきでしょう)。また、ここで提示されたミニマリズムも、その後のドイツゲームにとってひとつの規範をもたらしました。そしてこの「競りとミニマリズム」によって退潮したボードゲーム要素というのも確実にあり、それはたとえばダイスだったりイベントだったりするわけで(直接戦闘は八十年代の時点でドイツではマイナーになっていました)、そういう新たに追加された要素と退潮していった要素とが九十年代、つまりドイツ・ファミリーストラテジーの時代を形作ることになったのでした。

 そうすると今度は、この時代がどこで終わったのか、という話になり、これも当然いろいろキーイベントを挙げることができるのですけども(後述するいくつかのゲームの登場なんてのは分かりやすい例ですね)、今述べたような競り史観=クニツィア(レスク)史観を採用するのであれば、1999年のスティーブンソンズロケットか2003年(だっけ)のアメンラーというのが分かりやすい終わりの始まりと言えます。前者はクニツィアが初めて狙って作ったゲーマーズゲーム、後者はそれがDSPを獲得した、というイベントです。何なら2008年のケルトを、ドイツ・ファミリーストラテジーの時代への別れの挨拶、という扱いで見ることだって可能でしょう。ああいうミニマリズム的な45-60分クラスのゲームが大箱で並ぶようなことは本当に少なくなりました。

※追記:タージマハル(2000)というのもあるのですけど、あれはどっちかというとチグリス・ユーフラテス(1997)と同じ系統、つまり「できちゃった」ゲームなんじゃないかなーと。ポーカー狂いのクニーツィアがうっかり産み落とした危険なドイツ・ゲーマーズゲーム。



カタン | 1995

ドイツゲームの象徴をなにか1つ、という条件だったらふつうはこのゲームを挙げますわね。少なくとも商業的には、ドイツゲームの時代というのは完全にカタンの時代とイコールです。その後10年、ドイツゲームが生産される基盤そのものを作ったゲームですから、当然歴史的に見てこの20年で最も重要な作品でございます。

システム面から言えば、ファミリーストラテジーにおいて許される複雑さの上限を再定義した作品というのがまず第一に来るでしょう。カタンというのは玩具屋で平積にされて売りに出るメジャーな作品としてはかーなり複雑なルール構成のゲームで(いやヴェルニサージ(1993)十分複雑じゃね、とか言わんように。あれは五千部しか出てません)、これが大ヒットしたことで、ここまではやってOKとなった。もちろんこれはちょっとずれた認識で、ルールの複雑さとユーザが遊んだ事後の印象としての複雑さとゲームの難度はそれぞれ別のことである、というのが本当のところなのですが、ともあれルールの複雑さについてはここまでOKになりました。と。このゲーム自体は別にゲーマーズゲームじゃないんですが、システム面でも「ゲーマー」が産まれるきっかけになったゲームとは言えます。
なんか口調が煮え切らないんですけどこれは何故かというとですね、よく言われることだと思いますが、このゲームって各パーツを抽出してみると全然九十年代ドイツ風ファミリーストラテジーじゃないんですよね。まずルールが複雑なことが第一に挙げられますが、それよりも重要な点があって、それはドイツゲームの系譜のどこかに位置づけることがかなり難しいシステムだということです。カタンの先行作品として良く名前が出てくるゲームって"Borderlands (1982)"と"McMulti (1974)"だと思うのですが、どっちもアメリカのゲームなわけです。そして後に続くゲームはないと。んでこれは外側から見た言い方ですが、内側から同じ事を言うなら、何より全面的なダイスの採用と堂々たる特殊能力カードの運用。特殊能力カードはその後もなんとなく残っていくことになりますが、ダイスを好んで大箱に突っ込むデザイナーはたぶんトイバーが最後の一人で、トイバーが一線から引いたら本当にダイスはメインストリームから消えてしまいました。ドイツゲームが終わった現在になっておずおずとダイスの再定義が始まっていますけれども、第一級の要素として復帰するのは(あったとしても)だいぶ先のことでしょう。トイバーは当時の基準で考えるとダイス的な乱数を本当に愛した人で、ことあるごとにダイスやらルーレットやらを、結構アクロバティックな方法で取り込んでいます。90年代にダイスを用いるにはここまでやらんと駄目だったですか、ダイス末期ですしねえ、という印象もありますけど、ただたとえばこのカタンが代表例ですが、トリッキーかつ全体から浮かないような使い方でありながら、プリミティブなダイス勝負感覚、つまりあの「この目を出したんぞオラ」なオカルト、そういうものを大事に残しているんですね。最後の一人だけあってダイスを使うのが最も巧かった人だと思います。

そして、これは功罪半ばするところですが、交渉要素の大幅なカジュアル化、というのもこのゲームの残した大きな影響と言えるでしょう。モノポリー(1933)からディプロマシー(1959)を経て延々と続く交渉=鉄火場論。カタンはそういうのと関係のないところでプレイヤー間の交渉をメインストリームのユーザに提示し成功しました。そして鉄火場的な交渉ゲームはその後完全に立場を失いました(いや、これは割と恨みがましい嘘が混じってますけど)。この流れを決定的にしたのはローゼンベルクの衝撃的なデビュー作「ボーナンザ(1997)」で、この二作によってドイツにおける交渉とはそういうことです、というスタンダードが形作られました。前述のアメリカからカタンへという話と組み合わせると、カタンが行ったのはドイツゲームとしての要素を入れ込むというよりは、アメリカのゲームを象徴する生臭さをアメリカのゲームから取り除くことだった、というように言っても良いかもしれません(ただ、そう言ってしまうと後継者がKeyaertsということになってしまい、それはそれで違和感があるのですけども)。

