B2FGames in Essen Spiel'09 : Part 1/4

表題どおりです。いまだにYouTubeにまともな画質でアップロードする方法がつかみきれていない私でございますが、とりあえず上げるには上げてみました。ちょうど3ヶ月遅れ。
前回までは内部閲覧用(尺がだらだら長い)と公開用(短い)を分けていたのですが、いい加減面倒なので内部閲覧用の基準に統一することにしました。おかげでテンポも何もない動画になっていますが、わたくしの作業量が減るのでこれでいいのです。
今回アップロードしたのは全40分あるうちの最初の10分だけです。残りのパートについては、ただいま不適切発言のカット忘れが無いか検閲中となっております。いまのところ2月初旬アップロード予定。


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# by Taiju_SAWADA | 2010-01-24 23:56 | 雑題

モルゲンラントとワーカープレイスメント

ただいま三ヶ月遅れでEssen Spiel09の動画を編集しているのですが(ゲームを訳したり作ったり会社やめるとかやめないとかで色々忙しかったのです)、中で全くSpiel09と関係ないものの単に切って捨てるにはちょっと惜しいシーケンスがあったので、別枠で貼付けてみました。
テーマは表題の通り。書いておきたかった話だったのでちょうどいいかなと。問題はしゃべってる人の上ずった鼻声が激しくうざいことですが。美容整形で声変えられないもんだろうか。



# エキサイトブログがやっとYouTube貼付けに対応するようになりました
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# by Taiju_SAWADA | 2010-01-20 23:06 | うわごと

フィンカ指数またはDr. Kniziaの教育的指導

(お好みでタイトルにびっくりマークを添えていただいても結構です)

ドイツ・ゲームオブザイヤー(SdJ)はその選考基準のひとつとして教育効果を挙げていたような記憶があります。ボードゲームの普及を大目標とするSdJにしてみれば当然と言えるでしょう。ところで「教育」には2種類あります。つまり、「ゲームを用いた教育」と「ゲームに関する教育」です。

06年の大賞作品「郵便馬車」は、ドイツの地理についての学習効果がプラスの評価に繋がったという話があります。これは「ゲームを用いた教育」の例で、このゲームを遊ぶことで××(ゲームとは無関係の何か)を学べるよ(そして××を学ぶことでより良い人間になれます)、というやつですね。いわゆる教育ゲームは全てこれに当てはまります。基本的にゲームというものは放っておくと弾圧されるものなので、こういったエクスキューズは常に必要とされます。但し、これによって間接的にゲームをめぐる環境は良くなるとしても、そのこと自体は××にとって良いというだけで、ゲームにとってプラスの効果があるわけではありません。

そこで後者「ゲームに関する教育」の話になります。そのゲームを遊ぶ事でゲームについて学べるよ(そしてゲームを学ぶことでより良い人間になれます)。なんか括弧の中怪しいですか? というか「良い人間」というのがそもそも怪しいんですけども。しかしゲームについて学ぶのは実際のところそれなり以上に有意義なことだと思うんです。いや本当に。ボードゲームに限っても、これを構成する【本質的な】要素には、意思決定と相互作用、触感とテンポと快楽の関係、デザインにおける作家性、商業的な要請に関する問題、システムと主題の連関、遊ぶことそれ自体の意味、その他、それぞれ個別に学問としても成立しうる・あるいは既に成立しているようなものが大量に含まれています。我々はゲームに触れるごとに、ゲームについて考える。「悪い」ゲームを遊ぶ事でこそ学べる事も数多くあるわけですが、それはそれとして、このゲームを遊ぶ事でそういったことを自然と学べるようにできている、ということであれば、それは確かにゲームの普及を目的とした賞を与えるに相応しいと言えます。

