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ルールブック組込み用トリックテイキングゲーム概要説明文(※パブリックドメイン)

ルールブック組込み用トリックテイキングゲーム概要説明文


このエントリは Creative Commons CC0 1.0 で公開しています。

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Creative Commons CC0 1.0 要旨(日本語)
https://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/deed.ja

Creative Commons CC0 1.0 リーガルコード本文(英語)
https://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/legalcode


沢田 大樹
ver0.1: 2021年11月18日公開
ver0.2: 2021年11月20日公開(切札のコラムを追加)



■ディールを使わず、かわりにラウンドを使った説明

『』は「トリックテイキング」と呼ばれる種類のカードゲームです。この種のゲームでは、まず一番手の人が手持ちの中からカードを選んで出し、そのあと他の人にもカードを出す順番が一度ずつ回ってきます。一巡したら出したカードの強弱を比べ、最も強いカードを出した人が、この一巡の競り合いを制したことになります。この一巡の競り合いのことを「トリック」と呼び、トリックを制することを「トリックを取る」などと言います。このトリックを何回か、普通は全員の手持ちのカードが尽きるまで繰り返すと1ラウンド終了、取ったトリックなどに応じて点数計算が行われます。ゲーム終了条件を満たすまでラウンドを繰り返します。


■ディールとラウンドを同義で用いることを強調した説明

『』は「トリックテイキング」と呼ばれる種類のカードゲームです。この種のゲームでは、まず一番手の人が手持ちの中からカードを選んで出し、そのあと他の人にもカードを出す順番が一度ずつ回ってきます。一巡したら出したカードの強弱を比べ、最も強いカードを出した人が、この一巡の競り合いを制したことになります。この一巡の競り合いのことを「トリック」と呼び、トリックを制することを「トリックを取る」などと言います。このトリックを何回か、普通は全員の手持ちのカードが尽きるまで繰り返すと1ラウンド終了、取ったトリックなどに応じて点数計算が行われます。この1ラウンドのことをトランプ用語で「ディール」と呼びます。ゲーム終了条件を満たすまでディールを繰り返します。


■ディールを使った説明

『』は「トリックテイキング」と呼ばれる種類のカードゲームです。この種のゲームでは、まず一番手の人が手持ちの中からカードを選んで出し、そのあと他の人にもカードを出す順番が一度ずつ回ってきます。一巡したら出したカードの強弱を比べ、最も強いカードを出した人が、この一巡の競り合いを制したことになります。この一巡の競り合いのことを「トリック」と呼び、トリックを制することを「トリックを取る」などと言います。このトリックを何回か、普通は全員の手持ちのカードが尽きるまで繰り返すと一勝負終了、取ったトリックなどに応じて点数計算が行われます。この一勝負のことをトランプ用語で「ディール」と呼びます。ゲーム終了条件を満たすまでディールを繰り返します。


■トリックが一巡ではないゲームの場合

『』は「トリックテイキング」と呼ばれる種類のカードゲームです。◆普通のトリックテイキングゲームでは、まず一番手の人が手持ちの中からカードを選んで出した後、他の人にもカードを出す順番が一度ずつ回ってきて、一巡したら一区切りとなります(『』では一巡で一区切りではないのですが)。◆一区切りになったら出されたカードの強弱を比べ、最も強いカードを出した人が、この一回の競り合いを制したことになります。この一回の競り合いのことを「トリック」と呼び、トリックを制することを「トリックを取る」などと言います。◆このトリックを何回か、普通は手持ちのカードが尽きるまで繰り返すと1ラウンド終了、取ったトリックなどに応じて点数計算が行われます。◆ゲーム終了条件を満たすまでラウンドを繰り返します。

(※【(『』では一巡で一区切りではないのですが)】の部分を強調。トリックテイキングゲームの説明を読み飛ばす=トリックテイキングゲームの知識を持っているプレイヤーの目に、この部分だけは入るようにする)


■マストフォローの説明まで入れたい場合

『』は「トリックテイキング」と呼ばれる種類のカードゲームです。◆トリックテイキングゲームでは、まず一番手の人が手持ちの中からカードを選んで出します。そのあと他の人にもカードを出す順番が一度ずつ回ってくるのですが、多くのゲームには、「一番手が出したのと同じ色のカードを持っている人は、原則としてその色のカードを出さなければいけない」というルールがあります(同じ色のカードを出すことを「その色をフォローする」と言います。このフォローの義務のルールは『』にもあります)。◆一巡したら出したカードの強弱を比べ、最も強いカードを出した人が、この一巡の競り合いを制したことになります。この一巡の競り合いのことを「トリック」と呼び、トリックを制することを「トリックを取る」などと言います。通常は、今回のトリックを取った人が次回のトリックでは一番手になります。◆トリックを何回か、普通は全員の手持ちのカードが尽きるまで繰り返すと1ラウンド終了、取ったトリックなどに応じて点数計算が行われます。ゲーム終了条件を満たすまでラウンドを繰り返します。


■メイフォローの場合

『』は「トリックテイキング」と呼ばれる種類のカードゲームです。◆トリックテイキングゲームでは、まず一番手の人が手持ちの中からカードを選んで出した後、他の人にもカードを出す順番が一度ずつ回ってきます。なお、多くのゲームには「一番手が出したのと同じ色のカードを持っている人は、原則としてその色のカードを出さなければいけない」というルールがあります(同じ色のカードを出すことを「その色をフォローする」と言います)が、このフォローの義務のルールは『』にはありません。◆一巡したら出したカードの強弱を比べ、最も強いカードを出した人が、この一巡の競り合いを制したことになります。この一巡の競り合いのことを「トリック」と呼び、トリックを制することを「トリックを取る」などと言います。通常は、今回のトリックを取った人が次回のトリックでは一番手になります。◆トリックを何回か、普通は全員の手持ちのカードが尽きるまで繰り返すと1ラウンド終了、取ったトリックなどに応じて点数計算が行われます。ゲーム終了条件を満たすまでラウンドを繰り返します。

(※【フォローの義務のルールは『』にはありません】を強調)


■マストフォローだがリードスート以外のスートがフォロー対象になるゲームの場合(リーダーの説明込み)

『』は「トリックテイキング」と呼ばれる種類のカードゲームです。◆この種のゲームでは、まず一番手の人が手持ちの中からカードを選んで出します(この一番手の人のことを「リーダー」と呼びます)。その後で他の人にもカードを出す順番が一度ずつ回ってくるのですが、普通のトリックテイキングゲームには、「リーダーが出したのと同じ色のカードを持っている人は、原則としてその色のカードを出さなければいけない」というルールがあります。決まった色のカード(この場合はリーダーが出したカードの色です)を出すことを、その色を「フォロー」する、と言います。先ほどのルールは「リーダーの出した色をフォローする義務がある」と言い換えることができます(※後ほど説明するとおり、このフォローの義務のルールは『』にもありますが、リーダーの出した色をフォローするわけではありませんのでご注意ください)。◆一巡したら出したカードの強弱を比べ、最も強いカードを出した人が、この一巡の競り合いを制したことになります。この一巡の競り合いのことを「トリック」と呼び、トリックを制することを「トリックを取る」などと言います。通常は、今回のトリックを取った人が次回のトリックのリーダーになります。◆このトリックを何回か、普通は全員の手持ちのカードが尽きるまで繰り返すと1ラウンド終了、取ったトリックなどに応じて点数計算が行われます。ゲーム終了条件を満たすまでラウンドを繰り返します。