※一応追記しておきますと、これはあくまでカタン単体の話であって、トイバーが常にソフィスティケイテッド・アメリカの人だと言いたいわけではありません。というより、「カタン」シリーズを除けば、トイバーはほぼ常に王道ドイツの人で、それも1997年版レーベンヘルツを除けば王道ドイツ・ファミリーストラテジーの人だと言えます(前述のとおりヴェルニサージはゲーマー寄りですが)。



...すぐ終わると思いきや意外にも全然先に進まないのでここで切ります。続きは近いうちに。


追記(10/12): あーキャメロット抜けてたー。というわけで足しました。決して個人的にはそこまで好きじゃなくて書くのめんどくさいからこっそり削ったわけではー。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-10-12 00:34 | 感想・紹介

のいのわーる(未テスト創作)

Neu/Noir


ゲーム概要

O'No99とか101とかNeuとかああいうゲームの面白さが分からない人のための、つまりわたくし自身のための、ああいうゲームの面白さを完全にスポイルしたああいうゲーム。とりあえずNeuの拡張として。タイトルはsac noirのオマージュですが冷静になって考えてみると独仏ちゃんぽんですね。


4-7人用

内容物
・Neu一式(ノイカード58枚、白チップ21枚 http://www.mmjp.or.jp/icarus/neu/neu_rule1.html)
・黒チップ17枚くらい
・プレイヤー担当色表示マーカー 7色各1
・ベットチップ 7色各1


準備

・黒チップをテーブル中央にまとめて置く。
・プレイヤーはそれぞれ担当色1色を決め、その色のマーカーとベットチップを受け取って手元に置く。
 (マーカーとベットチップは少し離して置く)
・各プレイヤーに以下の枚数だけ白チップを配る。配られたら手元に置く。
 4人ゲーム時は各自5枚/5人なら各4枚/6-7人なら各3枚。
・余った白チップ・マーカー・ベットチップはゲームに使わないのでかたづける。
・カードをシャッフルし、各プレイヤーに以下の枚数だけ手札を伏せて配る。
 配られた手札は手に持って自分だけ確認、他人に見せない(喋るのはOK)。
 4人ゲーム時は各自14枚/5人なら各11枚/6人なら各9枚/7人なら各8枚。
・余ったカード(2枚か3枚)は中央に伏せておく。
・スタートプレイヤーを適当な手段で決める。
・「現在値:ゼロ」「進行方向:時計回り」「手番:スタートプレイヤー」でゲーム開始。



流れ

手番が回ってきたプレイヤーは、以下の3つのうち1つを選んで行う。
 1. 手札からカードを最低1枚出す
2. 自分のベットチップを出す
3. ラウンド敗北宣言を行う(ラウンド終了となる)
1か2を選んだ場合、これを実行した後、次のプレイヤーに手番を渡す。
「次のプレイヤー」とは、基本的には現在の進行方向に見て隣に位置するプレイヤーのこと。
ただし、手番プレイヤーが出したカードによっては、そうならない場合がある。



1. 手札からカードを最低1枚出す

複数枚出したければ何枚出しても構わない。その際は出す順番を明確にすること。
数字カードを出すと、その出した数字カードの値のぶんだけ、「現在値」が増える
(マイナスの数の場合は値が減るが、ゼロ未満にはならない)。
現在値が101を超えるような出し方はできない。
101カードを出した場合、現在値が101になる。
指示カードは、出しても現在値は変化しない。指示カードはそれぞれ後述する特殊な効果を持つ。
出したカードは自分の手元に置く。手元に、前回(またはそれ以前)の手番に出したカードが
既にあるのであれば、その上に重ねて置く。



指示カード

Shot:次の手番プレイヤーを任意に指名する。
Turn:進行方向が逆転する。
Double:次の手番プレイヤーは、最低限出さなければいけないカードの枚数が1枚増える。
Pass:Doubleが効いている場合、Doubleの対象が自分ではなく次のプレイヤーになる。

Shot, Passの効果は累積しない。複数枚出しても、1枚だけ出したときと同一の効果。
Turnは偶数枚出すと効果が相殺され、奇数枚出したときのみ効果が発揮される。
Doubleの効果のみ累積する。
複数枚のDoubleが効いている場合でも、Pass1枚だけで
その全てのDoubleの効果が次の手番のプレイヤーに引き渡される。
Doubleが効いていないときのPassは単に「数字の+0」扱い。



2. 自分のベットチップを出す

ベットチップを出す場合は、自分以外のプレイヤーを1人選ぶ。
選んだプレイヤーのマーカーの下に、自分のベットチップを敷く。
既に誰かのベットチップが敷かれている場合、そのようなプレイヤーを対象に選ぶことはできない。
自分以外の全員のマーカーの下にそれぞれベットチップが敷かれているという状態にある場合、
この行動は選択できない。
また、既に自分のベットチップが誰かのマーカーの下に敷かれている場合も、この行動は選べない。

ベットチップを出した場合、直前にDoubleが効いていたとしても、そのDoubleは無効になる。
ベットチップを出した場合、次は、ベットチップを敷く対象に選んだプレイヤーの手番となる。



