モノポリーのボードなどを眺めておりまして、昔の人はなんでやたらとぐるぐる回るばかりのゲームばっか作ったり遊んだりしてたんだろうねえ、ゲームと言えば回さないといけないものとか法律できまってたのかな、頭が溶けてバターになっちゃったりしないのかしら、とか物思いにふけっておったのですが、ふと我に返って2008年、あたりを見回してみますとこれがまあ見事なまでのバター・プロダクツ。ゲームと言えば手持ちの人形駒をあっちゃこっちゃに派遣するものか、あるいは特殊能力で都市を育てるものか。それ以外の制作は律令により禁止、みたいな。
作った人にとってはね、どれにしたって偉大なる前進だったんだろうと思うのです。モノポリーは当然として、ヘクスマップもトレーディングもエリアマジョリティもアクションポイントも無論ワーカープレースメントも。俺(または俺等)は前に進めるのでございます、同じ所の周りをぐるぐる回っているだけの能無しではないのです。ほれこれが証拠に。っていう。そして密室を抜け出した先にはまた別の密室ががが。永遠に続くバター。 デザイナーにも責任は当然あって、面白げな枠組ができたら使ってみたいというのはとりあえず人情で、気がついたらその枠組みに縛られてるという。でもそれは割と些細なことで、というのはデザイナーは結構流行に対しては飽きっぽいものだし、別に大概の人はプロフェッショナルな作家じゃないから同じ物を書き続けて糊口をしのぐ必要も無いんで。じゃあ問題はというと、同じ物を出し続けて糊口をしのぐ必要のある人々ということになりますわね。つまりはメーカーです。 メーカーは食わなければいけないので市場というものを眺めては売れそうなネタを拾ってきてなんか作って出すと。ところで市場って何ですか、という話なんですが、今わたくしたちが問題にしないといけないのは昔のモノポリーに相当するもの、たとえばトイバーが捕らわれていたことでお馴染みの開拓農場だったり、永遠に増殖を続けてはトンメルホーファー氏のお戯れの資金を提供するフランスの城塞都市だったり、ではありません。別にいいんですそんなの。だいたいバター現象が発生してるわけでもなし。 ワーカープレースメントの周りを進歩もなくぐるぐる回るだけの虚け者は誰かといえば、そりゃ勿論我々ですね。我々は市場である。嗚呼。全世界合わせてせいぜい数万いればいいだろうという程度のくっそ狭いコミューンにもかかわらず、我々は一人一人の顔も見えないマスなのでした。数万しかいないので大きい鉱脈が埋まってるはずもなく、しかしとりあえず分かりやすいものを放り込めば分かりやすい均一化された反応が戻ってくる市場ではあるので、ちっこいメーカーが二千だか五千だかの釣り糸を垂らしてはBloombergのスクリーン経由で結果を眺めると。 (追記:あ、Bloombergじゃないすね。なんだっけほら。あのBで始まって、情報がいっぱい載ってるネットワークな、格付けとかを拾うためにみんなが見てる、あれ) モノポリーなら。モノポリーなら仕方ない。だって相手は数千万なり数億だもの。そんなもの市場としか呼びようがない。でもここにいるのは五千か一万。参画できる楽しげなアクティビティだっていくらでも残ってるし、声をあげればデザイナーにもメーカーにも届く。いや、別に届かせなくても、声を持ってる一人一人でありさえすればそれでいいのだけれど。それでも市場であることに安住していたいということなら、俺等にはルーチンワークのワーカープレースメントですら勿体ない。ボードの縁をぐるぐる回ってれば十分。違います? #
by Taiju_SAWADA
| 2008-12-25 02:09
| うわごと
* 1 *