(※【フォローの義務のルールは『』にもありますが、リーダーの出した色をフォローするわけではありません】を強調)


■マストフォローだがリードスート以外のスートがフォロー対象になるゲームの場合(「リーダー」を使わず「一番手」で通す)

『』は「トリックテイキング」と呼ばれる種類のカードゲームです。◆この種のゲームでは、まず一番手の人が手持ちの中からカードを選んで出します。その後で他の人にもカードを出す順番が一度ずつ回ってくるのですが、普通のトリックテイキングゲームには、「一番手が出したのと同じ色のカードを持っている人は、原則としてその色のカードを出さなければいけない」というルールがあります。決まった色のカード(この場合は一番手が出したカードの色)を出すことを、その色を「フォロー」する、と言います。先ほどのルールは「一番手の出した色をフォローする義務がある」と言い換えることができます(※後ほど説明するとおり、このフォローの義務のルールは『』にもありますが、一番手の出した色をフォローするわけではありませんのでご注意ください)。◆一巡したら出したカードの強弱を比べ、最も強いカードを出した人が、この一巡の競り合いを制したことになります。この一巡の競り合いのことを「トリック」と呼び、トリックを制することを「トリックを取る」などと言います。通常は、今回のトリックを取った人が次回のトリックでは一番手になります。◆このトリックを何回か、普通は全員の手持ちのカードが尽きるまで繰り返すと1ラウンド終了、取ったトリックなどに応じて点数計算が行われます。ゲーム終了条件を満たすまでラウンドを繰り返します。

(※【フォローの義務のルールは『』にもありますが、一番手の出した色をフォローするわけではありません】を強調)


推奨改変事項

  • 色とスートが別概念であるようなゲームの場合、「色」は「スート」で置き換える。スートの初出の際、【「リーダーが出したのと同じ色のカードを持っている人は、原則としてそのスートのカードを出さなければいけない」というルールがあります(スートとはカードのマークのことで、トランプで言うスペードやハートなどが相当します)。】などのような注釈を入れる。コンポーネントの説明時に、カードを図示してスートを「マーク」として説明している場合は、「スート」ではなく「マーク」で置き換える。この場合は初出時の注釈は不要。
  • 【普通は全員の手持ちのカードが尽きるまで】の部分は、そうではないようなゲームのルールブックに組み込む際は、【手持ちのカードが尽きるなりその他の終了条件が満たされるなりするまで】に差し替え。
  • 【この一巡の競り合いを制した】【トリックを制する】の部分は、概ねトリックを取れば取るほど良いタイプのゲームのルールブックに組み込む際は、それぞれ【この一巡の競り合いに勝った】【トリックで勝った】に差し替え。
  • 【通常は、今回のトリックを取った人が次回のトリックでは一番手になります。】の部分は、そうではないゲームの場合、(『』では違います)などの形で追記。


■切札コラム 〔v0.2追加〕
多くのトリックテイキングゲームには、「一番手が出したのと同じ色のカードを出せなかったプレイヤーは、そのトリックを取れない」というルールがあります。このルールの例外が「切札」です※。切札は一番手が出した色のカードより強いカードとして扱われます(一番手が切札を出している場合は別ですが)。◆※切札のことを英語でtrumpと言います。

■切札コラム(既にマストフォローの説明を行っている前提での注釈付き)〔v0.2追加〕
多くのトリックテイキングゲームには、「一番手が出したのと同じ色のカードを出せなかったプレイヤーは、そのトリックを取れない」というルールがあります。このルールの例外が「切札」です※。切札は一番手が出した色のカードより強いカードとして扱われます(一番手が切札を出している場合は別ですが)。ただし、切札はフォローの義務から逃れられるカードというわけではないので、一番手が出したのと同じ色のカードを手に持っている場合は、切札を出したくても出せず、一番手が出した色のカードを出さないといけません。◆※切札のことを英語でtrumpと言います。


CC0
To the extent possible under law, SAWADA, Taiju (沢田 大樹) has waived all copyright and related or neighboring rights to ルールブック組込み用トリックテイキングゲーム概要説明文.This work is published from: 日本.


# by Taiju_SAWADA | 2021-11-18 20:49 | 雑題

同人トリックテイキングゲームのルールにおける専門用語の使用について

ある日わたくし「ボドゲガレージ」という小規模なボードゲーム即売会に行ってきてですね、事前に何の情報も入れてなかったのでとりあえずパンフレットとかブースのポップとかを見て「トリックテイキングゲーム」と書いてあるゲームを機械的に買ってきたのです(8つくらい買ったはず)。その後、

【ボドゲガレージで買ったトリックテイキングゲームをみっつほど遊んだんですが、とりあえずルールの文面においては普通に「トリック」とか「ディール」とか「フォロー」とか使ってください。意図はわかりますが現状ではポジティブな効果を持ち得ていません。ひたすら読者を苛立たせているだけです】(2021年11月15日)

とツイートしたあとで、いや別にディールは使わなくていいんじゃねえかな、とも思ったわけですけど、意外にも僅かながら反響があったようなので、せっかくだし本件について多少の補足を書いてみようかと思います。


■主張の対象となるゲーム

まず、この主張は前提として
・小規模なボードゲーム即売会で売っている
・同人のカードゲームであって
・パンフまたはポップで「トリックテイキングゲーム」と明確に謳っている
 (またはタイトルがトリックテイキングゲームであることを明らかに想起させるものである)
ゲームを対象としています。トリックテイキングゲームであってもそうと謳っていないものは対象としていません。また、大規模な商業流通を前提とした出版物も一応は対象外です。

そのような主張の対象であるトリックテイキングゲームは、下記の3種類に分けることができます。
(1) 購入者/ルール読者のほとんどがトリックテイキングゲームについて一定の経験を持つことを前提としたゲーム
(2) トリックテイキングゲームの紹介/への入門を意図して作られ、購入者の一定割合がトリックテイキングゲームを知らないことを想定しているゲーム
(3) トリックテイキングゲームの枠組を使いながら根本的には別種のゲームとして作られており、購入者の一定割合がトリックテイキングゲームを知らないことを想定しているゲーム


■「トリック」の語を使わないことの弊害

前述の3分類のどれであっても、ルールブック中に「トリック」への言及は行うべきです。

購入者の一定割合がトリックテイキングゲームを知らない前提のゲーム〔(2)(3)〕では、パンフまたはポップまたはタイトルで「トリック・テイキング」と言っている以上、「トリック」とは何を指しているのか説明が無い限り、パンフまたはポップまたはタイトルが何を意味しているのか不明なままになります。とりわけ、トリックテイキングゲームの紹介/への入門を意図したゲーム〔(2)〕においては、「トリック」への言及がないと、紹介すべきものをプレイヤーに紹介できたことになりません。