3. ラウンド敗北宣言を出す

この行動を選んだら、直ちにラウンド終了となる。
この行動を選んだプレイヤーは、手持ちの白チップを1枚捨てる。

・このプレイヤーのマーカーの下にベットチップが敷かれている場合:
 そのベットチップの所有者は、ラウンドの「勝者」となる。
・このプレイヤーのマーカーの下にベットチップが敷かれていない場合:
 直前の手番を行ったプレイヤーが、ラウンドの「勝者」となる。

ラウンドの勝者は、テーブル中央から黒チップを1枚獲得する。

後述するゲーム終了条件を満たしているか確認する。以下の手順は、
ゲームが続行する場合にのみ行う。

全員、自分のベットチップを回収して手元に置く。

敗北宣言を出したプレイヤーは、自分を含む全員の中から任意の1人を選び、
そのプレイヤーの手元に出され積まれているカードを全て取って手札に加える。
第1ラウンド終了時に限り、中央に伏せて置かれた2-3枚のカードも合わせて取って手札に加える。
なお、手札の補充はこのように敗北宣言を自分で出すことによってしか行えない。
残りのプレイヤーは手札の補充はない。手元に出したカードもそのままにしておく。

新しいラウンドを、この敗北宣言を出したプレイヤーから始める。
現在値はゼロに戻る。進行方向は前のラウンドから変わらない。



終了条件

ラウンド終了時、以下のいずれかが満たされていたら、ゲーム終了となる。

・誰かが規定枚数だけ黒チップを集めた場合。そのプレイヤーの勝利。規定枚数は以下の通り。
 4人ゲーム時は5枚/5人ゲーム時は4枚/6-7人ゲーム時は3枚
・誰かが白チップを全て失った場合。白チップを全て失ったプレイヤーは失格。
 それ以外のプレイヤーの中で、集めた黒チップが最も多いプレイヤーの勝利。
 同点首位が複数いる場合、
 ・その中の誰かが「最後のラウンドの勝者」なのであれば、そのプレイヤーの勝利。
 ・そうでなければ、手元に残した白チップの枚数が多いほうを優位とする。
 ・それでも同点首位が複数いるという場合、その同点首位のプレイヤーだけで、
  延長戦として1ラウンドだけ追加で行う。この延長ラウンドの勝者がゲームの勝者となる。
  延長戦を誰から開始するかは、失格となったプレイヤーが選ぶ。



To Do

・チップ枚数はもう一枚くらい多いほうがいいかもしれない
・三人だとどんなかんじだろうか
・たぶんこのルールだとスキップがあったほうがいい。
 -10と-1は全部スキップ効果を持つとしたほうがいいかも。n枚重ねて出せばn人飛ばし。

・(追記)1人だけベット載せられなくてはぶられることがあって、それは別にいいことにしたんですが、
 やっぱり問題なような気もします。
 解消法としては、ベット使ってないのが残り2人になったときに置く先に制限をかけるとか。
 ただルールがだいぶ汚くなるのが。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-08-16 00:57 | 創作関連

「いつか王子様が」デザイナーズノート

長いので先にまとめ。本文にはこれ以上の情報はあんまりありません。
・ゲームリンク10号付録ゲーム、根底にあるのは下記の文の実装です→「非ゼロサム http://toccobushi.exblog.jp/945024/ 」
・あと「クレムリン」の性根の腐った感じと、プレーしたことないけど「タリスマン」への妄想でできてます
・二時間クラスなのに運ゲーなのは、趣味の問題と制作技術の問題と両方あります。そういうもんだと思ってください
・ルールの子細には「マチュピチュの王子」とワーカープレースメントを混ぜ入れてますが、結果妙な80年代テイストが現出

* * *

ゲーム作るたびにデザイナーズノート書いていけばブログのねたになって素敵かと思いきやここの放置ぶりはそういうことを考える必要もない程に進行していたのです

* * *

ゲームリンク誌の10号には「いつか王子様が」というゲームがおまけで付いてて、これはわたくしがルール書いたゲームなんですけど、当初はデザイナーズノートも一緒に同誌に載せる予定だったのがルールが妙に長くなってしまって当然のようにデザイナーズノートのスペースなどは真っ先にカットしたりした都合上、あとゲーム同人界隈でブログにデザイナーズノート書くのが流行ってるような気がするので、こっちで何か書くことにしました。紙面の制約がないので無駄に長くなります。

ボードゲーム制作同人としてのわたくしは過去に何作かゲームを作っていて、その多くには共通する特徴があります。ざっくり言うと「なんか変なルール」「テーマ設定や枝葉のルールがほとんど無い」の二点で、これはどっちも意図的な選択によってそうなっています。前者については、正統的なルール構成を持った面白いゲームであれば普通にショップでいくらでも買えるので、わざわざ同人が作らんでもよかろう、というのが理由。後者については、商業的アピールとか別にしなくていいんだし興味ある部分だけ作り込めばいいや、どうせ作り込まないんだからぞんざいな形で存在するよか存在自体を削ったほうがいいよね、という、まあ開き直りですね。
(あと「自分と直接関係しない誰かと誰かのどさくさでいつの間にかゲームが決まっている」ことも、複数のゲームに共通する特徴と言えるかも知れません。これは単純に、そういう理不尽とか、そこを制御しにかかる電波大戦とか、そういうものが好きだというだけの話です)