最近のSdJ受賞作を見ると、07年「ズーロレット」、08年「ケルト」となっています(09年の「ドミニオン」には明らかに別の意味があるので脇に置いておきます)。この2作はまさにゲームについて学ぶためのゲームです。08年の「ケルト」について言えば、もともとKniziaはジレンマの構造がはっきりしたゲームを好んで作る(というか「そういう」ゲームしか作れず、その代わりに「そういう」ゲームを作らせればこれ以上無く巧い)人ですが、このゲームでは、何を行うと何をあきらめ、誰に何をしていることになり、そして自分は何のリスクを取る事になるのか、というゲームの構造をこの上なく明確に分かりやすく提示しています。それでいて、その明確なジレンマ構造にはしかし、いわゆる「クニツィア・ジレンマ」の凶暴さは無い。学習用のゲームだから、それはとりあえず不要なんです。そういう凶暴さこそを愛するフリークスどもの相手をここでわざわざする必要は無い(そういう連中はどうせ買うには買うんだから、後で「拡張」セットでも与えておけばよろしい)。

そして07年の「ズーロレット」、および作者シャハトによる他いくつかの著作。個人的にはシャハトってあんまり好きなデザイナーじゃないんですが、それでもこの人のメインストリームを引き受けようとする意思には頭が下がります。ゲーマーズゲーム市場が再整備された00年代に入ってから、メインストリームを引き受けようとする上質のデザイナーというのは数が極端に減ったのですけども(ゲーマーズゲーム作ってるほうが楽しいのは確かですから)、シャハトはその一人であり続けようとしています。その姿勢が最も強く現れているのが07年の「ズーロレット」でして、ここにはとにかく、どーぶつの絵やらテーマだとか、お馴染みのコロレットシステムだとか、とにかく甘いものでプレイヤーをおびき寄せて卓に着かせ、気づかれないうちに【ゲーム】をさせてしまおう、というデザイナーの固い意志が現れています。なんとかして猫の気をそらして注射を打ってしまおうとする獣医みたいな涙ぐましさ。ちなみに続く08-09シーズンの「ヴァルドラ」も、ボードゲームの手続き的側面、たとえば公開されたカードは覚えておくといいよ、とか、効率的なルートを考えてみよう、とかそういう点にに着目した、やっぱり学習ゲームになっています(ヴァルドラはそのぶん相互作用の取り扱いについてはぞんざいになってて、ぼくはこれはズーロレットから少し後退しているんじゃないかと訝っているのですが、それはまた別の話として)。

で、ここまでで話を終えるとSdJ最高、ということにしかならないので、バランスを取るために(←うそ)、おいSdJ何しやがんだ、というアレについても最後に触れておきましょう。09年最終ノミネート作「フィンカ」です。

「フィンカ」はDSP(ドイツゲーム賞)4位。もう勘弁してくれよ泣いちゃうよ俺、というくらいの人気ですが、巷でどれだけ人気を博していたとしても、少なくともSdJは無視を決め込むべきでした。単に詰まらないということなら別にどうだっていいのですが、このゲームは上記の意味での教育上、強い悪影響があります。

いったん話が横にそれますが、「ゲーマーズゲーム」という言葉について、このサイトでは何回か触れた事があります。おおむね「安全弁の無いところで繰り広げられる、複雑に絡み合った意思決定の遊び」と、(このサイトでは)定義しています。複雑に絡み合った意思決定のシステムを築き上げるために、ゲームの手続きはどうしても込み入ったものになるのですが、遊ぶ側として想定されているのはゲームが好き過ぎる人たちなので、複雑でもある程度別に構わないものとしてデザインが行われます。例えばこないだ話題にしたMac Gerdtsのゲームなんかがそうですね。

「ゲーマーズゲーム→手続きがどうしても込み入ったことになる」。ここまではいい。ではこれはどうでしょう。「手続きが込み入ってる→ゲーマーズゲーム」。あるいはこんなのとか。「手続きがそれっぽい→ゲームっぽい」。

