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ボードゲーム読書会というのをやってます

サイトを一年以上堂々放置してtwitterにしか書き込まなくなっているわけですが、twitter以外なにもやってないかというとそういうわけでもなく、「ボードゲーム読書会」というのを共催でやっています。

http://www.boardgamereaders.com/

英語とか日本語とかで書かれたゲームの本を読んで内容をプレゼンするというシンプルな内容の読書会で、東京は高田馬場で月一回ペースでやっております。読んだものについてはハンドアウトを作ることになってて、ハンドアウトが読書会のたびに(つまり月一ですね)アップロードされております。

このサイトでGarfield et al. "Characteristics of Games" (2012) のレジュメを一部だけ上げたことがありましたが、あんな感じの活動です。


というわけで、わたくしは死んだわけではなく、ウェブ上からいなくなったわけでもなく、twitterでスプラトゥーンのことについてなにか呟くだけのbotになったわけでもないのです。以上よろしくお願いいたします。


# そもそも2014年というとParanoiaの翻訳をやってた時期なので、個人的にはむしろゲーム絡みで忙しかった印象のほうがつよいのですが
# by Taiju_SAWADA | 2015-08-09 01:22 | サイトについて

俺とバントゥと著作権

まず何よりも言っておかないといけないのは、Bantuは本当に素晴らしいゲームだってことです。

以前テンデイズゲームズの田中さんにお誘い頂いてごく短いレビューを書かせていただいたことがあって、そこで述べたことのくり返しになりますが、バントゥは「一人多数駒持ちのサイコロ/カード運なし多人数双六」のジャンルに含まれるゲームで、このジャンルにはクラシックである「うさぎとかめ(ハリネズミ)」「ビラボン(ビラボング)」「大競技場(古代ローマの新しいゲームに収録)」「ブレーキング・アウェイ」とそれぞれに独特の魅力を持った傑作がいろいろあるんですが(ブレーキング・アウェイは同時プロットなので本当はちょっと違うけど)、その中でもこのBantuは最古の部類に入る名作です。最古の、というのは私が勝手に言ってるんではなく、「うさぎとかめ」の作者にしてゲーム研究者であるところのデビッド・パーレットが自分の先行者として「たぶんBantuくらいしかない」と著書Oxford History of Board Gamesで述べています(まあハルマはどうなんだとかありますけど、パーレットの扱いではこのへんは別ジャンルになってます)。

同じジャンルっても魅力は様々で、「うさぎとかめ」なら細かい出し入れの計算とそれが微妙な思惑で崩される時のマゾ快感、「ビラボン」ならパズル的な発見、「大競技場」はマルチなブロッキングゲームとしての達成、「ブレーキング・アウェイ」はラインの形成からいつ前に出るかの自転車レース的駆け引き、ということになるかと思いますが、じゃバントゥはどこが楽しいのかというと、「ヒット」という無体な概念による追うものと追われるものの絶えざる逆転、が産み出す緊張感、そこに絡まるマルチゲームとしての特性、ということになるでしょう。