で、今回なんですが、いつものアレとはうってかわって、いいのかこれってくらいに長いルール(じっさい編集サイドからNGが出たので頑張って削ってはいるのですが)。それも多くはテーマ的な正統性のために導入されているルールであって、戦術や戦略のどうこうには別に寄与していません。そもそもこのゲーム、長いルールで二時間クラスの割に、肝心なところは運で決まります。いわゆるチット引いてせーのドン。たとえば引き運でなく心理戦的な処理にしてスキル感を演出したりすることも、やろうと思えば別にそれほどは難しくないんですけど(ルール読んで「なんでそうしないの?」と思う方もいらっしゃるかと思います)、今回はそーゆーの無し、本当に運です。

何でそうしたのかというと、ひとつには、それくらいにしておかないとプレイヤーにも作者にも負荷が高すぎるから、というのが回答になります。雑誌付録ゲームは実験的なものであるべきという、冷静に考えると全く根拠のない信念のもと、今回のゲームは基本のところが実験的なものになっています。なのでそれ以外のところはなるべくイージーにしておきたかった、という意味です。このサイトで随分前に書いたことがあるのですが、「ひとつのゲームシステムの中で複数の卓が立ち、互いの卓の間で相互作用が発生する」というのが、「いつか王子様が」の根元にあるコンセプトです。その随分前に書いたエントリというのはこれ→「非ゼロサム http://toccobushi.exblog.jp/945024/ 」で、2004年8月に書いたものなので、7年越しの実装ということになります。なんでこういうのを作りたかったのかという点についてはエントリに概ね書いてある通りですが、2004〜2006年くらいにかけてはこういうことばかり考えていて、似たようなエントリがいくつもあります。背後にあった問題意識は明確で、ボードゲームにおいて可能な表現の範囲を拡張するということを考えたときに、現行のいわゆるボードゲーム的ルールの内部は相当に掘り進められていて「ドミニオン」や「ケイラス」級の天才的アイデアを提出できないとどうもならんのに対し、「協力ゲーム」とか「非協力ゲーム」とかそういう、ゲームの一番外側の骨格の部分には手付かずのフロンティアがあるんではないかと(2005年の「キャメロットを覆う影」や2008年の「スペース・アラート」は、そういう意味で重要なゲームだと思います)。

で作り始めるわけですが、すぐにどうしていいか解らなくなり、これは補助線が要るなー、ということになりました。作っててそうなるんだから遊ぶほうもたぶん補助線が要るでしょうきっと。そうに違いない。というので、大きいテーマを別のところから持ってくることにしました。この場合、テーマはシステムの補助線として使うものなので、前述のコンセプトを説明できるものでなければならない。と同時に、そのコンセプトというのが今回の場合はプレーに支障をきたすレベルで変なので、その部分に一定の補正をかける、つまりプレーにある種の指針を与えるものでなければいけません。さらに、この引いた補助線は制作者にとっても補助線なのであって、いったんテーマが設定されたらそのテーマに沿ってシステムの残りを組み立てていくわけですから、システムの組み方が解らなくなるようなテーマであっては意味がありません。そういうことで補助線に対する要求自体が重いので、補助線も引けないまま放ったらかしになっていたです。話の再開は2009年の夏。ゲームリンク誌から雑誌付録ゲームの話を頂いて(当時のゲームリンクでは雑誌付録ゲームについては公募もしていたくらいで、同人界隈を含め広いところから色々拾っていこうというスタンスだったものと思われます。なんでゲームリンクに同人ゲームが載ってるの、という疑問については、以上がお答えとなります。ちなみにこのスタンスが変わるのは4号のKnizia特集のあたりからで、この方針転換にはわたくしも少しだけ関わっているのですが、それは別の話として)、先方のリクエストが「フルサイズのゲーム」だったので、であればもう一度アレを考えてみようか、となったのがきっかけです。

さて雑誌付録となるといつもの同人スタンスからは若干軌道を修正する必要があり、前述した実験の部分は自動的にクリアしてるとしても(そしてよくよく考えるとクリアする必要のまったくない条件だったことも前述のとおり)、テーマにおいてある種のキャッチーな感じが欲しくなります。余計に条件が増えてるわけですけど、この「キャッチー」というお題がむしろアイデアの展開には助けになっていて、「複数の陣営が存在する + キャッチー → 男女 → ロマンチックラブなんとか」。結婚を基本テーマとして前述のコンセプトを説明できるような設定を考えると、まあ陣営としては「男」「女」の2つ、で「付き合ってる彼氏/彼女を他の女/男に自慢する」という話になるかなあ、と。コンセプトの説明としては充分でしょう。むしろ「ひとつのシステムの中に複数のゲーム」という構成になってることに気付かれない可能性があり、それはそれで問題なのですが(このゲームの場合、コンセプトを意識して遊んでもらわないと遊びどころが分からなくなりそうなんで)、他にキャッチーなテーマとか思いつきそうにもないし、これでいいかと思いまして。

さて、このテーマはシステム作成上の補助線でもあったわけですが、このテーマであんまりスキル重視のものにする気も起きないわけで、元々このコンセプトの上でスキルを要求するゲームをどう作ったものか考えあぐねていたこともあり(何しろそういうゲームを作ったことも遊んだこともないわけですから)、そっちには行かない、という判断を行います。単にわたくしが元々マルチゲームに競技性を根っこの部分で求めていないプレイヤーだというだけのことでもありますけれども。ともあれ、ではどのへんの所にゲームを落とし込んでいこうか、ファミリー寄りのファミリーストラテジーにするにはテーマにえぐみが強いし、ライトゲームにするにはそもそものコンセプトが重すぎるし、とぼんやり考えていると、別のゲームのことが頭に浮かびました。「クレムリン」と、あとは何といっていいか微妙ですが、まあ「タリスマン」です。