ルール読者のトリックテイキングゲーム経験を前提としたゲーム〔(1)〕は、多くの場合ジャンルの基本的な構造を部分的に崩して作られるものでもあり、読者の側でもそのような期待あるいは疑いを持ったままルールを読み始めることになります。作者がこのトリックテイキングゲームのなかで何を「トリック」であるとしているかをできるだけ早期に示すことにより、読者にルール読解の足場を与えることができます。逆に言えば、このゲームにおいて何がトリックであるか示さないまま、捻ったトリックテイキングゲームに出てくる謎めいた新概念を次々に繰り出してしまうと、ゲームの全体について像を結ぶ読解の手掛かりを得られないまま、与えられたパーツからトリックテイキングゲームの枠組を成立させるための試行錯誤を頭の中で繰り広げないといけなくなります。新しいゲームとはそもそもそういうものなのだ、とは確かに言えるのですが、なぜトリックテイキングゲームという大枠に乗っかってしかもそのことを謳ってすらいるゲームにおいて、そのような試行錯誤が必要となるのか、それは単に無駄なことをさせられているだけではないのか、という不信が読者の中に芽生えていきます。

えー、というかですね……、ここまでの話はある意味で綺麗事に過ぎないのでして……、読者の側としては、これまでに遭遇した様々に愉快な経験の数々から、「小規模なボードゲーム即売会で売っている」「同人の」カードゲームやボードゲームのルールライティングに対して根本的なところで不信があるわけです。よくわからないパーツがパーツのままに放り出され、最後までそれらがゲームとして形を成すことはないのではないか。繰り返しますが、これは故のない不信ではありません。そもそも「このゲームはトリックテイキングゲームである」という宣言こそ、その読者の不信を軽減する最大のものであり、もしかするとゲームが購入されるに至った主因ですらあるかもしれないのですが、それでもそれだけでは不信の解消には充分ではないんです。

有効な言及の方法は複数ありますが、トリックテイキングゲーム概念について冒頭で概要として簡単に説明するか、そのゲーム自体の概要について冒頭で説明する中で、トリックに相当する概念に言及する際「※伝統的なゲームでは、これを《トリック》と呼びます」と触れるのが基本になると思います。


■「フォロー」の語の使用

トリックテイキングゲームの紹介/への入門を意図して作られているゲーム〔(2)〕では、「トリック」で記したのと同じ理由により、「フォロー」の語を使うべきです。同じく、ルール読者のトリックテイキングゲーム経験を前提としたゲーム〔(1)〕でも、「フォロー」の語は何らかの形で使うべきです。

何をフォローすべきかについて標準的なルールを採用しているゲーム、つまりリードプレイヤーが手札から出した1枚のカードのスートが必ずフォロー対象スートになるようなゲームという意味ですが、このようなゲームでかつマストフォローの場合は、マストフォロー概念の説明の際、リードプレイヤーが出したのと同じスートを出すことについての文が必ず現れるはずですので、そこに「※これをフォローと言います」などのような注釈を入れるだけでも問題ありません。ですが、何をフォローすべきかについて捻りを加えたゲームの場合、読者の混乱を静めるためにも、フォローの語を明示的に定義した上で、何がフォローの対象になるのかについて、フォローの語を使用することでより強調的に表す必要があります。(なお、このようなゲームの場合は、リーダーの出したカードのスートとフォロー対象スートの違いを示すため、「リード」または「リーダー」の語も定義して使用する必要があります。そうでなければ、「リード」は便利な語ですが、使用必須というほどのものでもありません。)

一方、トリックテイキングゲームの枠組を使いたいだけのゲーム〔(3)〕の場合、プレイヤーとトリックテイキングゲームに対してフォローの概念を教え込まないといけないような義務を自ら負っているわけではないので、「フォロー」の語を使うべきとは言えません。ゲームが全体としてはトリックテイキングゲームの定型に従ったものでは全くない、というのであれば、むしろ避けた方が良いとすら言えるかもしれません。ただしその場合、既に使われている「トリックテイキングゲーム」という言葉は混乱を招く災いの源でもあり、作者はこの余計な災禍を抱えながら、自身の新しいゲームを説明しきらないといけないことになります。


■トリックテイキングゲームの原則

ところで、前段で「伝統的なトリックテイキングゲームでは原則として、フォロー対象のスートをフォローしなかった場合、切札を出したのでなければ、そのトリックの獲得者にはなりません」と書きました(追記:すいません、書いたあとで消しました)。これはトリックテイキングゲームの原則ですが、特に現代のデザイナーズゲーム(もちろん同人ゲームも含まれます)においてはさほど守られません。このような守られたり守られなかったりする原則としては、他に
・フォローの義務(マストフォロー)
・最も高い価値のカードを出したプレイヤーが、そのトリックを丸ごと獲得する

があります。守られる度合いは様々ですが、とはいえこれらはいずれも原則ではありますから、読者はこれらを念頭に置いて読んでいます。トリックテイキングゲーム経験を前提としたゲーム〔(1)〕でこの原則を破るルールを採用しているのであれば、その部分は強調して書くべきです。この強調表示には、作者がトリックテイキングゲームの基本原則を知っていること、その原則を今回のゲームにおいては採用していないことを明示する意味があり、読者にとっては作者のトリックテイキングゲーム理解が読者と変わらないものであることを支持する効果を持ち、これまで述べてきた不安や不信の解消に繋がります。


■「ディール」について

不信の解消という意味では、「ディール」も同様の効果を持ちます……が、冒頭で触れたように、この語については、使ったほうが良いかどうか微妙なところがあります。というのは、これは別にトリックテイキングゲームの必須概念とかそういうものではなく、単にカードゲームの専門用語でしかないからです。言うまでもないことですが、ルールブックに登場する専門用語の数は少なければ少ないほど好ましく、専門用語を使う場合はその一つ一つについて必要性を問うた上で、使うと決めた用語にはあの煩わしい定義なるものを載せる必要があります。

それでも敢えて最初のツイートで「ディールの語を使った方が良い」と言っているのは、実のところあんまり一般性のある話ではなく特定の作例を念頭に置いたものです。その作例においてはディール概念を説明する語としてフレーバーに沿った独自の語を用いているのですが(非実在の例を挙げますと、たとえば学校生活をテーマにしたゲームにおいてディールを表す語に「学期」を用いている、みたいな感じです)、その語がディールを表すものであると確定するのがルールの終盤に入ってからで、ルールを読んでいる最中には、「繰り返し概念であることは最初に提示されている(ステップやフェーズとは違うもののようだ)」「たぶんこれはトリックではない」「ディールとトリックの中間概念は存在しなさそう」「ディールより大きくてゲームより小さい繰り返し概念は無い」「つまりこれはディールのことだ」と読者は推測を続けていくことになり、これが非常に煩わしいわけです。読者をこういう目に遭わせるよりは、最初から「※これはディールのことです」と注釈を入れておくべきです。

独自の語ではなく、しかしディールほどピンポイントに定まったわけではない語、たとえば「ラウンド」を使うという選択肢を考えてみましょう。トリックテイキングゲームにおいて「ラウンド」の語がふつう指し示しうる概念はトリックかディールのどちらかです。従って、トリックを示す語として「トリック」を割り当てておけば、「ラウンド」の使用には全く問題が無いことになります。そうでない場合、ラウンドと区別するため、結局なんらかの汎用的(=曖昧)または独自(=謎)の語をトリック概念に割り当てないといけなくなります。


■ついでに言っておきたいこと

一部の分野の論文や教科書では、読者は知識ゼロ・読解力無限であることを想定して書け、なんてことが言われる場合もありますが、同人ゲームのルールライティングでその態度を取るのは止めましょう。少なくとも知識ゼロの読者を想定する場合、その知識ゼロの読者のルール読解力は知識のある読者の読解力よりも当然劣ります。知識の無い読者のために専門用語を使わないという選択を行うのであれば、専門用語を使わずに説明できればそれでOK、という態度は決して取れないはずです。


■ところで、読者一般は置いといて、君は何がそんなに苛ついたの?