「ドミニオンは最高ですよ。特殊能力満載のアメリカ的フェティシズムに全面的に乗っかりつつ、一回のゲームに実際に登場する能力は10種類しかないし全能力完全公開だからファーストプレーでも十分に全貌を把握できる。そもそもゲームの根幹にあるのは生産力を得点に変換する仕掛け所の見極めって感じで、むしろオールドスクールな欧州系のゲーム理論的相互作用を使ってドライブするゲームだから、どっち方面のうるさ型への対応も万全。そんでもってワンゲーム45分、ルールは極シンプル。8歳以上向けって書いてあるしね。研究はいくらでも効くだろうけどマルチプレーでお馴染みの漁夫の利風なアレとか何なら運の悪さに叩き潰されて負けることだって普通にあるから、そこに色んな鬱屈を押しつけることもできてとりあえず誰も傷つかない。さっきオールドスクールって言ったけど勿論このメカニズムをボードゲーム、まあカードゲームだけどね、に持ってきたことの根本的な、そう小手先のじゃなくて根本的な、新しさについては誰も否定できないでしょう。誰でも満足、あらゆる面で完璧。違う?」 「いやもう全くその通りとしか」 「じゃ何が不満なの?」 「そのこと自体が。銀の匙を銜えて産まれてきたゲームだよねこれ。最初から、言い換えれば俺等プレーヤーが遊ぶ前から完璧な訳でしょ? 別に俺等要らないじゃん」 * 2 * 「面白いか詰まらないか解らないところが素晴らしいと思います!」 あるゲームについてこういう感想を述べたことがある。珍しく我ながら上手いことを言ったものだとご満悦だったのだけれど、感想を聞く側の人の受けは今ひとつよろしくなく、なんか煙に巻いたみたいに思われた。これは別に何かのレトリックを含んだ感想ではなく解釈としてはそのまま文字の通りで、私はそのゲームについて直ちには面白いものであるか詰まらない物か判断することができなかった。そして「面白いか詰まらないか解らない」ゲームを作り仰せたデザイナーには、無条件の賞賛を浴びる権利がある。「面白いか詰まらないか解らない」という状況はそれ自体が面白いものなのだし、そのようなゲームを作るのはとても難しいことだからだ。 * 3a * Greg Costikyan が Chris Crawford を引いて曰く: Chris Crawfordは、その著書"The Art of Comper Game Design" の中で、彼が呼ぶところの「ゲーム」と「パズル」を比較して、次のように述べている。パズルは静的である。パズルが提供するものは、論理的な構造体だ。「プレーヤー」は、手掛かりをもとに、この構造体を解決しようとする。これに対して、「ゲーム」は静的ではない。ゲームはプレーヤーの行動によって変化する。 【"I Have No Words & I Must Design" (http://www.costik.com/nowords.html), 邦訳は「馬場秀和ライブラリ」内に掲載 (http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html)】 その Crawford は以下のようにも述べている: ゲームは、他のいろいろなものを取り込むことができるのと同じように、パズルをその一部として取り込むことができる。ほとんどの場合、パズルはゲーム全体の中のほんの一部である。パズルに重きをおいているゲームは、そのパズルがいったん解かれてしまうとその価値を失ってしまうだろう。 【"The Art of Computer Game Design" Chapter 1 (http://www.vancouver.wsu.edu/fac/peabody/game-book/Coverpage.html), 邦訳は "Scoops RPG" 内に掲載 (http://www.scoopsrpg.com/contents/special/acgd/Coverpagej.html)】 ところで、知的遊戯の面白さは、メタレベルのパズルを解く面白さとして捉えることが可能なのではないか。 * 3b * もう一度佐藤亜紀を引用。この文章便利すぎる。 作品は、何よりまず表現者と享受者の遊技的な闘争の場であり、副次的には享受者間の遊技的な闘争の場でもあります。(中略)たとえばレオナルドを前にする時、享受者は同時に、自分より前にこの絵を見た人々を意識せざるを得ないーー彼らの美的判断と競っている自分を意識せざるを得ない。