「クレムリン」はソ連の偉い人を操って政敵を延々とパージするという内容で、普通のゲームとして充分楽しめつつ、プレイヤーに性根の腐ったことをさせて性根の腐り具合をみんなで笑うという性根の腐ったコンセプトを持った、ゲーム史上で独特なポジションに位置づけられる傑作です。どういうポジションかといえば文字通り性根の腐ったゲームの系譜ということなんですけども。現在のゲームシーンは基本的にラベンスバーガー・ワールドの延長線上に位置していて、あんまりこういう性根の腐ったゲームの居場所がない感じなので(「クレムリン」はスイスのゲームなので本来はドイツの色を強く受け継いでいてしかるべきなんですが、たぶん作者のホステトラーが基本的にそういうの好きな人なんだと思います。比較的最近の作品である「百万回のダイブ」も、題材がサッカーワールドカップというところまではいいとして、主にやることが審判を欺くシミュレーション=ダイビング、というあたり)、ではそういうシーンから遠く離れた関係のないところで勝手に作ってしまおうと。テーマとの相性もよさそうですし。えっと、所詮リア充などというものはみんな性根が腐った連中なのですよ、みたいな。しらねえけど。

一方で「タリスマン」というのは、わたくしこのゲームやったことないのでどんなゲームか知らないのです。なんかうすぼんやりと聞く限りでは、勇者がクエストをこなして成長してラスボスを最初に倒した人が勝ち、なんですかね? クレムリンについてはテーマとの整合性からある程度出るべくして出てきたタイトルだと思うのですが、タリスマンについては本当に単に思い浮かんだだけなので(それも明確にタイトルとして思い浮かんだわけじゃなく、「勇者がクエストをこなしてラスボス」という大枠だけ思い浮かんだのであって、その思いつきに「タリスマン」という言葉が与えられたのはゲームの制作が後半に入ってからです)、どうにも合理的な説明ができず、単に同じ時期に「勇者30」を遊んでたから、というだけのような気もするんですけど、ともかく、そういう勇者ゲーがなんか結婚とか性根の腐った感じとかと相性よさそうに思えたんですよね何故か。勇者が自らを鍛えてクエストをこなして名声を集めたらラスボスを倒さずに異性のところにいってプロポーズしようとすると先客がいて乱闘。うん。完璧じゃないか。文章に起こしてみると何が完璧なのか全くわかんないにせよ、その時は完璧だと思ったのです。

ここまで出来るとあとはストーリーに沿ってルールを作っていくだけで、恋愛したり裏切ったりの部分はとうぜん慎重に(というのはつまり、恋愛したり裏切ったり決闘したりすることが男陣営と女陣営の交わりのメインになるので、ここで熱が出るようにしないとテーマ上もコンセプト上も何にもならないからです)作るとして、「タリスマン」的パートについてはどっちにしろそこで遊ぶゲームじゃないので別のところから拾ってくればいいかと思い、拾ってくることにしたのですが、そもそも「タリスマン」のことを全然知らないので、じゃあというので多少の試行錯誤の後、個人的に大好きな「マチュピチュの王子」に、個人的にはあんま好きじゃないワーカープレースメント的な早乗りエッセンスを加えてみたところ、なんかマチュピチュの王子の匂いもワーカープレースメントの匂いもしない、そのかわり何だか80年代の匂いが濃厚にする、妙なブレンド結果になってしまったことです。なんでそんなことになったかというと、元々ワーカープレースメントというのはゲームの機能を抽象化して具象から切り離す、というところから始まります。一方でマチュピチュの王子は通称「俺ロンデル」、つまり抽象的な機能から抽象的な機能へと自分の駒を動かしていくゲームです。こうして見る限りではこのふたつは何の問題もなくくっつきそうに見えるんですが、一方でワーカープレースメントには基本のところで「早乗りである」ということ、またマチュピチュの王子には「主役である駒=王子が、各地を渡り歩いていく」というテーマ的前提があるわけです。これらを妄想タリスマンとブレンドすると、出てくる結果は「王子たちが各町に用意されたクエストを早い者勝ちで取り合う」という何だか実にクラシカルなものに。結局のところ、ひとつのクラシカルな具象的ルールを別々の方法で抽象化した2システムがあり、それをもう一度くっつけるための糊として具象化を使っている(より正確に言えばロンデル→マチュピチュの段階で既に1段具象化されてるわけですけども)ので、最終的にできたものは元のクラシカルなルール、に何か変なツイストのかかったキメラ、ということなんじゃないかと思われます。よくわかんない。どっちにしろシステムとして機能してればそれ以上の要求はここにはにないので、これでOKということにしました。機能してればというのはつまり、普通に早乗りのシステムとして成立していること、それにより各プレイヤーがそれぞれ異なる形にビルドアップしていくことが保証されること、あとはビルドアップのルートの違いが、各プレイヤー間の位置取りや初期配置等の割とささやかな条件を噛ませることである程度の有利不利に変換されること、まあそんな感じのことです。一言で言えばそれっぽければ別によいということですね。

あとはバランスとったりバランス壊したり、前述の通り膨らんだルールをなんとかして4ページに収めるべくがりがり削ったり、という作業により、現在のゲームができあがりました。できあがっていると思います。出来栄えについては遊ばれた個々の方が個々に感想をお持ちになるものと思いますのでわたくしの方からは何も言うべきことはないのですが、ただそういう出来不出来の面とは別に、「一つのシステム、複数のゲーム」の着想を7年越しでともかく実装にはこぎ着けたということ、あと性根の部分についてはかなり腐った感じに仕上げることができた(ご家庭で遊ぶのは少々ためらわれるんじゃないか、という程度には)という点で、個人的には満足しています。個人的なことついでで言えば、あと嬉しいのはプレイヤーが動かす駒である王子王女のキャライラストが付いてるってことで、ジュブナイルの主人公面したこの6名の美麗な少年少女の性根が全員揃いも揃って腐りきっている、ってのは中々素敵でちょっとときめいております。

* * *

ここからは枝葉末節の話。


・結局なんでチット引いてドンなのか。本当に単にイージーにしたかっただけ?