先ほどMac Gerdtsを引き合いに出しましたが、「フィンカ」には、Mac Gerdtsのゲームと同様、【アクションが描かれた輪の上で自分の駒を動かすことで、自分のアクションを選択・制御するシステム(ロンデルシステム)】が採用されています。この動きがじつに「それっぽく」、この輪の上で自分の駒の位置を選択しているとゲームがばりばりと進んでいくものですから、何かゲームを遊んでいるようなシズル感を得られるのですが--実際のところ、フィンカにおいて行われる選択は、そのほとんどが「最善手ほぼ自明」「どれを選んでも常人レベルでは結果予測不能」のいずれかに落ち着きます。結局のところ、フィンカから得られるのは「オペレーションを遂行することで盤面が進んでいくこと」こそがゲームである、というメッセージです。さらに悪意に取れば、ここがゲーマーズゲームの入口であり、さらに複雑なオペレーションを行う事でより深いゲームになる、という風にすら解釈できます。何せロンデルシステムですからね。何が深いって?

ここで抜け落ちているのは、ラベンスバーガー社のテーマでもある例の一言、 "THINK" です。ボードゲームは、世間様に対するエクスキューズとしても、そして実際に進むべき道としても、常に "THINK" に関する娯楽でなければならない。それを推進する立場にあるはずのSdJが、まさに "THINK" だけが巧妙に抜き去られたゲームをわざわざ最終ノミネートに選ぶなどとは。

あまりにも切ないので、わたくし今年から右派に転向することにします。青少年に悪影響を与える度数を「フィンカ指数」で表現し、フィンカ指数が1を超えるゲームについては、どっかの自治体かなんかに倣って悪ゲーム指定のうえ焚ゲームとさせていただきたい。--まあ幸いにして今のところ、単なるくそげーは山とあってもフィンカほどに悪影響を与えるゲームは見つからないわけですが。
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# by Taiju_SAWADA | 2010-01-02 23:26 | うわごと

日本ボードゲーム大賞09投票

5作挙げられなかったことにびっくり。もう俺はだめかもしんない。

09エッセン以降では、まだ全然遊んでないゲームばっかだけど今のところ「ハバナ」がだんとつでベスト。シュタウペえらすぎる。2番目が「ティンダハン(@フィリピーノ・フルーツ・マーケット)」、3番目に「ダンジョン・ロード」。

1. カヴァム
クラマー&キースリングが長年取り組んできたアクションポイントシステムの最終成果。「バイソン」で手にした研究成果を武器に、やりたい放題やったという感じ。ちなみにものくそ重いゲームだがきちんとドイツ的な安全弁がそっと付加されており(この奥ゆかしさが素敵だ)、純ゲーマーズゲームというわけではない。決して見た目ほど怖いゲームじゃないので、未プレイの方は是非経験してみていただきたい。

2. もっとホイップを
リメイクだが元のゲームは名前も知らなかったので今年扱いに。08-09のSdJはこれがドミニオンの対抗になると思ってた。ライトウェイトかくあるべしという傑作。

3. テネキー
すばらしい出来なのに何で誰も振り向いてあげないんだろう。08-09シーズンで最も不当に無視されたゲームのひとつだと思う。いやお前も何も書いてないじゃんと言われればごめんなさいと返すしかないのだが。みんなテネキー買うといいよ。

4. ビザンツ
08-09シーズンのAmigoは何故か突然昔の切れを取り戻したが、たぶん09-10シーズンでは元の微妙なAmigoに戻るんだろう。それはそれとしてこれは「大人になったオルネラ」のゲーム。オルネラが大人とな。信じがたいがそうとしか言いようが無い。09エッセンの「アッシリア」はオルネラというよりはイスタリのゲームみたいだし、オルネラがオルネラでいられるたのはこのゲームが最後だった、ということになるかもしれない。メジャーメーカーによるオーバープロデュースというのは今後大きな問題となりそう。エギツィアとかどうなんだろ。

5位なし


以下は09年の作品とは個人的に言いがたいので選外だが、今年扱いならベスト5の価値のあるゲーム。

(ギャラクシートラッカー)
フバキルはこのゲームを含めてドイツ系本格参入以来外れが一切無い。「ダンジョンロード」も手堅くとてもキャッチーで面白いゲームだったが、でも彼の最高傑作は前作の「スペースアラート」だと思う。スペースアラートは協力ゲームに新たな手法を持ち込み成功したゲームだ。で、さらにその前の作品がギャラクシートラッカー。いくらなんでもこれを09年のゲームというのは無理があるでしょう。