無数の、名も知れない愛好家から美術史の大家に至るまでの享受者の判断と、自分の判断を突き合わせ、目の前のタブローそのものと同時に、タブローに加えられてきた注釈と判断をも、再評価せざるを得ない。歴史的文脈に敏感な人なら、その時、一枚のタブローの享受の歴史の中に自分の享受を位置付ける体験をするでしょうし、思想的な文脈に敏感な人なら、支配的集団によって作られてきた価値の体系と、自分自身のアイデンティティからくる判断とが突き合わされ、同化にせよ対立にせよ、あるいはある種の超克にせよ、何らかの関係が結ばれるのを見ることになるでしょう。その上で、享受者は歴史的・社会的に競り勝たなければならない。同意するにせよ反発するにせよ乗り越えるにせよ、かつて為されてきた評価、今為されつつあるであろう評価を踏まえた上に(その中には、かつてそのタブローを前にしたときの自分自身の評価も含まれます)、他ならぬ今、この場における整合性のある判断を成立させなければなりません。 【「小説のストラテジー」青土社】 * 3c * 例えばチェスは2人完全情報ゲームなので、理論的には両者最善を取ることによって先手勝ちか後手勝ちか引き分けかを決めることができます。その状態まで行ってしまうとこれは最早ゲームではなく、つまりこれが「パズルとしてのゲームが解かれた」状態になります。「解かれていない」状態でないとゲームとして遊ぶことができないわけですけど、じゃ一方でその状態が遊ぶことによって変化しないのがいいかというと、果たして永遠に誰も解くことに向かって前進することのできないパズルが面白いのかって話で、解かれていない状態から解かれる状態に向かって前進ときに後退する、その過程の中にパズルないしパズルとしてのゲームの面白さがあります。あることにしましょう。 ここで考えたいのは、「チェス」自体ではなく「チェスを遊ぶこと」についても、これをゲーム=「遊技的な闘争」として捉えることが可能なのではないか、ということです。対象となるゲームについて、あらゆる文脈から鑑賞を行い、結論に近づくこと。無論この場合、何か単一の結論が一般的に存在するわけではないので、厳密な意味では「解かれた」という状態は存在しない訳ですけれども、「俺的にはもう評価は揺らがない」という状態に実際になってしまえば、それでゲームとしての鑑賞はおしまいとなります。もっとも「真に揺らがなくなった状態」と「揺らがなくなったと思いこんだ状態」は分けて考えなければならず、にもかかわらず実際には区別を行えないという問題はあるんですが。 ゲームを遊ぶことをこのように捉え直すと、「パズルとしてのゲーム鑑賞行為」は、「そのゲームのことが解らない状態」から「そのゲームについて鑑賞者としての結論を出した状態」に移行する過程を指すことになります。この立場からなら明確に言えるのですが、『あらゆる意味で完璧。誰にとっても面白いことが解りきっている』ゲームの何が面白くないかというと、ゲーム鑑賞行為の対象物として面白くないわけです。遊ぶ側が結論を出すまでの過程が短すぎる。まあ極度に程度の高い鑑賞者であれば、作り手が想定しているものとは全く別でかつ有意義なパラダイムを持ち出してきて全てを引っ繰り返すことも可能なのかもしれませんし、鑑賞行為というメタ視点をそもそも持たないプレーヤーならばゲームの内部にきちんと正しく耽溺できるでしょうが、しかし純プレーヤーとしての視点とメタプレーヤーとしての視点を何となく併せ持っている普通のプレーヤーにとっては、「もう面白いことは解っているので遊ぶ必要すらない」という所に容易に行き着いてしまう。面白さが保証されていることは必ずしも良いことではないんじゃないかと思うのです。 #
by Taiju_SAWADA
| 2008-11-17 00:58
| うわごと