何をフォローすべきかについて捻りを加えたゲーム(リードプレイヤーが手札から出した1枚のカードのスートがフォロー対象スートになるというわけでは無いゲーム)に連荘で当たってどっちも何がフォロー対象なのか後ろのほうまで読まないとわかんないルールになっていたのです。たいへん不幸な事故と言えます。


# by Taiju_SAWADA | 2021-11-17 01:22 | うわごと

マック・ゲルツとその作品

2020年1月に書いたゲルツの紹介文です。元々は目的があって書いたものなんですが、たぶんお蔵入りになったと思われるので、こちらに載せておきます。

* * *

マック・ゲルツについて何かを書くのであれば、やはりまずは彼のデビュー作である2005年の「古代 Antike」から始める必要があるでしょう。古代ローマの時代を舞台に担当国を決めて3都市を持ってスタートし、街から出る資源を元に軍隊を雇って軍隊を動かして軍隊で街を建てて、というよくあるドイツの地政学ゲーム、より狭く言えば拡張・開発・殲滅ゲームなんですが……よくある、というのは嘘です。確かにこれは、1980年代前半までの英米の多人数ゲームでは比較的好まれた主題です。しかし、ドイツの商業ボードゲームや、それがグローバル化した「ユーロゲーム」と呼ばれるジャンルにおいて、この種のゲームをまっとうに作る方法は、事実上この「古代」の登場以前には存在しませんでしたし、2020年現在でも決してよく見られるものではありません。なぜかといえば、ユーロゲームというのはジャンルの定義上、許容される複雑さに上限があるからで、一方で英米の地政学ゲームというのは地域間の関係の動学を総合的に表現するものだったので一定以上の複雑さが避けられなかったんです。

複雑さの上限とプレイ時間の制約を厳密に守った上で地政学ゲームを作りあげるために、ゲルツはテーマに固有の特殊ルール、ローマなので軍隊が強いとかカルタゴなので云々とかそういうやつですが、これを完全に削除し、勝利条件をおよそ地政学ゲームでは考えられなかった「一瞬でもいいので何々できたら1点」「最初にx点取ったら勝ち」というものに変え、さらには一手番あたりの負荷を下げることでゲームのテンポを上げ、とあらゆることをやっています。これにより、夢もロマンも歴史もない、しかし間違いなく地域間のダイナミズムが表現された充分にシンプルで遊びやすいボードゲームが産まれ、彼の名前はボードゲーム愛好家に知れ渡ることになります。

とりわけ、「手番あたりの負荷を下げる」、つまりプレイヤーがゲームの中でできる行動を「収入」「技術開発」「駒の購入」「配置」「移動」というような形で分割モジュール化し、1回の手番ではそのうちの1つしか選択・実行できないようにする、しかも(ここが重要なんですが)その選択も自由に行わせるわけではなくこれまでの行動選択の履歴に応じて一定の制約をかける。これは、ゲルツの作品に共通する、彼のデザインの最も大きな特徴です。このデザインが「輪盤(ロンデル)システム」という形で盤上にわかりやすいビジュアルと共に提示されたということも、「古代」そしてマック・ゲルツという作者の登場が大きな注目を集めた一つの理由ではあるでしょう。

とはいえ、重要なのはロンデルであること自体ではありません。個々の行動の最小化・モジュール化によりテンポが非常に早いゲームになっていること。行動の選択順序に制約をかけて選択肢の数を減らした上でその選択自体を戦略的意思決定と言えるような重要なものにしていること。そしてそれらによって、元来は複雑なルールと煩雑なプレイが必然的に付随するものとされていた主題から、シンプルな骨子だけを分離できている、という点です。「古代」の場合は、地政学ゲームをチェックポイント早巡り競争に書き換えることで、ゲーム全体を「可能な限り早く」という意思の下に駆動させるようにし、そこに選択の順序つまり何を先にやるべきかという問題を載せたということが、テンポの速さと一回ごとの選択自体の重要性の両立に大きく関わっています。言うまでもないことですが、単にゲーム盤上に輪を描けばロンデル・システムとして機能するわけではありません。

翌年の第2作「インペリアル Imperial」では再び地政学、それも交渉ゲームをベースに、「1830」などで知られる株券=経営権メカニズムを突っ込み、これ以上無く重厚長大なところから始めています。「古代」と同様にロンデル・システムを用いたダウンサイジングは十二分な成果を挙げていますが、それでもこれはプレイ時間、ルールの複雑さ、プレイヤー間の対立構造の厳しさ、ガードレールの不在、いずれの点でもゲルツの全作品の中では頭一つ抜けてプレイヤーへの負荷の高いゲームです。「古代」が旧来のゲーマーズ・マルチプレイヤーズゲームをユーロゲームの文脈に置き直したゲームであるのに対し、「インペリアル」は不要な枝葉を落とした後の骨格としてユーロゲームの文脈からこぼれ落ちるもののほうを残している、と言ってもいいかもしれません。

おそらくこの地政学ゲーム2作(と、そのリメイクまたは変形ゲームである「インペリアル2030」「古代・決戦 Antike Duellum」「古代II」)がゲルツ初期のゲームとしてくくられるべきもので、2007年の第3作「ハンブルグム Hamburgum」以降の5作は全て、前述のモジュール化とテンポへの意識はそのままに、元々ユーロゲーム的な主題である経済効率を競うゲームとなっています。盤上に様々な種類の「拠点」(実際には文字通りの意味での拠点とは異なる場合もありますが)を築いていくことで得られるリソースを如何に良いタイミングでその時々必要なものに変換できるか、加えて、どの種類の拠点を勝利点に換金するか。彼の2010年代の3作品はいずれも、この「ハンブルグム」で最初に提示された枠組を引き継ぎ、その中で異なる側面を描き出したものです。

(本来はここで、他の作品群と並べた時に異質さが際立つ《ロンデルの中を駆けずり回るゲーム》、2009年発表の傑作「マチュピチュの王子 The Princes of Machu Picchu」について、2010年代の作品群と何が同じで何が異なるか述べていく必要があるんですが、作品の簡単な紹介を通じてゲルツの作家性を大掴みに説明するという本稿の趣旨から大きく逸脱するため、申し訳ないのですが省略させていだだきます)

特に2010年の「ナヴェガドール」は「ハンブルグム」との対比がわかりやすい作品で、「ハンブルグム」が混沌のまま盤上に散らばった得点の欠片のうち「what - 何を」取っていくのが効率的なのか、ということを主眼においたネットワーク構築ゲームだったのに対し、盤上も得点要素も全てが徹底して明瞭かつ直線的/単線的になるよう美しく整理された「ナヴェガドール」は、何をすべきなのかは自明に近い、「how - 如何に」の技術についてのゲームでした。「ハンブルグム」の枠組をどのように可視化するかという点では、「ナヴェガドール」は最終回答と言えるものです。実際、ゲルツは答の出た部分をいじることを好まず躊躇無く使い回しを行う作者なので、その後の2作でも同様のメカニクスがそのまま登場しています。一方、ユーロゲームがhowの技術を競うゲームであるべきなのかという点では、もしかすると思うところがあったのかもしれません。「ナヴェガドール」で結論を得た見通しの良さを可能な限り保ったまま改めてwhatのネットワーク構築ゲームを作るということが行われたのが、2013年発表の、現在では「古代」を上書きするゲルツの代表作とみなされている「コンコルディア Concordia」です。