このゲームはおそらくバックギャモンを下敷きにして作られていて、何よりもヒットてのはバックギャモンの概念です。このゲームが偉いのは、2人用のバックギャモンがあれで成立しているところを安易に多人数向けに拡張することをしなかった、というところで、バックギャモンのヒットがもたらす逆転の楽しさというのは、まずあれが2人ゲームであって確率計算が全てを支配する閉じた緻密な世界だということ、互いに相手陣営に切り込む中という形式によって保証される「相手の全ての駒を通過しなければならない=駒をヒットしたあと、その駒を逃してしまったらこっちにもう一回やってくる」という緊張感、あとは緊張感が無くなったら(無くなる前でも)いつでもダブリングキューブでゲームを切り上げられる割り切った構造、といったところで担保されています。でもこれを黙ってマルチに持って行ってもしょうがない。まず何よりも、マルチというのは2人ゲームではなく、緻密な確率計算が今ひとつ役に立たない世界です。ファミリーゲームとしての制約を考えるとダブリングキューブというのも難しいでしょう。で、じゃあ代わりにどうするか、というところで持ちだされたのが「サイコロ/カード運なし、位置関係で移動力を決定」というルールで、つまり多人数ゲームの揺らぎの中でヒットが発生するんだから、ヒットされるか否かの不確実性の根拠も多人数ゲームの揺らぎのところにのみ求めるべきであると。誰かの駒が抜けだした時にこれをヒットできるかどうかは、他のプレイヤー同士が協力できるか、また協力すれば捕まえられるのかどうか、協力が可能なインセンティブ構造になっているか、といったところで決まります。当然、自分の駒を抜けださせるか否かも、そのへんの構造を分析して決めることになるわけです。で、その分析が正しいか抜けがあったか。バックギャモンにおいては確率計算で発生する状況分析の巧拙が、ここではマルチゲームの性質に合わせて綺麗に置き換えられています。

このゲームのマルチ的な素敵な嫌さはもうひとつあって、株ゲームとかではお馴染みの一抜け構造です。同じ所にみんなが集まってくると価値ががんがん上がっていきますが、どこかで誰かが頂点とみなして一抜けするとその人が一番儲かり、あとはその集団が瓦解していくだけ、という、まあどこでも見かけるやつですね。バントゥではこの構造が駒の移動歩数決定ルールにそのまま適用されていて、一番高いところで抜け出したい(「一番高いところ」の判断自体はこのゲームではほぼ自明です)、でも別のところでの一抜けゲームとか、何よりも前述のヒットをめぐるマルチ構造とかあって、さあどれを優先しよう、というところでジレンマが働いている。バントゥはこの両輪で回っています。この短いルールで、いや短いルールならではのというべきでしょうが、焦点の鋭い合い方。見事なもんです。

で。なんですけどね。

こんだけ言っておいてアレなんですが、バントゥって絶版なんですね。それも激レアとまではいかずとも、Boardgamegeekに出物があることはあんまり無い程度にはレアだったりします。えー勿体無いよ出そうよ、というので、おまえ版権取ってくるなら出してやってもいいよ、わかりましたじゃあ版権交渉してきます、と。

とりあえずまずは真っ直ぐ、元の発売元であるところのパーカー・ブラザーズ、現在は買収されてるのでハズブロ、にメールでお伺いをたててみるのですが、これが何度送っても返事なし。ええい大企業め。さて困ったどうしよう、というので調べてみると、なんか過去にBantuの私家版を出したひとというのがいる。その人にメールを出して話を聞いたところ、別に私家版を出すときには版権交渉とかはせずに勝手に出してて、何でかというとどっかの雑誌(具体的に言うとGames Internationalの4号)に「みんな勝手に私家版つくるといいよ」って書いてあったからだという。

その記事を確認できれば俺も私家版つくれるのかな、っていうか他にも私家版作ってる人いるのかな、ってんで、その記事を探したんですが、これが全然見つからない。どこにも売ってないし図書館にもない。うーん。じゃあ他に私家版作ってる人は? 探してみるとフランスでオンデマンド版を出してる人がいる。でもちょっと待て、これは私家版ってレベルじゃなくてコピーだし「©Parker Brothers」とまで入ってる。法律的にこれいいのか? もしかしてなんか抜け穴とかある?