教育ゲームという勢力があって。それを遊ぶことによって何かを学ぶことができます、みたいな。別にその意図についてどうこう言う気はないのですけど、その実装を見ると大概の場合に若干の憤りを覚えるのは、まあゲームとしてつまんないという話はおいとくとして、本当にそれで学んだことになるのか、という疑問が出てくるのですね。例えば株式の売買に関する教育ゲームがあったとして、取引所があって板があって値動きのしくみがこうなっていて、という手順は再現されていても、それが誰にとって何を意味するのかという本質が描かれていない、ということが往々にしてあります。というか、そんなんばっかり。当然、本質なるものの捉え方は一様ではなく、また仮に一様ではあったとしてもゲームの中でその全てを現せるはずもなく、だからこそどの観点から教育を行うかという作者の選択が重要になるのですが。ゲーム舐めてねえか、というのは別にいいとしても、教育舐めてねえか、という話になると教育ゲームとしては拙いでしょう。
というようなことをある時考えていて、なんか金融っぽい教育ゲームみたいの作れないかなー、というのでルールを書いたところ、これどうやって遊ぶんだろうみたいな妙な物ができてしまったとのことです。勿体ないので一部修正の上ここに転載。実プレーには耐えられないと思いますが思考実験としてならそれなりに楽しいかもしれません。あと金融に対する俺の偏見を感じ取れるかも。 ******************* 「勝利権」 大人用。五六人くらいがたぶんベスト。そんなに長くはかかりません。 【内容物】 ◆コイン:一人十枚◆競り札: 【ゲームの概要または勝利条件】 「勝利権」を競り落として購入した人が勝ち。「勝利権」を競り落としたのに購入する金がなかった人は負け抜け。一人だけ負け抜けずに残った場合はその人が勝ち。 【ゲームの準備】 各人にコインとポストイットと鉛筆を配る。じゃんけんか何かでファーストビッダーを決める。ファーストビッダーは、競り札[10]を取って自分の前に置く。それ以外の競り札は中央に並べて置く。落ちきった砂時計も中央に置く。ストップウォッチを起動し、砂時計をひっくり返して中央に戻し、ゲームスタート。 【ゲームの流れ】 このゲームには手番の概念がない。適当に仲良くやっていただきたい。ゲームの中で、プレイヤーは「勝利権」を落札するためにビッドを出すか、あるいはそのビッドのために誰かから金を借りるか、または貸すか、というようなことを行う。最後に誰かがビッドを行ってから一定時間が経つと、落札ということになり、ゲームはたぶん終了する。 【競り札の役割】 競り札は、「勝利権」を落札するためのビッドを意味する。従って、ゲーム開始時には、誰かが10でビッドを出していることになる。 競り札を取る(つまり、その額でビッドを出す)時は、声でそのビッドを明確に宣言すること。 アウトビッドされた場合も、取った競り札は置いたままにしておく。二回目以降のビッドの場合、取った競り札は、以前取った競り札の上に重ねて置く。 同時同額ビッドの場合、先に競り札を取ったほうが優先。かるたの要領で。 【契約書】 このゲームでは交渉は自由。コインの貸し借りや譲渡、契約書の貸し借りや譲渡も交渉者の合意の上でなら自由。但し、取った競り札は譲渡できない。 一般には「モノAとモノBを同時に交換する」形式以外の約束において、約束を守る必要は無い。 但し例外的に、このゲームでは、「守らなければいけない契約」を結ぶことができる。このような契約は契約書に記載する。契約書は基本的には以下の形を取る。 「状況 X が発生したとき、コイン n 枚支払う」 これを、 X -> n と記述する。 状況 X または条件 としては、基本的には以下の形を取る。 ・時刻がT0〜T1の間である。「T: T0〜T1」と記述する。 T0以降であることのみを示す場合「T T0〜」または単に「T T0」と記述する。 T1以前であることのみを示す場合「T 〜T1」と記述する。 ・最高値ビッドがMからNの間である。「BID M〜N」と記述する。 M以上であることのみを示す場合「BID M〜」または単に「BID M」と記述する。 N以下であることのみを示す場合「BID 〜N」と記述する。 組み合わせの状況や条件を作りたい場合は、個々の条件を()でくくり、and または or で組み合わせる。但し、基本的には、契約の当事者間で合意の取れている内容の記述ならどのようなものでも構わない。契約の内容についても同様。 