「コンコルディア」ではロンデル・システムが捨てられています。代わりに、やりたい行動が書かれたカードをカードデッキに組み入れていき、かつその取ったカードの色がそのまま特定の種類の得点に対する乗数的増幅要素にもなるという、簡易的なデッキビルディングが行動選択のメカニクスとして採用されています。初期の地政学ゲームではロンデルとして提供された数種類の行動から何をどの順番で行うかがそのまま戦略的意思決定となって戦術を縛っていましたし、逆にどこまでも戦術のゲームである「ナヴェガドール」ではロンデルのまわり方の巧拙がそのまま点差になっていたんですが、「ハンブルグム」のロンデルは他のゲームほど絶対のものではありませんでした。何と言っても、90分で遊べるネットワーク構築ゲーマーズゲームの傑作ならばユーロゲームの枠内で他にもあるわけですから。「ナヴェガドール」(や「マチュピチュの王子」)のようにロンデル自体を競争要素とする趣向が無いのであれば、枠組の実装に必要な複数の要素を同時に片づけることのできるデッキビルディングのほうが、不必要な複雑さを削除し見晴らしを良くするという点でより望ましいわけです。結果として、この種のゲーマーズゲームとしては例外的にシンプルなルールセットの中でバラエティに富んだ「何をどれくらい重視するのか」の選択肢を提供することに成功し、発表から6年以上が経過した現在でも広く愛されています。

最後に現時点での最新作である、2017年発表の「Transatlantic」についても触れておきたいと思います。最も重要な点は、ゲルツの作品としては初めて、タイトなゲーマーズゲームとは微妙に違うところに着地させたゲームだということです。これまでのゲームはいずれも、ルールやプレイ時間の面では負荷を下げつつ、どう遊ぶかという点ではプレイヤーに対してそれなりの態度を要求するものでした。もちろん、そのようなゲームをプレイヤー全員がぼんやりと遊んでみるのは大変たのしい愉快なアクティビティなので是非おすすめしたいところではあるわけですが、とはいえ主要なプレイヤーとしては「運要素無し!」と広告の惹句に書いてあるのを見て喜ぶ人々が想定されていました。「Transatlantic」はそうではありません。経済効率を追求する点は「ハンブルグム」以来不変ですが、しかしこれは山札からめくられる船カードに一喜一憂するゲームです。諸々の理由により現在ユーロゲームの市場は短時間軽量級ゲームと重厚長大ゲーマーズゲームに二極化しており、その中で敢えてゲルツが中庸寄りの道を意識した面白いゲームを世に出したことをとても嬉しく思っています。早く日本への本格的な紹介が実現されると良いのですが。

# by Taiju_SAWADA | 2021-10-03 00:45 | 感想・紹介

プロプライエタリ・ゲームの誕生――「ユーロゲームの誕生と消失」からカットした部分

 現代風俗研究会 ( http://genpoo.kir.jp/ ) というところが出している雑誌『現代風俗学研究』のvol.20 (2020年10月発行)に、「ユーロゲームの誕生と消失」という文章を書きました(pp.23-32)。この号はゲーム特集なので、それでお誘いいただいたという形です。
 わたくしの書いた文章は、論文といってもそれほど厳密なものではなく、英語の学術界隈で使われる意味での「essay」くらいの感じです。だいたいどういう文章なのかという点については、この文章の冒頭「はじめに」の部分でまとめたので、そのまま抜粋します。

 遊戯の歴史は人類の文化史と同じだけの長さを持つものである一方、個人あるいは集団の創作物としてのゲームが商業的に流通するようになったのは概ね近代以降のことであり、そのような商業的ゲームが芸術形式として必要な制度を獲得してからの歴史はさらに短い。
 その短い芸術形式としての商業ゲームの歴史の中で、「ユーロゲーム」と呼ばれる卓上ゲームのサブジャンルは、ゲームの内容、および受容の慣習に関する重要な特徴を持ち、より正確には、その特徴がジャンルを形作っている。また、このユーロゲームは、ボードゲームがここ数年の日本において流行の兆しを見せている、あるいは21世紀の欧米の一部で流行していると言われる時、その「ボードゲーム」という言葉が実質的に指し示す対象でもある。
 この小論では、ユーロゲームの成立課程を解説した後、そのユーロゲームのジャンルとしての特徴が1970~80年代西ドイツの商業的背景に由来するものであり、現在の環境では自然には維持され得ないものであることを示す。
(太字は字数制限のためカットした部分)

 ……というわけなんですが、ご存じの方はご存じの通り、雑誌というのは頁数制限がありまして、書きたいことを全部放り込むわけにはいかないんですね。ご覧の通り上記の「はじめに」でも太字の部分を削ってて、おかげで冒頭が「ゲームの歴史は短いですよ」というだけの話になり、何を言いたかったのかよくわからないことになってて後で後悔したんですけどそれはそれとして、そういうわけなので本筋と関係無い部分をカットしたのです。こんな感じに。

3-1. 娯楽のための商業ゲーム
 デヴィッド・パーレットは著書『ボードゲームの歴史』において、個人ないし集団によって創作され、特定の出版社によって独占的に販売されるゲームを、囲碁やチェスなどの伝承ゲームと区別して「プロプライエタリ(独占的)・ゲーム」と呼んでいる(Parlett 2018:345)。ユーロゲームの成立過程にはプロプライエタリ・ゲームの近現代史が大きく影響を及ぼしている以上、本来であればユーロゲームについて論じる前に、まずプロプライエタリ・ゲームの近現代史の概要について述べる必要があるのだが、ここではパーレットによる「プロプライエタリ・ゲームが最初に現れたのは18世紀」(ibid.:345)との言葉を紹介するにとどめる。
 欧米で初期に出版されたプロプライエタリ・ゲームにはふたつの典型があり、ひとつは植民冒険家によって欧州に持ち帰られた外国のゲームを微修正したもの(Michon 2009:206)、もうひとつは、16世紀から欧州各国で製作・販売されている双六型のゲーム「鵞鳥のゲーム」を雛形に教育説話的モチーフを付与したもので…(以下略)
 でまあ、せっかく書いたのでちょっと勿体ないなあ、と思い、このカットした部分を供養のために掲載しておこうと思います。それではどうぞ。