ということで改めて著作権法を確認してみます。この著作権法というのが恐ろしく厄介な代物なんですが、ひとつ抜け穴としてあるのが、「翻訳権の10年留保」というものです。これは発表から10年以内に翻訳が出なかった場合、翻訳権が消尽してだれでも好きなように翻訳物を出版できる。という何だか恐ろしいルールで、1970年以前の日本など一部の国(まあイメージ的には「未開の国」ですかね)においてのみ適用されています。バントゥは1970年より前の発売で、もちろん日本語訳なんか出てませんから、少なくともルール部分についてはこれでOKということになります。問題はボードのほうで、もちろん絵の見た目は変える必要があるわけですが、ボードのグラフ構造が図形の著作物としての保護対象になるかどうかというのは相当な議論になりそうなところで、もし問題になるとあれだからマップは自分たちで変えてだそうか、みたいな話をしておりました。

でもフランスには10年留保ないのに普通にパーカーの著作権表示つけて出してるよね何で? 版権ちゃんと取ったとか? まさか。もしかして他にもまだ法律の何かが、というのでもう一度改めて著作権法を見直すと、ああ、これだビンゴだ、「団体名義の著作物」。Bantuは「©Parker Brothers」となっており、作者名のクレジットもイラストレーターのクレジットも無く、実際だれが作ったとも知られていないので、これはつまり完全に団体名義の著作物と言えます。でもって団体名義の著作物の保護期間は、日本だと公表後50年。バントゥはアメリカの著作物なのでアメリカ国内では発行後95年ですが、日本国内における著作権については(日本のが保護期間が短い場合は)内国待遇になるので公表後50年がそのまま適用されます。戦前の著作物だと戦時加算がどうとか面倒な話もありますが、バントゥは戦後のゲームなのでそれもなし。そしてバントゥの公表年は1955年。つまり、日本では、保護期間、切れてまーす。やったー。

ということで無事著作権的な問題がクリアされたので、日本でバントゥ出せることになりました。ちなみに商標は切れてるというより元々登録されていないみたい。もちろん日本で著作権が切れてるってことは、日本では誰が出したり作ったりしようと勝手なわけで、出版者に金なんか落とさず遊びたくなったときに自作すりゃいいってことでもあり、正直私としては自作派の方々に対して含む所は何もないんですけど、自作とかちょっと面倒くさいという方々におかれましては、(私ではない製造者が)何とか手間賃以上のものに仕上げるはずなので、ひとつよろしくおねがいします。そのうちハナヤマとかのn in 1系玩具(ダイヤモンドゲーム=チャイニーズチェッカー=Stern Halma、とかコピット=Fang Den Hutとか入ってるやつ)に収録されたりするとちょっと面白いですね。

ところでフランスだと団体名義の著作権は発行後70年ってなっててまだ保護期間切れてないんですけど…


***
追記(June 8)
バックギャモンよりもパチーシって気もするなー。形態的にはパチーシのほうが近いし。でも位置取りの悩ましさで言うとパチーシよりずっとバックギャモンなんですよねえ。バントゥ日本版が出て遊んだ人もちらほらいらっしゃるでしょうが、どっちだと思います?
# by Taiju_SAWADA | 2014-04-01 00:26 | 雑題

コースター宣言 The Coaster Proclamation of 1988

http://www.spieleautorenzunft.de/coaster-proclamation.html より】


1988年2月2日、ニュルンベルク・トイフェア中に開かれた、所謂「ホロホロ鳥の夜」。 この夜の Reinhold Wittig の呼び掛けにより、翌日13人の著者が「我々は、箱に著者名を記さないメーカーには自分のゲームを渡さない」とする宣言に署名したのです。

【画像】
http://www.spieleautorenzunft.de/system/html/Bierdeckel-Proklamation-df14f673.jpg

署名したのはコースター左上から縦に、Reinhold Wittig, Helge Andersen, Hajo Buecken, Erwin Glonegger, Dirk Hanneforth, Knut Michael Wolf, Wolfgang Kramer, Joe Nikisch, Gilbert Obermeier, Alex Randolph, John Ruettinger, Roland Siegers, そしてもう一人は誰なのか判別できていません。




「ホロホロ鳥の夜 Perlhuhn Night」についての注

Perlhuhnはドイツ語で「ホロホロ鳥」の意。但しここでは、 Reinhold Wittig が運営する個人運営ゲームメーカー「Edition Perlhuhn」を指す。