契約書は、状況 X が発生している状態であればいつでも、契約書受理者によって行使されうる。行使された場合、発行者が受理者にコインを n 枚支払う(この時、発行者が十分なコインを有していない場合に限り、発行者は手元にある全てのコインを受理者に払えば、それ以上の債務は免責される)。 ※一般には、受理者は契約書発行時に発行者に対してコインを支払うか、別の契約書を発行する。但し、これに縛られる必要はない。 【砂時計】 砂時計(およびストップウォッチ)の操作は、下記に示すルールにより、原則としてその時点での最高値ビッダーが行う。但し、最高値ビッダーがこれを行いたがらない場合、誰が行っても構わない(早い者勝ち)。砂時計に一旦触れたプレイヤーは、操作を五秒以内に完了させなければならない。 ・現時点での最高値ビッダー以外のプレイヤーの元に砂時計がある場合 →砂時計を中央に戻す。 望むなら砂時計をひっくり返してから戻してもよい。 ・砂時計が中央にあり、砂が落ちきっていない場合 →誰もこの砂時計に触ってはならない ・砂時計が中央にあり、砂が落ちきっている場合 →砂時計をひっくり返して最高値ビッダーの元に置く。 ・現時点での最高値ビッダーの元に砂時計があり、砂が落ちきっていない場合 →誰もこの砂時計に触ってはならない ・現時点での最高値ビッダーの元に砂時計があり、砂が落ちきっている場合 →ストップウォッチを止める。 【ストップウォッチが止まったら】 誰かがストップウォッチを止めたら、一旦ゲームを停止する。この間、誰もビッドを出してはならない。 最高値ビッダーは、ビッドした分のコインを支払う。このとき、他のプレイヤーとの契約により、他のプレイヤーからコインを得る権利がある場合、これを全て行使してよい。他のプレイヤーも権利の行使を(行いたければ)全て行える。但し、行使の順序は全て最高値ビッダーが指定する。 最高値ビッダーは、全ての権利の行使の後、ビッド分のコインを支払う。 問題なく支払えたなら、そのプレイヤーの勝利となる。 ビッド分が支払えない場合、そのプレイヤーは失格、退場となる。そのプレイヤーのコインは全て没収(ゲームから消える)。そのプレイヤーが出した契約書も全て無効となる。 【ルールの拡張】 契約書の書式を増やすことで容易に拡張可能。代表的な条件は、契約書発行者の所持金(Pay M〜N)や契約書受理者の所持金(Rec M〜N)など。 #
by Taiju_SAWADA
| 2008-09-18 01:51
| 創作関連
プロレスは...好きかな、どうかな。DVDで借りた"マッスル"は面白かったけど。
候補作に禄に触れてないまま大賞が決まってしまってすっごいがっかり。 だって6月は忙しかったんだもん。ウェブログ更新だって出張先からやってたんだもん。 せめてお喋りくらいには参加したい。ということで。 (前略) みんな今でも「ゲーム好きとしてはSdJよりDSPのが」とか言ってるのかな。ほんとに心から? 2000年以降でDSPがはっきりした「ゲーマーの見識」を示せたことってそうないと思うなー。 ケイラス郵便馬車Antikeと並べた2006年くらいじゃない? でもこの年はSdJだって郵便馬車に出してるんだから十二分だよね。 2005年なんてルイ14世だし。もう誰もあのゲーム憶えてないじゃん。 ナイアガラに出したSdJのが余程きちんと見てる。 2007年だって...この話は昨日したからいいか。 SdJが駄目でDSPがまともだった年って2002年だけじゃないかなー。 それだってSdJを一方的に責めるのは可哀想な面もあったし。 DSPは目を瞑ったって間違えようが無いけど、さすがにSdJはプエルトリコ選べないでしょう。 ん? 当然SdJ派ですが。 いや、ランク圏内からTaluva落としやがったことをまだ恨んでるとかそういうことじゃなくて。 ほんとだって。それ言ったらアンチSdJ派だって1999年のこと根に持ってるだけじゃないの? 大体さあ... (後略) #
by Taiju_SAWADA
| 2008-07-07 01:22
| うわごと