まず前提として、他者との関係性に関するゲームにしたかったというのがあります。一方で今回のゲームの場合、あまり多人数で遊ぶことを想定はできず、せいぜい4-6人程度だろうというのがあり、その中で他者との関係性のダイナミズムを表現する場合、とにかく展開が常に激しく動かないといけない。そして展開を無理矢理ぶん回すには乱数というのは最もイージーな解決法ではあるわけです。


・乱数のデメリットについて一度でも真面目に考えたことがあるのか?

前述の通り競技ゲームにはしないということにしたわけですが、とはいえゲーム序盤の乱数でゲーム結果が確定してしまうという乱数ファミリーストラテジーにものすごくありがちな結末は当然避けなければいけません。そこは強く意識しているのですが、ただ実際それほど周到に手を打つ必要はあまりなくて、そもそもゲームの基本構造の都合により、最後は自分ではなくパートナーの都合で勝敗が決まるので、どんだけ道中ひどいことになってもそれなりに何とかなる道が残されるようになっています。それって結局どんな展開になっても最後は乱数で決まるってことだよね、という点に関しては、「そこで遊ぶゲームではない」ということのプレゼンテーションは充分に行えているものと思います。それこそ乱数をこれ見よがしに提示しているのでして。


・乱数ってもいろいろあるはずだが何故チットなのか? あとあの10って何?

ほんとうはチットではなくダイスを使いたかったのですが、依頼を受けたときのレギュレーション(雑誌付録のパーツだけでゲームが完結すること。チーパス的手法の禁止)のためダイスが使えなかったのです。ダイスには大きく2点の特徴があり、ひとつは(もちろん!)宗教的な高揚が得られること、そしてもうひとつは、しばしば極めて無慈悲かつ無責任な結果を招くことです。今回のゲームではこの両方とも必要な効果なので、ダイスを使えなくてもなるべく類似の効果が得られるよう「同時チット引き」を使うことにしました。つまり、「10」はダイス無しでも無責任な結果が得られることを担保するためのものです。なお、チット引きで宗教的な高揚を得る場合、本来は袋から二者が同時にチットを引く必要があり、さらにはチットの両面に内容が書かれている必要があります(チットを引くという行為とチット引きの結果が判明するまでのレスポンスタイムの短さが最重要課題なのです、という話はなんだかボードゲームというよりコンピュータ絡みのUI話みたいですが)。コストその他の都合により袋無し/チット片面印刷になってるので、袋は各自でご用意頂き、乱数チットの裏面にはマジックか何かで表面と同じ数字を書いておいていただくようお願いいたします。


・競技ゲームにしないなら、手番割り込みシステムってルール長くするだけで要らなくない?

言い訳的な理由としては、展開の多様性の保証と、混乱の現出のためというのがあります。個人的な思い入れから言えば、"Keytown"(Richard Breese作)へのオマージュです。ですが、まあ、実際的な理由としては、専らダウンタイムの低減のためのものとお考えください。競技ゲームではダウンタイムの長さはあまりうるさく言われるべきではないと思いますが、このゲームは競技ゲームではないので(テーマ的に「ファミリー」ストラテジーとも言い難いですけど)、ダウンタイムの低減は死活的な問題です。(戦闘がひっきりなしに起きるのも、ゲームコンセプト上の必然性に加えて、ダウンタイム低減効果を意識したものでもあります)


・一部の魔法とか初期配置とかバランス変じゃない?

これは意図的に崩してます、というか、乱数の強いマルチプレイの非競技ゲームでは基本的にバランスはある程度崩れていたほうが面白くなります。ゲームシステム的なところから言うならば、マルチプレイ構造が本質的に持つバランス効果をゲーム序盤から効かせられるためです。もっともこのゲームは素直なマルチプレイ構造ではないので、典型的なアメリカゲーほど激しい崩し方はできません。それでもこれくらいの崩しはスパイスとしてあったほうがよいかと。あと当然フレーバー上の理由もあります。


・何故いろいろ平仮名?

たいした理由ではないんですが、プロトタイプ版のテーマが「8bit RPGのパロディ」だったためです。最終版については、プロトタイプ版を編集部に渡した上で制作を完全にお任せしておりまして、実際「これ平仮名でないほうが」という意見もいただいたりして、こちらも「グラフィック描き直すならそうかもしれない」と回答もしたのですが、結局平仮名のままという判断になったみたいです。たぶんスケジュール的な問題から、そこのテーマの再構成に時間をかけるのも勿体ないという意思決定がなされたものと思われます。そういえば最終版のグラフィックは16bitくらいになってますね。それも部分的にPC9801入ってるような気が。
(プロトタイプ版はこんなんでした)
a0026478_94132.png





・初期配置はいいとして、マップ自体の構成には何か意図あるの?

ないです。敢えて言うなら最初のプロトタイプ版ではElfenlandのボードをそのまま使ってたので、Elfenlandっぽい感じのマップ構成になってます。


・なんで6人までなの?