署名者について

Reinhold Wittig
前述のとおり、個人運営のゲームメーカー Edition Perlhuhn の主宰者。Edition Perlhuhn は Wolfgang Kramer「アンダーカバー Heimlich & co」(1984) の最初の出版元として有名。ゲームデザイナーとしての代表作に Das Spiel(1980。現在でもAbacusspiele版が入手可能)。

Helge Andersen
1980年代後半に活動したゲームデザイナー。Franckh(現在のKOSMOS)から複数のゲームを出版している。1980年代の Franckh=KOSMOS は Edition Perlhuhn と関係を持っており、「Edition Perlhuhn シリーズ」というレーベルを立てて複数のゲームを出版していた。

Hajo Bücken
子供ゲームの分野を中心に活動するゲームデザイナー。代表作に Coco Crazy (1992, Ravensburger)。 2000年代以降はHaba社との仕事が多い。

Erwin Glonegger
ゲーム批評家。Ravensburger社のディレクターとして活動。著書に Das Spiele-Buch (1999, Drei Magier).

Dirk Hanneforth
子供ゲームの分野を中心に活動するゲームデザイナー。Hajo Bückenとの共作が多い。

Knut Michael Wolf
ゲーム批評家、ゲームデザイナー、デベロッパー。とりわけ、ドイツゲーム賞 Deutscher Spiele Preis やゲーム展示会 Essen Spiel の母体となったゲーム誌、 Die Pöppel-Revue の創設者として有名。現在は主に Spielbox 誌で活動。

Wolfgang Kramer
ゲームデザイナー。説明は不要と思われるので省略。1988年に Franckh=KOSMOS の Edition Perlhuhn レーベルから フォルム・ロマヌム FORUM ROMANUM を出版している。

Joe Nikisch
Abacusspiele社の共同創設者。ゲームデザイナーとしても複数の作品がある。

Gilbert Obermeier
不明。→【追記 11/6】おそらくGilbert Obermairの誤記。Gilbert Obermairは70〜80年代に活動したゲームデザイナー。代表作に Black Vienna (1987, Franckh).

Alex Randolph
ゲームデザイナー。説明は不要と思われる。代表作のひとつ「ハゲタカのえじき Hol's der Geier」や「インコグニート Inkognito」はこの時期の作品。

John Rüttinger
不明。→【追記 11/6】Table Games In the World の小野さんより、 Drei Magier 社の創設者 Johann Rüttinger の誤記ではないかとのご指摘がありました。

Roland Siegers
ゲームデザイナー。主に1980年代に活動。代表作にマングローブ密林からの脱出アビリーン Abilene (1983, Hexagames)。 比較的最近の作品としては カフェインターナショナル・カードゲーム Cafe International Das Kartenspiel (2001, Amigo) などがある。



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Spielmaterialの中の人であるHarald Mueckeさんは「SAZ Spiele-Autoren-Zunft e.V. ゲームデザイナー協会」というところの会長をやってた(まだやってるのかな?)んですが、Spielmaterialから駒を買った時に、SAZがやってる「ゲームにも著者がいますよキャンペーン」への協力を依頼されて、じゃあとりあえず日本語訳でもやりますよ、とか調子のいいことを言ったきりずーっと(年単位で)放置していたのをなんでか(じゃないな。TwitterのTimelineからの連想で)今思い出したんで、いまさら和訳してみました。そのうち他の文章も訳します(とかまた調子のいいことを…)
# by Taiju_SAWADA | 2013-11-06 00:19 | 雑題

捏造ドイツボードゲーム現代史に関するプレゼンのおしらせ

一年半くらいまえに「捏造ドイツボードゲーム20年史」というのをこのサイトで書いたのですが、これについて何か喋ることになりました。
「SF乱学講座」という公開講座にお呼ばれして、6月2日(日曜)、午後6時15分から東京の高井戸区民センターにてプレゼンテーションを行わせて頂く予定となっています。