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 デヴィッド・パーレットは著書『ボードゲームの歴史』において、個人ないし集団によって創作され、特定の出版社によって独占的に販売されるゲームを、囲碁やチェスなどの伝承ゲームと区別して「プロプライエタリ(独占的)・ゲーム」と呼んでいる(Parlett 2018:345)。ユーロゲームはそのほとんどがプロプライエタリ・ゲームであり、ユーロゲームの成立過程にはプロプライエタリ・ゲームの近現代史が大きく影響を及ぼしている。従って、ユーロゲームについて論じる前に、まずプロプライエタリ・ゲームの近現代史――そのほとんどはマス・マーケット向けゲームの歴史――を概観する必要がある。〔※編注:「マス・マーケット向けゲーム」というのは、スチュワート・ウッズ『Eurogames』において「ホビーゲーム」と対比されて使われている言葉です。要はデパートとかトイザらスとかで売ってるゲームのことだと思ってください。対する「ホビーゲーム」はイエローサブマリンで売ってるゲームです〕
 プロプライエタリ・ゲームが存在するためには、「一定の数量のゲーム物品が生産されること」「生産されたゲームが商業流通し、一般に購入されること」が必要条件となり、また、ユーロゲームまで連なるものとしてのプロプライエタリ・ゲームの歴史を考える場合は、「ルールが創作され、書かれ、読まれること」も要件に加える必要がある。
 この意味でのプロプライエタリ・ゲームの歴史がどこまで遡れるかという議論については、証拠となる記録がないこと、また「ルールの創作」の定義が曖昧であることから、厳密な特定は難しい。しかし、パーレットは「子供用のボード・カードゲームの発展は歴史的には近年の、とりわけ西洋文化のもので、18世紀後半より大きく遡ることはない」(ibid.:x)、『プロプライエタリ・ゲームが最初に現れたのは18世紀、パーカーブラザーズ、ワディントン、ラベンスバーガーといったメジャーなゲーム会社ができたのは19世紀で、典型的には、紙の生産、印刷、出版といった本業から派生する形で生まれている』(ibid.:345)としている。またブルース・ホワイトヒルは、アメリカにおけるゲーム産業の確立について『アメリカのカードは植民時代に遡るが、カード《ゲーム》(4スート各13枚ではないもの)はおそらく商業的には1800年代初頭以前には製造されていなかった(中略)知られている最初のアメリカで製造されたボードゲームは1822年、ただし産業としては1840年代にW.& S.B.Ivesがカード・ボードゲームの出版を始めるまで確立されなかった』(Whitehill 1992:2)としている。個別事例についてはさらに過去に遡ることができるものの【※たとえば高橋(2018)では、近代のボードゲームの最初の事例として、フランスの地理学者ピエール・デュバルが1645年に製作した「地図のゲーム」を挙げている。また、西洋文化を離れると、例えば日本でも、増川(2012:169)によれば『一七世紀後半のわずか数十年間に――むろん、手書きでさまざまな絵双六が作られた可能性は否定できないが――人々の欲求にもとづいた絵双六が出板されるようになったといえる。』】、大枠の理解としては、18世紀後半から19世紀前半にかけて勃興したものと考えても大きく誤ることにはならないだろう。
 田中治久は、伝統ゲームからコンピューターゲームへ至る近代化の過程を「無害化、大衆化、自立化」とまとめており、教育に用いられるゲームの登場を無害化の過程の一側面だと述べている(あそび屋Kai 2019)。【※ルールが書かれ・読まれるようになることは、ゲームの大衆化の一側面として位置付けられている。ボードゲームのルールを記した例外的に早い実例として13世紀のアルフォンソ10世による『Libro de los juegos』があるものの、基本的にはルールの明文化はグーテンベルク以降、16~17世紀にかけての出版文化の興隆を土台としているものと思われる。端的な例として、ヨーロッパ最初のカードゲームルール集と考えられるコットン『The Compleat Gamester』は1674年発表の出版物である。】実際、後述するように初期のプロプライエタリ・ゲームは知育玩具の側面を強く持つものだった。プロプライエタリ・ゲームが18世紀に子供の遊びとして勃興していることは、西欧において子供と遊びの概念がこの時期に確立されたことと一定の関係があるものと考えられる。クリスティン・ウォーカーは、1692年のジョン・ロック『教育論』で不可欠な活動としての遊びが着目され、1762年のジャン=ジャック・ルソー『エミール』で(半人前の大人ではなく、感傷の対象化された純潔なものとしての)子供という概念が生まれたことに触れながら、1730年代にはイングランドに存在しなかった子供玩具の専門店が、1780年代になるとどこにでも見られるようになった、と紹介している(Walker 2009:203)。
 加えて、18世紀後半から19世紀前半とはつまり産業革命の時代であり、当然のこととして、産業革命による印刷技術の進展が、プロプライエタリ・ゲーム産業の発生に大きく寄与している。ヘザー・ミチョンによれば、『19世紀より前、ボードゲームはほとんどがハンドメイドだった。この世紀前半の英独の印刷機の発展と安い木質パルプ紙の入手性向上は印刷費用を下げ、19世紀中盤のクロモリトグラフィの受容は手作業に頼らない安い多色刷を可能にした。』(Michon 2009:206) 【※単色刷リトグラフの発明は1798年、クロモリトグラフィ(多色刷リトグラフ)の発明は1836年のことである。(小勝 1998)】
 欧米で初期に出版されたプロプライエタリ・ゲームにはふたつの典型があり、ひとつは植民冒険家によって欧州に持ち帰られた外国のゲームを微修正したものである(Michon 2009:206)。この典型に属する代表的なゲームとしてパチシがある。インドの伝統的ゲームであるパチシは、19世紀に欧米の各国の出版社から、それぞれ若干のアレンジを施された上で出版されている。……(以下略)

あそび屋Kai. 2019. 「ゲームが解き放つ〈AIの野生〉トークイベントに行ってきた!」 https://note.mu/niteandday_tokyo/n/nedad162091cd
小勝礼子. 1998. 「リトグラフ」『世界大百科事典 第2版』平凡社.
高橋浩徳. 2018. 「ボードゲームの近現代史」『大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要』(20). pp.119-181.
増川宏一. 2012. 『日本遊戯史』平凡社。
Michon, Heather K. 2009. "Europe, 1800 to 1900." in Encyclopedia of PLAY in Today's Society vol.1. Rodney P. Carlisle (ed). SAGE.
Parlett, David. 2018. Parlett’s History Of Board Games – The Updated Edition Of The Oxford History of Board Games. Echo Point Books and Media.
Walker, Christine M. 2009. "Europe, 1600 to 1800." in Encyclopedia of PLAY in Today's Society vol.1. Rodney P. Carlisle (ed). SAGE.
Whitehill, Bruce. 1992. Games: American Boxed Games and Their Makers, 1822-1992 : With Values. Wallace-Homestead Book Co.