(スモールワールド)
遊びやすくなり、しかし難度は更に上がったVinci。本質的にはVinciと同じゲームだと判断したので選外。大傑作ではあるのだが、恐ろしく難度の高いゲームでもある。正直なところ、僕はこのゲームをまともに遊べている自信がまったく無い。世間での持て囃され方が不思議でならない。カヴァムなんかよりよっぽど怖いゲームよこれ。スモールワールド怖すぎるの件についてはそのうち何か書きたい。

(ドミニオン)
個人的には08年のゲーム。感想は前に書いたとおり。

(呪いのミイラ)
Casasola=Merkle信者としては当然おさえてしかるべき、また言及されるに足る出来の子供ゲーム。子供に対してもカサソラはカサソラだった。でもこれ07年のゲームじゃなかった?

(マチュピチュの王子)
08年に遊んでしまったので選外だが、本当は何も知らなかったことにして1位に挙げてしまいたい。ゲルツにとって、そしてボードゲーム界にとって「古代」以来のマスターピース。これに比べれば「インペリアル」や「ハンブルグム」は並のゲームだ(インペリアルは「古代」の最大の美点である軽さを失っているし、ハンブルグムはマチュピチュと比べてしまうと何故ロンデルと早乗りドイツゲームを組み合わせなければいけなかったかというプレゼンが薄い)。

(ルアーブル)
これも08年扱い。本質的にはアグリコラと同じところを目指したゲームなんじゃないかと思うが、アグリコラの「?」だった部分が潰されて、納得しやすいゲームになってる。あと、07年以降のワーカープレースメント全盛の中、ケイラスからそこを持ってくるかー、というローゼンベルクのセンスが素敵すぎる。

(パンデミック)
09年のSdJノミネート自体が不思議だった。07-08シーズンのゲームでしょこれ。協力ゲームとして何か新しい達成があるわけじゃないんだが、単純にわーきゃー楽しいゲーム。ここまで楽しいなら全然OK。


(1月4日追記)
あれ考えてみたらComuniって今年だよね? なんでリストに載ってないんだ? ...と思ったがもしかしてこの「コミューン」って書いてあるのがそうなのか? いや誤訳とまでは言わないが限りなく誤訳に近い訳だろこれは。イタリアの話じゃなくなっちゃうじゃん。もう投票しちゃったけどComuniがあるならこれが2位(1位でもいいんだけど。微妙なところ)に入るから5つ埋まる。よかったよかった。
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# by Taiju_SAWADA | 2010-01-02 20:44 | うわごと

no luck?

いまMac Gerdtsのゲームの和訳をやってて、ということはこんなとこで余計なおしゃべりをしてると各方面からそれはもう偉い勢いで怒られたりするのですが(このサイトの更新が全くないのは和訳ばっかやってるからですごめんなさい)、無論Gerdtsはまあ控えめに表現しても天才としか言い様の無い素晴らしいデザイナーなわけですけど、ひとつだけどうしても気に入らない点があって。彼、自分のゲームの序文に「strategy game without luck of dice or cards」って書くんですよね…それも誇らしげに。

大事なことなので何度でも言いますが、マルチプレイヤーズゲームにおいて「no luck」というのは性質の悪いフィクションでしかありません。これは2人用ゲームやn人ソロゲームとマルチプレイヤーズゲームを分ける最大のポイントで、「no luck」、すべてはテメエ次第。というのは2人ゲーム(およびn人ソロゲーム)のための言葉です。そしてマルチプレイヤーズゲームはこの言葉の否定から始まります。テメエがどんだけ喚いてもどうにもならない、第三者という名前の領域が必ず存在する。これはほとんど定義かトートロジーかというほどのもので、マルチプレイヤーズゲームを遊ぶということは、そのことを否応無く引き受けなければいけないということでもあります。否定したところで嘘にしかなりません。