SF乱学講座は、公式サイト(http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/about.html )によれば「科学を中心とする各方面の常識を勉強しようという目的で始まり、もう15、6年続いている公開講座」(※)なので、いかなる意味においても常識ではない(なにしろ捏造だし)捏造ドイツゲーム現代史の話が相応しいかというと私の口からはなんとも言えないのですが、それはそれとして。この講座のメインスタッフである草場純さん(ゲーム史家/ゲームマーケット創設者)からお声がけ頂き、こういうことになりました。
(※)この文章の奥付は2004年となってます

書いた内容と同じ事を繰り返すのはいかにも寂しいということと、頂いている持ち時間がかなりあるので、周辺のこととかああいうことを書いた背景について盛ってみようと考えています。現時点で予定している内容目次は下記の通り。2週間前の現時点でまだドイツまでたどりついていません。どうしよう。それ以前にひとまえでまともに喋れるんだろうか。

・前振り
  ・ユーロゲーム/ドイツボードゲームとは概ねどんなものか
  ・なんのために現代史が欲しいか
  ・どんな観点で現代史を作ることにするか
    ・近現代のマルチゲームとポリティクス
・プレヒストリーを駆け足で
  ・ユーロゲーム以前
     ・伝統ゲーム由来の近現代ゲーム
     ・モノポリー
     ・リスク、ディプロマシー
     ・タクティクス
  ・ドイツゲーム以前のユーロゲーム
     ・3Mとサクソン
     ・70年代イギリス
  ・勃興前夜(~80年代中盤)
     ・ドイツのゲームメーカー
     ・ジャーナリズム
     ・スコットランドヤード
・本題
  ・スタイルの確立、クラマー/トイバー/クニツィア(80年代後半~90年代前半)
  ・カタン、エルグランデ、Jay Tummelson(90年代後半)
  ・Boardgamegeek、プエルトリコ、拡散(2000年代前半)
  ・二極化、反ポリティクス、アメリカ、時代の終わり(2000年代後半)
  ・現在
  ・未解決の諸問題


※「ポリティクス」などの語の用法は概ね Richard Garfield 他 "Characteristics of Games" (2012) に従いますが、特段この本の内容を話の前提にはしません
※「プレヒストリー」の部分は、概ね Stewart Woods "EUROGAMES" (2012) から必要な部分だけ取り出す形になる予定です
# by Taiju_SAWADA | 2013-05-19 23:46 | 雑題

Characteristics Of Games 3章のレジュメのようなもの

ひきつづき Characteristics of Games 3章のレジュメです。
(現在、読書会の2時間半前。間に合った!)

4章はぼくの担当ではないのではここにはレジュメはあがりません。
あがったらリンクは張ろうとおもいます。

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3章 インフラストラクチャー

概要

・ルールってのはそこまでゲームそのものではないですよ
・一階のルールと二階のルール
・ルールうざい。とくに長いルールうざい
・標準のありがたさ。あんまり新しいってのも考え物ね。
・ゲームの「結果」っていろいろあるよね。とくにマルチだと。
・終了条件と最終評価。金を賭ければ全て解決メソッド。
・非対称性について。あと道具とか。
・官能性のおはなし



ルール

ルールは何によって執行・強制されるか。
・プレイヤー
・審判
・環境(物理環境、プログラム)
この観点を考えると、ルールというのは「ルールブックに書かれたルール」よりも広い。

さて、ではルールはプレーにどれくらいの影響を与えるか。

まず、「ルール=ゲーム」ではないことを確認しよう。バスケの細かいルール変更があったとして、その前後で「バスケ」は別のゲームなのか? そうではない。
また、何かゲームをスポイルするような有力な戦略があったときに、これを塞ぐようなルール変更が行われることも多い。これはつまり、ゲームのコンセプトが先で、このコンセプトに沿ってルールがあるのであり、その逆ではないということだ。