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 はい。以上でございます。ご興味のあるかたは、10月中に現代風俗研究会のウェブサイトから購入申込ができるはずなのでそちらでお買い求めいただくか、あるいはサブスクしてる大学図書館がいくつかあるようなので(CiNiiで見る限りでは、東大・早・慶・中央。一橋も買ってるかも)、そのへんから複写依頼を出してみてください。ゲーム特集ということで、私の文章を含め、ゲームに関する論文が5本、それ以外の論文が3本載っています(そのうちサイトにタイトルが載ると思いますが、私以外のゲーム関連論文は、クレーンゲームの話、メイルゲームの話、麻枝准の話、ゲーム依存概念の話の4つで、それぞれゲーム研究者の方が書かれており、何者だか素性がわかんねえのは私だけです)。

※わたくしの直接のお知り合いのかたはわたくしまでご連絡いただいても構いません


■ご興味のあるかたのための「ユーロゲームの誕生と消失」もくじ

1. はじめに
2. ユーロゲームとは何か
3. プロプライエタリ・ゲーム
 3.1. 娯楽のための商業ゲーム
 3.2. ホビーゲーム=批評の対象としてのプロプライエタリ・ゲーム
4. 西ドイツの現代ボードゲーム市場の成り立ち
 4.1. 3M Bookshelf Games
 4.2. 1970年代イギリスのボードゲーム・コミュニティ
 4.3. 西ドイツのボードゲーム業界と批評の発生
 4.4. ドイツ・ゲームオブザイヤーとSPIEL
5. 拡散と消失
 5.1. ドイツの特異性
 5.2. ユーロゲームの誕生
 5.3. ボードゲーム出版者側の事情の変化
 5.4. 差異の消失
6. 結び


■追記

 プロプライエタリ・ゲームを批評の対象とみなすような慣習の発生がいつ頃なのか説明するパートがこの後にあります。というのは、この文章は「批評の対象(≒芸術的受容の対象)としてのゲーム」をキーワードに、ドイツゲーム(ユーロゲームではなく)を「マス・マーケット向けのボードゲームを批評の対象として扱うムーブメントの定着」として扱う、というのが重要なポイントになってるからです。
 で、そういう批評の慣習は今のところ1950年代のアバロンヒルまでしか遡れない(大人を対象としたプロプライエタリ・ゲームが出版されるようになった1930年代後半~1940年代においても、そういう批評の慣習があったわけではなさそう)という話をしてるんですけど、そこでカットした注が一個あります。

【※ゲームの近接分野であるパズルについては、批評の慣習が遥かに早い段階で形成されているが、それが1950年代以前の段階でプロプライエタリ・ゲーム批評コミュニティの発生に繋がった事例は現時点では確認できない。】

 パズルは割と昔から美的に受容される対象になってるんですよね。典型的には日本の詰将棋なんかがそうで、1755年の作品集『将棋図巧』なんて「初代・伊藤看寿 作」ですよ。18世紀半ばの時点で既に作者名がある! 18世紀半ばったらルールブックを書く慣習すらほとんど無かった頃の話ですよあなた。びっくりですよねえ。

# by Taiju_SAWADA | 2020-10-03 22:46 | 雑題

キングス・ジレンマ第一印象 …それで何がそんなに好きなの?

The King's Dilemmaという作品があります。Hjalmar HachとLorenzo Silvaの共作で、どちらも私は知らなかった作者ですが、Silvaのほうは『ポーション・エクスプロージョン』の共作者でもあり、これはプレイしたことがあります(とても褒められた出来のゲームではないんですが、それは関係無いので脇に置いておきましょう)。2019年の作品で、Horrible Guildというイタリアのメーカーから出版された後、ドイツ語を含む各国語に翻訳され、2020年のKennerspiel Des Jahres、いわゆる黒ポーンにノミネートされています(これを書いている時点では賞の最終結果は未発表)。お誘いをいただいて少し遊んできたので※、受けた印象などをメモしておきたいと思います。

※この作品はキャンペーン方式を採用しており、「キャンペーンを通じて、各プレイヤーがそれぞれ1つの公爵家または侯爵家を担当。個々のセッションでは、その家に属する1人の人物としてプレイに参加する。1セッションは約1時間、15セッションくらい遊ぶことでキャンペーンのグランドフィナーレを迎える」という形になっているんですが、第3セッションあたりから入って6セッションほど遊ぶ、という、この作品のプレイとしてはだいぶ行儀の悪い入り方をしております。

さて、このメモにおいて、The King's Dilemmaに対してここまで「ゲーム」という単語を用いるのを避けてきました。というのは、この作品、いわゆるボードゲームではないんですね。イェスパー・ユール『ハーフリアル』をお読みの方であれば(読んでね!)、「古典的ゲームではない」という言い方のほうがわかりやすいかもしれません。ボードゲームっていうのはふつう、「勝ち」とか「負け」とか、「1位」や「3位」とかでもいいですけど、そういうものがあって、そうでなかったとしても点数みたいのがついてます。で、「勝ち」は「負け」よりも当然好ましく、あるいは点数制のゲームなら「プラス42点」は「プラス35点」よりも好ましいのであって、もちろんプレイヤーはより好ましいほうを目指してプレイするのが大前提になっています。

この作品はそうではありません。まず、最終的に自分が担当する公爵家または侯爵家が何をすれば「勝った」ことになるのかは、ある程度ほのめかされているものの、明示はされていません。というか、そもそも「勝ち」という概念があるのか自体、定かではありません。キャンペーンを通じたプレイ指針として、「セッション中にこの条件を達成すれば、次のセッションからはこの特殊能力が貰える」とか「【セッション中にこの条件を達成する】を3回やれば、家の《名声》値がこれだけ上がる」とかは用意されているものの、その《名声》値を上げることが何を意味するかは、担当する家についてのフレーバーテキストその他セッション毎に次々出てくるテキスト群から予想するしかありません(勝利条件の予想に必要なわけですから、これを「フレーバー」というのは本当は不適切ですね)。

一方で、セッションごとのプレイヤーキャラクターには、勝利条件が明白に設定されています。国のパラメータが「富」とか「軍事」とか6種類あって、セッション中あがったり下がったりするわけですが、最終的に「一定値《以上》になっているパラメータが1種類あるごとに得点」とか「一定値《以下》のパラメータが1種類あるごとに得点」みたいな感じに得点条件が設定されているキャラクターカードが6枚あり、ここから『フェレータ』とか『あやつり人形』みたいな感じで各プレイヤーがそれぞれこれを1枚受け取ってセッションを始める形になります。そしてセッション終了時には各自そのキャラクターカードの条件に従って得点精算を行い、最も得点の高いプレイヤーの家は《名声》値がこれだけ上がり、二番手のプレイヤーの家はこれだけ、みたいなことをやります。

ならばとりあえずセッションではそのキャラクターになるわけだからその勝利条件でやればいいのか、というと、もちろんそうしたっていいんですが、そうしない理由もいくらでも見つかります。まず何より、キャラクターカードの勝利条件と、担当する家の方向性とは、必ずしも一致しません。なにせ家は固定なのにキャラクターカードの選択は『フェレータ』式ですから。いや家の勝利条件は明示されてはいませんが、それでもプレイ指針はありますし、フレーバーからも推測はできるわけで。加えて、このキャラクターカードなるもの、テキストによるフレーバーがほとんど付いていません。プレイヤーが担当する公/侯爵家にはキャンペーン開始時に名前を付けることが義務づけられるのに対して、キャラクター個人には固有名すら与えられません。The King's Dilemmaにおいてフレーバーが付かないというのは、そのまま「重視しなくてもよいもの」ということを意味しています。つまりここでは、ボードやチットやカードがいっぱい入った「ボードゲーム」としての見た目との関連では最も重視されるべき(かつ一応ルール上もそのようには扱われている)セッション毎の勝利条件に、同時に「重視しなくてもよいもの」というラベルが貼られていることになります。