プレーしてる間は楽しいんだけど終わった後ですっごく微妙な気分になるゲーム、というのがあります。正確に言うとプレーの前、ルール説明を聞いている瞬間からちょっと複雑な感情を覚えて、あとプレー中にしても楽しさとは別の何かが。何についての話かというと具体例としては Rieneck のキューバとか大聖堂(は共作ですが)とか。いや、便利なんですよこの二つのゲーム。ゲームがほぼ破綻しない構造になってるから安心できますし、意思決定ポイントもあちこちに分散してたくさん用意されてるので何か遊んだような感覚が容易に得られ(逆に疲れてるときには適当な手を指してもとりあえずゲームは進み)、さらには何か新しげなメカニズムまで用意されてる。いったい何が不満なのかと。
何が不満なのかと言えば、そのこと自体が不満なのですね。この種のゲームはあまりに安全すぎる。勿論大聖堂といえば最早業界トップメーカーと呼んでも構わないだろう KOSMOS の勝負作かつ原作モノなので、万一にもユーザの不興を買ってはいけないという事情はわかります。しかし問題は、このゲームはそもそも中心ユーザとして準一般層ではなくファン層を念頭に置いているということです。事実として大聖堂が取った賞は SdJ ではなく DSP なのでして。キューバに至っては Eggert という冒険が許されるメーカーからの出版でありながら大聖堂と同様の安全設計。 では安全設計の何が嫌なのか。これは立場を変えて、「ゲーマー」向けに安全設計のゲームを作るデザイナー、という状況を考えてみれば大変解りやすいのですが、つまりここには、「ゲーマー」という層に対して、安全設計でゲームを作らないとろくな事にならんだろう、という判断があるって事なんですね。安全設計でゲームを作るというのは言い換えれば、ゲームから多様性を剥ぎ取る、少なくとも逸脱の結果が読み切れないような枝についてはこれを刈り落としていく、ということです。 それで残るのは何か。結果の予測できる意思決定、どこかで見かけたことがあるから安心して進んでいける展開。そして大量の手続きと、場合によっては物珍しいメカニズムです。大量の手続きを捌くためには過去の類型を参照できるだけの知識なり経験なりが必要となりますから必然としてゲームは「ゲーマー」向けのものとなり、また物珍しいメカニズムによって、一種の批評的成功をも勝ち取ることができます。物珍しいメカニズムと物珍しい意思決定がここでは等号で結ばれないことに注意しましょう。メカニズムは意思決定のためのものではなくギミックとして用いられます。 これだけ親切に囲ってくれれば、それは面白くならない訳がない。と同時に、不愉快にならないはずもありません。プレイヤーがデザイナーに全く信頼されていないという明瞭なサインを手番ごとに受け取るようなものですから。「ゲーマー」というのはその程度の人種でしかないのだという諦念がなければ、このような設計は選べないでしょう。ゲームの構造に対する理解を欠いているかゲームを運用する能力を持たない人々を対象として作られた、危険な場所には立ち入らせないアトラクション。どれだけルールが複雑な造形をしていようと、これらは(鉤括弧無しの)ゲーマーズゲームではありません。 問題は、これが必ずしもデザイナーの側の非によるものではないということでしょう。こういうことについて過剰に苛立たしく思えるのは、原因の少なくとも一部がこちらにあることに自覚があるからです。掛け値無しのゲーマーズゲーム、例えば少し前に挙げた Container は正しく相当すると思いますが、これを我々が常に遊びこなせるか(遊びこなせているか)どうか。そう考えれば、我々の元に届けられるものの多くが偽ゲーマーズゲームでしかないのも仕方のないことです。手元の事実を突き合わせれば確かに、我々はどうもその程度でしかないらしい。 俺は違う、と言いたくはなります。なりましょう。でもそれも結局、ねえ? #
by Taiju_SAWADA
| 2008-07-06 02:11
| うわごと
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