この前提に立つと、ルールの中にはゲームの本質に関わる「一階のルール」と、初めてプレーするときにはべつに知らなくてもいいような細則「二階のルール」がある、ということも言える。むろん、一階のルールの中にもより重要なものとそうでないものがあり、また、MTGのカードのように「出てきたときだけ重要」というものもある。


ゲームの障害としてのルール

コアゲーマーやデザイナーほど忘れがちだが、もちろんルールは良くないものであり、短ければ短いほどましなものだ。1ページより長いルールを読みたがるプレイヤーなどそうはいない。
デザインの過程やルール調整の段階で問題が起きたとき、ルールを追加することで解決しようという方針は危険だ。特に一階のルールを加えるのはよくない。

別のトピックとして、あるコンセプトのために設けたルールが、それとは別の方向に(あるいは真逆の方向に)機能してしまうことがある。特に反則のルールに顕著で、「AをしたらXという罰則」は「Aをしてはいけない」にはならず、「AをしたらXという結果を産む」でしかない、ということは意識しておかないといけない。



標準

ルールを覚えるのは難しく、ヒューリスティックス・ツリーの構築も大変なので、すでにプレイヤーに広く受け入れられた「標準」を採用しよう、という話になる。標準はキーアサインから勝利条件まで多岐にわたる。また、素朴な見方を取れば、「ジャンル」とは標準の集まったものである、と言うこともできる。そのジャンルのプレイヤーはそのジャンルに共通で使える知識とヒューリスティックス・ツリーを持っていて、最初から快適に遊べるわけだ。

この「標準」の採用について、創造性の欠如だと文句が出ることも多いが(紙のゲームの世界ではそうでもない)、「標準」によってプレイングに快適さがもたらされているのであり、「創造的」でありすぎることは、この快適さを壊すことにつながる。当然、商業的失敗をもたらすことになるだろう。創造性の導入は、それがゲームにデメリットを超えて多くのメリットをもたらす場合に限って、採用されるべきだ。そもそも、ジャンル最大のヒット作はそのジャンルを創造したゲームではないことのほうが多いのだから。

ちなみに、あるジャンルの標準を別のジャンルに持ち込むことで、おもしろい効果が生まれる場合があるので、留意しておこう。



結果

2人ゲームの結果というのはたいてい、どっちかが勝ちもう片方が負ける、あるいはドローということになる。一方、2人ゲーム以外の世界では、結果にもいろいろある。
(非正統ゲームでは定義からして当然そうで、プレイヤーが自分で目標と評価を決めるものだったり、非電源系だとコミュニティでそれが定められたり。とはいえここでのメインは正統ゲームの話)

・1人ないし1チームの勝ち
・1人負け
・何人(何チーム)かの同盟による共同勝利
・ランキングづけで評価
・スコア(タイムとかふくむ)評価
・あとはドローの有無
(相互排他でないので注意)

こういう結果の定義はシステミックなものだと思われるだろうが、実際のところは相当にエージェンシャルなものを含む。ルールに何も書いてなくても、人は一位をとりたがる。

こういう結果の定義は、当然ゲームのポリティクスに大いに影響する。
1人勝ちなら負けてるプレイヤーはギャンブルに出るし(これはポリティクスじゃないけど)、キングメーカー問題も強くなる。
全員負け、の存在するゲームでは、2位に着くのがいいのか全員負けのほうがいいのか、という順位評価の問題もあるだろう。
1人負けのゲームだと、ターゲットを1人選んで残りの全員で殴る蹴るの暴行、ということが起きる。これは1人負けものだけでなく、負け抜けのある長いゲームでも起きる問題で、適当なところで「残った全員が勝ち」みたいな協議終了になったりする。共同勝利のゲームは「勝ち馬に乗る」ゲームであり、言うまでもなく極めてポリティカルだ。