いや、ただの嘘なら別にいいんですけど。嘘は必ずしも性質が悪いわけではないし、フィクションだということでもありません。問題は、マルチプレイヤーズゲーム、それもしばしばゲーマーズゲームにおける「no luck」という言葉は、2人用ゲームにおける「no luck」の含意を悪用しているということです。2人用ゲームにおいて、この言葉は「紛れの一切無い、ピュアに貴方の頭脳を試す勝負である」というストイックな競争(カイヨワがお好きなら、「アゴーン」とルビを振って頂いても構いません)の宣言を意味します。ブラフも揺さぶりもなく、あくまでデシジョン・ツリーを先まで見渡すだけ、本質的には勝負の対象としての相手もいないものとみなすことさえできる、要は自分がどこまでの高みに達したかを測定するための装置。いや、実際のところトップランクの棋士の発言なんかを見るとそこで起きてるのは全然そういうことではないみたいなんですが(むしろ彼らの言葉はマルチプレーでも同様に適用できるものであることが多いです)、原理としてはそう言える。

で、このストイシズムをマルチプレイヤーズゲームに持ち込むために、「no luck」という言葉が使われていると。luckのあるゲームは紛れのある・貴方の頭脳を試すに値しない低級なゲームであり、no luckなこのゲームは紛れの無い・貴方の頭脳を試すに値する本物の測定装置である、というね。あのー、困る訳ですよ、勝手に一人で頭脳を試されたり高みに立たれたりしても。置いてかれた四人で目配せして袋叩きにしちゃうと後で恨まれそうだし。このフィクションはそういう変な誤解をプレイヤーに与える可能性がひっじょーに高く、何と言うか青少年の教育上いろいろとよろしくありません。

どこまで行ってもマルチプレイヤーズゲームは貴方の頭脳に挑戦するピュアな測定装置ではありません。それこそ「あいつ袋叩きにしちゃおか」がいつでも成立する、下賤で野蛮で猥雑な何かでしかありません。Gerdtsの"Antike"にしても同じことで、「no luck」だってんで喜んでどれだけ先を見たところで、隣の蛮族がわけのわかんない理由で殴り掛かってきたらそれで終わりです。だからこそ、変なフィクションに引っ張られて内実の伴わない自意識を振り回すのは止めにして(2人用ゲームでなら大いにやれば良いと思います。そこには確かに内実がありますから)、仕組まれた野蛮、必要に応じてluckもdiceもcardもふんだんに突っ込んで組み上げられた猥雑の猥雑ぶりを、にやにや一緒に舐め回せばええじゃないか。わたくしはそう思うのですが。
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# by Taiju_SAWADA | 2009-12-17 01:38 | うわごと

N質

(追記有り / 8月25日)

TGIW経由で。ちゅかmutronixの人じゃん。なんで気づかなかったんだろ? Twitterばっか観てたからかな。

See → http://sanjuan.g.hatena.ne.jp/mutronix/20090731/p2

でまあ、昔から100質とか好きな子だったんで。


* 新作追っかけの是非

新旧関わらず、遊ぶ必要があるゲームだったかどうかは遊んでみるまではわかんないのです。いや事前情報で取捨選択はするですが、しかしその事前フィルタリングで間違えて落っことした傑作がいくつもあってですねー。
逆に言うと、もう遊んじゃったゲームというのは、それが何であるか大抵の場合は解っている以上、なんというか、割とどうでもいいものだとも言えます。