雑誌付録レギュレーションの都合です。チットが増やせなかったのあれ以上。


・なんで王子王女のスタート都市は固定なの?

雑誌付録レギュレーションの都合です。選択制にするとチットが増えちゃうの。


・ステータスボードって個人ボードのほうがわかりやすくない?

雑誌付録レギュレーションの都合です。個人ボードとか無理だから。


・ルールの不明瞭点とかバリエーションとか

どんな場合でも、「4.残手番の減少」が終わったら、手番はその左隣のプレイヤーに移ります。手番スキップが入ったからといって、スキップを入れたプレイヤーの手番が終わったら飛ばされた人のところに手番が戻る、というわけではありません。スキップを入れたプレイヤーの左隣の人に移ります。
バリエーションルールはあまりないのですが、最後の最後で他人の都合だけで自分の順位が決まるのが許し難いという場合は、残手番数全消費時の「ひょうばんチェック」を、独身のキャラのみ行うものとしてください。このルールを使う場合、結婚していたらホームタウンからどれだけ離れていてもひょうばんは下がりません(元々このルールが本線だったんですが、他人の都合で自分の順位が決まることの強調のためと、ルールの長さの都合上、途中で削ったです)。あとはスタート時のひょうばんを8-13じゃなくて9-14にするくらいでしょうか。
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# by Taiju_SAWADA | 2011-08-13 08:49 | 創作関連

さえずるわたくしツヴァイ : 新作ファーストインプレッション関連

とりあえず俺内評価をまとめてみると、メルカトルやってねえじゃんとかツァバンドールも遊ばずじまいだったとか何でマイナーメーカーしか手つけてないのとか色々切ないことが判明するので皆もやってみて切なくなるといいです。評点はStandard & Poorsのフォーマットを借りてきました。このフォーマットが解りやすくて一番好きなのです。BB格以下は購入不適格、Aランクは購入したものを売ったり捨てたりせずに手元に残しておいてもいいかなってレベル。CCC格以下は俗に言うところのくそげー認定です。

AAA :
AA+ :
AA : Navegador
AA- :
A+ :
A : Grand Cru
A- : Olympus, Travel Blog, Triumvirate
BBB+: Furstenfeld, 1655, Wampum, Magnum Sal
BBB : 7Wonders, Antics!, Offrandes
BBB-: Troyes, 20th Century
----
BB+ : Vinhos
BB :
BB- :
B+ : Key West
B : Fabula
B- :
CCC+: Stich-Meister
CCC :
CCC-:
CC : Discover India
C :
D :

10-11シーズンは「Navegadorの年」という一言で片づけられそうな気がしてならないのですが、それでもGrand Cruの「経済ゲームとは一言で言えばこういうことなのです」という思想・主張に裏付けられた借金トラックのアイデアは大変すばらしいと思います。ゲームバランス若干狂ってねえか、という気はしないでもないですが、わたくしは完成度とアイデアを天秤にかけたら迷い無くアイデアを取るタイプのプレイヤーなので、そこは割とどうでもいい感じで。

OlympusとVinhosはどっちも「既存のフレームに過剰詰め込み」という意味では同じことをやってるゲームです。Olympusはゼロ年代ドイツ流儀の典型とも言えるワーカープレースメントの枠にアメゲー的な特殊カードを、それも全員が同じ数十枚の「手札」を持ってゲームスタートという強烈なあほルールと共にぶちこむカウボーイスタイル(←偏見)。Vinhosは拡大再生産ゲームの各パーツをそれぞれ虫眼鏡で拡大していって、でもあくまで一つ一つはドイツルールで仕上げるという形。どっちがいいですかって話になると、それこそ「好みじゃん!」って結論にしかならんような感もあるんですが、でもOlympusのが圧倒的に好き...というかVinhosの手法が病的に見えるのですよ。何がってボードが。ボードを埋め尽くすトラックとトラックとトラック。全て把握しないことには触れることまかりならぬと言わんばかりの。実際ドイツ系のルールって細かいルールまで含めて全員が全部把握してることを前提として回っているというのはあって、このゲームも恐ろしいことにその例外ではない。そこ行くとOlympusは良くも悪くもカウボーイスタイルですから、まあカードの中身を把握してるとかしてないとか面倒なこと言わんでもとりあえず遊べばいいじゃん、やりたい奴だけ極悪カードぶん回して無双すりゃいいじゃん、という大らかさがあって(いやルール自体はシビアですけどね)、どっちがっていうのは本来はニュートラルなんだろうけど現状2010-11シーズンの袋小路in独逸な概況を背景として考えると、どうしたってOlympusのほうを取りたくなるわけです。

Travel Blogはいまのところ最優秀FAUNAフォロワー。フバさんこんな芸もできるんすか。


-----------以下さえずりまとめ

Vinhosを2人でお試しプレー。普通に面白いとは思うよ、でもねえ、ここまで長いルール書かないと普通に面白いゲームって作れないのか?ボードなんか大量のトラックで溢れてて神経症の絵にしか見えない。「普通に面白い」じゃ読解1時間+インスト1時間で冷えきった俺の気分は高揚しないのよ

Offrandes. 序盤ぼんやりプレーしてたら何かものすごい大虐殺(最終結果で4倍スコア)が発生してしまった。ううむ申し訳ない。ちょっと不穏なだけのごくシンプルなルールセットだと油断したのが間違いで、実際にはワンミス即死のおっかないゲームでした。フランス人油断ならん