こういうポリティクスを抑止する最も便利な方法は、既出の通り、金(ないしそれに類する利得)だ。金が支配する世界では、誰もが気にするのは順位ではなく稼ぎということになる。
金そのものではなくとも、スコアそのものに価値がある世界では、ポリティクスの問題は軽減される。


引き分けについて:
とりわけ正統ゲームでは勝者の発生を期待してプレーしている側面があるので、引き分けは不満が起きることもある。ただ、実力をきれいに反映する種類のゲームでは、引き分けが正当、ということもあるだろう。
引き分けありのゲームで注意しないといけないのは、負けかけているプレイヤーが引き分けに簡単に逃げ込めすぎるようだと興ざめになる、という点だ。



終了条件

正統ゲームというのはどこかで終わって勝者が決まる。終わり方には大きく2通りある。
・誰かが勝利条件を満たして終わる
・終了条件が満たされてゲームがおわり、その時点で誰が勝ちか評価される
勝利点的なものがあるゲームだと、後者が採用される事が多い。

終了条件は否応無く勝手にやってくる場合もあれば、プレイヤーが操作できる場合もある。後者の場合、勝ちプレイヤーは終わらせようとするし、負けプレイヤーは引き延ばそうとする。これは良い効果も悪い効果も生みうる。

ちなみに1人ゲームでは、テトリスのように「勝ち」が存在しないものもある。こういうものに不満が上がることもあって、2周目の概念がでてきたりエンディングができたり。


多重トラック制

スコアがスコアを再生産するモノポリーのようなゲームだと格差が雪だるま式に膨れ上がる。対して、ユーロゲーム的な「金と勝利点」式のアプローチがある。ユーロゲームほど明示的なものでなくても、囲碁における「地と厚み」のジレンマもこれに類するものと言えるだろう。これには利点がいろいろある。
・ビハインドを負ったプレイヤーが追いつきやすい。
・戦略的な選択肢を追加できる。
・ゲームの結果も接戦になりやすい。「あと1ターンあれば逆転できた」みたいなことが起きる。
・負けたとしても、「いや金では勝ってるから」的な慰めになる。



勝利条件

勝利条件にもいろいろある。勝利条件を適切に設定することで、ゲーム上の問題を解決できる場合がある。たとえば「相手の殲滅」を条件にすると互いに相手の陣地に攻め入ろうとせず膠着するところ、「マップ中央の拠点を支配下に置く」だとまともに組み合ってくれるとか。
勝利条件を複数持たせる手法もある。戦略の深みとリプレイアビリティをもたらすが、かわりに複雑化を招く。また、異なる勝利条件の間でバランスを取ることも必要になるだろう。(ゲームの穴を塞ぐために勝利条件を追加するケースではこの限りではないが)

勝利条件は必ずしも全員同じとは限らない。極端な例では勝利条件を自分しか知らないということもある。ヒストリカルシムのように大局的な勝敗がすでに決まっている状況からゲームを開始する場合、ゲームとしての勝敗をフェアに保つためには非対称的な勝利条件を設けるのが普通だ。



ポジション的非対称性

ほとんどのゲームは初期状態に関して非対称性を持つ。RPGでは種族が違っていたりする。また、2人ゲームでは先手と後手がある。完全同時プレーでないかぎり、厳密な意味での対称性は確保できない。
むろん、スキルの低いプレイヤー同士では、チェスの先手後手というのはほとんど非対称性とは無関係と行ってよく、そのレベルであれば多くのゲームは対称的であるとも言える。とくに古典的ゲームでは大きく非対称的なゲームは珍しいが、最近のゲームでは非対称性をフィーチャーするのがトレンドともなっている(Quakeみたいな対称的FPSは現在では少ない)。
非対称性の特殊な例として、用具の違いというものがある。通常のゲームではこれは許されないことが多いが(MTGみたいなものを例外として)、スポーツではたいてい、一定の制限の上で認められている。