(追記@8月25日)
金持ってんなら落とそうぜヘイ、というのは普通にあるんですが、この問いに対する理由として持ち出したいとは思わんです。「進化」、つうほうが近いんですが、でまた実際にモノポリーと1990年代以降のゲームを比較した場合には進歩してるとも思うんですけど、見たいのは遅れてる/進んでるという一次元的な話じゃなくて、ゲームにできることの範囲を拡げるような、今までと違う物、なのです。新旧は関係ないとも言えるし、新作のほうが旧作よりこの観点では有利とも言える。尤も一方では、マーケットに媚びきった百の「新作」の表層を舐め続けるのが新しさの追求となんか関係有るのか、とも言えるのです。とはいえ目の前にある謎の箱が屑か宝かは開けてみないとわからんので、というところで設問への回答に続きます。
方法についてはそれぞれのひとがそれぞれに持ってるはずのもので、新作を買わないというだけで趣味から退場ってことは全くありません(それはそれとしてお金は落としましょうね)。ただ、いま居る場所の先にあるものとか、別の道にあるものとか、そういうものに関心がない/なくなっているのなら、それは趣味から既に退場しているんじゃないかと。


* ネットに攻略情報を書くことの是非

別に(どうでも)いんじゃね? 論点が想像できないのでパス。


* ネットに否定的な見解を書くことの是非

是非も何も大量に書いておりますがな。このことが問題とされうるのは専ら商業的な理由によるものだと思いますが、別に気にするこたないんすよそんなの。見当外れなとこから否定的なこと書いて商業的な悪影響を及ぼすので害悪、って話なんでしょうけども、それは問題の所在を見誤っていて、害悪なのは「否定的なこと書いて」の部分じゃなくて「見当外れなとこから」の部分です。見当外れな肯定的記事だって同様に害悪ですよ実際。あとは細かい問題として、なんか断定的に書いてあると前提としての「I think」を無視して読んじゃう、って人も確かにいますが、これはそう読むほうが悪い。


* ブログの利用、プレイログを何だと思っているか

これだけだと表現形式のひとつとしか。プレイログを通じてあらわしたいものは棋譜である場合もあるでしょうし、攻略過程であることもあるでしょうし、批評であることもあるでしょう。「ブログの利用」となると更に広すぎてもう何も言えません。問われているのが「ブログとは何か」ということであれば、飯野賢治とかが始めたブログ団体に関して何か楽しげな議論のようなものがあったような気もしますが、そういうことでもないんでしょうし。


* ボドゲは文化だと思っているか。思っているときの「文化」の定義

過去のエントリで散々触れているとおり、小説や音楽や以下略と同様にアート・フォームの一種だと思っています。エントリを一つ挙げるならこれかな? → http://toccobushi.exblog.jp/6679128/


* ボドゲが流行したほうがいいと思っているのか、思っているならどういう未来が理想か、誰が何をすればその未来に近づくのか

まずもって相当に人を選ぶマゾ趣味であって、あと個人的にこの趣味に対する誤解があったまま広まって欲しくはないってこともあり、素直に「流行したほうがいい」とは言いづらいです。ただ、この趣味が合う人とか、趣味になるとまでは言わなくても時折なんかの機会には触れてもいいよって人は今の分布とは全く無関係に薄く広く偏在してると思うので、そういう人がそういう時に手にするのが人生ゲームとかウノみたいなどうしようもないものではなく、例えばカタンやコロレットであってくれればいいな、と。誰が何をすれば…ってのは、今となっては回答するのは立場上難しいです。これについては何か喋るのではなく何かすることで示さんといかんよね、ということで。


* 日本のメーカは頑張るべきか

これも立場上回答が難しいですが、できれば焼畑農業は止めて欲しいなー、とは思います。変な灰が降ってくるから。それ以上のことは何も。


* 未プr…もとい、Web上での情報交換のあるべき姿

過去のエントリで触れてます。 → http://toccobushi.exblog.jp/7147797/


* 自分の趣味の本質はなんだと思っているか

自分の、というより一般論として、 fandom is a way of life, ってくらいのとこまで突っ込まないと趣味とは言えませんことよ。と思っているので、趣味を作りましょう的な言説には強烈な違和感があります。
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# by Taiju_SAWADA | 2009-08-17 01:43 | うわごと