Navegador. ゲルツはぼくらを裏切らない。そして歴史軸的な評価を抜きで言えば今作がベストかもしれない。あと今回遂に独逸ゲームとしての一般性のようなものを手に入れたといえる、かもしれない。ルール短いし。

ビール侯爵。さすがにフリーゼ、それも自分とこのブランドの仕事ともなると、俺ドミニオンを作るにあたってドミニオンのシステムを適当につまんでくるような阿呆な真似はせず、きちんと「俺にとってのドミニオン解釈」を提示している。すごーく好きなゲームって程じゃないが、その意味で立派な仕事。

Wampum。ホイップの人の新作。作れる人だって事は解ったが、商道徳的にどうだろう。契約書にはテクニカル過ぎずルールはシンプルでちょっとした目新しさがあればなお良しって書いてありましたよね、とニヤつく作者が。多分尻尾生えてる。ボール一個分だけ外す絶妙な珍妙感。個人的には好きだが

ところでトリックマイスターって普通に詰まらないんですが皆様如何お過ごしでしょうか。久しぶりにフリーゼで留保抜きのハズレ引いた。口直しにゲームリンク付録のフォッペンを3回遊んですっぱり忘れると吉みたいな

7Wonders. あざとい誤魔化しが少々不誠実ラインを踏み越えて鼻につく嫌いはあるが、そこまで計算しての快楽最優先設計。SdJなら納得の受賞って感じ。ただDSPだとか、あるいは既に出てるFairplayアンケ1位とかって事になると、おまいら騙されすぎじゃないですかとも思う

magnum sal は嫌な流行に乗ったゲームに見せかけて全然違う・しかしこれはこれでオーソドックスな仕掛けで駆動する、ちょっとした試み(あるいは悪巧みといってもいいかもしれない)のある、2010年ならではのノーマルを追求した面白いゲームだった。やっぱり今年はポーランドなのか?

indie boards and cards の Triumvirateは割とすきー。少し待てばほとんど全部見えるんだけどそこまで待ってると微妙に間に合わない感じとか。

マーティン・シュレーゲルの"Key West"、最良の意味での90年代的アイデアと最悪の意味での90年代的粗野とどうでもいい意味での00年代的手癖をごたまぜにして腐ったUIと一緒に 1hでまとめたゲームだった。編集者しっかりしろよと思うが、ここから悪い所を削ると全てが一緒に消えそう

Fabulaはエッセンでルール読解が生煮えのままプレーしたですが、これはボードゲームではなくRPGです。Once Upon a Time的なゲームですらない。Hogsheadが出してた「ほらふき男爵」「Violence!」と同じシリーズで並べるとすごくフィットしそう。
ところでTGWでFabulaが「自分の物語を語り始めやすい」とあるけど、これには異論がある。この手のストーリーテリング〜簡易RPGの中ではかなり難しい部類に属するゲームよこれ。何が厳しいって自分の出した回答の【善し悪し】を評価されるところ。直球すぎ。他のゲームは大抵も少し慎ましい
### Once Upon a Time 遊んでるほうがみんな幸せだと思うですよ。このゲームは下手すると誰かを傷つける。

グランクリュ(エガート)今のところSpiel10ゲーマー向けでは一番のお気に入り(まだ5作しか遊んでないけど)。何てこと無い経済ゲームとも言えるんだが、ルールにある「経済ゲームとはつまり時間と資本の関係性に関するゲームである」というきっぱりとした主張が大変正しく心地よい。

1655(DDD)この種の、いろんな方向から得点源が絡んでしっちゃかめっちゃか、というゲームの中では纏め方がかなり巧い。日本のゲーム制作者、具体的にはカナイさんとキサラギさんは是非入手して遊んで頂きたい。絶対気に入るはず(もしかすると得られる所も何かあるかもしれない)。

20世紀(Suchy/CGE) ハルメンズではない(ヒカシューでもない)。前作シップヤードのロマン爆発から一転、編集者の意向かそっち方向はぐっと抑えて堅く遊びやすく作った発展ゲーム。それでもタイル連結は(意味もなく)残したあたりが作者の趣味。普通に面白く嫌味なく遊べる、とは思う。

でもなー、シャムの王→フィリピーノ・フルーツ・マーケット、とインディでキレキレの作品を立て続けにリリースしたジルベスターの、満を持してのメジャーデビュー作品が、アレ(※)なんだよねえ... (※「ディスカバー・インディア」クイーン・ゲームズ)
### きわめて遺憾ながらくそげーと言わざるを得ない。

トロワ(Pearl) 少なくとも、ダイス(で高い目を振る事)という大テーマに正面から取り組んだ点は最大限高く買いたい。結果このパッケージングでまとめざるを得なかったのはこのゲームというよか現状の独逸フレームの限界だろう。現にその限りでは面白いのだし。ま「Nice try!」て事で
PearlのTroyesについて高く評価したらブーイングを受けたですが、実際このルールセットは2010年とゆう現在を考える上で間違いなく義務鑑賞と言ってよいものだと思うのですよ。そりゃまあ完全犯罪とも言えるかも知れないが、ここにはポジティブな意味でデザイン上学ぶべき点が確実にある


(3/3誤記修正。ナヴェガドールのスペルまちがえてました。わたくしにはよくあることなので気にしないで頂けると幸い。こんだけアルファベット書いたの久しぶりなのでまだあるんじゃないかと思いつつチェックはしない)
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# by Taiju_SAWADA | 2011-03-03 23:54 | うわごと