勝利条件が必ずしも重視されないということ自体は、パーティーゲームなどではよく見られることではあります。ですがほとんどの場合、その「重視されない」というのは、勝利を目指すという体裁をプレイヤー達が取りつづけることによって産まれる齟齬のおかしさを狙ったものだったり、あるいは単にゲームという体のために勝利条件が付いているものの実際にはそれよりも明白に重視されるべき目的が用意されているものだったりします。The King's Dilemmaはそのどちらにも当てはまりません。ここでは、プレイヤーに与えられる勝利条件/価値設定が混乱しており、それはもちろん意図的なデザイン…というか、このゲームの眼目になっています。

プレイヤーに与えられる勝利条件/価値設定がシステムにおいて意図的に曖昧にされている遊び、といえば、代表的なものとして思いつくのはもちろん卓上RPGです。実際、この作品をどのジャンルに結びつけるべきかと聞かれれば、とりあえずは卓上RPGとするのが妥当でしょう。ただし、これはもちろん典型的なRPGではありません。典型的なRPGというのは、Role-playingの名の通り役割演技を行うもので、さらに言えば、通常はその役割というのは個人、つまりキャラクターです。キャラクターとプレイヤーの間に距離を取らせる、つまり例えば「キャラクター自身の損得や感情よりも作劇上の要請をプレイヤーは優先すべき」と明白に掲げるRPGってだけでも割と少数派ですが、その個としてのプレイヤーキャラクターそのものが曖昧にされているとなると、これはかなり特殊なRPGだということになります(実のところボードゲームではごく普通のことだとは言えるんですが、ボードゲームの場合は意図的にやってるわけではないです)。RPGを構成する諸々の要素のうちの何かを再検討し、それを極端に強調したり逆に取り外してみたり別の物に置き換えたりする、というのは、卓上RPGの中でもメインストリームではなくインディペンデントに出版されている作品に見られる特徴で、なのでそういう作品は「インディペンデントRPG」と呼ばれることもあります(絵画のモダニズムに引っかけて「モダンRPG」のほうが適切な名称じゃないかと思いますが)。

The King's Dilemmaを気に入ったのは、まず第一にはこの点です。これは別に良し悪しの話ではなくて単に好き嫌いのレベルのことなんですけど、わたくし卓上RPGが基本的には好きなんですが、プレイヤーキャラクターがプレイヤー…っていうかわたくし…にべたべたくっついてくることに嫌悪感をおぼえるタチで、これまでプレイヤーとプレイヤーキャラクターの間に距離がある作品ばっかり遊んでたんですね(それこそ『パラノイア』とか)。そこいくとThe King's Dilemmaの場合は、自分が誰であるのか、名前すら決まっていないわけですから、意思決定以外の点ではほとんど負荷を感じることなくリラックスして遊ぶことができます。

距離のおかげでリラックスして遊べるというのは、ストーリーとプレイヤーとの距離、という点でも同じことが言えます。ほとんどの卓上RPGがストーリーをテリングするゲームでもあるように、The King's Dilemmaも当然、ごりごりのストーリーテリングゲームではあります(この作品の惹句で「大量の封筒に大量のカードが入った《レガシー》スタイルのゲーム」というのがありますが、この大量に入ったカードというのは要するにRPGで言うシナリオが書かれたテキストで、レガシーというのは適切な表現ではなく、単にゲームマスター無しでキャンペーンシナリオ的なことをやるので先がわからないようにシナリオ分岐ごとに別の袋にシナリオカードを入れてるだけです)。ただ、そのストーリーの提示の方法が、フィクション上の構造としてもシステム上の構造としても少々独特です。まずフィクション上の構造ですが、プレイヤーキャラクターは全員、国の王を補佐する宮廷メンバーで、次々に持ち込まれてくる下々のよしなしごと…おおごとになる場合も往々にしてありますが…に対し、こうすべきかああすべきかの2択を協議と交渉と投票で決める、でもって結果を眺める、それだけです。要は、プレイヤーキャラクター達は、それが誰であれ、現場にはいないんです。どっちにしろ自分が直ちに死ぬわけではなく、そもそも合議で国としての意思決定を行うのであって、自分に意思決定の全責任が直ちに襲いかかるわけでもない。そしてシステム上の構造ですが、宮廷は1つの太いシナリオに対してだけ対処しているわけではなく、複数のシナリオが同時並行的にやってきます。で、その同時並行性がどう表されているかというと、何枚もあるシナリオカードがシャッフルされてデッキになり、毎ターン、1枚ずつ上からめくられる、という形になっています。あるターンに隣国の王位継承に干渉するか否かの深刻な意思決定を強いられたかと思えば、次のターンには海洋冒険家に投資するか否か、みたいな全然関係無い話がでてきて、ひとつの案件に没入できないようになってるんですね。

いや距離感はいいんだけどさ、ストーリーテリングゲームでそんな感情移入できない仕組みになってるんだったらどこを遊びどころと考えればいいわけ? という真っ当な疑問に対しては、2つの回答が用意されています。まず1点目、シナリオは刺激的で面白いです。いや別に、小説や戯曲として成立するとか言いたいわけじゃなくて、宮廷メンバーの意思決定の議題として妥当なヘヴィネスと対立があり、意思決定の結果の転がり方も意外性と納得感と酷薄さがちょうど良い案配でミックスされていて、この話どうなるのかな/俺はどうしたいのかな、とプレイヤーの興味を持続させるのに充分だ、ということです(ところで俺『パンデミック・レガシー シーズン1』を10月で中断したままなんですが、あれって最後の2ヶ月で話が面白くなったりしますか?)。もう1点が意思決定のための投票システムで、子細は省きますがこれが非常に良くできてます。The King's Dilemmaはボードゲームとして見れば投票ゲームのジャンルに属するもので、投票パワーを突っ込んだり金で他プレイヤーを買収したり、みたいなことをやるんですけど、パスと終了のルールにひねりがあるんで、多数派の形成に際して割と真面目に考えることが要求されます。それで、ここで頭を使って国を導きたい方向に導けると謎の充実感が湧いてきたり、あるいは競り負けて望まない意思決定が行われた結果として国が予想を遥かに上回る傾き方をしたりすると根拠のない義憤が吹き出てきたりします。

何より面白いのは、この情動には一切の根拠がないんです。

ここでやってることはボードゲーム的な手続きと意思決定からもたらされる情動かもしれないのですが、しかしそこに絶対に必要なはずの明瞭な勝利条件/価値設定は用意されていません。あるいは物語がプレイヤー自身の価値観をフックしているのかもしれませんが、それにしてはプレイヤーの情動を託すべきフィクション上のキャラクターの存在感はあまりにも希薄です。ここにあるのは何物としても成立しないはずのメカニズムとフィクションのキメラで、しかし間違いなく、これは遊びとして成立しています。

ボードゲームをデザインする中で、「何を削っても遊びとして成立するんだろうか」みたいなことを考えたことがあります。4Xゲームのルールのことあるごとに「この点については合議によって決める事」とだけ書かれていたら。精緻に組み上げられた文明発展ゲームに、勝利条件だけが欠けていたとしたら。こういう思考実験は無駄と言えば無駄なことかもしれませんが、しかし我々は既に、ウォーゲーマーが産んだ卓上RPGという巨大な実例を知っています。そうであるが故に、このような奇妙な構造で成立している謎のプレイシングを提出されると、受け取った側としてはこれを批評的実作と捉えて興奮せざるを得ないわけです。

# by Taiju_SAWADA | 2020-07-05 01:21 | 感想・紹介