触れる幻想ところによりディリュージョン

テレビゲームの偉人であるところの宮本茂は「さわれる映像」という名言を残していて(※)、ほんとテレビゲームってそういうものだよねと思うわけで、ここでは割と意図的にボードゲームをそういうのとは違う領域にあるものとして扱っていたのですが、実際のところ商業的な領域ではボードゲームにしても当然のように触れる映像的な部分が最も重要になります(映像じゃないけどね)。

それだったらメルクリンとかボトルシップとかミニチュアとか良い物がいっぱいあるよというのが「個人的な」感想ではあってあんまり興味もないんですけども、とはいえこの領域でもボードゲームには確かに「触れる」という部分に優位性があります。インタラクティビティの中でストーリーを進めることができる、というのは、テレビゲームが映画で代替できないのと同様に、ガンプラでは代用できない何かではあるのです。

ただテレビゲームならそれでいいんですが、この観点を取った場合のボードゲームには残念なことに致命的な欠陥があります。というのは、ボードゲームのインタラクティビティというのは、本物のインタラクティビティなんです。

本物のインタラクティビティの何が悪いかって、コントロールがそうそう効かないことで、プレイヤーの妄想を都合良く叶えてはくれないんですね。いま必要なのは自分のストーリーを進めたり補強したりする手段としてのインタラクティビティであって、生々しい他者ではないんです。

(そこいくとテレビゲームはオンラインだったり対戦だったりしない限りは作者がプレイヤーひとりひとりに対して提供するものなので、基本的には全てのインタラクティビティをプレイヤーに奉仕するためにデザインすることができます。)

例を挙げれば、たとえばエルフの王子が国中を旅することで他の王子との競争に打ち克って見事に次の王となるのでした、みたいな一大叙事詩を描くにしても、これをボードゲームにしちゃうと、かなりスラップスティック気味にみっともない争いを繰り広げた挙げ句、六人のうち五人は競争に敗れてどこかに去るってことになります。そりゃこれだって立派な一つの触れるストーリーではありますけれども、プレイヤーの当初の期待とは随分違うものでしょう。

二人ゲームならシンプルに相手より強ければ勝てるし実力イーブンでも五割は勝てるというのでマルチゲームよりは幾分ましですが、それにしたって友情は全カット・努力・相手を踏みつぶして勝利!という超絶マッチョなストーリーしか表現できず、それも実は本気で勝利を目指して最善を尽くすためには相手を踏みつぶすのとは微妙に異なるせこいルートを通らねばならんので思ってたのとなんか違うなー、という結果が容易に出現します。

近年、インタラクションをぼかしてみたり、あるいはもっと直裁に協力ゲームにしてみたりという傾向が強まっていますが、これは上記のような背景による商業的な要請と考えられます。ただインタラクションをぼかしたところで根本的な勝ち負けのところまではどうしようもないんで、最終的には商業デザイナーは協力ゲーム(的なもの)となんとかして向き合っていかないといけない、ということになるんじゃないでしょうか。問題は、我々は未だ協力ゲームのためのインタラクションを発明したとは言えない状態にあるってことですが…それともそんなもん発明するより適当に誤魔化してったほうがプレイヤーには幸せなんでしょうかね?

(※元は講演での発言らしいですが、出典確認できませんでした。活字では2003年「ファミリーコンピュータ 1983-1994」のインタビュー記事のタイトルが「『触れる映像』を目指して」となってます。ただ、インタビュー自体には、意味内容としてそういうことは喋ってますが、それそのものの発言はありません。2003年時点で既に有名な言葉だったということですね)
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# by Taiju_SAWADA | 2009-08-09 23:24 | うわごと

コメント欄とじました

いつか炎上するまではコメント欄残しておこうと思いつつウェブログを放置している間に大量のスパムコメントに埋もれてこれはどうしようもないという気分になったので、今まで何か書いてくださった方にはたいへん申し訳ないんですがコメント欄閉じることにしました。トラックバックは相対的に管理可能な感があるので残してます。これからは、ちょっとしたコメントを書きたい方は、えーっとどうしよう、じゃああれだ、お手数ですがはてなブックマークにどうぞ。できるだけ見るようにしますんで。
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# by Taiju_SAWADA | 2009-06-10 23:24 | 更新通知