対称性が望ましいようなゲームにおいて先手後手的な意味での非対称性がある場合、スタートプレイヤーを交代していくことで調整する手法は広汎に見られる。後手にハンデを与える手法もある。コンピュータゲームでは同時プレーが可能なので、おおむね非対称性は初期状態に関するものに限られる。
ゲームないしアトムが短ければ、複数回プレーすることで非対称性の解消を図れる。長いゲームでもリーグなどのキャンペーンを行うことはよくある。



官能性

ゲームにおいて五感に訴える側面は重要な要素だ。ここで押さえておく必要があるのは、ゲームのインターフェースにおける官能性の利用に関して、「美的側面」と「プレイサポート的側面」の2軸があり、この2軸は時に対立を招くということだ。
インターフェースと美についての問題は別途一冊の本が書けるほどのトピックなので、ここでは感覚的にいくつかのポイントを挙げるにとどめておく。

視覚
ゲームのビジュアルが悪くなるのは、複雑にしすぎたせいだということが多い。ゲームのビジュアルを「改善」すると、もとのものより悪くなっているというわけだ。

聴覚
特にコンピュータゲームでは聴覚の利用が著しいが、非電源系でも、ポーカーチップを置くときの音やボクシングにおけるボディコンタクトの音、スポーツイベントにおける観衆のうなり(勝敗にすら影響を及ぼす)など、聴覚が重要な役割を果たす。
聴覚は意識しているよりも無意識下に影響を及ぼすことが多い。官能性を抜きにしてゲームシステムを評価できると自分では思っているゲームデザイナーでさえ、実際には聴覚から自由ではないことが驚くほど多いのだ(音を消してコンピュータゲームをプレイしてみよう)。

触覚
チェスの駒の重み、シャッフルするカードの手触りなど、非電源系ゲームでは触覚の喜びを良く利用している。ダイスなどは最たるもので、ほとんど単にダイスを振り続けることのエクスキューズでしかないようなゲームすら少なくない。
コンピュータゲームではこの分野の利用は遅れていたが、最近では専用コントローラーやWiiリモコンなど、状況が変わりつつある。

嗅覚
コンピュータゲームやボード・カードゲーム等では嗅覚はあまり重要な要素ではない(が、本や箱を開けた時の匂いはみなさん嫌いではないでしょう?)が、スポーツでは匂いにも役割がある。つまり野外の匂いであり、人や動物や用具の匂いだ。

味覚
ワサビ寿司ロシアンルーレットみたいなものを除いては、味覚が問題になるのはスポーツでひどい目に遭ったときくらいしかない。

操作感
ゲームに対して何らかの入力を与えると、ゲームの環境がそれによって影響され、何らかの反応を返す。この反応がプレイヤーの予想と一致していたり驚きをもたらしたりすることで、プレイヤーに喜びを与えられることがある
チェス駒を前に進めようとすることで、チェス駒が前に進むとか、単に自明であるということもあるが、それでも触覚の問題でこれが良い感触をもたらしたり悪い感触をもたらしたりする。



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基本的には「意識されていなかったかもしれない様々なトピックを文字に起こして再確認」という章で、それほど目新しいトピックは無い(が、意識していなかったのであれば今からでも意識しておいたほうがいいポイントで溢れている、という言い方もできる。特に勝利条件設定や金の話など)。
あえて言えば、章の全体から「ルールデザインの非優越性」についてのメッセージを感じ取ることはできる。ゲームとはルールのことではない、新規性に対する戒め、官能性への言及など。とくに新規性に対する懐疑と標準への言及(レジュメではカットしているが相当なページ数が割かれている)には著者の商業ゲームデザイナーとしての矜持が感じられる一方、商業性による制約・限界の存在も同時に感じさせる記述になっているとも言える。
# by Taiju_SAWADA | 2013-03-20 10:37 | 雑題