アサクサについて

ゲームマーケット2009においでになった方はご存じかもしれませんが、パンフレットに「アトランティックシティもアサクサも」というおまけゲームがくっついてまして、これはぼくが作ってくっつけてもらったもので、まあそれはいいんですが良く見ると「ゲーム時間:2時間」と書いてあります。長えよ馬鹿。

なんでこんな長くなったかというと単純に調整の不足の問題でして、最初にルール書いたときは「1時間くらいかな」と思ってたのですが、いざテストプレーしてみると2時間かかっちってあれー? という。そしてその頃にはすでに締め切りも迫っており、この時期から1時間に刈り込むよりは2時間ゲームとしてまとめたほうが安全なんじゃないかという判断でそういうことになったのでした。

ただ時間構造がそんなに強いゲームでもないので(無いわけじゃないですが)、当然ながら刈り込めるなら刈り込んだほうがよいわけです。

ということでちょっと考えてみました。

****

・単純にストックの数を削れば時間はその分だけ短くなるので、現行の「手持ち9-ストック11(実質手持ち10-ストック10)」スタートから「手持ち9-ストック9(実質手持ち10-ストック8)」に変更

・そうすっと仲見世が意味が無くなるので、仲見世は潰す(止まれないマス扱い)。仲見世のない浅草ってどうなんだろう。

・単純にマスの数を減らせば時間は以下略なので、仲見世以外にも使わないマスを用意する。具体的に言うとまず遊園地を廃止。但し、Hand-1が無くなるのは寂しいので、演芸場はHand+1とHand-1の両方の機能を持つ(止まる度にどっちか選べる)ようにする。残りは「通り」「神社仏閣」「特殊」の3種類のうち2つ選んで、それぞれ1マスずつ任意に選んで潰す。つまるところ16マスで構成。3人ゲームでも同様に、このルールで16マス選んで構成。

・4人ゲームの場合、終了ボーナスは1マス分ずつ下にシフト。4マスで5点、9マス以上で100点。

****

理屈上はこれで75分サイズにまで落ちるはずなんですが。どうでしょう。

あとついでに、最近赤貧に喘ぐゲームが流行のような気がしているので、こんなオプションルールも。

・Go通過時の税金は1駒あたり金1ではなく金2にする。かわりに、初期所持金を20から30に上げる。
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# by Taiju_SAWADA | 2009-06-10 23:08 | 創作関連

Fandom is a way of life.

SFファンの世界には fandom is a way of life という言葉がある、とどこだかで読んで。あー確かに凄いもんねえSFの人たち、まあ俺には関係ないわけです、と素通りしたり。あるいは学校のゼミで後輩がコミケのスタッフやってていつも忙しそうにしてるのを眺めてはいやあ fandom is a way of life, たまにウェブサイト更新するだけのわたくしと違って引き返せないようなとこまで踏み込んでおりますなあ、と面白がっていたんです。が。

なんか気がつくと、昔から見てたウェブサイトの人だったりゲーム遊んでた知り合いの人だったりがそれぞれみなさん何だかのっぴきならないことになってて、ううむこれは何かただならぬことに事態が進行しつつあるのではないか、どうしたもんかねえ、と呟いて後ろを振り向くとそこにはもうあまりにもべったべたなお約束、バット持った仮面の男が凶悪な笑いを浮かべて曰く。

Fandom is a way of life.

頭部をぶっ叩かれて気がつくと足首を掴まれ引き摺られつつ、お読みの皆様にご忠告申し上げますが、ちょっとした暇つぶしーとか言って趣味のブログを立ち上げたりしてると後でえらい素敵な目に遭わされちゃったりするかもしんないっすよ。その言葉の重さを噛み締める頃には大概もう手遅れなんですがね。

まあそれはそれで一つのきっとたぶん素敵な人生。しらねえけど。
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# by Taiju_SAWADA | 2009-02-23 22:48 | うわごと